ダーク・ファンタジー小説

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シナリオ
日時: 2023/05/20 23:10
名前: いくら (ID: UIQja7kt)

私は小説家だ。
何も、売れていない訳でもない。そこそこ有名である。
ここで言う、「そこそこ」とは、1部のコアなファンに人気だということである。つまり、私は、社会的には有名ではない。そんなこと、自分ではとうの昔にわかっている事だ。今更、気になどしない。そんなこと気にしている間に、ひとつでも作品を仕上げ、売り出さなければならない。
ミステリー、恋愛、ホラー、アクション…
様々なジャンルに手を出した。
今では後悔している。
定まらなかったのだ、テーマが。
小説家は、ホラー作家、恋愛作家など、テーマを決めて活動している者が多い。
比べて私はどうだろうか。
あらゆるジャンルに手を出した挙句、自分のカラーというものが定まらず、デビューのチャンスまで棒に振った。

カタカタカタ…  カタ…

今日もキーボードを打つ手が止まる。
「何も思いつかない…こんな日は珍しい。 
コーヒーでも入れるか。」
重い腰を上げ、席から立ち上がる。
6畳の小さな空間に、パソコンと椅子だけ、佇んでいる。
その空間から抜け出し、キッチンへと向かった。開放感に溢れるキッチンは、私の心を優しく撫でてくれた。狭いと言いつつも、作業場は、どうしてもあのスペースしか確保できなかったのだ。仕方がない。
「はぁ…」
コーヒーを飲んで一息ついた。
さて、どうしたものか。

「私がまだ手をつけていないジャンル…なんて、あるのか否か…。」
ふとスマホに目をやった。
私はiPhone8を使用している。
もう壊れかけだ。なんせ随分前の機種だ。
電源を入れる度に、数秒固まってしまう。
だが、何故か思い入れがあり、なかなか手放せないのだ。
まあ、買い換える金など、これっぽっちもないが…。
「ノンフィクション作家ノーベル文学賞!!
ノンフィクション作家で受賞は、日本人初めての快挙である。」
そんなような記事を目にした。
ノンフィクション…
私が手をつけていないジャンルといえば、もうこれぐらいしかない。
だが、あまり手をつけたくはなかった。
フィクションとは違い、自分で考え、それを文字に起こす、ということが出来ないからだ。
事実を文字にする…
私にとって、これほどまでにつまらない仕事はないのだ。私は考えるのが好きだ。
最も、最近どうもネタが思いつかないのだが…。
「ノンフィクション…か。」
静かに口にする。
「ネタになるような事実など、持ち合わせていない。やれやれ…。」
私は本を取りだした。
この本は、ミステリー作家の本だ。
ミステリーと恋愛を融合させた作品なのだ。
私はこの作品に憧れを感じている。
「融合」とは口だけで、実際読んでみると、在り来りな展開の物が多い。
だがこの本はどうだ。
「融合」と言いつつも、一つの作品として出来上がっているのである。
私はこの本を読んで、アイディアを探し出す。この本は、展開が思いつかない時などに、とても役に立っているのだ。
役に立つ、本なのだ。
「昨日はどこまで読んだか…。」
ここのところ、昨日の出来事も覚えていないことが多い。疲れているのか、はたまた歳のせいなのか…。


ピロンッ

スマホに、なにか通知が届いた。
「納期1週間2日前です。
すぎるようでしたら解雇とさせていただきます。ご返信の方、よろしくお願い致します。」
事務所の方からの警告メールだ。
こんなのはもう何十通ともきている。
だから、どんなに思いつかなくとも、適当に辻褄を合わせて、納期に間に合わせてきたのだ。そうだ、足りないのだ、時間が。
それも圧倒的に。
考える時間もなければ、まとめる時間もない。

「はぁ…。」

何度もついた溜め息を、もう一度ついた。
本を本棚に戻し、自分の席へと戻った。

どっしりと腰を沈め、パソコンとにらめっこをする。
「全く、ここからどう展開していこうか…。」
私が今書いているのは、恋愛モノだ。
2人の高校生が、ひょんな事で知り合い、そこからある場所で、恋愛へと発展していく…そんなストーリーだ。いや、自分でもわかってはいる。嫌という程に。
ありきたりなのだと。
だが、納期に間に合いそうな内容にするには、これぐらいしか思いつかなかった。
だがどうだ、いざ作ってみたはいいものの、
全く先が読めないではないか。
「あ、そうだ返信。」
スマホに目をやる。
既読をつけた以上、なにか返信しておかなければ。礼儀というやつだな。

ピロンッ

「あと少しで完成となります。明日には出せそうなので、もうしばらくお待ち頂けると、ありがたいです。」

これでいい。
いつもこのような返信をしている。
慣れたことだ。

ピロンッ

「申し訳ありませんが、あなたの解雇は先程の会議で、もう決定事項となりました。」

ガタンッ!!

思わず席から立つ。

ふざけるな。
どんな気持ちでここまでふんばってきたと思っているんだ。
時間が無くても、
ネタが思いつかなくても、
家族にバカにされても、
嫁に逃げられても、
辛くて逃げたくて
隠したくて苦しくて
死にたくなってさえ…
私は夢を追いかけてきたんだ。
諦めなければ、夢は叶うんじゃないのか…?



人間は残酷だ。
使えないと分かったら、すぐに捨てる。
私は、使い捨てなのだ。
「く…。」
無意識に唇を噛み締める。
血が、滲んでくるまで。

数時間くらいぼーっとして、チャイムがなり、我に返った。

ガチャ

「なんの、御用でしょうか…。」
「あんたねえ、ここの家賃、2ヶ月も滞納しているじゃないの。いい加減に払ってくれる?こっちだってタダ営業してんじゃないんだよ。いい大人のくせして、いい加減真面目に生きなさいよねぇ、全く。」
大家は、漫画などでよく見るような、イメージそのまんまの人物だ。
意味も無い言葉をペラペラペラペラ…。
虫唾が走る。

ノンフィクション

一瞬脳裏に浮かんだ"それ"は、
私がとるべき最終手段なのだろうか?

「すみません…今月中には、必ず。」
「舐めるんじゃないよ、今月中じゃなくて、今週中だよ。払えないようなら、出てってもらうよ。覚悟しときな。」
今週中…
今日が何曜日か知らずに言っているのか…
はたまたわざとなのか…。
「分かりました。」
「わかりゃいいんだよ。」

バンッ!!

たいそうな音を立てて、大家は去っていった。


さて、にらめっこの時間だ。
これを仕上げないことには始まらない。
「この後の展開…展開…。」
ボリボリと頭を搔く。何も思いつかない。

やはり今私が求めているのは刺激。

その求めている刺激の正体が何なのかは、自分でもよく分からないが…。
「ノン…フィクション…。」
事実を書き起こし、整理し、まとめる。
こんなのは、小説家がやるべき仕事では無いのだ。いや、待て。
もし、フィクションをノンフィクションとして売り出すことが出来れば…


私の頭に稲妻が走った。
「そうだ、それだ。私が求めているのはまさにそれだ。自分が考えたものを現実に…。」
私は過去の作品を漁った。
私が書いたものは、ホラーやらアクションやら…数知れない。その中から、ミステリーを選んだ。今になって、他のジャンルに目移りした自分に感謝する羽目となった。
「これは…ボツになったやつか。」
よくある探偵モノを書いた。
自分的には、ほぼパクリだと思っている。いや、周りがパクリだとはやし立てた。ボツになったのも、そのためだった。いつしか、自分もそう思うようになってしまっていた。
自分の作品、なのに。
だがどうだ、もしこれが本当の出来事として起きたら、この本はパクリなどではなく、レッキとした私の作品として、世に売り出すことができる。

「殺人事件の、容疑者…。」
しかし、内容があまりに非現実すぎる。
実現など、ほぼ不可能に近いと言っていいだろう。不可能なことに賭けるほど、私には時間が残されていない。

「はぁ…。」
もう一度考え直す。
あの考えは、自分的にも良い案だった。
しかし、実際の問題はそこではなかったのだ。いくら現実にしようとしても、明日にはここを出ていかなければならない。そうなれば、私の夢すら、どこか深い底のない所へ沈んでゆく。そんなことあってたまるものか。
そうは思っても、気持ちと行動とでは、どうにも結びつかないようだ。


翌日
解雇が決まり、職を失い、住む場所もなくしてしまった私にとって、もう失うものなど無いような気がした。
何故か手際良く作業が進んだため、荷物をまとめるのにはさほど時間はかからなかった。
ありったけのカップ麺をリュックに詰め込み、本とパソコンを持ち、玄関に腰かけた。
ここに来て、まだ1年も経っていない。
本当に短い間だった。

もう少し家賃の安い物件を見ておくべきだったと、心から反省した。
わざわざ使いもしない部屋を2つも…それに無駄にでかいキッチン、家賃が高いわけだ。
つくづく自分の頭の悪さに腹が立った。

見栄を張るべきではなかったな。
鍵を持ち、玄関の扉を開ける。
一つ一つの動作に、重みを感じた。
体を動かすのが辛い。息切れが半端じゃない。「…これで、いい。」
自分に言い聞かせる。
「何もかも捨てて、また1からやり直しだ。」
扉に鍵をしっかりかけた。

ガチャン

「…さて、行くか。」
大家への挨拶などするつもりもなかった。


「ちょっとあんた!」

呼び止められるまでは。

「挨拶もなしに出ていこうってのかい。
本当に、お金用意できなかったのかい?全く、しょうがないねぇあんたは。」
私は、これ以上声を聞きたくなかった。
「…あの、私とあなたとはもう無関係、赤の他人なのです。話すのはやめましょう。」
「なんだい、その態度は。まあ、そんなことはどうでも…。ほれ、これ持ってき。」
そう言って、なにか紙袋を渡してきた。
入っていたのは


コーヒー豆


「…これ、」
「あんたの部屋からはいーっつもコーヒの匂いがしていたからねぇ。置いとくことは出来ないが、せめてもの慰めだよ。強く当たって、ごめんねぇ。だけどこっちも生きてかなきゃなんないからね。これ使って、コーヒー入れて、元気だしてくれよ。」
無数のしわが1箇所に集まる。
屈託の無い笑みは、私の心を大きく揺さぶり、同時に後悔の念を送ってきた。

「まあ、はい、そうですね。自分なりには、頑張りますよ。」
これぐらいの返事しかできなかった。
「そうかい。ほら、さっさと行きな。バスに遅れちまうよ。」
泣きたくなるような気持ちをグッとこらえ、
バス停へと向かった。
本当は、ここを離れたくはなかった。離れずに、もう少しだけいたいと思った。
でも、それでも、時間は待ってはくれない。
そんなことしている間にバスは来て、行ってしまうかもしれない。
そのまま時間が流れ、気がついたら夜、なんてこともあるかもしれない。
そんなことになったら、取り返しがつかない。

その後も、バスの中で色々な言い訳をした。
それでも、胸の内にある何かには気づくことが出来なかった。

ピンポーン

誰かが降車ボタンを押した。

「降りまーす。」

声を上げたのは、女性だった。
「ごめんねぇ、腰が悪くてねぇ。」
「いえいえ、こういう時こそ、お互い様ですよ!さ、降りましょうか。」

私は気がつくと、そのバス停で降りていた。

「ありがとうねぇ。とても助かったよ。」
「いえ、お気を付けて!」
おばあさんはゆっくりその場を離れていった。


「あーーーーー!」

おばあさんが見えなくなると、彼女は突然、声を荒らげた。
「…?」
「まただあ!また、親切なことをしようとして、自分のことは後回しになってしまったぁあ!!会社に遅刻だぁあ!」
バタバタしている彼女を見ると、何となくだが、気持ちが落ち着くような気がした。

「ふっ」
私は思わず笑ってしまった。
「あ、すみません、うるさかったですよね…。なんか、ごめんなさい。」
「なぜおばあさんを助けたのですか?」
「なぜって、そりゃあ、日本人として当たり前のことですよ!まあ、世界共通ですね!」
「最後の歩きの様子からして、1人でも歩けるような…。それでも、自分の時間を殺してまで、助ける必要が?」
「…そうですねぇ、言われてみれば。」
「…なぜ?」
「困った癖でして。」



彼女に惹かれた。


にこやかに笑う彼女の笑顔は、なにか引っかかった。きっと魅力だろう。そう結論づけた。
「あの、」
「はい?」
「この後、お食事でも行きませんか。ここで出逢えたのも何かの縁でしょうし…。」
彼女は、私を誘ってくれた。
「そうですね、行きましょうか。」
「今日はもう、仕事サボっちゃいます。へへっ…。」
照れくさそうに俯く。
本当は、会社に行きたいのだろう。
彼女を見るに、真新しいスーツ、靴、整えられた髪。就職したばかりなのだろう、きっと。
初っ端から休んで、許されるわけが無い。


次に来たバスに揺られながら、
「いいのですか?」
気になっていたことを聞くことにした。
「え?あぁ、仕事ですか?いいんですよ、今日は。大事な会議とかもありませんし。」
「そういうことを言っているのではありません。たとえ大事な用が無くとも、最初の信頼作りは、大切ですよ…。ましてあなたは新入社員でしょう?私が言えることでもありませんが。」
彼女は目をぱちぱちさせながら私に問う。
「なぜ、私が新入社員だとわかったんですか?なんか、探偵みたいですね!」
そう言われて、戸惑った。
「え…あ、まぁ、はい。そう、なのかな?」
くすっ
彼女の小さな笑いが聞こえた。

Re: シナリオ ( No.1 )
日時: 2023/05/20 23:15
名前: いくら (ID: UIQja7kt)

バスを降り、2人で店を探した。
ピザ屋やラーメン屋、洋食屋から和食屋まで。この中から彼女はラーメンを選んだ。
「ここにしましょう!」
「ここ…ラーメンですよ?」
「あ、そっか、今は朝か。朝からラーメンはきついですか?」
「いえ、そんなことは。」
「私、ラーメンに目がなくて。」
そういうや彼女は、ヒョイと店の中に入っていった。
「らっしゃい。何名様で?」
「あ、2名で!」
「はいよ!」


「ここは、来たことがない店です。」
「そうなんですか?」
ズズズーッと麺をすすりながら、彼女はこちらを見た。
「このお店、結構有名なんですけど…。」
「いやはや、最近家から出ていなかったもので…。」
「お仕事は…何を?」

ズズズーーッ

聞く気があるのかないのか…全く、今まであったことがないような女性だ。私が知っている女性は、皆化粧で身を固めている。自分の素を、絶対に表へは出さない。あの大家ですら、厚化粧をしていた。

「売れない小説家ですよ。」

「小…説?小説書いているんですか!?
どんなのですか?ミステリー?ホラー?意外と恋愛だったり…。」
「まあ、一通り全部ですよ。」
「!!すごい…読ませてください!」
「えっ、いや、私のなんかより、もっと売れている作家の本の方が、よっぽどあなたのためになりますよ。」
「私のためになるかどうかは、私が決めることです。さ、早く読ませてください!」
私は視線を逸らし、誤魔化すように麺をすすった。彼女はグイッと顔を近づけてくる。

正直、怖かった。
また批判されて終わるのではないか、
勝手に読んどいて、放り投げて終わるのでは無いのだろうか、
色んなことが頭を駆け巡った。

それでも、彼女に読ませてみようと思った。
なぜこう思ったのかは、自分でもよく分からない。腹が減っていたせいだろう、多分。

ガサッ

静かに彼女に渡す。

「ミステリー…ですか?」
「そうです、一応…。今持ち合わせているのは、これしかなくて…。」
「へぇ…。」

パラ、パラ、

途切れ途切れに、紙をめくる音が聞こえる。
いや、わかってはいたが、とても気まずい。
自分の作品を誰かに読ませるなんて、いつぶりだ。最後に読ませたのは、プロデューサーか。なんとも言えないきつい言葉で、ボツにされた。人の事なんてお構い無しの、冷たい人だったことは、薄ら覚えている。

パラ…

音が、止まった。
まあ、そんなに長い話でもないから、読み終わったのだろう。
「ふぅ、」
パタン…
「…。」
静かに感想を待った。
待ちわびた最初の言葉は、


「これ、本当にあなたが書いたんですか?」


ああ、わかっていた。
パクリだと、またはやし立てられるのだ。
見せるんじゃ、なかった。

「…帰ります。腹も脹れましたし。」
「え?」
「わかっていました。自分の作品なんて、人に読ますことができるような作品じゃないことぐらい。」
「何を、言っているんですか?」
「諦めます。小説家なんて、稼げない仕事…。なぜ子供のときにめざしたのか、今でもわかりませんが…。」
席を立ち、代金を置き、そのまま店を出ようとした。



「最高でした。」


彼女の一言を聞くまでは。

「私…パクリだなんて、思っていません。」
静かにそう言った。
「私、ただ、この作品が、すごいと思って…あなたのことが、すごいと感じて…。悪気で言ったわけでは、決して無いんです。」
出ていこうとしていた足を無理やり止め、
彼女の方を向いた。
「…そうだったんですか。申し訳ない…。」
私が謝ると、彼女は安心したように胸をなで下ろした。
「言われ慣れてしまっているんでしょう、きっと。私の作品は、ゴミ、クズだ、と。」
「え…そんな、こんないい小説、私読んだことありませんよ。その人たちはきっと、センスとか、感覚がおかしいんですよ!」
彼女は必死で私に訴えかける。
こんな人、初めてだ。
「もっと読ませてください!私、あなたの作品が読みたいです…。」


一筋の光が見えた気がした。
この人となら、良いものが出来上がる、そんな予感がした。

「あの」
無理を承知で頼む。
「もし、良ければなんですが、私が作った作品をあなたが読んで、推敲して頂けないでしょうか?」
「私が、推敲を?」
「はい、仕事の休憩時間とか、そんなちょっとした合間でいいんです。お願いできないでしょうか?」
彼女は少し考える素振りを見せた。
「私なんかでよければ、よろしくお願いします!ただの、本好きですが…。」
私の目の前が、ぱっと、明るくなった。



それからというもの、私は作品を書きあげる度に、彼女の元へと急いだ。
「あ、新しいのですか?」
私を見る度に、彼女はウキウキしながら近づいてくる。
「見せてください!」
「よろしくお願いします、今回は、恋愛モノです。」
「恋愛モノには、私厳しいですよ〜?」

楽しかった。

彼女と話す時間、彼女と過ごす時間、
全てにおいて、退屈など感じなかった。
私は次第に、彼女に好意を持つようになった。もっとも、恋愛感情、とか言うやつではないが…。
さらに、彼女に推敲してもらうようになってから、私の出版本が決まった。アパート時代の時から頼んでいた業者に、気に入られたのだ。3巻限りのミステリーものだったが、彼女は、自分事のように喜んでくれた。

「今日はお祝いですよ!」
「本当にありがとうございました。あなたのおかげです。」
「ちゃんと名前で呼んでくださいよ、もう。
私は、柴田ですよ、しーばーた。」
「柴田、さん。」
2人で顔を見合わせて、笑った。
「そうです、柴田ですよ。」
彼女はいじらしく笑う。
この時が、
この瞬間が、
私にとっては忘れられないものとなった。


2週間後
私たちは小説が描き上がっていなくても、頻繁に会うようになっていた。
「あ!こっちですよ!」
「すみません、遅れてしまって。」
「いえ、私も今着いたばっかりで…。」
「行きましょうか!」

その日は、過去の私の作品をいくつも読ませた。彼女はその度に、たくさんの感想をくれる。次の作品へとつなげることが出来た。


「これ…」

彼女は私の方を見た。
真剣な目付きだ。


「これ、売れると思います。」


あまりに急すぎて、私の脳の処理が追いつかなかった。


「…え?」
「いや、あの、だから」
彼女は一呼吸置いた。
「売れると思うんですよ、これ。」
彼女が手に持っていたのは、私が最近書き上げた、恋愛モノだった。
これだけは絶対に売れないと思っていたものだ。そして唐突に脳裏に浮かんだ。




「こんなの、パクリだろう。」
「没だ、没。こんなのが世に出せるものなら、小説家なんて、サラリーマンと同じになってしまうよ。そこんとこ、わかってる?」

「あぁ、いやはや、全く、没にしてくれと言わんばかりの設定だな。」

「…君には本当にうんざりする。あ、もういいですよ、帰って。え?没に決まってるでしょう。それと、今度からは郵便で送ってください。いちいち顔を合わせるのもめんどくさい…。わかりました?」



何を思い出している。
こんなの、
こんなの、
こんなの、

「いえ、それは、もう捨ててください。いや、捨てて欲しい。見たくもない。」
その時は、酷い態度をとってしまった。
「え…な、なんでですか?」
困惑しながら、彼女は私に問いた。
「なぜって…それは、」
「私、絶対売れると思います。」
彼女は私の話を遮ってまで、根拠を説明してきた。それも、細かく、丁寧に。
「この設定は、在り来りなんかじゃないですよ。主人公の名前からして、普通の恋愛モノとは、全然違います。最初から主人公死んでますし。こんなの、誰も予測できませんよ!」
熱く語る彼女の瞳は、私がこれまでに見た事の無い色をしていた。
「それに、この作品は、他とは違う何かを感じます。その何かが、まだよくわかってなくて…それでも、この本は売るべきです!たとえ自費でもですよ!」

自費

この言葉に、私は恐怖すら感じる。
今まで何度も、自費出版させられてきた。没になった作品でも、自分で満足と思ったものは、自費出版していたのだ。させられたと言うよりかは、自分からしたと言った方が、いいのだろうか?それでも、多額の金額を失ったことに変わりは無いのだ。

「自費…?私に、払えと…?」
「永田、さん?」
「私に、払ってでも出版しろと…?」
「…永田さん。」
「私に、そんなお金があるとでも…?」
「私は、」
困惑状態の私の手を握り、彼女は静かに微笑んだ。そして、優しく

「売れます。必ず。」

そう言った。
それでも私は、彼女に食いかかった。
「…なぜ、分かるんですか?どうして売れる、なんてわかるんですか?素人のあなたに。」
「いえ、わかるとかではなくて、」
彼女は私のの目を、じっと見つめる。
「自分が信じない限り、何かを成功させるということは、できないんですよ。」

しん、じる…

頭の中で、何度も繰り返した言葉だ。
上手くいかない時、何かをなしとげたい時、
信じろ、信じていれば、何とかなる。自分を信じてさえいれば、成功するはず。
そう思い続けてきた。

それが、今に繋がる。
信じても、信じても、何も変わらなかった。
売れなかった。
稼げなかった。
何も得られなかった。

だから、彼女の言葉を、信じきれなかった。

「売りません。」
「え…。」
「お金が…ないんですよ。私には、才能がない。才能のない人間は、何やっても、中途半端なんですよ。」
彼女は大きく目を見開いて、私を見た。
しかしそれ以上、彼女は何も言わなかった。

「…今日はもう、帰ります。」
静かに席をたち、代金だけを置いて、彼女は去っていった。
連絡先を渡していたが、その日、彼女から連絡が来ることは無かった。

Re: シナリオ ( No.2 )
日時: 2023/05/20 23:17
名前: いくら (ID: UIQja7kt)

ピリリリ…ピリリリ…

「こんな朝早くに…。」
重い体を起こし、電話に出る。
「はい、なんでしょうか。」
「すみません。永田さん…でお間違いないでしょうか?」
「え…あぁ、はい、そうです。」
「柴田詩さんのお知り合いでしょうか?」
「はい、そうですが…。」
「今すぐA病院までお越しください。」

…ぶるっ

勝手に体が震えた。
「わ、わかりました。」
ピッ…。

ガバッ

上着を乱暴に剥ぎ取り、鞄に入れる。
勢いよくドアを開け、鍵をかけるのも忘れ、タクシーに飛び乗った。

バンッ!!

「A病院まで!!速く!!」
「へ、へい。」

ぶおぉん

まさか、そんな、嘘だ。
私は、信じない。彼女に限って、そんなこと、あるはずがない。大丈夫、ただの食あたりかなにかだろう。すぐ、治るさ。大丈夫だ。

「お客さん、到着で。」
「あ、ありがとうございました。」
代金のお釣りを貰うことよりも、病院に入ることを優先した。
「あ、お客さん、お釣りお釣り!」




バンッ!という、映画のワンシーンのような音が出るドアなんて、そうそうないだろう。
しかもここは病院だ。
私如きのくだらない私情などで、病院の迷惑になる訳には、決していかなかった。
大人しく、静かに自動ドアをくぐる。

「あの、」
やっと受付を見つけた。何しろ病院なんて、私用で来ることなどほとんどない。
「はい、なんでしょうか。」
「し、柴田詩さん、こちらの病院にいると、聞いて、急いで…えっと、あの…。」
上手く口が回らない。
「少々お待ちください。確認してまいります。そちらのお席に。」
案内された席に、どっしりと腰を鎮める。
時間が経つ度に、鼓動が早まる。
自分の心臓がどこにあるのか、嫌という程わかる。1分、いや、1秒が、長い。

「おまたせしました。」
やっと来た。
「こちらです。」
重い足を 無理やり動かす。

「…こちらです。」
看護師らしき人物が開けたその扉の上には



霊安室



嘘だ
嘘だ
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ

「あぁ、よくお越しくださいました。」
女医は、私の手を固く握る。
「この方には、親族も、親戚もいないらしく、どこに連絡すれば良いのか、途方に暮れていたところ、あなたの連絡先を見つけた次第です。この方の財布に、挟んでありましたので…藁をも掴む思いで、おかけ致しました。」
女医は何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます…。
誰にも引き取られることなく亡くなる人は、本当に多いものでして…。」

「亡くなる人は」
「亡くなる人は」
「亡くなる人は」

女医の言葉が、
何度も頭の中でリプレイされる。

「…どういうことですか。」
「はい…?」
「亡くなったって、ことですか…?」
「…残念ですが、交通事故でトラックに跳ねられ、この病院に搬送された時には、もう…。力及ばず、本当に申し訳ありません…。」


ぐらっ

目眩がする。
彼女は、死んだのか?
何故だ。なぜ、死ななければならない、彼女が!彼女が何をした?
何をしたと言うんだ…。

「…すみません、1人にしてください。あ、いや、2人か。」
「…わかりました。失礼致します。」

ガチャ…

静かに扉が閉まる。
漫画でよく見るような、薄暗く、恐怖を感じるような霊安室では、決してなかった。
暖かい電灯の色、落ち着く匂い。
どこか懐かしさすら感じられた。
「怒ったんですか?」
私は彼女に問う。
「私が、夢を諦めたから、怒ったんですか?」
彼女は答えない。
「私が、あなたの提案を、蔑ろにしたから、怒ったんですか?」
彼女は動じない。
「夢を持つ人達に嫉妬し、夢を持たないことも、しょうがないと、自己論理で思い込もうとしたから、怒ったんですか?」

涙がこぼれた。
ボタボタと、大粒の涙が。
綺麗な涙ではなかっただろう、決して。それでも、湧き上がってくるこの感情を、制御することは出来なかった。

「許してください…私の前から、消えないでください…あなただけが、私の希望だったのです…。なぜ、あなたは…。」


「『あなた』ではありませんよ、柴田です。」


そんな声が聞こえるような気がした。
もしかしたらこれはドッキリで、私のことを反省させようとしているのかもしれない。大掛かりな、ドッキリ。ただの彼女の悪ふざけ。
そんな1%の確率もないような願いに、どこか期待を寄せていた。




何時間経っただろう。
扉が静かに開いた。
「すみません、永田様。お引き取り願うよう、主治医から…。」
主治医…さっきの女医か。
なんだ、私に帰れとでも言うのか。
なぜだ
なぜもっと、彼女の声を聞かなかった。
なぜ、私は、いとも簡単に諦めた…?

後悔ばかりが、体にのしかかる。
心身ともに、蝕まれてゆく。


「あの、申し訳ありませんが、そろそろ…。」
「…わかりました。あの、ひとつ頼みが。」
「はい。」
「彼女は、私の方で火葬させてください。」
「あ、えっと、私、この立場でして、そのような詳しいことはお話できませんので、あの、こちらの専用窓口に…。」
彼女はそう言ってパンフレットを渡してきた。
「あぁ、ありがとうございます。」
これは…

私の実の妹が死去した時にも、配られたものだった。その時の担当者はやけに冷たく、こちらの話など、聞いてもくれなかった。
全てを任せているうちに、式は、
いつの間にか終わっていた。


そんな式には、したくない。
彼女を、最期は、しっかり見送るんだ。後悔の念の分、悔やんだ分、そして、彼女への愛情の分、泣いて、泣いて、涙が枯れ尽くすまで、
最後は彼女と共にいるのだ。

それでも、そこまでしても、自分の負の感情が消える訳では無いし、はたまたそれが、今後に生きることもない。彼女がいなければ私は、ただの失業者だ。

書くのが好きだ。
考えるのが好きだ。

しかし好きだけでは、その分野を伸ばすことは出来ない。そんなことは、わかっている。
どちらも才能のない私にとっては、不必要なものだった。こんなことなら、もっと、運動や、勉強、芸術のセンス、才能が欲しかった。
欲しかったんだ。
それさえあれば、もっといい人生を歩めただろうに。自分でも、哀れだと思う。
羨ましかった。才能があるもの同士集まり、自分たちの技や特技を、これでもかと見せつけ合う。私もあの中に混ざりたかったのだ。
だが、それが許されるのは、才能を持つ者のみ。とても私なんかは、お呼びでなかった。
わかっている。それも全て、理解した上で、この世界に飛び込んだ。
絶望し、全てを失った時、君に出会った。
あの日、あの朝、あのバス。
今でも鮮明に思い出せる。
君に出会ってから、また、得られるものを見つけた。
喜び、期待…
他にも、いろんなことを得た。彼女から。

また失った。
何度失えばいい?

「こちらの窓口の担当の者に…はい、そうです、そこを右に…はい。では、よろしくお願いします。」
「わかりました。」
私は静かに去っていった。物音1つ立てなかった。つもりだ。
彼女は、もう、喋らない。
動かない。
笑わない。


腹の底から沸きあがる、負の感情。
「窓口は、ここか。」
本能的に騒ぎ出していないだけで、本当は大声で叫びたい気持ちでいっぱいだった。
「あの、すみません。」
「はい。」
「火葬手当、というものを、用意してもらいたいのですが…。」
「火葬手当…ですね、はい、わかりました。では、そこの椅子に座って、少々お待ちください。すぐに持ってまいります。」
指示された場所に、腰を下ろす。
落ち着かない。
今でも彼女が生きていて、私にこう言うのだ。
「柴田ですよ!しーばーた!あなたじゃありませんよ。」
そう言って、柔らかく笑いかけてくれるのだ。
そう思えて仕方がなかった。そんなの、ただの私の身勝手な願望でしかないというのに…。

「お待たせ致しました。永田様、プランをお選びください。」
…プラン?
「こちらのAプランか、Bプランか、Cプラン。金額についても、これからご説明致します。」
頭が、働かない。
「えっと、金額的には、安いものを…。」
何言ってる。
どんなに金がかかってでも、彼女を…。
「でしたら、こちらのBプランがオススメです。いかがでしょう?こちらのプランは、最小値となっております。式場は緑町5番地の7丁目です。火葬も全てそこで取り仕切っております。ただ、宿泊はできない仕様となっております。そして、火葬料金は込みこみ、ただし、棺桶料金は別払いとなっております。そして…」
担当者の機械のような声が、私には不快でしか無かった。それでも私は、自分の意見を、考えを、思いを、伝えることすら、言葉にすることすら出来なかった。なぜかは、自分でもよく分からないままでいた。


「以上です。何か、ご質問などは?」
「…特に。」
「わかりました。日程がお間違いないか、ご確認いただきますようお願いいたします。」
「…わかりました。」


葬式、当日。
私以外、彼女の知人は誰1人として来なかった。家族も、親戚も。
私は1人、お坊さんの長いお経を聞いた。

涙は出なかった。

枯れるどころか、1滴として、私の目から水が流れるということは、無かった。
自分でも不思議なくらい、全身の力が抜けていた。立つのも一苦労だ。
彼女は白い顔で、目を瞑っている。
それでも私には、彼女が嘲笑っているようにしか、感じ取ることが出来なかった。

「今日は、貴方しか、来られていないのですか?」
唐突に聞かれた。
「…はい。」
「私もお経を読みに来ているだけでは無いのです。つまり、ご親族の皆様との御話も、させて頂いているのです。しかし、本日このような形で葬式をあげることになってしまい、誠に遺憾なのでして…。」
「申し訳ありません。彼女の親族と、連絡がどうしても取れなくて…。」
「致し方ありません。貴方のせいではないことですよ。人間というのは、誠に持って、薄情なものですね。そうは思いませんか。」

しばらくの間、沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、私だった。


「…分かりません。」


分からない、としか、答えようがなかった。
それ以外に、思いつかなかった。
小説家ともあろうものが。
いや、もう、小説家ではない。自分から、諦めてしまった。子供の時からの夢を、未来を、
自分から、放り投げてしまったのだ。


あぁ、そうか。


もしかしたら彼女は、引き戻そうとしてくれていたのかもしれない。私の捨ててしまった夢を、彼女自ら拾い上げ、私に返そうとしてくれていたのだ。それでも、売れない小説家なんかに構っている暇があったら、彼女自身、やるべきことが沢山あっただろうに。
新しい会社、新しい人間関係。
新しいことがたくさん始まる中で、私なんかを、一人の人間として、見てくれていたのだ。稼げているとも言えないような、これっぽっちの収入で、彼女に何を与えられただろう?
私は彼女に、一つの答えを、光を、与えてもらったと言うのに。人生において1番重要な、気づきを、貰ったのだ。

何を返した?
何を与えた?

なにも、していない。

私は彼女に、何もしてあげれていない。


貰うだけ貰っといて、

何も



そのことに気づいた瞬間、目の前が真っ暗になった。景色も、光も、何も見えなくなった。

「…。」

涙が溢れ出た。
悔し涙でもなく、悲しい涙でもなく、
なんの涙か分からずに、その場に立ちつくした。マスクが涙で濡れる。

「大丈夫ですか?」
お坊さんの声すら聞こえない。
「本日は、これで私の仕事は終わりとなります。明日は火葬日となります。場所は、」

説明しなくていい。
彼女を焼くな。
消すな。

その思いでいっぱいだった。
何も言えぬまま、気がつけば、お坊さんは帰っていた。どうでもいいが、外は暗かった。寒い冷気が、空いたままの自動ドアから流れ込んできた。私自身、何時間そこにいたか、覚えていなかった。

「あ…あぁ…。」

やっと声が出た、と思った次の瞬間

「あぁあああぁああああああぁぁああ!!!」

自分の喉から発せられているとは思えないほどの断末魔が、耳を劈いた。

「うあぁあぁああぁあああ!!」

誰もいないフロアで1人、泣き叫んでいた。
どうにもできないこの感情から逃れることは不可能で、私の体を蝕んでいった。
彼女の存在は、誰にも分からない。
私以外、誰にも。
誰にも知られないまま、死んでしまう。
そんなことは、許されない。
人が死ぬ時、誰かが覚えていなければ、その人は永遠にこの世から消え去る。その時初めて、人は「死ぬ」のだ。それは、命が尽きるのと同様、遅いか早いかの違いだけだ。だが、人が死ぬのを拒むように、
忘れられることも、また拒む。
つくづく都合のいい生き物だと思う。
それは私も同じだ。
何百年前のことなんて、覚えていられるか。
何も出来ない。何も出来ずに終わる。
終わる終わる終わる終わる。
彼女は焼かれて、ただの骨になる。
救ってもらった恩人に、何も返せないまま…。


しばらくその場に立ち尽くした。
涙は次から次へと溢れ出てくる。
何も考えなくても、
気持ちを落ち着けようとしても、
ただ立っているだけでも、
涙は止まらない。


ようやく感情の制御ができるようになるまで落ち着いてきた時には既に、外には光が差していた。1体、何時間泣いていたのだろう。

「今日は…晴れか。」

宿に戻った。
特にすることも無く、やることもないのに。
火葬時刻は午後だ。
まだゆっくりしていても、遅れることは無いだろう。何となく、テレビをつけた。

「なんでやねん!お前なんでそんなこと言うんや!1回死んでこい!」
「わははははは!!」
「いいぞー森岡ー!!」


プチッ

「ふぅ。」
1つ、ため息をついた。
私もあんなふうに笑えたら、笑えるような冗談だったらと思うと、どうにもやるせない気持ちになった。

刻々と時間は過ぎていく。
こちらの気など知りもしないで。


コンコン


不意にノックが鳴った。
「…どうぞ。」
「失礼致します。」

「どちら様で…?」
「案内の者です。こちらに。」

あぁ、もうそんな時間か。



その日はもう何も考えられなかった。
あんなに好きだった小説さえ、読む気にも、書く気にもならなかった。
彼女の死は、私に大きな波を起こさせた。
その波は荒く、治まる気配を見せなかった。


小説家

もっと違う役職だったら、彼女をもっと笑顔にできた。はずだ。こんな事故が起こる前に、私が彼女をデートに誘う。叶うものならば。
小説家なんて、売れない。
よっぽどの実力と運がなければ、売れることなんてない。テレビでよく見る有名作家、映画の脚本を手がける実力作家、彼らは、幼い頃から、決まっている。運命というものが、定められている。私には、回ってこなかった、運。
喉から手が出るほど欲しいと思ったそれは、私ではなく、望んでもいない人へとさずけられる。こんな理不尽、あってもいいのか?
なぁ、そうじゃないか?神とやら。
後悔の念は、いつまでも私の心を締付ける。
どうしたらいいんだ…。

家に帰り、電気をつける。
1連の動きだ。
いつもとなんら変わらない日だ。

なのに

なのにどうして

涙が溢れる?

涙が毀れる?

真っ暗な空間に1人取り残されることが、これほどまでに辛いとは。なぜ私は一人暮らしができていたのだろう。

ふとペンを手に取った。
手に取った瞬間、ごちゃごちゃにゴミが詰め込まれたバックから紙を抜き出し、ペンを走らせた。

何が書きたいのか分からず、何をベースに書こうとしているのか全くわからなかったが、とにかくペンを、手を動かした。

「こうなったら、書いてやる。」

ガリガリガリ

「書いて売って、認めさせてやる。」

ガリガリガリ

「売りまくってやる!!」

ガリガリガリガリガリガリ




真っ黒になった用紙を見た。
なんて書いてあるのだろう?
私が書いていたはずなのに、何を書いたかまるで覚えていない。

久しぶりに聞くこの音。
紙の、独特な音。
推敲する時のこの胸の高鳴り…
全てが懐かしく思える。
「…読んで、みよう。」
私はしばらく紙とにらめっこしていた。
「…。」


「売れないなんて言っちゃダメです!」
「私のためになるかどうかは、私が決めることです。」
「すごい…このお話、やっぱりいいところついてますね!」
「永田さん、」

彼女の声が聞こえる。

彼女と話したこと
彼女が言ったこと
彼女が私に、伝えたこと
与えてくれたこと

全部が崩れていった。
音をたてながら、真っ逆さまに落ちていく。
記憶も思い出も全部。



「自分が信じない限り、何かを成功させるということは、できないんですよ。」


ガチャッ!!

カタカタカタカタカタカタカタ

私はすぐに出版の手続きをした。
いつも頼んでいた業者だ。
すぐに話しはついた。
「珍しいね、君から電話なんて。」
「よろしくお願いします。この作品は、どうしても売りたいんです。」
「…わかった。君がそんなに言うんだから、きっと自信作なんだろう?ここはプロに任せておけ。」
「頼みます。」
プチッ
電話が切れたと同時に、私はさらに続きを書いた。あれは前編だ。これは前編と後編に分けて出版する。その分費用も2倍だが、そんなのに構っている暇はない。
私の全財産をつぎ込んででも、この作品だけは、世に送り出してあげたかった。

売れる。
今度こそ売れる。

いや

売ってみせる。


カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ

売り出してから、2週間がたった。
私の電話には、多数のメールが寄せられた。
どれも取材の許可メールばかりだ。
四六時中着信音が鳴っている。
事務所も混乱しているのか、私を取り戻そうと、必死になって懇願してきた。


売れたのだ。


あの作品が、売れた。


私の作品…本が。
3日で、10万部売れたらしい。
…ありえない数字だ。

彼女にはやっぱり、かなわない。

そう思った。
悲しみが消えた訳では無い。
でも、なにか恩返しができたような…思い残し、やり残しを果たせたような…そんな気持ちになった。

Re: シナリオ ( No.3 )
日時: 2023/05/20 23:20
名前: いくら (ID: UIQja7kt)

あれから、私はたちまち有名作家となった。
審査も、出すほうではなく、見る方になった。私が出す作品全てがベストセラー。
雑誌にも載った。見出しは、『若手作家、待望のベストセラー!!』
テレビにも出た。以外にも私には、どうやらトーク力があるようで、朝の番組にも引っ張りだことなった。


ある日、こんな質問をされた。

「成功の秘訣とは?」

私はしばらく考え、こう言った。

「よく、自分を信じろ、なんて言う人がいます。でも、まだ1度も成功したことのない自分を、どう信じたらいいと思いますか?そんなの、同じことを何回も繰り返し失敗している人に、また同じことをさせるようなものですよね?それと同じなんです、人間なんて。」

インタビューした記者は、マイクを持つ手がだらりと下がり、私の話に聞き入っているようだった。

「どんなに信じようとしても、無理な話なんです。私が成功したのは…」

私は大きく息を吸って、言った。
記者は目を輝かせながら、マイクを近づけてきた。


「運、なんです。」


「運ですか?なんだ…。」
すっとぼけたような声を出し、記者は残念そうに項垂れた。きっと、もっと聞いたこともないような答えが来ると思っていたのだろう。
私はひとつ笑みを入れ、もう一度話した。
「結局は、そこにたどり着きます。ですが…運を味方に付けれる人というのは、これまたいないんです。私は、人生のどん底にいた。どんなに成功者を恨み、憎んだことか…今となっては憎まれ側ですが…。」
「憧れる人もいるのでは?」
記者の問いに、私は上手く答えることができなかった。私は、憧れたことが、なかったからだ。いや、ひとつはあったかもしれない。だが、そんなことを考える時間も、余裕すらも無かった。私が憧れていたものは、一体なんだ?そもそもそんなもの、あったのだろうか?
「今日は、もうお引き取りください。取材を続けたいのなら、また後日。」
「何か、お気を悪くするようなことを…?」
「決してそんなことでは無いのですが…今日はもう、気分が乗らないのです。申し訳ありません。どうかお引き取りください。」
記者はマイクをしまうと、一礼して帰って行った。きっともう二度と来ることは無いだろう。そんな予感がした。もっと有名になれるチャンスを、私は自ら潰した。

あの日以来、私はどうもおかしい。
頭には彼女のことばかり。
思い出なんて呼べるものは、ひとつもなかったのに。



「そんなことないですよ。」



ばっ!

今の、声は?

「結構楽しかったじゃないですか。私は死んじゃいましたけど…普段から、もっと周りをよく見る癖をつけていればよかったですね。」

「声が、聞こえる。これは私の気の迷い?」

私は自分自身に問う。

「気の迷いなんかじゃありませんよ。
ごめんなさい、先に逝っちゃって。本、売れたじゃないですか。私の言ったこと、合ってたでしょう。」
「どこにいますか!?」
「ごめんなさい。あなたの前に現れることは出来ないんです。そういう掟ですから。」
「私は、あなたに謝らなければならないことがある!」
姿は見えないが、確かに目の前に気配を感じる。一般的にこれは、幽霊とでも言うのだろうか。私にとっては、ありがたい恐怖だ。
「いいんですよ、そんな。」
「でも…!」
「私は、あなたと過ごした時間があっただけで、幸せでした。とっても楽しかった。あなたの書く小説は、飽きなかった。何回、何十回と読み返しても飽きなかった。また読みたいな、って、少しは思うんですけどね…。」
「戻ってくることはできないんですか…?」
私は無理を承知で尋ねた。
「…残念ながら。」
「私がそっちへ行きます!」
「それはだめです。あなたはまだ生きなければならない。寿命があるんです。それに、私が死んで欲しくないんです。永田さんは、もっともっと生きなきゃ。」
「…私だって、もうじゅうぶん生きましたよ。あなたと過ごした時間、それが私の全てです。それはあなたも同じでしょう?」

一瞬、空気が揺らいだ。
ただの私の気のせいかもしれない。
私の彼女への思いが強いから、いわゆる幻聴と言うやつなのかもしれない。
あらゆる可能性が考えられる中、私は考えるのをやめた。
「私は、柴田さんの元へ行きたい。」
「名前…やっと呼んでくれましたね。でも、だめです。」
「どうして…?」

「私も会いたいです。顔を見たい。こちら側からも、永田さんは見えない…それでも、永田さんには生きていて欲しい。私の大好きな人です。死んで欲しくはありません。」

視界が霞んだ。
涙で見えなくなる。
こんな情けない姿を見られているのか。

「生きてください。強く、たくましく。
私の所へ来るのは、それからです。
お願いです。今度こそ、約束守ってくださいね。」
「嫌です…行かないでください…私を1人にしないでください!」
「永田さんはひとりじゃありませんよ。」
「え…?」


「ファンがいるじゃないですか。」


それを境に、声は聞こえなくなった。
気配も消えた。
何も無かったかのように時間が進む。
私にだって、何が起こったのか分からない。
でも、たしかに彼女だった。
声が聞こえた。
これは事実なのだろう。
嘘でも幻でもない。
不思議と涙は止まった。
心の奥が、空っぽとでも言うのだろうか。何も無くなってしまったようだ。なんのために生きて、なんのために小説を書いていたのか、わからなくなってしまった。彼女のために書いていたのに、売っていたのに、生きていたのに、その彼女にすら、居なくなられてしまった。
起きてだかなんだか知らないが、縛られるつもりは無い。私なら、の話だが。



ばさっ


「…?」

本棚からなにか落ちた。最近整理していなかったから、溢れたのだろう。どれもつまらない本ばかりだ。何を言わんとしているのかがまるで分からない。

本を戻そうと手に取った。

「これは…」

それは私が唯一認めた本だった。
ミステリーと恋愛の融合…
1番難しい組み合わせを、見事ひとつの物語としてまとめた本だ。


なんだ。

憧れはここにあったじゃないか。

夢を見て、落ち込み、何もかも失い、絶望し…それなのに、私は何度この本に助けられたのだろうか。届かなかった壁は、もう目の前にある。本を書く、という本当の意味を、何十年経って、ようやくわかったような気がする。

私は辛いことだけを思い出してみた。
辛いはミステリーに繋がる。
持論だ。根拠はない。



初めて文を書いた時、胸が踊った。
まるで恋をしたかのようなそのトキメキは、私の心を掴んで話さなかった。
何度家族にバカにされようと、私は書いた。
書くことが幸せだったのだ。
余った紙や、なんならチラシの裏にまで書いたことがある。そんな時、母に家中の私のペンを没収された。私が勉強しないというのだ。
言われても仕方がない。私の成績は決して良くなかった。テスト期間だろうがなんだろうが、ずっと書いていたからだ。ペンさえ、鉛筆さえあれば、文はかける。もう使えないような鉛筆をかきあつめ、それでも私は書いた。母は呆れ、口を聞いて貰えなくなった。優秀を望んでいたからだろう。しかし私が望んでいたのは優秀ではなかった。価値観の違いがあると、親子でさえも関係にヒビが入ることを知らされた。好きなことを頑張っても、周りが認めてくれないと、それは頑張ったことにはならないのだ。幼いながらにして、目の当たりにした現実は、酷なものだった。
将来の夢を聞かれる度、才能がないだとかお前には無理だとか、決めつけられる日々だった。幼い頃はまだ良かった。年が経つにつれ、それは無理だ、から、現実を見ろ、という言葉に変わった。見ている。現実は今だ。生きている以上、誰しもが現実と共に生きている。
普通が現実ではない。決して。
私が普通ではないと言ったのは誰だったか…高校の教師だっただろうか?3ヶ月かけて書いた作品をぐちゃぐちゃにされ、私は激怒した。
教師に筆箱を投げつけ、校長室に呼ばれた。教師に非はなく、私だけが悪いのだと言う。
納得いくわけが無い。
誰も私を必要としなかった。
誰も私を見なかった。
私も私を憎んだ。
私が私を殺した。
何を信じればいい?
誰を頼ればいい?
誰も信じれないまま時は過ぎる。
自分の夢ですら自分で放り投げた。
後悔ならいくらでもある。
やり直したいことなんて数え切れない。
死んでしまえば楽になれるのに、その勇気すらない。
私が愛した人すら奪われ、何をとっても理不尽なことばかり。
憎んでも憎んでも憎んでも憎んでも…憎みきれない。私は私を憎みきれない。
1人ベッドで過ごす夜。それが唯一の救いだった。それでも付きまとう。頭の中で誰か彼かに責められる。神は、私が私でいられる時すら、奪った。神を信じていた。いつかきっと上手くいく。幸せになれる。
そう信じていた。
だから物は丁寧に扱ったし、物にすら謝った。物でさえ私を欺いた。それでも我慢した。どんなに理不尽が続こうと、笑顔を作り、自分を作り、声を作り、言葉を選び、媚びを売り、嫌われないよう毎日我慢我慢我慢我慢…

限界だった。

素の自分を出せば、きっと嫌われる。
それでもいいと思ってしまった。
いっその事嫌われてしまいたかった。
生きたいように生きれない。
自分が思い描いた未来ではなかった。
年が経つにつれ、はっきりと言われなくなる。陰口を叩かれる。言葉の暴力を食らう。
怖くて、震え、泣き、奮い立たせるの繰り返し。
ポジティブをキープ、優秀をキープ、笑顔をキープ…


つかれた。


全部疲れた。疲れて疲れて疲れきった。
歩くのすら億劫だ。勉強しなくていいならとっくにやめた。勇気がないだけなんだ。ズバッと言う勇気がないだけ。嫌われてもいい勇気がないだけ。湧かない勇気をどこから絞り出す?
教えて欲しかった。
嫌いなら嫌いと言って欲しかった。
好きな人ぐらい守りたかった。
神なんて信じるべきじゃなかった。
誰になんと言われようとも、神に笑われようとも、自分のやりたいことをやるべきだった。
言い訳は尽きない。
こんなもんじゃない。
人生なんてそんなものなのか?
本当にみんなこんななのか?
違うだろう。
人生は本だ。どこかに書いてあった。
私の本を、角がほつれ、ページが破け、色があせ、既にボロボロなのにさらに傷つけているのだ。周りからも自分からも。
辛かった。
誰にも言えない。
相談なんて考えたことがない。
信じれないからだ。
最後まで守ってくれないから。
信用性がないから。
何よりも怖いから。

だめだ…

壊れる。
自分が壊れる。
笑えない。
心の底から笑えない。
自分が嫌いすぎて、どうしようもない。

一時期は死のうかと思った。
居場所がどこにもないという孤立感は、耐え難いものだった。



そんな暗黒時代を思い出していたら、ふと、あのアパートに帰りたくなった。
あの大家に会いたくなった。
コーヒー豆をくれたあの大家に、お礼がしたくなった。背中を押してくれた唯一の大人だった。まだ若造だった私には、ありがた迷惑とでも言うのだろうか。そんなふうにしか感じとれなかった。大人になった今で思う。背中を押すということは、案外簡単なものじゃないということに。
「柴田さん…私、柴田さんと出会ったあの場所へ、帰ります。そこでもう一度、書いてみます。」
私は帰ってこない返事を期待しつつ、荷物をまとめ始めた。



バスに揺られながら、外の景色を眺めた。
懐かしい。それだけだった。


「次は〜…」
「やっと着いた。」


ピンポーン


思わず振り返った。もしかしたら…

「ほらお母さん、ここで降りようよ〜。」
「はいはい。お菓子屋さんが近いものね。」
「やった!」


「なんだ…。」
変な汗をかいた。やはり、あの日から私はどうもおかしいようだ。

バスは黒い排気ガスをたてながら、走り去って行った。あの親子も、手をつなぎながらどこかへ行ってしまった。私は1人、バス停の掲示板を眺めていた。
このバス停の数百メートル先に、あのアパートがある。
「少し歩くか。」
時折空を見上げながら、ゆっくり歩いた。
あれからたったの2年しか経っていないというのに、足が重い。まだまだ若いつもりでいた。あの日から時が止まっているのは私だけで、ほかは何一つ変わりなく進んでいる。止まっていると感じている私にさえ、衰えが垣間見える。確実に時は進む。それは抗いようのない定めだ。

数分歩くと、見覚えのある場所が近づいてきた。

「着いた。」

そのまんまだった。
そうとしか言えないぐらい、変わっていなかった。あの日から、時がひとつも進んでいないような感じがしてならなかった。昔はボロかったから、それ以上ボロくなることがなかったのか。大家は必要最低限の修理しかしなかったのだろう。手に取るようにわかる。

「懐かしい。」
「おいあんた、ここの住人さんかい?見ない顔だね。」
「あ、いえ。昔住んでいたものでして。少し立寄ったんですよ。」
杖を着く老人は、私をジロジロと見てきた。
「…何か?」
「あんたこの前テレビ出てたろう?あの、ほら、新しい本が話題ってやつだよ。」
ここにまで情報が行き渡っている。テレビというのは、つくづく恐いものだ。
「んで、お前さんなにしに来たんね?」
「ここの大家さんに会いに来たんですよ。今どちらにいらっしゃいます?」
「なーにいってやがんでぇ。ここの大家はわしだよ。」
「…え?」
「わしの前の大家はどうか知らんが、1年か2年前、わしが買取ったのよ。」
「その前の大家さんについて、何か知りませんかね?」
「なんにも知らねぇ。なんてったって、喋ったことねぇんだもの。確か婆さんだったかな?そんぐらいのことしか覚えとらんわ。」
方言混じりの口調で、老人は言って欲しくないことを、次々と喋った。
「業者に聞けばわかるかもしれんな。今電話してやろか?」
「あ、頼んでもいいでしょうか?」
「まかしとき。」

ピリリリリ…ピリリリリ

「おう、兄ちゃんかい?んだ、わしだ。ちょこぉっと聞きたいことあんねんけど、ええか?」

しばらく、老人と電話の相手との会話が続いた。

「いや〜そこまではわからんなぁ。もう直接聞いてくれや。変わるべ。」
私に携帯が渡された。
「あの、もしもし?」
『じっちゃんの前の大家について知りたいんだって?』
「はい。」
『じっちゃん、数年前にこの町に引っ越してきたらしくて、その時に住んでたのがそのアパートなんだと。そしたらじっちゃん、ここの大家になるって言って聞かなくて。前の大家さんが、私はもう歳だからって言って、譲ってくれたんだよ。』
「そうだったんですか…」
私が住んでいた時既にいたのだろうか?しかし、私の記憶の中では、目の前の老人と顔が一致する住人がいない。私が気付いていなかっただけだろうか?
『で、その前の大家さんなんだけど、』
「はい。」




『半年前に亡くなったそうだよ。』



ごとっ


「ちょっとぉ!お前さん何携帯落としてんだよ。あーあー傷付いちゃったよぉもう。…大丈夫かい?」


手が震える。

「もしもし兄ちゃん、なんかこの人に言ったか?」
『いや、俺はただ、前の大家さんのことについて言っただけで…急にでかい音鳴るんだもん、ビビったわ。』
「それがよぉ、急に携帯落としちゃったんだよねぇ。」
『え!?俺なんかまずいこと言ったか…?』
「だからそれ聞いてるんだよ!」

声が頭の中で繰り返される。

立っているのがやっとで、息も荒くなる、

「お前さん大丈夫かい?」
「あ、え、えっと、ありがとうございました。失礼します…」
足早にその場を去った。
「ちょっとぉ!…あー行っちゃった。もしもし兄ちゃん?あの人帰っちゃったよぉ。」
『そっか…。役に立てなかったな。ごめんねじっちゃん、俺仕事に戻んなきゃ。』
「気張れよぉ。」



またバス停まで戻ってきた。
次のバスは明日の朝6時に来るそうだ。もう今日は来ないらしい。そんなに田舎町でもないのに。これからどうするのかは、分からない。
バス停によりかかり、その場にしゃがみこんだ。
冷たい風が優しく頬を撫でた。



「あの」




声がした。
気のせいだろうか。

「大丈夫ですか…?」

いや、気のせいではないようだ。
私に応答をする力など残されているはずもなく、頷くことしか出来なかった。

若い女性だった。
私ももう30代だ。傍から見れば、ただバス停に寄りかかる男性。変人だ。なぜ声をかけたのか、声をかけようと思ったのか、私には理解できなかった。
彼女は、

「これ…」

缶コーヒーを渡してきた。

それは暖かかった。
手だけは、温もりを取り戻した。


意識もしていないのに、涙がこぼれた。
あの日が鮮明に蘇る。
大家が私に渡したコーヒー豆は、淹れることが出来ずにいた。
削ることも見ることも、封を開けることもせず、棚に閉まっていた。
いつか飲む日が来るだろう。その日はきっと、穏やかで、晴れやかで、なんとも言えない暖かさに包まれているのだろう。そして大家に言いたいと思うのだ。美味しかった、と。

気がつくと、彼女はいなくなっていた。
ただ1人、朝を待つ。


空が明るくなる頃、電話がかかってきた。

「どこにいらっしゃるんですか?もうサイン会が始まります。お戻りください。」

やはり、私が生きるべき道はここなのだ。
彼女が示してくれた、細く粗い道。


それほど長くない影を踏み、私はバスに乗り込んだ。


end

Re: シナリオ ( No.4 )
日時: 2023/05/20 23:47
名前: いくら (ID: UIQja7kt)

こんにちは、作者のいくらです!
この度は作品を読んで下さりありがとうございます!
前作に続き2作目の投稿です。長さとしては、前作よりも長くなっていますが、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。


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