ダーク・ファンタジー小説
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.8 )
- 日時: 2024/09/10 17:39
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 8.隠された愛 -
母からの電話を切った後、私はさっきまでいた駅に引き返すようにして走り出した。
父が、倒れた。今まで一度たりとも父が風邪を引いた姿ですら見たことがなかったのに、急に倒れたなんて絶対におかしい。今のこの状況にまだ実感が湧かないまま、私は電車に駆け込んだ。冷や汗がだらだらと伝っているのを嫌という程感じる。
もしかしたら…もしかしたら、父が死んでしまうかもしれない。こんな時に限って、そんな最悪なケースを思い浮かべてしまう自分を殴りたい気分だった。それくらい、当時の私は相当焦っていたのだと思う。
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「お父さん…!」
病室の扉を開けると、そこにはベッドに横たわる父と、その傍でずっと頭を抱えている母が座っていた。
私は父のもとへ駆け寄った。
ベッドに横たわる父は、今まで見たことがないくらいの弱々しい顔をしていた。
酸素マスクをして苦しそうにしている父の腕には、何本もの点滴がしてある。そんな痛々しい光景に思わず目を逸らしたくなった。
「怜愛……」
いつもの威圧的な太い声ではなく、蚊のようにか細くて弱々しい、小さな声で父は私の名前を呼んだ。
私は父の手を優しく握った。父は本当に薄らと目を開けて、こう言った。
「怜愛……今まで、本当に…ごめん、な………」
-ドクッ。
父の細い目と合った瞬間、心臓が大きく鳴ったような気がした。父と目が合うのは、一体いつぶりだっただろうか。私はそんなことにいちいち感動しながら、父の目をしっかりと見返した。
「お父さんがしてきたことは、一生許されるわけない。私はお父さんがどれだけ憎かったか、お父さんにどれだけ泣かされたか………すごく、辛かった。苦しかった。それなのに…今更ごめんなんて、言わないでよっ…」
気付いたら、涙で視界が滲んでいた。父の前で泣くのは生まれて初めてだった。
「でもあなたが弾くピアノは、私の苦しみよりも、もっともっと大きな苦しみを持った人たちの心を救ってるの。これからもっともっとたくさんの人たちに、世界中の人たちに、あなたのピアノの音色を届けたいんでしょ?……だから、まだ元気でいなきゃ。あなたを必要としているたくさんの人たちが待ってるの」
こんなくそみたいな父でも唯一、私は尊敬しているところがあった。父が弾くピアノの音色はいつか見た陽向の絵のように、私にとって救いみたいなものだった。だから私は密かにずっと、ピアノだけは……いつか父みたいに弾けるようになりたいと憧れを抱いていた。
「………本当は、私にもピアノの音色みたいな優しさを向けて欲しかった。二人が冷たくなってから絶望する毎日だったけど、それでも私がもっともっとピアノを頑張れば、二人に認めてもらえれば…きっとまた、みんなで笑い合える日が来るんだって……ずっと、信じてた。でもいつからか、それはただの願望でしかないんだって、気付いたの」
涙で歪む視界の中で、父が悲しそうな顔をしていたように見えた。
「もう……泣いて、いいっ…?」
父も母も何も言わなかった。私は我慢していた涙を一滴一滴零しながら、思いきり泣き出した。
「怜、愛……ごめん………ごめ、ん……」
私が病室の中で泣いている間、父はその弱々しい声でずっと謝り続けた。
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あの日から一週間が経った今日、私は父の葬式のため学校を休んだ。
誰もが愛したあのピアニスト、私の父は昨日癌が原因で亡くなったことが明らかになった。本当に突然のできごとで、私は驚く暇もなかった。
私は葬式の間、ずっと上の空だった。あの日、今まで溜めていた自分の気持ちを吐き出したからか、実の父親が死んでも意外と何も感じないんだな、と父が亡くなったことよりも自分の中にある感情が空っぽなことに驚いていた。
あれだけ消えてほしいと願っていた父が死んで、むしろ清々する。これでやっと……ピアノに縛られながら父に怯える日々を送らなくて済む。これで、やっと……。
葬式が終わった後、家に帰り、父の部屋を母と一緒に片付けていた。ほとんどのものはいらないものボックスに入れるのだが、あまりにもその量が多いので小さなダンボール三箱では入り切りそうにもなく、部屋には物が溢れかえっていた。
クローゼットの中の父の私服を全部片付け終えた後、私は次にデスクにある小物を片付けようと引き出しを開けた。
「ん…?なんだこれ」
引き出しを開けると、そこには表紙に『マイメモリー』と英語表記されている、深緑色の分厚いアルバムのようなものがあった。気になって本を開きそうになったが、今そんなことをしても時間の無駄になるだけだと思ったので、後で見てみようと私はそれをとっておいた。
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その日、父の部屋の片付けが一段落した後、私は自分の部屋で例のアルバムを開いてみた。
「……え…?」
私は目を見開いた。なぜなら……そこに貼ってあった写真に、全て私が写っていたからだ。
何で父がこんなにたくさん、私の写真を持っているのだろう。私は不思議に思いながらも、一枚一枚の写真にそっと目を向けた。
生まれた頃のまだ赤ちゃんだった私。
笑っている父に抱き抱えられる私。
初めて立った時の私。初めて喋った時の私。
泣きわめきながらミルクを飲んでいる私。
こぼしながら自分でスプーンを持ってご飯を食べている私。誕生日ケーキの前で笑っている私。
初めてピアノを弾いた時の私。
楽譜を持って嬉しそうに笑っている私。
コンクールで初めて賞をとって父に抱きついている私。母と歌を歌っている私。
学校の運動会で走っている私。
漢字テストで百点をとって喜んでいる私。
家族みんなと一緒に…笑っている私。
私が写真を撮られたことを覚えていないものまでも、しっかりと写真が貼られていた。
そしてどの写真にも、傍に必ずその日の年や日付が書かれていて、どれも楽しそうに笑っている私の写真ばかりだった。
アルバムのページを次々にめくっていくと、今度は『ピアノの発表会』と書かれたページがあった。気になって見てみると、そこには─────。
「なん、で……」
なんと、中学生から高校生の今の自分がこれまで出たピアノのコンクールの写真があったのだ。
「嘘っ……お父さん、見に来てなかったはずなのに……」
私は驚きのあまり口を覆った。なぜだろう。父が冷たくなってから、あの人は一回も私のコンクールに顔を出したことはなかった。それなのに、なんでこんな写真を…。
華やかなドレスを着て、真剣にピアノを弾いている私や、表彰台に立ってトロフィーを受け取る私。笑顔で拍手を送られている、嬉しそうな私。この写真たちの傍にもやはり、必ず日時が記録してあった。
私、こんな顔してピアノを弾いてるんだ…。
コンクールでピアノを弾く度に緊張していて、自分がどんな風にピアノを弾いているかなんて、考えたこともなかった。
写真の中でピアノを演奏している私は、とても真剣で……とても、楽しそうな表情をしていた。
あんなにピアノを弾くのが苦痛で、嫌で。両親に何を言われるんだろうと怯えながら、それでも毎日練習し続けてきたピアノ。私の隣には、いつもピアノという心強い存在があった。
どんなに嫌でも、ピアノだけはやめなかった。それはあの日のことがあって、父にあんなことをもう二度と言わないと誓ったからだと、勝手にそう思っていた。確かにそれは事実だ。………けれどそれ以上に、私はピアノが楽しくて仕方がなかったのかもしれない。この写真が、それを全て物語っている。こんなにも楽しそうにピアノを弾く自分は、間違いなくそう思っていたのだろう。
「……っ、うっ………」
ポタポタと零れ落ちる涙が写真にシミを作っていく。私は泣きながら、アルバムの最後のページを開いた。
しかし、最後のページには写真は貼られていなかった。その代わりに、そこには何回か丁寧に折られた紙が挟まっていた。
「これ……手紙………お父さん、の……」
紙を開くとそれは何枚か重なった便箋だった。便箋の一番上には『怜愛へ。』と父らしい達筆な字で書いてあった。
手が、ものすごく震えた。きっとここに、父の全てが書いてあるのだろうと思うと緊張して、一体どんなことが書いてあるのだろうという好奇心と同時に、もしかしたら私が想像もできないくらい酷いことが書いてあったりしたら…という恐怖心が入り混じり、その手紙を読まずにはいられなかった。
-ゴクッ。
私は怖くなりながらも深呼吸をした後、閉じていた目を開け、恐る恐る文章に目を通した。
『 怜愛へ。
ここには私の正直な気持ちを記したいと思う。素直な態度で君に接することができなかった分、もうこれ以上娘に嘘はつきたくない。自分勝手ながらだとは思っているが、どうかこれを最後まで読んでほしい。
私は君が中学二年生だった時、急に身体に異変を感じるようになった。その時はまだ生活に支障が出る程でもなかったから、気にせずいつも通りに過ごしていた。しかし、それから半年が経ったある日、病院へ行ってみると癌だということが判明した。それもかなり状態が悪化していたらしく、ここから治ることはもうないだろうと言われた。医者に、持っても二年ちょっとだと余命宣告を受けた時は本当にショックで、理解が追いつかなかった。しかしこれはきっと今まで君に散々酷いことをしてきた罰なんだと、私は納得した。だから私は自分が病気になったことに疑問を抱くことはなかった。余命宣告を受けたことはもちろん誰にも言っていない。このまま静かに息を引き取れれば、私はそれが本望だ。
怜愛に初めてピアノを弾かせた時、君は本当に嬉しそうだった。この子は生涯、ピアノに人生を捧げて、いつかきっと偉大な音楽家になるのだろうと。そう思った私は、君にピアノを教えることにした。
最初は簡単な曲のワンフレーズが弾けただけで喜んでいたから、私も嬉しくなってつい怜愛を甘やかしていた。しかし歳を重ねるごとに、君は段々とピアノの実力も上がってきて、私が教えることなど、もうなくなっていた。
君は私から離れていった。ピアノの一曲が弾けるようになっただけでは、もう喜ばなくなった。コンクールの受賞数も、気付いたら私より遥かに多くなっていた。だから私も、もう怜愛は一人でも大丈夫だと思い、君から離れていった。
だが、私は君を信じすぎたあまり、いつの間にか重荷を背負わせるようになってしまった。家族への当たりも段々と強くなっていき、気付いたら私たち家族の間には亀裂が入ってしまった。これは全て、何も考えず行動した私の責任だ。
ピアノで娘を喜ばせたいと、もっと楽しんでもらいたいと思っていただけだったのに、その気持ちはいつしかもっとピアノを上達させて世界的なピアニストにさせるんだ、というものに変わっていった。
あの日、君がピアノをやめたいと言った日。私は本当に酷いことをした。お前がやりたいのはピアノじゃないのか、これだけ頑張って実力も伸ばしてきたというのに急に他のことをしたいだなんて何馬鹿げたことを言っているんだ。私の夢を踏みにじるなんて、なんてやつだ。当時の私はそう思って怒り狂っていた。
しかし、馬鹿げたことを言っているのは私の方だったのだと、余命宣告を受けた時に気付かされた。
子供の好きなことをやらせて喜ばせてあげたい。一番大切に思っていたことだったのに、気付いたら子供にやりたくもないことを強制させ、力で拘束させて自分の夢を叶えさせるという、ただの虐待行為になっていた。
私は、全部全部怜愛のためなんだと勘違いして自己満足していただけの、なくてはならない最低な父親だ。それでも逃げずにピアノを続けて、私の期待に応えられるように一生懸命頑張る怜愛の姿が本当に誇らしい。
父親と名乗られるのも嫌かもしれないが、私は君の父で本当に良かった。今までのこと、本当にごめん。謝罪してもしきれないくらい、私は君に酷く当たった。君が一生私のことを許してくれなくて当然だ。許してくれとは言わない。ただこの場を借りて謝らせてほしい。本当にごめん。
最後に。これから私が生きられない分、君に伝えたいことがある。
それは、人との出会いを大切にしてほしいということだ。友達でも恋人でも、出会ったからにはこんな風にいつか別れが必ず来る。別れまでの月日は決して長くは続かないかもしれない。君は今までピアノと共に人生を送ってきたから、あまり周りに目を向けたことがないかもしれない。だからこそ、人との一つ一つの出会いを大切にしてほしい。別れを告げた人間に、将来必ず会えるなんて保証はない。私のように家族を見捨てるなんてことは絶対にしないで、誰かと共に人生を謳歌してほしい。父親とも思いたくない人間に、こんなこと言われても君は嫌がるかもしれないが、これだけは約束してほしい。
長くなってしまってごめん。ここまで読んでくれてありがとう。そして、生まれてきてくれて本当にありがとう、怜愛。怜愛はいつまでも、私の自慢の娘だよ。
死んだら私は地獄に行くかもしれないけど、もし。もし天国に行けたら。
私はずっと、空の上から怜愛のことを見守っているよ。
水瀬綾人 』
私はそっとアルバムを閉じた。涙が溢れ出てくる前に、私は自分の部屋を飛び出し、リビングにいる母に黙ってアルバムと手紙を渡した。
「………お母さんっ……私の、お父さん、は……もう、この世には……い、ない…?」
自分でもびっくりするくらい震えた、情けない声で、確かめるようにそう聞いた。
「……もう、いない」
母は冷静にそう断言した。
-ブチッ。
私の中で何かが切れた音がした。あぁ、もうだめだ。もう……。
「……うっ、ぅぁぁぁぁぁぁあああっ…!」
我慢していた涙が一気に溢れ出した。私は母の前だということも、今が夜だということも忘れ、ただひたすら、子供に戻ったかのように泣きわめいた。
母はそんな私を叱ることなく、私が泣いている間ずっと背中をさすってくれていた。
「怜愛……ごめんね、ごめんねっ…」
母は泣き止まない私にずっと謝り続けた。
「お母さん……私、私っ……!」
私は泣き続けた。母の胸に顔を預けて、私は声を出して泣いた。
私は、ちゃんと愛されていた。私が大好きだった父は、まだ父の中にちゃんと存在していた。
父が私を愛してくれていたこと。
私の幸せを一番に考えてくれていたこと。
私の父で良かったと思ってくれていたこと。
全部全部、嬉しかった。父の思いが、言葉が。
あれだけ呪いたいと思っていた父が、今は会いたくて仕方がない。
父が生きている間に、ちゃんと打ち解け合いたかった。父が病気になる前に、ちゃんと気付けばよかった、素直になればよかった。
私の気持ちを、思いを。もっとちゃんと伝えていれば。家族の幸せをもう一度取り戻すことを、諦めていなければ。もしかしたら私たちには、今とは違う、幸せなハッピーエンドが待っていたのかもしれない。
でも、今更そんなことにいくら後悔したって、いくら泣いたって、父が戻ってくることはない。家族三人で、幸せになることはできない。
もう、父はいないのだ。この世のどこにも。
今は、今だけは思い出したくない父の顔が、声が、ピアノの音色が。頭の中に浮かんでくる度に、涙は止まるどころか、余計溢れかえってくる。
お父さん。私も伝えたいことが本当にたくさんあるんだ。でも、私が言いたかったことは、全部お父さんが言ってくれたね。
いつか私たちの幸せは戻ってくるんだって、本当はね、ずっと。ずっとずっと、期待してた。
今も自覚はないだけで、本当は心の中にそんな気持ちがあるんだと思う。
でも、私はその気持ちにずっと蓋をしてた。どうせ、どれだけ待っても、私たちは昔のようには戻れない。分かってたから、隠してた。
今思えば私は今までこの気持ちに、気付いていないふりをしてきたのかもしれない。でも、どれだけ蓋をしていても、どれだけ気付いていないふりをしていても、心の中にしまってあった悲しみが消えることはなかった。
私は一生、お父さんが今までしてきた酷いことを許す日は来ないと思う。でも、これだけは伝えたい。
私をこの世界に連れてきてくれて、ありがとう。
だから、ちゃんと見ててね。いつか絶対、お父さんみたいな世界的なピアニストに、なってみせるから。
私が弾くピアノで、いつかきっと。
お父さんのように、世界中の人の心を、救いたいと。そう、思わせてくれた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「ただいま」
「おかえりなさい」
父が亡くなってから、私の家は至って普通の会話ぐらいはまともに交わせるようになった。
あの日、私が泣いて、泣いて、泣いて。ようやく落ち着いてきた頃に、母が言った。
「怜愛。お父さんはね、この手紙を病院でずっと書いていたの。あんな弱々しい姿で、何度も何度も書き直しながら。だから、この手紙に書いてあることは、お父さんが本当に怜愛に伝えたかったことなんだと思う」
お母さんは私の手を強く握った。喋り方も、声色も、雰囲気も、全部私が小さかった頃のお母さんに戻っていた。
「怜愛、今まで本当にごめんなさい。あなたを傷付けたのは、私も一緒だから。これからはお父さんの分まで、私たち二人で幸せになろう」
母は私の気持ちを確かめるように、包み込むような温かさで、私を優しく抱きしめた。
私は母を抱きしめ返すことができた。こうしてようやく。ようやく、私たちは打ち解け合うことができたのだ。
『早くピアノの練習をしなさい』
もうこんな両親の声は、聞かなくなった。
父がいなくなったことでようやく、私は自由になれたのだ。ピアノに縛られることもなく、自由に生きられる……。
『怜愛、ピアノ上手くなったなぁ!』
『怜愛の将来の夢は、お父さんみたいなピアニストになることなんだぁっ』
『おっ、そうなのか。怜愛はお父さんを超えられるかな?』
-あはははっ。
ピアノの音色と共に、そんな楽しそうな笑い声が聞こえてきた気がした。
私の将来の夢は、あの時から変わっていない。
──────きっとこれからも、変わることはないだろう。