二次創作小説(紙ほか)※倉庫ログ
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- キテレツ大百科 昭和の間違い
- 日時: 2011/03/15 23:04
- 名前: 上野宝彦 (ID: ieojggCq)
どうも。初めまして。上野宝彦でございます。藤子作品を中心に2次小説を作っています。よろしくお願いします。
さて、今日から「キテレツ大百科 昭和の間違い」を書きたいと思います。あらすじは
1981年、東京にある板橋区立志村小学校では、夏休みの課題宿題に「昔の東京の様子を調べよ」というものが出された。そこに通っている11歳の木手英一は、航時機で昔の東京の様子の写真を撮ろうと考えた。終業式が終わって、彼は、ブタゴリラ・トンガリ・みよ子に呼ばれ、一緒に航時機に乗ることが決まる。彼等はそれに乗るのだが、航時機が壊れて不時着墜落。到着した場所は、40年前の国会議事堂であった。英一達は国会議事堂の中を見学していた。彼等は公安に見つかったが、とある政治家に間違えられ陸軍省に連れて行かれる。彼等は1981年の世界へ戻る事が出来るのか?
これがあらすじです。そして、主な登場人物です。
〜登場人物〜
木手英一・本作品の主人公。とある外交官に間違えられる。
熊田薫・ブタゴリラ。とある海軍軍人に間違えられる。
尖浩二・とある陸軍軍人の者に間違えられる。
みよ子・とある貴族の妻に間違えられる。
まだまだ、沢山の人物が出てきますが、今日はこの辺で(−−〆)
では、始まりますよ。そして、昭和の軍人・政治家・外交官など知っている方はコメントください。話の感想もお待ちしています。
- Re: キテレツ大百科 昭和の間違い 第5話 トラトラトラ ( No.9 )
- 日時: 2011/06/19 16:32
- 名前: 上野宝彦 (ID: ieojggCq)
第5話 トラトラトラ
大東亜戦争の行われる日々は刻一刻と近づいてきていた。11月下旬には山本五十六率いる船が真珠湾に向けて出発していた。陸軍もマレー半島に進出してきている状態だった。板垣はそれが終わった後に新京へと戻って行った。そんな時、海軍省では保科と嶋田が話していた。
「戦争が始まってしまいましたな。もともとは近衛内閣の時の及川さんが海軍の気持ちを素直に出さなかったからこんなことになったんじゃないですか」「まあ、それも一理あろう。だが、近衛さんも近衛さんだ。自分が迫った時に急に総理大臣の職を辞めただろう。あの人のせいもあるんだぜ」「それもそうなんですが、日本の軍は人が少なすぎますよ。アメリカなどは沢山いるのだそうですよ」「それはそうだな。日本は人口が多い割に少ないからな」「この調子なら絶対、国家総動員法が発揮されるでしょうな」「それはやめた方がいいな。特にこの海軍は」「ですよね。陸軍ならまだ誰でも出来そうですがね・・・」「そういえば、山本さんは行ってしまったが、私に言伝はなかったか?」保科は手帳を取り出した。「言伝と言う言伝はないですけど、私にこう言いましたよ。『始まってしまったか。戦争が・・・』と」「まあ、分かるわな。あの人は戦争に反対していらしたからな」この部屋は急に静寂に包まれた。電報によると、真珠湾まで後4海里ほどだという。航空機もきちんと用意していると・・・。 そういえば、大本営からハワイに『ニイタカヤマノボレ1208』という電報が届いていた。艦隊の中で南雲はこれを受け取ったが、よくわからなかった為、山本を呼んだ。「山本さん。申し訳ありません。お忙しい時に呼んでしまって・・・」「うん。いいよ。本当に始まってしまうんだね。戦争が」「はい。天皇陛下のご聖断ですから。仕方ない事ですよ。お呼びしたのはこれなんです」南雲はこれを山本に渡した。紙切れにはこの事だけしか書いていなかった。「ニイタカヤマノボレ1208・・・ですか?」「はい。私も少し劣りまして分からないのですよ」「これは、重大な報告かもしれないよ。大本営と書いてあるからね」「大本営ですか?」「そうだよ。大本営と言うのは東條英機首相率いる内閣の事だからね」「そうですか。ですが、僕はこれの解読が出来ないのです」「分かっているよ。まず、1208から見てみよう」「はい」南雲は一生懸命に山本の手を見続けた。「まずだがね、これは君にもわかるだろうけど西暦ではないことは確かだよね。これなら鎌倉時代の承元年間にあたる。それに皇紀ではないことは確かだよね。と考えてみると当てはまるのはこれしかないだろう」「月日ですか?」「そうだよ。これしか絶対にない。だから、12月8日に何かをしなければならないんだよ」「それは分かりました。ですが、ニイタカヤマノボレの部分がよくわからないのですが・・・」「うん・・・」山本は腕組みをした。これには考えさせられた。沢山の考えが浮かんだが、最後に浮かんだものが一番いいだろうと考えた。「僕の憶測なんだけどね、ニイタカヤマというのは、台湾の新高山という山でね、富士山より高い山なんだ。時間を見てみると、日本で一番高いということは・・・一番ということは一番初めと言えるんだ。そして、登れと言うのは始めよと意味にとれるんだ。だから、『日本時間午前零時を期して戦闘攻撃を開始せよ』 と言うことになるんだよ」「え。もしかして、2月7日の午後11時にやれと・・・」「そういうことだね・・・」2人は冷や汗をかいた。2人は顔を見続けた。「うそでしょ。本当に始めなければいけなくなったじゃないですか」「うん・・・」「これは重要だ。ですが、なぜ暗号なんでしょうね」「そりゃ、アメリカにばれたらいけないからじゃないの。アメリカにはそんな人がいるかもしれないからだろ」「そうですね」「南雲。すぐに隊員を呼んで、この一件を伝えろ」「もちろんです」
南雲は隊員を呼んだ。「皆、よく聞け。重大な発表だ。先程電報が届いた。そこには『ニイタカヤマノボレ1208』と書かれていた。これを解読した結果『12月7日午後11時を期して戦闘行動を取れ』ということになった。我等は行かなければならない」一人の兵が手を上げた。「あの、何処に砲撃をするのですか?」「真珠湾だ。鬼畜米英の領地 ハワイだ。そして、我等は宣戦布告をしないつもりである。これは東條首相から言われた事でもあるからだ。これからはアメリカにばれないように行動をしなければならない。皆、心するがいい」「はい。分かりました」隊員はそう合図した。「さあ、帆をはれ。真珠湾まですぐだ」梅沢と言う隊員は元気にあいさつした。
さて、12月7日の日がやってきた。近くに島が見え始めた。あれがハワイなのだ。南雲は少しもったいない気がしていた。「こんな自然たっぷりな場所を砲撃せよと言うのか・・・」山本が南雲の肩を叩いた。「まあ、仕方ないだろう。無念だが我ら武者はやらなければいけないんだ。そういえば、永野さんも言っていた。『軍人は、やると決めた事をやらなければいけない』とね」「そうですね」「僕は構想を考えたんだ、船の攻撃なら負けると思って、船の上にある航空機を飛ばしたいと思うんだ。そして、ベテランの大西瀧治郎に頼みたいと思う。真珠湾をやることについて。上もあそこを火の海にせんとなんかいうだろう。大西の隊が、軍艦などを狙えばきっと大丈夫だよ。日本はこの大戦に勝てるだろう」「では、早速大西瀧治郎に申し伝えましょうか」「うん。そうしてくれ」南雲は大西がいる船に向かった。大西は航空機の点検をしていたようだ。「点検中すまん」「なんだ。南雲さんじゃないですか。どうしたんです」大西は笑顔で南雲のほうへと向いた。「実は先程、山本艦隊司令官長に言われたんだが、山本さんは空撃がいいと考えておるんだ。そして、優秀なお前がいいとおっしゃったんだ。どうだ。優秀なお前だ。どうか日本の為にしてくれないか」「もしかして、船をやるんですか」「もちろんだ。そして、アメリカの海軍基地もしてしまうんだ」「宣戦布告は?」「していないさ」「そうですか。お国の為なら仕方ない。私達がその大役お引き受けいたします」大西は胸を叩いた。「本当にいいんだな」「はい。わが命に代えても」彼は敬礼をした。「分かった。君たちの隊の幸運を祈る」「大日本帝国海軍の幸運を我等も信じます」「そうか。任務に励めよ」南雲はそう言い離れた。
「見てください。不審船が見えます。海の底に」「なに。ちょっと変われ」キンメルが部下の顕微鏡を取った。「これは・・・、潜水艦じゃないか。これは危ない。わが軍は何処かの国の軍に狙われているんだ。部下の者に伝える。わが軍は何処かの軍に狙われている。我等の仕留めるのはあの潜水艦なり。砲撃準備」準備が整った。「砲撃開始」キンメルが声を上げた。その潜水艦は撃沈された。これをワード号事件と言う。
日本の軍もあわただしくなっていた。「南雲隊長。大変です。特殊潜航艇が米軍にやられました」「分かった」そう南雲は言った。「山本さん。特殊潜航艇がやられましたよ。どうするんですか」「南雲。あれは壊されるために浮かばせたんだ。大丈夫さ」
7時49分、大西達の隊は真珠湾上空に達した。「第一波空中攻撃隊より連絡。只今、真珠湾上空に到達しました。応答を」山本は無線に向かって言った。「しばしその上空を旋回してくれたまえ」「分かりました」大西達の航空機は旋回をし始めた。「今こそやる時だ。今こそ始める時だ」山本は隣にいた攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐に命じた。「心得ました」淵田は無線に向かった。「全軍に申し伝える。『ト・ト・ト・ト・ト・・・』」大西達の隊にもそれが伝わった。「分かりました。第一波空中攻撃隊の諸君に伝える。『全軍突撃開始』」航空機は空撃を始めた。
南雲の時計は、7時53分を指した。「旗艦赤城に申し伝える。『トラ・トラ・トラ』」「分かった。淵田中将。ありがとう」南雲は心の中で言った。それは、『ワレ奇襲ニ成功セリ』を意味していた。「成功したか。案外米軍は弱いものだ」南雲はニヤッと笑った。
飛行機の時計は55分を指した。翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少将率いる急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。「僕はやってみせる。生還して見せる」高橋は飛行機に乗りながら思った。
7時58分。米軍は日本が攻めたことを痛感した。米軍海軍の航空隊がキンメルに伝えた。『真珠湾が攻撃された。これは演習ではなし』と伝えた。「日本め。宣戦布告もせず来るとは卑怯な手を使うものだ。これで分かった。日本軍は本当は強くない。弱いからこんな真似をしたのだ」キンメルはそれを痛感しながら独り言のように喋った。空を向いて。
戦艦アリゾナは警報が発令されベルが鳴り始めた。この瞬間にアメリカの海軍の隊員は驚いた。雲が現れる。隊員は逃げ惑った。
大西達の兵が、止まっている戦艦アリゾナ・オクラホマの両機目がけ、800km爆弾を投下した。「只今、800km爆弾を投下しました」「よし。この調子だ。どんどんやれ」淵田がこう言い放った。山本は腕組みをしながらじっと椅子に腰かけていた。その何分か後、アリゾナの前部火薬庫が爆弾にあたり、爆発し沈没した。「第一波空中攻撃隊より全海軍旗艦・戦艦へ。米軍の戦艦アリゾナと思わしきもの、沈没せり。また、戦艦オクラホマと思わしきもの、只今攻撃中」「そうか。よくやった。戦艦オクラホマの前頭部を狙え。そこは火薬庫だ。分かったか」「分かりました。そこを中心的に砲撃させていただきます」その数分後に、戦艦オクラホマも転覆沈没した。大西はまた海軍本部に連絡した。「よし、これでよし」と淵田は思った。だが、まだ米軍の戦艦は残されていた。
少し休憩をした後、8時54分に、第二波空中攻撃隊は戦艦ネバダがあることを確認し、それを報告した。淵田はまた「ト・ト・ト・ト・ト・・・」を発令。山口はそれを確認した。「第二波空中攻撃隊。発着用意。発着」沢山の航空機が出発していく。「我が空中攻撃隊よ。全員戻って帰ってくるんだぜ」山口は空を仰ぎ見た。自分の隊の航空機が東の方向に向かっていた。
米軍も奇襲から立ち直った。「さあ、この日本の軍隊を総崩れにするのだ。絶対にやり遂げようぞ」ショートが軍隊を奮起させた。隊員達は勇気が出始め、また戦いに出ることに意欲を持った。「我が国アメリカ。ルーズベルト大統領。このアメリカ海軍はこの奇襲に絶対成功すると思われます。それまでしばしお待ちを」ショートはアメリカの方向を向き敬礼した。
そのお陰だろうか。米軍は猛烈な対空射撃を行った。沢山の航空機が落ちていく。「よし。日本軍をつぶしてしまえ」ショートは笑みを浮かべた。
日本軍の南雲忠一や山本五十六や、山口多聞がいる司令室には沢山の無線による報告が届く。山口達は生き残っている事を願った。笹崎と言う航空機に乗っている隊員は、「軍艦ネバダと思わしきもの発見。只今よりネバダを狙う予定」と報告したが、その最中にあたってしまったようで、無線に「天皇陛下万歳」と叫びながら死んでいった。山口は涙を流した。「すまぬ。笹崎。わしがこんなことをしてしまって」南雲と山本は山口を止める事が出来ず、俯いてしまった。山口達の隊は、大西達の隊より甚大な被害を被った。潜水艇も沢山の被害を受けた。特に潜水艇に乗っていたものは、生還者なしという結果だった。この調子ならもう戦艦ネバダをやるのは無理だと司令官達は思った。だが、アメリカの戦艦が潰されたので、日本が勝った事は確定した。司令部の者達は、もう暗い顔をしなくなった。そう確信した。だが、沢山の者が亡くなった事には変わりない。彼等は潜水艇に乗っていた9人を労わった。そこで、この9名を『九軍神』として、東條内閣の幹部、保科達の上層部に伝えようと思い、戦艦のとある部屋に9人の亡き殻を運んだ。
午前8時30ぐらいに、空中攻撃隊は各自の母艦に帰ってきた。そこには大西の姿があった。帽子を取った彼は無傷だった。「ふう、大変だったぜ。まあ、命だけがあるのは良かった事だ」大西は南雲達に事の一戦を伝える為に、司令室に赴いた。大西は司令室の扉を開けた。そっと。——おいおい。会議中かよ。こりゃ入れねえな・・・。
そこでは、参謀幹部達が話しあっていた。「私は、先程の山口さんの様な事になったらいけないと思って話しているんだ。このまま、長い戦になる事さえあり得るのですぞ。これなら、アメリカ海軍をつぶした方がいいと私は考えるのです。従って、港湾施設を徹底的に破壊しなければならないのです」三川軍一が、山本の前でそう話した。「よくぞ言って下さいました。三川さん。私も同じ考えです。戦争を長期化させてはならない。この為には、あの湾岸施設を壊すべきなんですよ。お願いします。山本さん。是非是非、第三次攻撃をお願いします」山本は目をつぶっていたが、目を開け「もういいだろう。こんなに戦艦や艦載機をやったんだ。もう、この戦いは終わりなんだよ。我らが勝ったんだ。それでいいじゃないか」南雲も後に続けて言った。「山本さんの言うとおりだよ。今日はここまでにしとこうや。たぶん、この戦は長期化するだろうが、我ら大日本帝国海軍の底力をアメリカ軍に見せればいい話だよ」南雲はそう言い席を後にした。扉には大西が構えている。「大西。お前が無事でよかった。怪我はしていないか」「はい、無事無傷で帰ってこれました」「それはありがたかった。お前を、天皇陛下が守って下されたんだ。天皇陛下を敬え。歴代の天皇陛下を」「はい」「よし、ご苦労だった。もう戦は終わったから、心身ともに休め」「はい。有り難うございます」大西はそのまま南雲が上の階に言った事を見届けた。
南雲がここから指揮を執ることになる。「さあ、戦争は終わった。今から帰還する。西の方向に進め」南雲は声を上げた。そして、全軍が瀬戸内海の柱島泊地に到着したのであった。
時は経ち、12月26日。淵田海軍中将は皇居に赴き、天皇陛下に真珠湾の事について報告した。天皇陛下は熱心に聞いていらした。そして、こういった。「お役目御苦労さま。僕の軍が勝ってくれてうれしく思う。だが、死んだものが可哀想でならない。心よりご冥福をお祈りする」淵田は声が出なかった。天皇陛下はここまで我ら海軍の事を思っていらしたのかと部屋を出た後に感涙した。これは、一つの幕開けにすぎない。だが、一つの戦の終わりでもある。皇居の木はそれが分かっているかのようだった。自然は何でも知っている。淵田は木についている葉の色を、いつもより美しく感じた。〔第6話へ続く〕
- Re: キテレツ大百科 昭和の間違い 第5話の登場人物・語句 ( No.10 )
- 日時: 2011/06/19 16:36
- 名前: 上野宝彦 (ID: ieojggCq)
第5話にも沢山の語句・人物名が出てきます。新しい登場人物紹介も合わせてご紹介させていただきます。
〜新登場人物〜
保科善四郎・1891〜1991.宮城県で生まれた海軍軍人。政治家。1910年(明治43年)に海軍兵学校入校した。1914年〔大正3年〕に、海軍少尉に就任した。1930年〔昭和5年〕には、海軍中佐に就任し、 海軍省軍令部に参加した。1938年〔昭和13年〕、重巡洋艦「妙高」・「鳥海」の艦長に就任。翌年には戦艦「陸奥」の艦長にも就任した。戦後は、政治家として活躍し、1970年〔昭和45年〕日本国防協会の会長に就任し、1991年〔平成3年〕に100歳で死去した。
南雲忠一・1887〜1944.山形県米沢市で生まれた海軍軍人。1908年〔明治41年〕、海軍兵学校を卒業した。海軍省に入省した時には、水雷戦術の第一人者として知られ、軍令部の参謀、海軍学校の教官などを務めた。ロンドン軍縮条約反対派としても知られ、山本五十六〔前頁へ〕や、井上成美らと対立した。開戦時は第一航空艦隊司令長官で、真珠湾攻撃の棟梁でもあった。1942年〔昭和17年〕のミッドウェー海戦にも参戦したが、米軍にやられてしまう。作戦失敗後の処遇は山本五十六連合艦隊司令長官預かりとなり、山本から空母機動部隊として再編成された第三艦隊長官に任じられた。1944年〔昭和19年〕、サイパン島玉砕。南雲も戦死した。戦死時の状況には諸説あり、艦隊参謀長の矢野英雄少将らと自決あるいは同日、最後の突撃に参加して戦死というものがある。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午後10時ごろ、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃った。南雲の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった。享年57。死後海軍大将に就任した。
大西瀧治郎・1891〜1945.兵庫県丹波市で生まれた海軍軍人。幼い頃から海軍の軍神である広瀬武夫に憧れており、海軍に入る事を志していたという。1906年〔明治39年〕に海軍兵学校に入学。同期に海軍少将の山口多聞などがいる。兵学校卒業後は海軍少将の位を受けた。真珠湾では、山本五十六に頼まれ〔ここでは、南雲忠一がそれを伝える役割を果たしている〕、特攻をかけ、飛行機で攻撃した。1945年〔昭和20年〕、
海軍軍令部次長に起用された。彼は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を訴えた。8月15日の敗戦を見届けた大西は、翌日、遺書を書き、割腹自決。54歳の生涯だった。今では、特攻の生みの親などと称されている。
ハズバンド・キンメル・1882〜1968.アメリカ合衆国の海軍軍人。アメリカのケンタッキー州で生まれる。1904年、アナポリス海軍兵学校を卒業。第一次世界大戦の時フランクリン・D・ルーズベルト海軍次官の副官を務めた。1937年に少将に昇進。第7巡洋艦戦隊司令官となった。1941年、米太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官に就任。これに伴い中将を経ずに直接大将に昇進した。だが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の責任から1941年12月17日付の大統領命令で司令長官を解任され予備役少将に降等。翌年に退役した。1968年3月14日コネチカット州で死去、86歳だった。
淵田美津雄・1902〜1976.奈良県葛城市出身の海軍軍人。1924年〔大正13年〕に、海軍兵学校卒業。開戦前、第三航空戦隊参謀から2度目の空母・赤城飛行隊長へと就任した。これは、親友の源田実の希望だった。そして第一航空艦隊旗艦の赤城では昭和16年(1941年)11月以降、ミッドウェー海戦で沈没するまで、淵田中佐(10月昇進)、板谷茂少佐、村田重治少佐と3人の飛行隊長がいる異例の配置となった。1941年、真珠湾の時、空襲部隊の総指揮官であった彼は、、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)を伝えた。敗戦後は、第二復員省(元・海軍省)史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。1949年〔昭和24年〕、キリスト教に入信し、日本基督教団堺教会で受洗し、キリスト教徒になり、布教活動に取り組んだ。1976年(昭和51年)5月30日、糖尿病の合併症により74歳で死去。
山口多聞・1892〜1942.東京都で生まれた海軍軍人。1906年〔明治39年〕に海軍兵学校に入学。第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属した。海兵同期の大西瀧治郎らの勧めもあり航空関係に転向し、次代の日本海軍を担うエースと目された。その後、第二航空戦隊司令官に就任し、真珠湾を迎えた。翌年、ミッドウェー海戦でも二航戦司令官として「飛龍」に座乗。空母らしき艦船を含むアメリカ艦隊発見の報告を受け、ミッドウェー島攻撃用に陸上爆弾を装備転換中だった艦載機の搭載作業を続行させた。そして、自決。50歳だった。墓は東京都港区の青山墓地にある。
ウォルター・ショート・1880〜1949.アメリカ陸軍の軍人。真珠湾時の最高司令官。イリノイ州で生まれる。太平洋戦争時は陸軍中将だったが、真珠湾の責任により、ルーズベルトから降格され、陸軍少将となった。
三川軍一・1888〜1981.広島県で生まれる。1910年〔明治43年〕海軍兵学校38期卒業。1929年から1929年から国際連盟海軍代表随員、フランス大使館付武官としてフランスに駐在し、帰国後は重巡、戦艦などの艦長として活躍し、1936年〔昭和11年〕には第二艦隊参謀長に着任する。太平洋戦争開戦時は第三戦隊司令官として、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの主要な海戦に参加。1942年〔昭和17年〕7月に第八艦隊司令長官に着任、第一次ソロモン海戦を指揮し、勝利を収めた。その後、航海学校長、第二南遣艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官、第十三航空艦隊司令長官、第三南遣艦隊司令長官を歴任、1945年〔昭和20年〕5月に予備役に編入された。1981年〔昭和56年〕、93歳で死去。
高橋赫一・1906〜1942.徳島県で生まれる。1926年〔大正15年〕旧制徳島中学校から海軍兵学校56期で入校。1929年〔昭和4年〕、海軍少将に昇進。1931年〔昭和6年〕には、海軍中将に昇進。さらに、1934年〔昭和9年〕には、海軍大尉に昇進した。1937年(昭和12年)9月19日、飛行機に乗り、南京を襲撃。1941年(昭和16年)8月20日に、空母翔鶴飛行隊長に任命された。1942年〔昭和17年〕、搭乗機撃墜により戦死した。36歳の若さだった。
笹崎・海軍の特攻部隊の者で、オリジナルキャラである。山口多聞に仕えているという設定である。
〜語句紹介〜
真珠湾・ハワイのオアフ島にある港でパールハーバーとも呼ばれる。アメリカ海軍太平洋艦隊の基地・司令部があり、それが国定歴史建造物になっている。1941年、この地にてアメリカ軍と大日本帝国海軍との間で戦争が起きた。これを真珠湾攻撃という。
国家総動員法・1938年(昭和13年)の、第一次近衛内閣の時に出された法令。1946年〔昭和21年〕4月1日に廃止された法律。そこには、男子国民が戦時中になると軍より赤紙が来て、その人を軍隊に入れることが出来るなどと書かれていた。
大本営・日本のこのころの政府の事を指す。大本営連絡会議などがそれにあげられる。
ご聖断・天皇が下した命令の事。昭和の時代には詔という言葉はそんなに使われなくなり、この言葉が使われるようになった。
承元・鎌倉時代前期に使われた年号。1207〜1210までの間の年号である。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝。執権は北条義時。
新高山・現玉山。台湾にある山で一番高い山。
鬼畜米英・アメリカとイギリスなどの西洋諸国を表す。日本は我が国の敵を鬼畜と言った。
宣戦布告・戦争をするとその国に伝えること。国連ではこれがないと戦争が成り立たないとしている。
これで終わりです。お分かりにならない場合はここに投稿して下さい。第6話もお楽しみに。
- Re: キテレツ大百科 昭和の間違い 第6話 閣僚の鎮静 ( No.11 )
- 日時: 2011/06/26 15:42
- 名前: 上野宝彦 (ID: ieojggCq)
第6話 閣僚の鎮静
東條が衆議院で熱弁をふるっている。閣僚たちはそれを見て見ぬふりをしている。東條の額に汗が流れる。「えー、我が大日本帝国陸軍はマレー半島上陸により、シンガポールなどを鎮圧いたしました。まことに誇るべき陸軍と感心しています」衆議院はもともと国民が参加しているような集会である。それもあり、上の立場にいる東條達に批判する声はない。仕方なく拍手している状態である。
「嶋田海軍大臣」小山松寿衆議院議長が嶋田を指名した。岸と話していた嶋田は驚いた。だが、これは指名されたのだから仕方のないことである。嶋田は保科が用意した紙を持った。「嶋田海軍大臣。大日本帝国海軍の活躍は素晴らしいものだったと聞いているのですが、どのようなものかお聞かせ願いますか」尾崎行雄が声を上げた。嶋田はとても緊張している。
それは保科が海軍兵学校に行っていた頃、明治天皇が崩御し、そのあととりとして嘉仁親王が大正天皇となった2年後に起こった。あの時の総理大臣は、桂太郎と言う長州閥だった。彼は就任したばかりの内大臣と侍従長を辞めさして第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がったのだ。これにより、野党側の立憲政友会や立憲国民党は活気づいた。立憲政友会の党首・尾崎行雄は「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広げたのだ。そして大正2年2月15日、尾崎は壇に立ち桂を指差し、桂に批判を浴びつけた。この時から彼は『演説の天才』と言われるようになったという。そして、桂内閣は辞任し桂はショックがたたってかその1年後に亡くなったという。それほど、怖い人なのだ。私がこの紙を用意しました。これを読めばあの爺は質問してこないでしょうよ・・・。
嶋田はそれを回想しながら、紙を持ち壇に立った。今日の国会が明るく感じる。冷や汗一つもかかない。「えー、みなさまもご存じだと思われますが、我ら海軍は真珠湾を攻撃しました。アメリカ軍は我等の攻撃におびえていました。陸軍の皆さまもマレー半島を占領されたのでとても素晴らしい事だと思われます。ですが、我ら海軍も素晴らしく思うのであります」衆議院の議席から拍手が沸き起こったが、一人していない老人がいた。尾崎行雄である。「議員諸君。軍をほめたたえるな。誤まった考えが乗り移るぞ」拍手が一瞬にして止まる。尾崎は質問席に向かい一呼吸しながら言った。「海軍大臣。真珠湾の時は宣戦布告をしていなかったらしいがなぜだ?」嶋田は驚いた。冷や汗をかき始めた。あの余裕な顔は重々しい顔に変わった。「はい。しておりません。なぜかと申しますと米英軍は世界的に強いと言われており、宣戦布告などするともう、日本軍の敗戦は明らかなのであります。ですので、海軍のほうでそれをしないということを決定した次第」「ほう?」尾崎は髭を触り始めた。「外務大臣。海軍大臣が言っていることは本当の事なのか?わしは陸軍大臣から私が言ったと聞いておるんじゃが・・・」東郷は冷や汗をかきながら立ちあがった。—思ってもいなかった。僕が呼ばれるなんて・・・。彼はのろのろと歩みだした。
—帰りたい。僕たちが生きている時代に・・・。
彼は壇に立った。「海軍大臣が申しているのは嘘であり、陸軍大臣が申していることも嘘であります」「ほう。内閣諸君達、誰がこの様な言葉を発したのか。手を上げい!」最初は手が上がらない。官僚たちは冷や汗をかき始めた。紙に水が落ちる。寒気がしてきた。 彼は覚悟を決めた。そっと手を上げたのだ。「鈴木か。なぜそのようなことを」鈴木は冷や汗をかき、震えながら壇に立った。彼は2人を呼んで「もういいですよ。ありがとうございました。後は私から説明するのでご安心を」2人は席に戻っていく。「おい、早くしないか。鈴木・・・」「はい。私が言ったことは事実であります。なぜなら、私は日本の行く末を心配したからなのです。そして、私が戦争をしようとも言いました。企画院では、1939年の第2次世界大戦がはじまった時から統計を進めました。その結果、このまま続くと日本が破たん状態になることが分かりました。金が無くなるのです。フランス革命の時のネッケルの状態になりそうだったのです。それはあってはならない。そして、我々はビルマの石油・石炭場に目を向き始めました。ここを植民地にすれば日本の行く末は安心できると考えたからであるのです。そして、宣戦布告をするなという理由は、米英はとても強い軍の一つであり、日本のような小国軍隊が負けるほどの威力は必ず持っています。ですが、宣戦布告をせずにやれば
彼等も弱くなります。なので、私は大本営政府連絡会議の場で発言しました」「お前の愛国心もわかるが、やりすぎな分もあろう」尾崎は少し落ち着いた。「わしは力はそんなにないからここまでしか言わんが、西園寺さんが生きておれれば、君を外すかも知れないぞ」尾崎はこう言い質問席から降りた。誰もがほっとした。あの翁はとても手ごわかった。
貴族院のほうでは、拍手が沸き起こった。「よくやった。さすが大日本帝国軍だ」そう言った者が多かった。特に、昔貴族だった、西園寺・徳大寺・三条、華族となった徳川・蜂須賀・鍋島・島津、三菱を作った岩崎家などが大いに喜んでいた。閣僚は嬉しいとは思わなかった。反対に心配に思っていたのだ。
国会が終わった夜、閣僚は国会議事堂に留まっていた。「大変なことになってしまいましたな。この調子で行ったら、たぶんこの皇国軍は負けますよ」賀屋がハンカチを取り出し、額を拭いた。「そうなるでしょうね。とても心配です」岸もそう言った。岸は戦争には反対立場だった。未来を知っている2人は、この2人についていけなかった。
次の日、久しぶりに東郷は外務省の庁内に赴いた。久しぶりに座る大臣室の椅子はとても気持ちがよい。だが、大臣室やその庁内が騒がしかった。「外務大臣、外務大臣」「どうかしたか」呼んだのは桜丘である。「桜丘。顔色が悪いぞ。どうした」「大変な事が起こりました。ルーズベルトがしびれを切らしました」「日本に宣戦布告か?」「その通りです」桜丘は、少し待ってくれと言い、その電報を見せに大臣室にやってきた。「この通りです」東郷がその紙を受け取る。「『貴校は私が誰か御存知であろう。パールハーバーの時我ら軍は甚大な被害を被った。また、その時貴校は、宣戦布告をせずにこのパールハーバーを狙った。これを許せられないと思った我等は、会議を開きこれの決定を行った。我等は日本に宣戦布告を申し込む。大統領・フランクリン・D・ルーズベルト』」これは東條達幹部に伝えなければならない。東郷はすぐに準備を始めた。だが、それもつかの間、次の係員が血相を変えてやってくる。次はイギリスだった。チャーチルの署名がしてある。次はイギリスが宣戦布告を申し込んだのだ。マレー半島・シンガポールは日本の占領下に入ってしまっている。特にシンガポールは、20万人の捕虜が出た。これはイギリスにとっては最悪な状態であったろう。チャーチルも日本にしびれを切らしたのだ。東郷は、霞が関を出ていき、疾風の如く三宅坂を走る。その先には国会議事堂がある。だが、国会議事堂に行っても意味がない。まずは、総理大臣兼陸軍大臣の東條に伝えなければならない。自宅に到着した東郷はすぐに東條を呼ぶように頼んだ。東條は「どうした、中に入れ」と言った。東郷は中に入る。「東郷さん。背広で走ってきましたな。汗だくですよ」「仕方ないのでしょ。大事な伝えがあったんですよ。実は、今日2国から宣戦布告状が届きました」「2国とは、米英ですか?」「そうです。証拠はこの通りです」東條は紙に目を落とした。「確かにそうだ。これは大事です。ありがとうございます。閣僚達に伝えましょう」
「有り難うございます」「実は僕は気になった事があるのです」「なんでしょう」東條は棚から1つの紙を取り出した。「外国語じゃないですか」「そうなのです。私は外国語は読めないもので誰から来たのかもわからんのです」東條は坊主の頭をなでた。「分かりました。外務省のほうで調べましょう」東郷はすぐに家を出、三宅坂を降りていく。そして、霞が関に向かう。
「桜丘、これを見るんだ。何語かわかるか?」桜丘はじっと見た後に言った。「これは独語ですよ」「独語?」「ドイツ語です。手紙を送ったのは、アドルフ・ヒトラーですよ」「アドルフ・ヒトラー?あの、ドイツの我等と同じ枢軸国の?」「はい。その通りですよ。これは東郷さんあてではありませんよね」「もちろんだ。この手紙は東條さんあてだった」「東條英機総理大臣・・・」桜丘はそれを急いで翻訳課に持ち込んだ。
後になって、全部の翻訳が終わった。そこには、真珠湾を狙ってくれてありがとうなどと書いていた。東郷は、ハイヤ—を用意させた。今から東條の家に向かう為だ。彼は速に用意をし、ハイヤーに乗りこんだ。曇天の空は、日本の未来を象徴しているかのようだ。東郷はそれを車の中からずっと見続けていた。〔第7話へ続く〕
- Re: キテレツ大百科 昭和の間違い 第6話の語句・登場人物 ( No.12 )
- 日時: 2011/11/19 15:13
- 名前: 上野宝彦 (ID: DqEWrko6)
第6話にも新登場人物や、難しい語句が登場します。それをご紹介します。
〜新登場人物〜
小山松寿・1876〜1959.長野県小諸市で生まれる。1895年〔明治28年〕東京専門大学〔現・早稲田大学〕の法律科を卒業後、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行た。1900年〔明治33年〕、大阪朝日新聞より戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界に出て活躍する。1915年〔大正4年〕、衆議院議員に就任し、加藤高明内閣農林政務次官を務め、立憲民政党の党首・衆議院副議長として活躍する。1937年〔昭和12年〕、衆議院議長に就任した。1959年〔昭和34年〕脳出血のため83歳にて死去した。
尾崎行雄・1858〜1954.相模国津久井県又野村〔現 神奈川県相模原市緑区〕で生まれる。11歳まで又野村で過ごした後、会津戦争に赴き、のちに弾正台の役人となった父に従い、明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学んだ。1874年(明治7年)に慶応義塾に入学。福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。1890年〔明治23年〕、衆議院議員第1回総選挙で当選。これを25回も繰り返し、25回目は94歳だった。1898年〔明治31年〕、第1次大隈内閣で40歳の若さにして文部大臣に就任。ここから「政界の麒麟児」と呼ばれるようになる。1903年〔明治36年〕から1912年〔明治45年・大正元年〕まで東京市長を務めた。1914年〔大正2年〕、桂太郎に向け批判を国会で浴びせる。〔弾劾演説〕大正中期から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出るようになった。1943年〔昭和18年〕、「売家と唐様で書く三代目」と書いた川柳が昭和天皇を揶揄したとして逮捕される。〔尾崎不敬事件〕敗戦後、これが終わり、自分の住居には客があふれるようになる。また宮中にも招かれた。尾崎はこの時引退を決意していたが三重県民は引かず、無断で推薦し当選させ続けた。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために力を尽くすが、1953年〔昭和28年〕の吉田茂のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。1954年〔昭和29年〕、95歳で死去。大往生だった。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である。
桜丘光一・東郷茂徳に仕えている。何事も気が早い人物〔フィクション人物〕
〜語句紹介〜
海軍兵学校・1945年まで存在した学校で、今の防衛大学校にあたる。海軍の育成のために作られた。
大正天皇〔嘉仁親王〕・1879〜1926.明治天皇と柳原愛子の第3子として生まれる。幼少期は病弱なため遊ぶことが出来なかった。兄や姉は青年になる前に亡くなっており、ゆういつの跡継ぎとされ、嘉仁親王となった。1887年〔明治20年〕、学習院に入学するが、学業に後れを取るようになり退学した。1897年〔明治30年〕、貴族院皇族議員に就任する。1900年〔明治33年〕、健良な女子である九条貞子〔貞明皇后〕と結婚。その1年後に、裕仁親王〔後の昭和天皇〕、雍仁親王〔秩父宮〕、宣仁親王〔後の高松宮〕、崇仁親王〔後の三笠宮〕という健良な男子が生まれた。
1912年、明治天皇崩御に伴い、天皇となった。だが、病状が悪化し1926年〔大正15年〕崩御。47歳だった。
趣味は、旅などであり、これは教育係を務めた皇族の有栖川威仁親王の影響があるとされる。
自分の考えを率直に述べる為、政治家からは嫌われていた。また、帝国議会の時に勅書を丸まきにして、双眼鏡のようにのぞいていたという説がある。
歴代天皇の中では一夫一妻制を初めて取り入れ、夫婦仲も良好であったという。
明治天皇〔睦仁親王〕・1852〜1912.孝明天皇と藤原慶子の第2子として生まれる。1867年〔慶応2年〕・孝明天皇が崩御したのをきっかけに天皇となる。15歳であった。その翌年、五か条の御誓文を発布し一世一元の制を定めた。1882年〔明治15年〕、「天皇の軍隊」と定めた軍人勅諭を発布し、大元帥として軍部の統制をはかった。1889年〔明治22年〕、大日本帝国憲法を発布した。1912年〔明治45年〕、糖尿病のため崩御。61歳だった。
皇族ではだめであった肉食に初めて手を出した人物で有名で、あんパンが大好きであったという。
桂太郎・1848〜1913.弘化4年に山口県で生まれ、長州藩士として活躍する。明治維新後、ドイツへ留学。帰国後は、山県有朋のもとで軍制を学んだ。
第3次・第4次伊藤博文内閣・第1次大隈重信内閣・第2次山県有朋内閣では、陸軍大臣に就任した。
1901年〔明治34年〕・内閣総理大臣に就任。日露戦争で日本を勝利に導いた。以後、公家の西園寺公望と交代で首相に3回就任したため、桂園時代と呼ばれた。1912年〔大正元年〕に、3回目の組閣を隊命を受けた。だが、第一次護憲運動が起こり、野党の圧力が高まり、翌年には尾崎行雄の弾劾演説もあり退陣。その8ヶ月後に胃がんで死去した。彼は、最長在職期間記録で2886日の記録を持つ。
宮中府中の別・内大臣や侍従長を歴任した人物は総理大臣にはなれないという法律のこと。桂太郎は第3次の前に内大臣と侍従長を歴任していたため、これに反するとして、野党の立憲国民党の党首の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄らは、それを根拠に桂太郎に重圧をかけた。
長州閥・明治時代や大正・昭和時代の政治家で長州藩に属していた者のこと。この者達は、内閣総理大臣・国務大臣・元老に数多くなった。代表的な挙げられる人物は、伊藤博文・山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・木戸孝允・井上馨・青木周造など。なお、薩摩閥や土佐閥・肥前閥もおり、山本権兵衛・松方正義・大山巌・西郷隆盛・西郷従道・東郷平八郎・大久保利通・大隈重信・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・谷干城などがいる。この者達の事を藩閥と言い、この者達が内閣総理大臣や主要な要職になった、明治・大正の政治を藩閥政治と言う。
ネッケル・1732〜1804.フランス革命時に活躍した政治家・銀行家。スイスで生まれる。1776年に、財務総監に就任。だが、スイス人であるため財務長官という肩書だった。
フランスの財政は底をつきそうになったため、財政たて直しを期待したルイ16世に請われて1776年に、財務総監に就任。だが、スイス人であるため財務長官という肩書だった。
だが、ルイ16世の期待にこたえる事が出来ず、罷免された。1790年に引退し、故郷で亡くなった。
彼は、貴族や教会の出身ではなく、ブルジョア〔富裕層〕であったため、国民の人気は高かった。
ビルマ・今のミャンマーの事。
貴族院・1890年から1947年まで存在した院。今の参議院議場で議会が開かれており、元大名や公家などが国会議員となった。また、25歳以上の公爵・侯爵は自動的に国会議員となった。
皇国軍・大日本帝国の時の陸軍・海軍をひとまとまりにした言い方で、よく軍人や政治家がこれを用いた。
アドルフ・ヒトラー ・1889〜1945.オーストリアで生まれる。政党ナチスの党首・ドイツ国首相に就任した。演説の天才と言われ国民から人気があった。1945年、ソビエトにベルリンが奪われた日に自殺した。
これで終わりです。分からない語句がありましたら、なんなりと書いてください。第7話もお楽しみに。
- Re: キテレツ大百科 昭和の間違い 第7話 連合国の策略 ( No.13 )
- 日時: 2011/12/04 22:13
- 名前: 上野宝彦 (ID: DqEWrko6)
第7話 連合国の策略
1942年の春がやってきた。春と言っても新春である。だが、政府は正月返上で仕事をしていた。灯りがついている。もちろん、軍もである。
「正月返上なんかでやってられませんよ。せっかく休みをもらえたと思ったらこのざまですよ」桜丘は、ペンをくわえながら東郷の前に近寄った。「仕方ないよ。戦争が始まったんだからね」彼は平然としていた。
外務省にはあるうわさがたっていた。昨日、ワシントンDCで連合国共同宣言を発表。沢山の国がこれに調印したばかりである。東郷は今日は良い気配がしていた。
それは、東條もそうであった。
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