二次創作小説(紙ほか)※倉庫ログ

As Story〜8話(2) アップ5回目、衝突(修正)〜 ( No.48 )
日時: 2011/11/19 11:22
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7lLc0QEy)

 二人を辛うじて隔てる2メートルほどの奥行きを持つ軟な空間に怖い者知らずのしじまが降り立ち、しばしの間居座りを決め込んでいる様子であった。息詰まる緊張に耐え切れず、天井の隙間に埋もれている間接照明が二度三度瞬くと、周囲の空間が目障りな明滅を繰り返した。黒ずくめの男に警戒態勢を取っているウィルの面相に石膏の彫像のような陰影が映り込み、肌の蒼白さを一層強調していた。半身の警戒態勢を解き、静寂を蹴散らして3歩ほど踏み込めば確実に標的に到達することができるはずであった。しかしウィルは、右手が衣服の中に隠れているものの、恐らく丸腰であろう標的に対し、身動き一つとれずにいた。麗牙の指揮官の卓抜した生存本能が、怜悧な知性が少年に一歩たりとも天銀に近づくことを許さなかった。

 ウィルは単に今回のミッションの詳細について再度確認をするためだけに訪れたはずが、己の発した強すぎる警戒心のせいなのか、それとも誰であれ麗牙の気配を察したからなのか、抜け目ないあの男が自身の周囲に不可視の蜘蛛の巣を張り巡らしていることは火を見るよりも明らかであった。少年の頭の遥か上にある天銀の頸を仰ぎ、突き刺すように睨み付けるのが精いっぱいだった。

 天銀は麗牙の指揮官に一瞥もくれずに悠々と体を翻し、これ見よがしに背を見せて執務室の中へ戻ろうとしていた。執務室のタイルを叩く革靴の足音が2回、表情をやや曇らせて廊下に漏れだした。

 「影晴様を」ミッション中でも決して仲間に聞かせることの無い、ドスの効いた声が厚かましく目の前に居座るしじまを貫く。「どこへやった——」残された全ての威勢を使って次の言葉を絞り出すと、天銀の歩みは3歩目で止められた。他の部屋からからくり時計の時報が響いて来る。長い間手入れされず調子の狂ったオルゴールらしい発音体が今の二人には場違いに明るいメルヘン調の音楽を演奏し始めた。本体の時計まで仕事の情熱を失っていなければ30秒後に音楽を止めるはずであった。ECナンバー2の男は不憫な孤児の少年に同情するような表情を浮かべると、再び踵を返した。蜘蛛の糸のように獲物に絡みついて離れない殺気を抑えようともせずに——。

 天銀が執務室の入口に辿り着き、杉のように細長い体躯が完全にウィルの方に向いても、油の切れた音楽の小人の演奏は続いていた。何度も聴いてきたはずの一分にも満たない音の流れが今は古典派の交響曲のように延々とそして大仰にウィルの脳裏で喚き散らしていた。

「外だ。影晴はカフェで顧客と——」

 カチッとばね仕掛けの物体のかすかな動作音が天銀の言葉の間に滑り込んだ。30秒間の前衛的な交響曲が終わりを告げた。麗牙の指揮官の右手が一瞬、直線状の煌めきを見せる。携帯電話に似せたグリップの先には血に飢えてギラついている刃が顔を覗かせていた。ダガーとそれより遥かに大きい恐怖を握りしめたウィルの右手は仄かに暖かい建物の中で小刻みに震えている。もう一歩近づかれたらウィルの心臓は恐怖で破裂しかねなかった。

 執務室の入り口に戻ってきた男と目を合わせた瞬間から、底なしの井戸に首を突っ込まされたような光景に直面していた。光でさえも堕ちれば抜け出し難い陰鬱な闇、薄気味悪いシミのこびり付いた石壁で不規則に反射し、井戸に呑み込まれた無数の魂の慟哭、胸元からうなじにかけて生暖かく嘗め回す饐えたような臭い。全身が金縛りのように強張り、肉体の自由が奪われようとしていた。

 過去に一度大崎が立ち会う中であの男との面識はあったが、その時でさえウィルが警戒心を露わにせずにはいられない程の陰険な闇が男の痩躯から溢れていた。以来、あの男の動きには最大限の警戒を払っていたのだが、目障りなギャラリーのいない今本来の力を発揮しつつある男が放つ闇を前に牽制はおろか、己が命を守ることすら覚束なくなっていた。

 限りなく深い井戸の闇に誘われるようにウィルが半身を乗り出した姿勢から右足を浮かせた。上体を支えていた腕を突っ張り、重心を更に井戸の中心へと移動させた。程なくしてもう一方の足も虚空を漂わせると、天地が入れ替わった少年の華奢な体躯がだらりと垂れさがった無数の銀糸に引っ張られるように鉛直方向の移動を始めていた。目の前に手を近づけても辛うじて輪郭が見えるか見えないかの闇。落下しているはずなのに宙に浮いているような感覚。井戸の内部は縦横無尽に無限の広がりを持つように思われた。

 「あいつに指一本触れることすらできなかった。それどころかほんの束の間対峙しただけでこの様……。影春様……。あの男の闇は、深い」少年は静かに眼を閉じ体を闇に預け、彼の魂そして肉体が井戸の闇に溶け出していくのを待った。濁り無き光と闇の宿る魂が煌々と輝きながら時の流れから取り残された一坪にも満たない空間に降ってくると、漆黒の霧が四方八方から光陰の源に吹き出し、蜘蛛が仕留めた獲物を拘束するようにその表面を這いずり回りながら全身を覆い尽くし、瞬く間に人間大の繭ができあがっていた。

 目で見ることはできなかったが、ガスが漏れたような音と身じろぐたびに四肢に顔に引っ掛かる何かに、己が身に起きたことを少年は気づいていた。無駄にあがく気も起きなかった。ゆっくりと息を吐く。育ての親や仲間たちへの募る思いを全身に染み渡らせながらそっと瞳を塞いだ。繭は更に速度を増し終末へと続く流麗な一条の線を描いた。


——さよならです、影晴様。