二次創作小説(紙ほか)※倉庫ログ

As Story〜8話(2) アップ6回目、衝突〜 ( No.53 )
日時: 2011/11/27 23:12
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7lLc0QEy)

 ベルベットの肌触りの前髪が勢いよく斜め上向きに伸びる睫毛と交錯しているのがはっきりと見えるほどに近かった。前髪の奥で人の温もりのない瞳が二つ、助手の命の灯を見据えている。感情に任せ怒号を発してしまったことがどのような結果をもたらしたかは、わざわざ口に出すまでもなかった。

 天銀の頭髪や衣服、そして机上の紙の類が大きく靡いていないことが麗牙の長の超能力「テレポーテーション」が力任せの速度による三文手品でないことを証明していた。

 ウィルの能力が発現し始めた頃、それは5メートル進むのに1分かかっていた。人間を一人かついで這いつくばって進む歩兵にも負けるような体たらくであった。似たような超能力を有する者の殆どはこの程度かその2、3倍程度のパフォーマンスに到達するのが関の山であった。

 ウィルは誰にでもすぐに馴染める人柄があったが、それに加え1,500馬力の九○式戦車が脇を通ったとしても途切れないであろう集中力とそれにも勝る粘り強さがあった。そして超能力者としての類稀なる資質。

 あどけない幼少期に発現した能力が、使い手が青春の風を吹かせる頃には肉眼で見える範囲であればどこでも0.1秒、生まれ故郷の英国までは2,3秒で移動できるまでになっていた。移動時間に影響を与える要素として、移動先までの距離も多少は影響を受けるが、最も需要なものは、どれだけ移動先のポイントを克明に脳裏に再現できるかという点である。最短で0.1秒で移動可能とは、裏を返せばどんなに近くても必ず0.1秒のタイムラグが発生するという、小さいようで実はかなり致命的な弱点が存在した。天銀が辛くも喉元1センチメートル手前で麗牙の指揮官の奇襲を止められたのも、この0.1秒の間に暗殺者の本能が右腕の魔手を突き動かしたためであった。

 男は拍動で机上の珈琲に波紋がたてられそうなほどに暴れる胸部中央の血の固まりの動きを悟られないよう抑え込み、目と鼻の先に迫る銀の暗殺者に瞳だけの微笑みを投げかけた。

 蟷螂は通常折りたたんでいる天性の武器を瞬時に伸ばし、相手の目算を遥か上回る距離から獲物を捕らえられるはずであった。もとより牽制のつもりであり、少年が心酔する大崎影晴の執務室で流血沙汰を起こすつもりはなかったが、ケバブのように男の頸の皮一枚くらいは剥ぎ取る予定であった。敵の皮膚から発せられる体温がはっきりと伝わってくるまでに迫っている麗牙の指揮官は氷の仮面を維持していたが裏では勝機を見出すどころか険しさを増し、十年老けた表情を浮かべていた。気の遠くなるほど長い1センチメートル。暗殺の任務ならば迷うことなく切り裂いている頸静脈までは1センチメートルの空間が存在している。

 組織の地雷となりかねない眼前の男の動きに細心の注意を払いつつ、喉仏の両脇に陣取る二筋の管を見やると、勢いを増した血流のせいで小刻みに震えているのがありありと見える。それは自分も同じであった。あの男の濁りきった血糊を拝もうとすれば同時に自分の頸にも男の手の形状に沿って壊死した皮膚が激痛と深紅の滴りと共に剥ぎ落とされる目にあう。

 右腕の鎌が思惑より1センチメートル手前で止められたという事実。天銀が0.1秒のタイムラグを見切ったという事実。麗牙の指揮官にとって非常に始末の悪い未来が克明に瞼の裏に映し出されていた。

 再度テレポーテーションで男の背後や横っ腹に回り込み、右手の刃を突き立てようとしても、静止状態で万全の迎撃態勢を整えている相手に0.1秒経つ間に転送先を読み切られ攻撃を阻止されるのが目に見えていた。それどころか今度は反撃してくるかもしれない。どうにかして目の前の宿敵に陽動を仕掛けなくてはウィルの運命を載せたトロッコは、断崖絶壁行きにポイントを切り替えられたレールを一心不乱に突っ走って行く羽目になるのである。視野の下端からはみ出し、ウィルの細いあごの下に滑り込んだ男の右腕も邪魔だった。

 1ミリ……。麗牙の指揮官は可能な限り静かに唾を飲んだ。唾液が食道を下る音が一瞬、鼓膜を覆う。

 1ミリ間合いを広げる。それ以上動くと男の右手が虎ばさみのように弾け飛んでくるきっかけを与えそうな予感がした。対峙する男の左右の瞳、己の顎の下に潜り込んだ右腕、拍動する頸静脈から片時も逸れずにいる指揮官の監視の眼が鬼気を迸らせる。焦ってはいけない。だが躊躇も許されない。相手はいつの間にか自分の能力の隙間を見切った人間である。

 ダガーの感触を伝える右の掌の感覚を更に研ぎ澄まし、余計な力がかかっていないことを確認した。刃の切っ先が持ち主の髪に勝る白銀の煌めきを見せ、武器と使い手の意思疎通を図ってきた。

 究極の判断の瞬間はもうすぐ訪れようとしていた。


 この場に止まりつづけるのは賢明な策ではなかった。このままでは上官の執務机の上に上がったうえに刃を向けるなどと、この上ない無礼を働く若造と相討ちすら望めなかった。麗牙の指揮官の頸に向けた右手の能力は、生命力のない器物ならば急速に腐敗させることができる。だが、断固として死に抗おうとする気迫を発する者に対してはその作用は大幅に弱められてしまう。事もあろうに目の前の少年は将にその力を漲らせているのである。少年の喉元を掴めたとしても首の皮一枚腐らせるのに数秒かかってしまう。ここは麗牙の崇拝する科学者の執務室でもあるため最悪の事態に至るとは考えにくいが、小僧の圧倒的優位で事態が進展するのが気に食わなかった。何よりそれがあの男と築いてきたこの組織に将来、災厄をもたらすものと確信していた。

 今するべきは、麗牙の小僧が腕を振り回して届く範囲から離脱すること。間合いができれば相手は動きを悟られないために能力を使ってくるはずである。

 先のテレポーテーションの速さに多少舌を巻いてはいたが、ウィルの能力に一瞬の隙が生じることは、超能力の生みの親である大崎と共に歩んできた天銀が知らないはずがなかった。

 それでも不用意に動けば少年は立ちどころに姿をくらまし、上下左右前後どこから仕掛けてくるか全くわからなくなる。少年の息遣いと目線の動きが克明にわかるこの状態から最大限の注意を払いつつ距離をとる必要があった。

 男の呼吸が小刻みになり、鋭敏な聴覚を邪魔するノイズが一切取り払われた。痩躯を包み込む影が深みを増すと、次の行動への準備はほぼ整えられようとしていた。

 ——奴を、麗牙を好きにさせるな。


 その変化は同時に起きた。

 砂色をした天銀の右腕がウィルの頸からわずかに離れた。
 白銀色に煌めく切っ先が、天銀の喉元から1ミリ退いた。