二次創作小説(紙ほか)
- As Story9話(5)〜時間(とき)を越えて ( No.105 )
- 日時: 2012/12/15 23:29
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
三月の太陽は全くもって怠け者だった。彼を求める小さき者の集う蒼い星に、ようやく己の光を最も多く降り注げられる位置についたかと思えば、そそくさと来た道とは反対側に転がり落ちていき、いつの間にやら光の主は体の一部を水平線に沈めようとしているところであった。
日中は陽射しの大半が天然の天蓋に遮られ、灰色のとばりが降りる武蔵野の丘が、夕刻には巧妙に幹の隙間を縫ってくる西日に、森の内奥が緋色に染め上がっていた。だが、美的感覚が完全に欠落している森の住民たちにとって、大空と彼らのねぐらが阿吽の呼吸で織りなす時の移ろいなど、小さな脳みその片隅の針孔ほどの隙間にもとどめておくスペースを割くべき事案ではなかった。大小様々の翼をもつ彼らの目下の関心事は、日没前からはじまった、一日を締めくくるディナーの幾度目かの繰り返しに取り掛かるかどうかの判断であった。かの森の住民の大半は、脳みそが小さいだけでなく、胃袋もそして食欲という欲望を抑える理性も極めて小さいのである。その割に一度の狩りでありつける食事といえば、命懸けの攻防の末、大半がもげて森のいずこかに消え失せてしまった昆虫の骸の残骸ばかり、一口分の料理しか盛れない小皿を片手に、森中に散らばった料理のトレーを求め、奔走する至極面倒なバイキン同然だった。
人間の創り出した仮初の画材では到底表しきれない鮮烈さと繊細さを併せ持つ、様々な緑のグラデーションの天蓋に覆われた頂上近くの枝では、一羽の雄の山啄木鳥が食欲の満たされぬ胃袋に砂嚢を巻き込んで体内でじゃりじゃりとのたうちまわられ、五度目の食事を終えるやいなや別の料理を求めて飛び立つ体勢を整えていた。隣の枝では大食漢の相思鳥が、夕食の出だしからハイペースで貪り過ぎたために、染料で付けたようなあでやかな喉元をめいっぱい膨らまし、げっぷを漏らしながら暫しの休息をとっていた。さらに離れたところにあるイヌシデの枝には、手際よくごちそうにありつけたハシボソカラスたちが、未だに料理を求めてとびまわる間抜けどもを横目に、仲間たちと喧しい会話に花を咲かせている。日没を迎える前にディナーバイキング武蔵野戦線はたけなわを過ぎていた。
不承不承六度目の夕食へと山啄木鳥が足をかがめ、くすんだ緑色の両翼を広げると、不穏な気配が飛翔を思い留まらせた。バイキングにいそしむ捕食者たちの羽音が響き渡っていた界隈は、潮が引くように騒音が消えていった。翼をもつものは天蓋の茂みに隠れ、土を這う者は、落ち葉の陰、もしくは地中に潜航し、息を潜めていた。完全に風が凪いでいる森の中では、葉の擦れる音さえ聞こえなくなった。
人間だ。人間の気配が野生の臭いに満ちた空気に載ってここまで流れてきていた。武蔵野の森のほぼ全域が国立公園に含まれているため、正午頃には親子連れや森林浴を愉しむヒトの集団が先の山啄木鳥たちの縄張りに踏み込んでくることは珍しくない。たとえそうなっても相手は自身の肉体に牙や外殻を伴わない完全な丸腰なうえ、馬よりも臆病なため、森の先住民たちが姿を隠したまま、その集団を取り囲むようにして少し大袈裟に啼けば、たいていのヒトは逃げてしまう。だが今、森の民が息を潜め察知した気配はそれとは全く異なるものであった。その気配は、翼の生えた者、外殻を持つ者、四足で蠢く者、あまねく森の先住民が長きに亘る森の歴史の中で、そして未来永劫理解することのできないもの——二足歩行を行い、高度な社会性を持ち、新しき事への飽くなき挑戦を繰り返す霊長類の限られた種族にのみ抱くことを許された感情——それは、強大な悪を貫く槍となり、崇高な秩序を護る楯となることへの誇り、使命感だっだのである。
山啄木鳥は正体不明の気の流れのくる方にゆっくりとくちばしを向けた。小さな鳥の矮小な精神にはあまりに重すぎる正体不明の気配が流れ込んでいた。羽が凍り付いていた。気を奮い立たせようにも声が出ない。啼けない、羽ばたけない——鳥類たるべき条件を満たすことのできなくなった彼が唯一許されたことは、森の裏手の開豁地にある、件の気配が横溢する無機質なコンクリートの塊を虚ろな瞳に映すことだけだった。
六つの瞳が放つ、レーザーのような視線が1・5メートル先の一点で交差した。その一点を挟むように漆黒の玉が二つ、やや肉の垂れた瞼の中から姿を覗かせている。突き刺さってきた視線を味わうかのようにしばしの間、瞼が閉じられた。再び開かれた目に光は無く、重たい闇が瞳を埋め尽くしていた。
定年が目と鼻の先に控える警察庁長官一威正一は、警察組織の誰もが全く経験したことのないミッションを任された隊員たちを見据え、唇を真一文字に引き締めた。
悲観的になるな。何度もそう自分に言い聞かせた。電算機部門の職員たちは皆、最高の仕事をしたのだ。だからこそ、今日こうしてハレの日を迎えることができたのではないか。だが、惜しむらくは——。
他の者からわからないように双眸を持ち上げると、目の前の三人の後方に、一列横隊で休めの姿勢をとっている七名の警備員たちの面々がまなこに映し出された。
彼らは今回のミッションに参加しない。否、できないのだ。五十年前に時空間移動し、42件の正体不明の反応の正体を——おそらく時空間犯罪者であろうが——突き止めるという任務に、殆どの警備隊員が加わることができなくなってしまっていた。このミッションを遂行するにあたり、永きに亘り人類が逆らうことのできなかった時間という壮大な奔流を遡行するべく、時空間転送システムを使用するのだが、これにこのミッションの最大のネックがあった。
「時空間転送システムで、一度に、転送可能な、人数は…3名、であります。そして、次の転送までに、丸4日の間隔を、開ける必要があります」人の温度感覚を無視した冷却機構で、凛とした冷気に包まれたサーバー室にいるにも関わらず、頭のあらゆるところから、畏怖の塊を滝のように垂れ流し、途切れ途切れに話す情報局局長七髪一三のの様子に、一威は憐憫の念を微塵も持たなかった。3名という単語を聞いた瞬間、あきれ果てるわけでもなく、怒り狂うわけでもなく、本人にも言い表しがたい感情で埋め尽くされた老齢の長官の表情は石のように固まり、七髪が言葉を言い終えるころには、一威は左胸に止めの五寸釘を穿たれ、その場に立っていられるのが不思議なくらいであった。
極めて困難を極める任務の人選は副長官仁田次博が音頭をとり、速やかに行われた。仁田がリーダーに新堂を任命すると、稲森吾妻と名乗る中年の男が名乗り出た。式典の警備の際に、新堂と持ち場のローテーションについて確認しあっていた男だった。初対面の一件もあり、新堂は稲森に対し、軽薄でお人好しなまちのオヤジのような印象を持っていたが、目の前の男は幾分か凛々しさが増し、部下に強く言えない課長か部長といったオーラを放っていた。つまるところ、警備隊員としての迫力はこの中年の隊員については皆無であった。
残る一人は、現場での連携や会社の機密保持のため、新堂が直々に水打を指名した。メンバー選定の場に居合わせたすべての警備員が、我こそはと仁田に自薦したが、新堂が稲森に対して特段異を唱えることも無く、水打も異論を唱えなかったため、さきの3名にミッションを任せることにしたのである。
- As Story9話(5)〜時間(とき)を越えて ( No.106 )
- 日時: 2012/12/15 23:31
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
一威が注意を真正面に戻した。ほんのかすかな動きであったが、二列横隊、九名の隊員はかかとを鳴らして両足をそろえ、反り返るくらいに背筋を伸ばした。わずかに水打の動作が遅れた。
「ん」隊員たちの士気を確かめるように、ゆっくりと十名の隊列を見回した。
「今回のミッション、出端から大きな予定変更が生じてしまった。それによって本ミッションに加わることのできなくなった隊員の皆には、警察としての崇高な使命を果たす機会を与えられす申し訳ない。だが、君たちの果たすべき使命は尽きることはない。今後も日々研鑽と鍛錬を積み、最高の状態で任務に取り組めるようお願いする。そして——」私の気迫なんぞに気圧されるなよと叱咤するがごとく、新堂、水打、稲森とそれぞれの双眸を睨みつけていく。
「本ミッションの遂行を託された諸君」続きをいうのをもったいぶるかのように一呼吸おいた。
「諸君らは今までの任務の成果を評価され、今回の任務を託されたプロフェッショナルの中のプロフェッショナルである」プロフェッショナルを連呼する長官の言葉に、水打の目が僅かに泳いだ。新堂と稲森は当然だと言わんばかりに涼しく聞き流していた。
「現役を退いてから30年余り。いや、実際は幹部候補として入庁したからな、君たちの言う現場での経験は皆無といっていいのだが。それでも諸君らに、今回の任務についていっておきたいことがある」一威が一呼吸おいた。
「ブリーフィングで既に知っていると思うが、時空間犯罪者と思われる42件の反応が地理的に38件のグループと2件のグループが二つ、都合3グループに分けられることがわかった。
君たちはそのうちの2件グループの一つをターゲットにすることになった。当初は情報が全くない状態で42名を相手にしようとしていたのであるから、相当状況はよくなったように見える。だが、残りの2グループと今回のターゲットのグループとの関わりは依然不明だ。少なくとも42件の反応は、我々よりも先に時空間移動を行った者たちだ。たとえ対象者たちがお互いに地理的に離れていても、一瞬にして合流する技術を持ち合わせていてもおかしくはない。くれぐれも油断するな」ひとしきり言い終えると、一威が姿勢をただした。
警察庁長官が自ら彼らに伝えたいことがあると言うので、出発前の慌ただしい時間に警備隊員たちが時間を割いたのだが、月並みなお言葉に、静は表情にこそ出さなかったものの、拍子抜けしていた。目と鼻の先に組織のトップがいるにもかかわらず、静はさっきの言葉を新堂さんはどう受け止めてるのだろうと、細心の注意を払い、素早く右上方を一瞥した。新堂の表情は相変わらず石膏の彫像のごとく微塵も変化を見せていなかった。
あたり前か、心の中で呟こうとした時、静のすぐ目の前から低音の塊がサーバの騒音を蹴散らしながら飛んできた。声を聞くなり静が体をぶるっと震わせ、2秒後には静が息をのみ、声の主に操られたかのように目線を彼の瞳に合わせていた。
「生き延びろ」
長官の一言に靜が思わず声を上げそうになった。だが、間違いなく、その一言は眼前の年老いた男が唇を動かし、発したものだった。
「不利な状況に陥ったら、余計な抵抗はせず、すぐに退却するのだ。我々はそれを決して咎めたりはせぬ」
ポーカーフェイスを保っていた新堂と稲森が、堪えきれずに憮然とした表情を見せた。
「何をおっしゃっているのですか?長官殿。まるで今回のミッションが失敗するかのような物言いではありませんか」長官の発言の意を解せなかったのは隊員だけではなかった。仁田上官を強い口調で問いただした。
「すまぬ…。指揮官である私が、みだりに士気をそぐような物言いをしてはならないことは重々認識している。だが、不安なのだ。この42件の対象者、時空間移動を既に可能にしていることを除いても、ただ者ではない気がするのだ。根拠などない。たんなる一介のロートルの勘でしかないが、どうしても伝えておきたかったのだ。時間をとらせたな、すまん」
謙虚な素振りを見せてはいたが、長官の言葉には、反論を許さぬ迫力があった。一威が隊員たちに軽く目礼をし、仁田に目で合図を送ると、隊列は直ちに解散した。
靜が左胸をおさえていた。突然の長官の招集で地平線の彼方に吹き飛んでいた胸騒ぎが、再びぶり返していた。離れたところから先輩隊員が、装備を取りに来るよう呼びける声が聞こえる。突如、式典の前に見た、新堂がHEIBに呑み込まれる妄想がフラッシュバックした。靜が咄嗟に握りこぶしをつくり、力の限り掌に爪をたて、妄想を振り払った。
しばしば、見たこともないようなファンタジー映画の世界を鮮明に再現した夢を見たりして、自分は実はクリエイティブな仕事についたほうがよかったのではと、本気で考えたりすることはあったが、この妄想は、何か不穏な出来事が起きる予兆に思えてならなかった。早く忘れてしまいたい——。
「ただいま行きます」
胸の底に重たく沈んでいる、様々な不安を振り払おうと、新堂の呼びかけに威勢のいい声で返した。
でも——。
どこからともなく声がする。
舞い上がった澱はまた体の底にこずんでいくだけ。
返事を言い終えるか負えないかのうちに、体の内奥から自分の声が聞こえた。軽く自嘲の笑みを浮かべ、内奥の自分に応えるようにつぶやいた。
「…そうね、不安は無くならない、いつまでも。一旦散らばっても、そこからまた新しい何かと絡み合って、寄り集まって、綿ぼこりように体の底にはびこり続けるだけ」
顔をややうつむかせると、まぶたにこげ茶色の前髪がかかった。それを振り払うことなく、靜は先輩のもとに走っていった。
任務の遂行に必要な装備をポケットやらブラケットに装着した瑠璃色の制服は、痩身の女性警備員の体格を5割増しに見せていた。このまま体重計にのったら、恐るべき数値が彼女を襲うのは間違いなかった。衣服を除く装備の総重量、10kg。これでも秘密裏のうちに大半の装備を先輩社員に引き受けてもらった結果だった。女性とは言え、全国屈指のエリート警備隊員が、たかだか30kg超の装備も持てないとは、由々しき事態であった。だが、彼女にとって、そして装備の半分以上を押し付けられた先輩社員にとって、この事態は十分想定範囲内であった。なぜなら、彼女、水打静は——。
「おい、水打、ちょっと耳貸せ」そばにいた新堂が静に耳打ちしをしてきた。
「今回の任務、絶対に俺のそばを離れるなよ。勝手な行動して、お前が出払っている隊員の代わりに連れてきた事務職員だなんてバレたら、会社の存亡に関わる事故になってしまうからな」
靜がバネじかけのおもちゃのように、繰り返し首を上下に振った。
新堂ら3人の警備隊員が、小さなドーム状の装置の前に並んだ。設装置の外側はFRPのような素材でできており、光沢のない塗装が施されていた。正面には、背の高くない人間でも体を少しかがめないと通れない高さの扉が据え付けられている。外観を端的いいえば、白一色の小さなゲル——モンゴルの伝統的住居——のようであった。ゲルと全く違っている点は、正面の出入口のちょうど反対側に、太いケーブル類の塊が束ねられて、設備の壁と設備から3メートルほど離れたところにある、机上のノートパソコンをつないでいる点であった。
これから転送される3人は内心、SF映画のように隔壁のないカプセル状のもので転送されるものと思っていたが、実物のあまりに地味な佇まいに、本当に転送できるのかと、小さくはない懸念が脳裏をよぎった。
「なにぼうっと突っ立ってるんだ。さっさと出動前最後の装備のチェックをしろ!」
気持ち早く気を取り直した新堂が、静と稲森に、そして彼自身の気持ちにムチを入れるように檄を飛ばした。これが今回の任務の隊長を任された新堂の最初の仕事となった。
この案件は突然の警察庁からの依頼であり、なおかつ前例のない案件であったため、装備については時空間移動時の原則の範囲内で実行部隊の隊員の希望が全面的に受け入れられ、その費用も警察庁が全額を持つことになっていた。そのため、役割分担上必要な装備以外は、各人の特徴が如実にあらわれた構成になっていた。手間ではあっても、3人は一旦装備を解き、調達係から渡された装備品チェックリストを見ながら、慎重に装備の種類、個数、状態を確認していく。
あれは?
ふと稲森が静のほうに目を向けるなり目を瞠り、すぐにその異様さに眉をしかめた。静が右の腰に装着しているホルスターから、回転式拳銃のグリップとシリンダーが見えたのである。
時空間移動時の大原則として、歴史への影響を最小限にとどめるため、使用する装備は移動先の時代に合わせることが規定されている。しかし、2012年は大半の拳銃が装弾数が多く、速射にも有利なオートマチック式になっていた。まして50年後の今、稲森自身リボルバーは警察が管轄する博物館でしか見たことがなかった。しかも、稲森の見立てでは彼女の手に対して、リボルバーが明らかに大き過ぎていた。
帝栄の強さはここにあるのか、と無理やり理屈をこねて稲森が作業に戻ると、頭上で部下を呼ぶ新堂の低い声が聞こえた。周囲を気にしてか声は抑えられていたが、今日聞いた中で最も険悪な声色をしていた。新堂が荒々しく靴音を鳴らしながら女性隊員を引き連れてサーバルームの外に消えていった。
- As Story9話(5)〜時間(とき)を越えて ( No.107 )
- 日時: 2012/12/16 16:50
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7lLc0QEy)
日中の警備員らが引き払った冷たく薄暗い廊下に、鈍い音が響く。間髪いれず新堂の怒号がその場の空気を切り裂いた。
「すいうつ!何を聞いていたんだ。お前の装備は社の内規に定められている標準装備にしろと言ったじゃないか。勝手なことはするな!」返事が返ってこない。固よりこの男は返事など求めていない。右の拳が、静の顎までを覆う瑠璃色の襟の左右が合わさる部分を鷲づかみにしてひねり上げ、そのまま喉元まで押し込んでいた。そして、右上一本で、静の体を壁に押し付けたまま床から10cm上方の中空に持ち上げいていた。
苦しい…。静の視界一面に広がる白い靄がだんだんと濃密になり、完全に不透明な白で覆われたとき、両目は白目を剥いていた。それを見計らって新堂が静を乱暴に前に引き落とす。再び鈍い音が冷たく滑らかな壁にぶつかり、幾重にも連なる波状攻撃のように残響が二人に降りかかる。
膝を落とし、肘を床について辛うじて顔面の直撃を避けた静が、激しく咽ているのを、新堂が仁王立ちのまま冷淡な表情で見下ろしていた。時折、静が何か言おうと言葉の切れ端ようなものを声に出しているが、まったく言葉の体を成していなかった。一分余りの間、咳き込む音ばかりが薄暗い廊下に響き続けた。
「あの銃は…」二度、醜い音を立てて咳き込んだ。四つん這いの姿勢で、静が目に溢れんばかりに涙を溜め、上目遣いでぼやけた新堂の人影を睨む。
「祖父が愛用していた銃と同じモデルなんです」
新堂が見下ろす姿勢のまま、返事をするのも億劫だというように侮蔑の目をむける。静が顔を下ろすと、艶やかな黒髪で顔を覆ったまま、体を壁に預け、右足、左足と立ち上がる。深刻な酸欠のせいで壁に手をついていても姿勢がおぼつかない。ようやく視界が本来の色を取り戻すと、どんよりとした目線を新堂に向けた。
「私の祖父は警察官でした。もちろん私が装着しているこの大きな拳銃、パイソン357マグナムは当時の日本の警察の制式拳銃ではありませんでしたし、特務での使用も認めていませんでした。祖父は私的な趣味として銃を愛していました。他にも機関銃、狙撃銃、様々な種類の銃を使いこなしていたと聞いています。そして数ある銃の中で、この蒼光を放つ、357マグナムを無二のパートナーとして、制服の中に忍ばせていたと聞いています」
新堂が喉の奥で小さく呻く。何を言い出すんだ、あいつは。だが…。
「聞いていたとは、どういうことだ」
静が下唇をかみ締め、顔を伏せる。
「祖父は殉職しました。正確には脳死です。今でも生命維持装置と無数の管でつながれて、人として生きていたころと殆ど変わらない容貌のまま、病室のベッドで昏々と眠り続けています。祖父は、同僚の警官一名と共にある暴行事件の捜査を担当していました。事の発端となった暴行事件そのものは、大した事件じゃなかったんです。柄の悪い男が深夜に学生を締め上げていたという、普通ならその場で容疑者を現行犯逮捕で拘留所に連行するという、警察官のルーチンワークになるはずでした。ところが、なぜが祖父はその暴行犯を取り逃がしてしまった。その時に何があったのかはわかりませんが、祖父はその事件の捜査に没頭したのです。そして、捜査開始から数週間たったある朝——些末な暴行事件にこれほどまでに日数を要すること自体奇妙ではありますが——、祖父は自宅の寝室でいつものように布団をかぶったまま、意識を失っていたと、第一発見者の方が証言したとのことでした。そして、司法解剖の結果は、更に奇怪なものでした。祖父には目立った外傷も毒物反応も無いのに、脳の神経回路がむちゃくちゃに破断されていたという結果が出たのです。それも電子顕微鏡で調べてようやくわかったことのことでした」
あまりに突飛な話で新堂は怪訝な表情も浮かべることができなかった。だが、水打が作り話をしているようには到底思えない。
新堂は全くもって為すすべをなくしてしまった。
「それは特殊な病死なのではないかとおっしゃりたいでしょう?脳に潜伏する新種のウイルスじゃないかって。でも細菌もウイルスも見当たらなかったらしいです。結局、当時の警察の発表では、祖父の死は原因不明の病死となってしまいました。それでも、わたしは…」際限なく亢進する鼓動を鎮めようと、大きく息を吐き、そして静かに、四肢の末端まで、一つ一つの細胞にいたるまで酸素が染み渡るように、ゆっくりと息を吸う。
「祖父が、殺されたと確信しています」無意識に右の腰のホルスターを握り締めていた。伏せた顔を覆う漆黒の髪の影から、煌くものが、一筋の光を引いた。
「水打…。心中察する。だがな、だからといって命令を無視して勝手な行動をするのは命取りになりかねないのだ。」目の前の黒髪がそよ風に揺らされるように力なく横に揺れる。最早新堂はこの娘の言動を読めなくなっていた。
「見たことがないのです。祖父が動いている姿を——」
「祖父は、その当時、私よりも若かった。祖父は私が生まれる前に絶命したのです。おじいちゃんの人間らしい顔を、人として活きている姿を…、写真でしか見たことがないのです」
わたしよりも若かった?
それを聞いた途端、新堂の顔から血の気が一気に失せていった。後輩隊員の余りの憐憫さに心が打ち震えたからというのも少しはあった。だが新堂は卓抜した洞察力で、不穏な気配をはっきりと感じ取っていた。
この娘、まさか…。
新堂が恐る恐る、言葉を選ぶように、声を詰まらせながら静に訊いた。まるで彼女が返す答えを知っているかのように。その答えを絶対に聞きたくないのに、訊かざるをえないといった様子で−−。
「水打、御祖父さんは、いつ、亡くなったんだ……」持ち上げられた隊員の瞳から沈痛の色が消えていた。そして、入れ替わるように、真っ黒な陽炎かげろうのような何かが瞳の奥で揺らめいていた。静の息のかすれる音に混じり、おまけみたいにひっついてきた小さな声が新堂の耳に届いた。
「にせん、じゅうにねん−−」
立ち尽くす二人を辛うじて浮かび上がらせていた廊下の黄ばんだ蛍光灯の光が、温度を持たない床に枯葉のごとく舞い落ちていった。出発を急かすべく二人を呼びにきた稲森の場違いに大きな声が、濃灰色の空間に虚しく響いていた。