二次創作小説(紙ほか)

As Story 9(6)話〜『地を駆る鳥』〜 ( No.110 )
日時: 2013/01/14 21:57
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)



 同日 武蔵丘陵付近施設内休憩室——


 サーバルームのあるフロアの一角に、20名ほどが入れる休憩所が設けられていた。休憩所と廊下は強化ガラス張りのパーティションで仕切られ、他の部屋には見られないような洒落た間接照明が、やわらかな乳白色の光を落としている。壁際には、清涼飲料水や軽食の自動販売機が所狭しと立ち並び、センター内の食堂が閉まった後でも巨大な灰色の箱のなかで職務の遂行を強いられている人々にエネルギーと希望を与えていた。

 休憩室に6脚設けられた4人掛けのテーブルセットのうち片隅のひとつを、警察庁情報局局長、七髪一三が占拠している。テーブルには顔写真付きのA4版の印刷物が数枚、少しずつ横にずらして並べられていた。煌々と照らし出される休憩所とは対照的に、老齢の局長のテーブルだけは暗澹とした空気に呑まれ、その中で彼は時折うめくような声を発し、背中を屈め皺の刻まれた眉間にさらに皺を寄せ、机上の印刷物とにらみ合いをしていた。

 並べられた印刷物は、件の正体不明の42件の反応について、当局で詳細に調査した結果であった。調査結果は1件の反応につき、1枚のレポートにまとめられていたが、42枚中、40枚はびっしりとつめられた項目のすべてが「未登録」の文字で埋められていた。残りの2枚は様式の左上に、男性の胸部より上の写真画像が写され、氏名、住所、学歴、職歴、犯罪歴などについても登録のあるものについては、項目が埋められていた。

 七髪が項目の埋められているもののうちの一方を取り上げ、鼻先がつくほどに近づけ、紙面全体を余すことなく入念に見回した。そして、さじを投げたとばかりに短くうなり、紙を机に放ると、背もたれに体を投げ出した。

「わからん——」

 紙面の男の情報は、ところどころ空白はあるものの、全く情報が取れていない40名に比べれば、随分と情報は取得できていた。抜け落ちている情報は、二十余年に亘る男の学歴と職歴であった。その欄は、件の40名の例のような「未登録」という表示がなく、まっさらな空欄になっていた。

 今から10年前、当時の日本政府は国民総背番号制ともいえる、通称番号チップと呼ばれる国民健康保険被保険者番号を記録したナノメートルクラスのチップの国民への体内への注入を始めた。そして専用の読取装置で対象者の体をスキャンし、取得した国民健康保険被保険者番号をもとに何時でも何処でも——世間ではユビキタスと呼ばれている——国民基本情報サーバから必要な情報が取り出せるという仕組みを実現したのである。そうすることで、福祉や医療、経済活動のいっそうの充実を図るという理由であったが、もちろんそれは建前で、実のところは犯罪者やそれらに関わる人々に対し、法律で禁じられている24時間監視が本来の目的だった。

 だが、監視される側も烏合の衆ではない。番号チップから発せられる電磁波を妨害する装置を身につけることで、政府の監視の目から逃れようとした。そしてこれまでの10年間は、番号チップの高性能化を図る警察組織と、番号チップの機能を妨害しようとする非監視対象組織とのいたちごっこの繰り返しだった。

 身元の情報が全く取れなかった40名は、番号チップからの番号の取得を妨害したために、政府が所管する国民の基本情報を管理するサーバで個人を特定できず、すべての項目が未取得になってしまった典型的な例であった。つまり、かの40名は、犯罪者もしくは犯罪組織の一員であることが限りなく高いのである。むしろ問題は、番号チップの信号が妨害されなかったために情報が取れた残りの2名、さらに絞ると、職歴等が空白になっていたあの男であった。

 国民基本情報サーバへ登録していない情報があれば、先例のように「未登録」と表示される。それが空白になっているということは——。
「登録時の入力ミスか、システムの偶発的な不具合か、若しくは」机上に両肘をつくと、おもむろに両手をくみ、うな垂れたこうべを左右にゆする。

「改ざん…いや、そんなことがあるはずが——。国民基本情報サーバに登録した基本情報を変更するには、専用の情報更新画面から入力しなくてはならない。それ以外の方法といえば、全基本情報を格納しているサーバ内のデータベースに侵入し、直接データを更新する…。だが、そんなことをすれば直ちに、改ざん検知プログラムによって警報が発動し、データの復元が実行される。そして、改ざんのログが記録され、侵入者のコンピュータの識別情報、そして侵入者の住所までを特定するはずなのだ。

 本庁で直ちに問い合わせたが、警報が作動した形跡はなかった。データベースへの不正なアクセスを示すログも無かった。だがこの者の来歴には空白文字が入力されている」眼球が飛び出しそうなほどに見開かれたまぶたの後ろを、氷のようにつめたいしずくが、七髪の皮膚をなめるように垂れていく。

「常に最新、最高の、セキュリティで固めていたのだぞ」搾り出すようなうめき声を出す。テーブルに置いた二つのこぶしにあらん限りの力が込められ、小刻みに打ち震えていた。

 伝えるべきなのか、これを。しかし、まだ可能性の話でしかないぞ。ここで一威長官に報告すればいたずらに混乱を広げるだけか?だが、あの時空間犯罪者の中に警察庁の最高のセキュリティを破るハッカーがいるかもしれないのだぞ。

「どうすれば…いいのだ」
 うな垂れた己の顔が、ピアノの黒鍵のごとくきらめくテーブルの天板に映る。3名の警備隊員を無事転送し、安堵の息をついていたときからいくらもたっていないのに、別人のように憔悴しきった自分がこちらを眺めている。何かもの言いたげに口を開こうとしている。だが目の前の男が言おうとしていることはすでにわかっている。そしてそれに返す言葉がないのもわかっていた。

 二人の男がじっと唇を締め、自販機のコンプレッサの動作音が通奏低音を奏でる沈鬱な空間に身をうずめていた。

 ふと、七髪の左手が、禁断症状の現れた麻薬中毒者のよう物狂おしくダークスーツの右胸ポケット、右脇ポケット、スラックスの右ポケットとまさぐる。何度もそれを繰り返し、突如動きを止めた。思わず嘲笑で表情をくずした。

「わたしとしたことが…」

 見計らったように、七髪の右横からたばこの自販機に据え付けられているディスプレイから、ラッキーストライクのCMが流れる。

 ヤニは20年前にすっぱりめたつもりだったんだがな。そろそろターゲットに接触するころだろうか。転送システムの地理空間的転送精度は約1km。走査システムの地理空間精度も同程度。走査システムから読み取った座標がドンピシャで、転送システムの転送もピッタリであれば、今まさに到着予定時刻だ。だが、転送目標地点からのずれが両システム合わせて最大2km。そうなれば、暫くかかるか……。

 ターゲットの居場所は確か——。

 目線をつと上にあげ、自分にしか見えない日本地図を天井に描く。そして、2012年当時の関東地方と呼ばれる地域にズームインする。さらにズームインは続き、南関東、神奈川県…。

「横浜港」

 ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。空想の日本地図の拡大図の約半分が薄青色で塗りつぶされ、の半分は複雑に入り組んだ埋立地の輪郭をもつベージュ色の領域で覆われていた。

  選ばれた3名の隊員は、情報局の分析結果を元に、2012年1月の南関東、当時の地名では横浜港と呼ばれるポイントに転送されていた。

 長官への報告はしよう。だが、本件の調査は極秘事項として進めてもらうのだ。

 納得したように首肯する。我知らず安堵の息をもらすと、また、左手が持たざるモノを求めてポケットの中で蠢いていた。七髪がふん、と鼻を鳴らすと、幾度となく読み上げてきた件の男の個人情報のハードコピーを右手で持ち上げた。

「困ったものだ」

 少々乱暴に、紙切れをテーブルにほうった。そして、踵を翻すと己を誘う自販機の中に陳列されている「幸運のブルズアイ」へと向かった。

 猛木 雷鳥(たけき らいちょう)、氏名欄にそう刻まれた白地の個人情報のハードコピーが、漆黒の天板の上で剣呑なオーラを放っていた。