二次創作小説(紙ほか)
- As Story 10(1)話〜ひかり、在(あ)れ〜 ( No.118 )
- 日時: 2013/10/08 17:52
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136
『ひかり、在れ』
二〇一二年一月二十日 午前六時半頃 大崎邸——
サンルームの窓に息がかかると、思ったよりも広い範囲が真っ白に曇った。東向きのこの場所から外を眺めても、日の出の陽光を見ることができない。ここ何日かは迷惑なほど強い日差しが部屋の奥まで入り込んできて、昼夜逆転の生活続きの館の主を厳しく照らし出すのだが、今日に限ってはまだルームライトを点けたままだった。
奇妙奇天烈な形をした植物が生い茂る中庭に、雨粒が葉を、花弁をしたたかに打ち据える音が淡々と響きわたる。もう30分近く、自然の為す旋律に耳を傾けていた。
——あの子達もこれから、この降りしきる雨の中、任務を遂行することになるのだろうか。
「気になるのか」
やにわに後ろから声がする。窓際に立っていた男が、少し驚いたように体を声のした方に向けた。昼光色の間接照明に照らされ、うっすらと黄味がかった丈の長い白衣が、しなやかに膝のあたりを舞う。
「相変わらずだな。私の屋敷にいるときくらい、気配をだしたらどうだ?」
挨拶がわりの忠告を部屋の隅に佇むもうひとりの男にかけた。そして、いつものように沈黙が返ってくるのをまった。
「今日は——」
窓際の男が、今度ははっきりと驚きの表情をあらわにして声の主を見据える。
「荒れるぞ」
声の主の目線が、窓際の男をすり抜け、全天に広がる濃灰色の雨雲を捉えていた。さらには、その向こうの二人の少年少女の人影も。
しばし佇んだ後、踵を返し無言で、足音もドアノブをひねる音すら立てずにこの部屋を出て行った。
窓際の男が、部屋全体を軽く見回す。
男が去っていった途端、少し部屋が明るくなった気がした。いつものように。
徐に、窓際に据え付けられたサイドテーブルに手を伸ばす。ソーサーにのせられた白一色のカップを手に取ると、濃い目に淹れたブラックコーヒーを軽く口に含んだ。
しずかにまぶたを閉じると、コーヒーの香りが口腔と鼻腔を満たすのを待った。
やや酸味のきいた風味が脳を覚醒させる。
再び降りしきる雨の町に目を戻すと男の頭の中で、ある楽曲がその響きを曇らせながら流れ始めていた。次第に旋律と伴奏の音となりが克明になり始める。その楽曲に心を委ねるていると、先日おきた、ささやかなサプライズを思い出していた。
あれは6日前、つい先ほどここに顔を出していた男——天銀によればウィル=ロイファーが組織の拠点を訪ねてきたという日の翌日だった。
二〇一二年一月一四日 二三時 大崎邸——
厳しさを極める冷気が全天を澄み渡らせる深夜11時。都心のベットタウンに建てられた屋敷の界隈は、すっかり寝静まっていた。秋にはやかましいほどだった中庭の虫達はまさに冬眠の真っ最中。研究の合間の小休憩に使う東のサンルームは、塀の向こうのさらに向こうの道路をふらつく酔っ払いの足音さえ、聞こえても不思議ではないほどの静謐さで満ちていた。
小さなコーヒーカップに満たされたブラックをじっくりと時間をかけて飲み終え、再び研究室に戻ろうとしたときだった。
——カチャン。
壁の向こう、前庭の奥の門扉を開ける音がする。
「今日は誰もアポをとっていないはずだが」館の主、そして秘密結社のトップ、大崎影晴の表情に険しさが顕わになる。補佐の天銀は「仕事」のために翌朝まで戻らないはずだった。
一歩一歩足元の感触を確かめるかのように、庭の土を踏みしめる音が聞こえてくる。侵入者にしては無用心な足取りだ。これで、常に気配を殺している死神のような補佐である可能性はゼロになった。
足音の向かう先も正面玄関のように見える。だが、いくら自身が研究者という仕事柄、昼夜を問わずに活動しているとはいえ、約束もなくこのような深夜に、しかもインターホンも使わずに訪れるとは、全くもっていい気はしなかった。
既に玄関扉の前に招かれざる客が待っているはずだったが、男はそれを無視し、コーヒーカップとソーサーをキッチンに戻しにいった。
洗い物を済ませると、キッチンの前にたたずんだまま正面玄関のほうに全神経を集中させた。彼自身が透視の両力を有するECの能力者であったが、来客が刺客ではないとわかると敢えて能力を使い誰であるかを確認せずに、相手が動き出すのをひたすら待ってみるのを面白く思えてきたのだ。
裏世界の研究者がいたずらな笑みを浮かべる。
キッチンにたたずんだまま10分が経過した。玄関のドアの向こうの人物はドアのノックのひとつもしてこない。私が出迎えるのを待っているのか。何もしなくても私が気づいて出迎えるかと。
ふん、と大崎が嘲笑を浮かべながら鼻を鳴らす。ずいぶんと侮られているな。
30分が経った。大崎がふと外の冷気を気にした。外の人間はまだ待ち続けているのだろうか、それとももう立ち去ったのか?前庭の植物達が全くざわつかないのも気になった。この館の植物は、大崎が様々な実験を試みた過程で、初めて通り過ぎる人間に対しては、特殊なにおいを出したり、揺れたりと天然の防犯センサーのような挙動をするものが多々あるのだ。
——私は秘密結社のトップの素質がないのだろうか。
ほぼ冗談のつもりで、投げやりな言葉が脳裏をよぎる。
やれやれ、と頸を小さく左右にゆすりながら玄関先に向かった。
1時間が経過していた。
正面玄関の扉の前にたどり着いた瞬間、扉を2度ノックする音がした。心なしか音が弱弱しく、大崎の腰ほどの高さから聞こえてくる。
なぜこのような時間に、それにだまって玄関先に来たのかがわからなかったが、大崎は来客の目星をつけていた。天銀が昨日その者が私を訪ねてきたと言っていた。
「ウィルか」
扉の表と裏で奇妙な沈黙が続いた。
「あの——」扉の向こうから女の子のような声がする。扉越しなのでかなり声が曇ってはいたが、聞き間違えているとは思えなかった。件の銀髪の少年よりずっと高く、か弱い声だ。まさか、と思わず大崎が玄関の扉を開けた。我知らず力がこもってしまっていたのか、風を巻き起こしながら扉が開くと、小さく声を上げて驚きの表情を顕わにする少女がたたずんでいた。大崎と目線を合わせるなり、必死になって何度も頭を下げていた。
「すみません。このような夜遅くに、リーダーと一緒じゃないのに勝手に来てしまって」
ツインテールの髪があわただしげに四方八方に揺さぶられる。右肩に掛けた黒光りする小さなショルダーバックを危うく落としかけそうになった。大崎が右手でやんわりと制しているのにも気づかず、一方的に言葉を接ぐ。
「こんな時間ですし、何度も帰ろうと思ったのですけれども。もうし訳ありません!」
「気にしなくていいよ。よく来たね。さあ、おあがりなさい」
まさか一人で来るとは、全く予想だにしない御仁の来訪だった。
シックなモノトーン調のガラステーブルに、背の高い椅子が左右それぞれに2脚ずつ。純白とライトグレーのツートンの壁紙。華美な調度品はなく、丸いステンレス製の壁時計がひとつ。これも枠が黒光りしていた。全体を無彩色で統一したモダンなコーディネイト——世界屈指の秘密結社のトップ、大崎影晴の邸宅の応接室であった。研究者の性なのか、体が埋もれるような分厚いソファに座っているのが苦手で、大崎自らこのようなシンプルなレイアウトを考案したのである。だが、今夜の来訪者にはこの什器があまりに致命的な障害となってしまった。
ジャンプしないといすに腰掛けられなかった。ようやく腰掛けたと思ったら今度は顔がぎりぎりテーブルの天板の上に出ているが、テーブルの上の飲み物をとるのに一苦労した。
ひっきょう、客人の少女が立ったまま話すことになってしまった。飲みものは隣の部屋からサイドテーブルを持ち出してきて、そこに置かせることにした。そして自身はテーブルを使わないからと、特に座面の高いカウンターチェアを持ちこみ、優雅に腰かけると、これ見よがしに長い脚を組んだ。
少女もなぜか低い椅子を使わずに、明らかに対抗意識から——それは彼にとっては非常に微笑ましいものなのだが——、大崎と同じ型のカウンターチェアを使うことにした。
さあ、遠慮なく椅子に”あがり”なさい、と大崎が椅子をすすめながら、心底可笑しそうに目を細める。
「影晴さま、身長のことでそんなにバカになさらないでください」
椅子をすすめられた当の本人は精いっぱいに瞼を開き、顔を赤らめながら声を張り上げた。小さな体のどこからこんなに大きな声がでるのだろうと、大崎が芝居がかった風に目を丸くすると、水希が口に手をあて、さらに顔を紅色に染め、やがて張りつめていた緊張の糸が切れたように表情を崩した。そしてそれに連鎖するようにくしゃみをしたが、ちょうどその時に大崎が視線をはずしていたのとくしゃみを控えめにしすぎたせいで、可憐な少女をを気遣おうとする言葉のひとつもかけられなかった。
「あの、あたたかい飲み物、もう一杯いただけますか」
大崎が姿勢を直すと、彼の目には心なしか再び口をとがらせているように見える小さな部下の顔が映っていた。
- As Story 10(1)話〜ひかり、在(あ)れ〜 ( No.119 )
- 日時: 2013/10/08 17:53
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136
白地のティーカップの中で静かに揺らめくベージュの水面とあいまみえる。濃厚な甘い香りをたっぷりと含んだ蒸気を口元で感じつつ、目の前の男性が入れたロイヤルミルクティーを口に含む。
思ったより甘味が弱いけど、とてもおいしい。体も心も芯から温めてくれる。
大崎と向かい合うようにカウンターチェアに腰掛けた水希がティーカップをサイドテーブルに戻した。
「とてもおいしかったです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
水希の満足そうな笑みに、大崎がかすかに頸を斜めにかしげ、うっすらと笑みを浮かべながら目礼を返した。
とん、と乾いた足音を立て、水希がいすをおりた。少女の顔が大きく上を仰ぐ形になった。
「今日はこんな遅い時間に、リーダーの同伴もなしに伺ってしまって……ごめんなさい」
大崎は黙ったまま、ほんのりと浮かべた笑顔を崩さない。そして、上半身を前のめりにして、早く続きをたいとばかりに、視線で彼女を促した。
「わたし、今、とても不安なことがあって」完全な静寂につつまれた応接室に、水希の細い首がごくりと音を立てるのが否応なしに響く。
「今回の任務のことなのですけれども」
やはり——。リーダーの少年に続き、水希もか。しかも眼前にたたずむ少女は組織の規律を破り、リーダーを伴わずに訪れたのである。余程思いつめていたのだろう。大崎自身も心の中であらゆる悪い展開を想定し、片隅で不安を徐々に膨らませながら、少女の唇がつむぎだす次の言葉をじっと待ち続けた。
「一ヶ月の任務、とても長いですよね」大崎が水希の大きな瞳を捕らえたまま静かに首肯する。
「でも、その間ウィルく、あ、じゃない、リーダーとずっといっしょなんですよね」
思いがけず声色が明るなり、瞳をきらめかせる少女の振る舞いに、秘密結社に君臨する男が不覚にも返事に遅れをとった。組織のトップのそんな様子を気にもかけず、水希が一方的にしゃべり続ける。
「わたしの能力って、ご存知のとおり周りを暗闇にするっていう力、ターゲットの身動きを封じることができますが、同時にみんなも目が闇に慣れるまで相当危険な状態になってしまうんです。だから、どうにかならないかなぁって思って」
それは以前、麗牙光陰のリーダー、ウィル=ロイファーから報告を受けたのを覚えている。大崎が己の記憶を手繰り寄せていた。そして、たしか水希の能力は——。
「たくさん練習して、能力のタイプを変えることができたんですよ!」水希が満面の笑みで言葉を放った。
「ほう、それはすごいじゃないか。わたしの知る限りでは能力のタイプを変えられたのは君が初めてはないだろうか」
水希がいっそう目を輝かせた。
「それで、きみの能力はどのようになったのかな」
いつもおとなしそうなあの子が、抑え気味ではあるが力強い声で話し始める。深更に騒ぎすぎないよう、必死に気持ちの高ぶりを抑えているのがひしひしと伝わってくる。
「ターゲットの視覚だけを闇に包むんです。外の風景は全然、変わらないんです。チームのみんなの視界も暗くなったりしないんです。自分でいうのも恥ずかしいですけど、わたし凄いっ、て思ったんです!でも……」
「でも?」
この続きもウィルから報告を受けている。大崎がそれを思い出していた。
「能力の効く対象が一人だけになってしまったんです。いま一生懸命練習中で、二人同時が、極たまぁに成功するようになったくらいで……」
大崎が強い驚愕を覚えていた。二人目までできるようになっていたとは。確かこの子が能力のタイプを変えるための練習をし始めたという報告をウィルから受けたのが2ヶ月前。そして、一人の視覚を確実に奪えるようになったという報告を受けたのが一週間前だ。
考えれば考えるほど、眼前に見える、華奢でツインテールの、日本の中学生のあるいは小学生の鏡のようなたたずまいの女の子の潜在能力の大きさに、科学者としての己が興奮を抑えきれなくなりそうだった。そして、続きを聞いていくと更なる事実が判明したのだ。
ターゲットは一人だけではあるが、闇に陥れるのは視覚だけではない。聴覚、痛覚、温度感覚、平衡感覚、嗅覚、あらゆる感覚を闇に陥れることができるというのだ。だが、それを知るなり大崎の中で漠然としていた懸念がくっきりと輪郭を顕にしてきた。
大崎が目の前の少女に、こころもち語気を強くして訊いた。
「そのような急激な変化をさせて、きみの体に影響はないのかね?」
大崎に訊かれるなり、彼の声が急に大きくなったのせいもあったのかもしれないが、水希の顔から笑みが消えた。喉の渇きを覚え、サイドテーブルのロイヤルミルクティーを一口飲んだ。
「影晴さまの言うとおりなのです。最近、小さいころからの大親友の茜から、最近わたしが塞ぎこんでいるように見えるけどどうしたのって、訊かれてまったんです。わたし、落ち込むことが全然ないって言えば嘘になりますけど。でもいつものように勉強も吹部も任務も一生懸命やって、ウィルく、ん、じゃなくてリーダーやほかのみんなとても楽しく過ごせていて、わたしの中ではいつも幸せだったんです。それで一昨日、思い切って恵怜に訊いてみたんです。そしたら、恵怜も全く同じことを言うんです。大きな任務の前だからかなって恵怜は言ってたんですけど」
「もっと、もっと頑張って、みんなの役に立ちたいんです。でも、このまま能力を強くしていったら、わたし、どうなって。……自分の能力に…わたし…」
自らの発した声が耳に入ると、漠然としていた虞れが脳裏で克明に形を成しつつあった。おもわず両手で口を覆い、言葉が途切れた。嗚咽が漏れる。
虚空を見つめ、身を引き裂くような戦慄が少女の全身に走った。
「みずき…」
自分がつくり出した技術がために、今目の目の前で無辜な少女が曇りひとつない漆黒のの瞳に、透き通ったきらめきをいっぱいにため、俯き、肩をうち震わせている。
「すまない」どんな慰めの言葉も虚しく思えた。極めて小さく、まるで聞かれるのを躊躇うかのように大崎が言葉を絞り出す。
少女が唖然として、頬にふたつのすじの付いた顔を向けた。
「影晴さま?何をおあやまりになってるのですか。影晴様はなにも悪くないです。影晴様は、こんな不気味な力が使える私を助けてくださったのですよ」
鼻をすすりながら、声を揺らめかせながら、一生懸命笑顔をつくり、目の前でうなだれる闇組織の頂点の男に話しかける。言葉をうしない立ち尽くしたままの男に、努めて明るい声で言葉を続けた。それが大崎への一番の励ましの言葉になると一心に信じて。
「影晴様は、拾いの神。よくいいますよね。捨てる神あれば拾う神ありって。でも——」
「水希——」男がうつむいたまま右手で口を覆い、こぼれ出る呻き声を抑える。
「影晴さまは単に拾ってくださっただけじゃないです。やっぱり影晴様は一番の」
水希が満面の笑みで最後の一言を言い放った。
「神様!」
男が膝からくずおれた。遥か昔に捨て去ったと思っていた、残酷なまでに熱い塊がじっとりと頬をおりていく。
——暗黒の世界に貶めてしまった張本人を、あの子は神様と言っている。本当の家族と幸福に満ち溢れた時間をおくれたはずなのに、わたしはそれを取り上げてしまったというのに、あの子は私を神様と言って、一心不乱に私を信じている。
少女が膝をつき、不安げに胸の中央に手を組み、大崎の顔を窺う。「影晴、さま?」
大崎が小さく呻いた後、耳鳴りがするほどの沈黙が、二人の居合わせる空間を満たした。
空間に割り込むのが憚られるかのように、深更の町も深い静寂の底に沈んでいた。
「昨日——」
水希がぽつりと呟いた。音もなく立ち上がると、胸の前に組んでいた両手を腰の辺りまでさげ、顔はうずくまる大崎を見つめてうつむいていた。彼女の「神様」の胸の内がどうなっているのかなど、無辜な少女には到底察することなどできないはずだが、自然と少女の顔から笑みが消えていた。垂れさがる前髪は、彼女の漆黒の瞳だけではなく、顔全体に影を落としていた。
「放課後に学校の体育館で吹部の練習をしてたんです。いつもは音楽室なのですけれども。2月の終わりに3年の先輩達の追い出しコンサートを合唱部と合同でやることになっていて、昨日の練習も合唱部と合同だったんです。そのときに初めて合唱部の演目を知ったんですけれども。そのときの歌が——」
静かに、囁きかけるように紡ぎ刺された声が途切れた。ようやく男が顔を持ち上げると、少女が静かにまぶたをおろしていた。その表情を見ていると、きっと彼女の小さな胸の中で、今まさに流れているであろう「歌」が、大崎にも聞こえてくるようだった。
「とても——」
開いた瞳に流れ込む光で、胸の内の「歌」が流されてしまわないように、水希がゆっくりと瞼をあげる。
「いい歌なんですよ」
穏やかな笑みだった。
だが、なぜこの子の言葉が悲しく響くのだろうか。
話せば話すほど、お互いのこころが壊れていくような気がした。
「水希、ありがとう。さ、椅子にかけて紅茶でも飲みなさい。今日はもう遅い。明日は、いや日付はもう変わったから…、今日はここから直接学校に行きなさい。ウィルにはわたしから連絡しておこう」
水希は押し黙ったまま、何も返事が返ってこないように見えたが、両肩にかかった黒く艶やかな髪の束がかすかに上下するのをみて、彼女の意思を確認した。そして、大崎のいうとおり椅子に戻るように見えたが、少女は尚も話し続けたのである。
「わたし、とても感激して、合唱部の友達にみんなが練習で見本に使っているCDを借りてきたんです」
大崎は、少女の意に反する行為に少々躊躇したが、少女に優しくうなずくと、先を促した。目の前の現代っ子から<しーでぃー>という単語を聞いたのが少し意外で、男の顔からかすかに笑みがもれる。
水希が応接室のソファに置きっ放しにしていたショルダーバックを取りに早足でその間を往復した。そして、ベージュ地の背景に、押し花のような柄が描いてあるジャケットのCDを取り出した。
「もしお時間がありましたら、是非聞いてみてください。歌詞が抽象的で難しいんですけど、今も歌詞の意味全然わからないんですけれども——」
ふと水希が吹っ切るように顔を持ち上げた。目じりに残る最後のしずくが控えめにきらめくと、少女がおどけたような笑みを浮かべる。
「1曲目が特におすすめです。絶対!」
とびきり明るく言い放った最後の一言を聞いたとき、大崎は感じ入るように双眸を閉じていた。
「ああ」
大崎が、声を絞り出すように、しかし力強く少女に返事をした。
水希はその晩、大崎の申し出に甘んじて、大崎邸に泊まっていった。大崎は、朝になったらウィルに水希が今まさに不安を抱えていることをそのまま伝えようと考えていた。かの少年も今、大きな不安を抱えていることを知っていたから。
麗牙光陰はいま、諸所の理由で全員で行動を共にできずにいる。そうなってしまったわけには、わたしの身勝手な都合も含まれている。だが、あの子達は必ずや、あらゆる困難を全員で克服することができるはずだ。
そのためには、私があの子たちの「神」であり続けなければならないのだ。
かの邪悪な科学者がECを設立しようとした動機は、人間の能力に対する生物学的な興味が大半を占めていた。
だが、世界屈指の科学者の彼でさえ予測できないECの子供達の成長に——殊更、今日ここを訪れた少女のいるチームの4名については、実行部隊としての能力者という枠を超えて、大きな可能性を感じていた。一方で、少年少女らがその可能性がおおきくなるほど、己の犯した業の深さを思い知らされていたと思っていた。しかし、それは自分の思い込みでしかなかった。
あの子たちを覆う闇は、わたしの想像をはるかに超えて深い。
神——。
数百万年にも及ぶ人類史上、最も科学を究め、己を神の化身と信じてやまなかった男に、あまりに高く、深く立ちはだかる言葉であった。
水希が眠りに就くと、大崎影晴は自室の小さなコンポでそれを聞いた。
あの子が薦めていた頭の一曲。
<祝福>という名の曲。
印象的な歌詞だった。
あの子を救うことが、できない歌詞だった。
大崎は夜更けまで、あの子が朝の挨拶に来るまで、ずっとその曲を聴き続けていた——。
二〇一二年一月二十日 午前7時前 再び大崎邸——
何処かに焦点を合わせるともなく、漫然と虚空を眺めていた男が、徐に腕時計に目をやる。
「ウィル=ロイファー」
「……棚妙水希」
我知らず、あと数分後に任務が開始となるはずの二人の隊員の名前を唱えていた。そして、あの曲の冒頭の1フレーズを、自分の体に心に染み渡らせるように、静かに呟いた。
再び顔を上げ、重たく垂れ込める雨雲を見やった。今度は漫然とではなく、任務の地を確実に捉えて——。
〜第10(1)話『ひかり、在れ』(完)〜