二次創作小説(紙ほか)

As Story 〜光曳梓編予告用短編『月光』〜 ( No.126 )
日時: 2013/02/19 12:58
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: OHW7LcLj)
プロフ: http://www.youtube.com/watch?v=ZIsQPdC9YnY

短編『月光』



 階下の天井よりも1.5倍ほども高さのある屋根裏部屋の南側に据え付けられ縦長の格子状の窓枠をすりぬけて、青白い月の光が入り込んでくる。永らく人が入ることのなくなっていた空間には、所狭しと漂う埃が、雪の精霊が粉雪とじゃれて巻き起こすダイアモンドダストのようにチラチラと煌めいている。
 屋内の「粉雪」が克明に浮かび上がらせる青白い光芒の先にも、永年積もり続けてきた綿ぼこりや粉塵が雪原のようにフローリングの床を真っ白に染め上げていた。

 一人のキリスト教司祭の処刑された今日この日に、愛する人にお菓子を贈り愛を表明するという、至極不謹慎な行事で世の中が盛り上がりをみせる今日この夜、閑静な新興住宅街の真ん中にたたずむ広大な廃屋は、まだ建築物としては健全な状態を保っているにもかかわらず、どこからともなく忍び込んでくるすきま風によって身を切るほどの寒さに見舞われていた。

 大人の男性がぎりぎり手が届くか届かないかの高さにあるの窓のすぐ下のあたりで、綿あめのような白い靄がゆっくりと広がる。少し間をおいてもう一度。靄のすぐわきで、冷蔵庫よりも冷えた室内にも拘わらず、七分袖の黒い無地のワンピースに薄手のこれも黒い無地のカーディガンを羽織り、座り込んでいる中学生くらいの少女の人影があった。傍らには無造作に置かれたキャンバス地で黒無地の小さな手提げ。そして、右手のそばにはモノトーンを基調にした楕円形のポータブルスピーカーと「W」の文字が右下に印字された黒いMP3プレーヤーが床に転がっていた。
 月光の光芒と少女を包む暗闇とのコントラストで、ほぼ全身の輪郭の内側が一様に濃い灰色に染まっている。人影の頭頂部だけがわずかに蒼白の光芒にかかり、薄汚れた赤茶色の髪の毛が輝きを取り戻す。そして、髪の1つ1つが艶やかな白い光沢を放ち、沈んだ赤茶色の流麗なドレープの中で絹糸のように繊細な無数の光条の弧を描いた。

 魔術を使って描いたような真円形の満月が、地上を睥睨するかのように、一番上の格子からその表に描かれたユニークな模様を、斜め下に向けている。

 でも、本当に下を向いているのかしら?上を向いているようにも見えるし、それとも真横?

 少女が出窓のすぐそばに座り込んだまま、とりとめもなく考えているうちに、格子にくりぬかれた夜空を、月の光に照らされた灰色の雲がゆっくりと左から右に流れていく。屋根裏部屋の窓は幅が狭いので、すぐに雲が舞台袖へ隠れてしまう。だが、ややもすればまた新しい雲が右やら左やらからあらわれて、しばらくするとまた消えてしまう。
 窓枠のいちばん上で偉そうにしているあの月も、あともう少しも待てば、この狭い夜空から消えてしまう。

 私のいる部屋にも月明かりが入り込まなくなってしまう。
 
 不意に少女の脳裏に言葉がよぎると、心の中で何かが弾けた。
 あたりが完璧な静寂に包まれているのに気がつくと、少女の華奢な体を強い寒気が襲った。温度の感覚はあるが、どんなに暑かろうと寒かろうと、この世界の人々のように苦痛に感じることはない。だが、意識が吸い込まれていきそうな、常に暗闇のなかに沈むこの屋敷の沈黙にはなぜかいっこうになれる気配がなかった。
 月が格子窓に入りかけたころからずっと、深い静寂がこの屋敷を覆っていた。でも、少女の心はどこかざわついていた。それが自分に何かを伝えようとする声だったのか、それとも無為な雑音だったのか、まるでわからなかった。目を覚ますと、細に入り微に至るまで克明に描かれていた夢の中身を忘れてしまうように。

——それならば、わからないままでいいのかも知れない。沈黙に気づいて、それまでの胸騒ぎを忘れてしまうのであれば、その程度の惑いなのだから。

 膝を抱えて座り込んでいた黒服の少女が足を横に崩す。白い綿埃を押しのけるようにして、青白い小枝のような左手が、しなやかに床を滑る。やや左にかしげた上体を左腕で支えるような姿勢をとった。再び左腕が床に積もった大小さまざまな埃を巻き込みながら少しずつ床を滑り始める。青白き月の光芒の外に広がる黒一色の世界では、漆黒の衣服はおろか、きぬから露出した真珠のように透き通った白色の少女の肌さえも判別するのは難しい。
 綿ぼこりや粉塵が床にこすれてたてる乾いた音が止まると、少女は埃まみれの冷たいフローリングの床に横たわっていた。両腕を腕枕にして左の頬を置き、目の高さにまで積もった綿ぼこりを眺めていた。ほぅ、とやさしく息を吹きかけると、大きい綿ぼこりは億劫そうに床を転がり、細かな粉塵は少女の視界を右へ右へと渦巻き、煌めきながら真っ暗な雪原を乱れ飛ぶ。
 廃屋の正面で荒れ果てた体を晒す広大な前庭のせいで街灯からは遠く離れ、電気もガスも止められてしまった空間の月明かりの届かない場所で、埃の類を見ることなどこの世界にはびこる人間の誰にもできない芸当だが、夜目が異常に利く少女の瞳には、細かな粒子があちらこちらで白く煌めき、漂うさまが、鮮明に映し出されていた。
 瞼を細めると光の粒の輪郭がぼやけ、より一層雪の結晶のように見えてくる。あたり一面にぼた雪が音もなく漂う光景は、かつて彼女が最も幸福を感じていた時——雪深い北方の丘陵地帯の大きな屋敷で、家族全員が一つ屋根の下、平穏な毎日を送っていたあの時を彷彿とさせていた。
 だが、一家の安寧は、父親の行き過ぎた娘への愛情が引き起こした神への背徳行為によって、跡形もなく崩れ去ったのである。
 その報いは、過ちを犯した張本人である少女の父親だけではなく、父親の行為に対する被害者であるはずの、少女自身も受けることとなった。彼女が背負わされた宿命は、俗世の穢れとは遠く隔てられた大自然の只中で、与えられたものを真っ直ぐに、素直に受け入れてきた無辜な子供の心には、苛烈を極めるものであった。黒曜石のように深くしとやかな艶を放つ黒髪は、欲望と憎悪にまみれて濁りきった人間の血の色の如く薄汚い赤茶色染まり、少女の身につけるすべての衣服は、華奢な体躯の深奥に植え付けられた呪いを滲み出すかのように、黒く染まっていったのである。
 少女が嫌というほど目の当たりにしてきた、極限状態で垣間見せる見せる人間という生き物の本性よりも、はるかに純粋な偽りの粉雪の白さに、胸が疼いた。

 あの時から900年余り、わたしは何とかして宿命さだめを受け入れようと努力してきました。でも、やはり無理でした。わたしはあの世界を捨ました。そして、気がつくと、ここに辿りついていました。

 闇にただよう粉塵は、目の前に横たわる人間のことなど意に介す様子もなく、淡々と虚空を漂い、音もなく舞い降りていく。
 
 宿命から逃れられないのはわかっています。……でも、戻りたくない。あんな陰惨な光景をわたしが見て、どうしろと。

 視界の右側の外側から、月のなでるような視線を感じた。

 際立った信仰心があるわけでもない、魔術師としての訓練も受けたこともない、辺境の寂れた地方貴族の末娘に生まれたわたしが、遥か昔、大き過ぎる生を拝受したときに、どうして自分の心は壊れてしまわなかったのでしょうか。

 こみ上げる感情が声になろうとしていた。

「どうして神様は—ー」

「わたしを、壊してくださらなかったのでしょうか」


As Story 〜光曳梓編予告用短編『月光』〜 ( No.127 )
日時: 2013/02/23 17:14
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
プロフ: http://www.youtube.com/watch?v=ZIsQPdC9YnY

 青白い唇をかみ締め、眉間に眉を寄せ、薄目を開いてピンとのずれた光景を見つめながら、彼女の頭上を通り過ぎる、蒼き光芒を発する天体に、静かな告白をした。

 始めは自分をこのような運命に貶めた張本人である父親を激しく呪った。だが、幾百年もの歳月を経て、父の行為は人の子の親ならば誰しもが持つ、親心がすこし度を越してしまった程度に片付けられるまでの寛容さを持つようになっていた。
 彼女の父も、己の背徳に対する相応の報いがために、正体を失い、世界のいずこかを彷徨い続けているのである。彼女の怨嗟の矛先は、自分を痛め苦しめ続けながら、世界中の人々に敬われている神に向けられていた。

 飛び疲れて舞い降りていくる一部の塵によって、いつのまにか彼女の黒服を、黒ずんだ赤茶色の髪を、ほのかに白く染め上げていった。これ以上心をすさませるなと、取るに足りない塵たちにたしなめられているようだった。
 少女が腰のあたりに放り出されたままの、MP3プレーヤーに右腕をよろよろと伸ばす。どうしようもないくらい、落ち込んだとき、心がすさんだとき、少女は音楽に癒しを求めた。それは向こうの世界にいたときも、ここでも変わらなかった。
 向こうでは、音楽は自分達で歌い、奏でるものであった。しかし、この世界では少々事情が違うようだった。少女の小さな手にさえ収まる小さな鉄の塊から、いやそこから離れたあの網の張ってある物体から音が出てくるのは、見ているだけでも陰鬱とした心がすこし紛れた。そして、件の鉄の塊にはめ込まれた画面で、あの曲を——あの人が自信なさげに薦めてくれたピアノの独奏曲を——選び、画面の下のほうにある右向きの三角印を押さえるだけで、900年余りに亘って鬱積してきた悲嘆、怨恨を、束の間、完全に霧消させることが出来るのだ。

 手のひらの小さな塊がこれから奏でようとする旋律を一足早く心の中で思い浮かべる。そしてこの曲を教えてくれた、この世界で一番初めにあった人物——不気味に黒一色に染まった少女の衣服を絶賛し、彼女の薄汚れた赤茶色の髪をあかね色といって気に入ってくれたあの人の姿を思い浮かべる。

 昨日、一昨日、もう一日前からだろうか、毎日のように足しげくここに通っていたその人間の姿を見ていない。今度はいつくるのだろうか。この世界の音楽をもっと知りたい。音楽を知れば知るほど、その場しのぎではあれ、陰鬱な気持ちから逃れていられる時間が長くなるのだ。
 舞い降りる粉雪の流れが一瞬、乱れたような気がした。

 ——何処からか隙間風が入り込んでいるのかしら。

 少女がまぶたを閉じ、準備が整うと、MP3プレーヤーの画面下にある、右向きの三角印に親指を持っていった——。


 町の真ん中に居座るあるじを失ったやしきは、主が生前、よく手入れをしていたので、一年以上たった今も床板や壁がしっかりしていた。110Kg以上の負荷をかけてもきしむ音一つたたない。
 町が寝静まりかえった深夜、魁夷のオタク、光曳梓は人目を忍んでお化け屋敷と呼ばれている町の廃屋に侵入していた。特段荒らされた形跡もなく、きっちりと窓が閉められた一階は、口がかじかんでしゃべれなくなる程の外に比べればずっと温かかった。

 —ー屋敷の南側に並んでいる大きな窓が日中の陽光を取り込んでいるからか。
 それでも目の前で吐く息が暗闇で白く浮き上がり、次の靄と一瞬重なると、虚空に溶けていった。
 暗闇に目が慣れても、伸ばした腕の先が見えない深い闇に覆われた廊下を、スニーカーのラバーと塵がこすれる音が不安げに響く。それと同時に淡白なLEDライトの光線が廊下の床や壁、天井を縦横無尽に走る。この廃屋に侵入するのは既に10回をこえていたが、時々廊下の曲がる場所を間違えることがある。
 お化け屋敷と仲間内から呼ばれているこの屋敷にはじめて忍び込んだとき、廊下が入り組んだ屋内では曲がり角を迎えるたびに、その向こうに人の形をした人ならぬものが立っていそうな妄想に囚われていたが、その日のうちにそんな妄想は吹き飛んでしまった。光曳は凡庸な幽霊がたっているくらいでは話にならないほど、恐ろしい体験をしていた。あの階段の向こうで——。
 光曳の足音が止まると、目の前に幅の狭い、やけに急な木製の階段が大きく口を開けた暗闇へ呑み込まれるように伸びている。
 ごくりと図太い喉から音がした。階段は屋根裏へと続いている。光曳が重たげに、(実際この男の足は酷く重たいのだが)右足を階段の一段目に置く。わずかな音も立てず、きわめて慎重な一歩だった。

 歩みが慎重なのは、暗闇へ向かうのが恐ろしいからではない。
 ——音の在る無しを確かめようとしているのだ。暗闇の向こうの屋根裏から発せられる音の有無を。

 何も物音がしないのを確かめようとしているのではない。
 ——音がしているのを確かめたかった。暗闇の向こうの屋根裏から音がするのを。

 この階段を何回も上がっているうちに、屋根裏に上がりきるまでのわずかの間に、視界の向こうから飛んでくる人間味あふれる物音を耳にするのが楽しみになっていた。気分が高揚してきたところで階段を上がりきり、ヒソヒソ声でお決まりの言葉を発する。
 2次元の世界に肩まで浸かっているはずのこの男にとって数少ない例外である、現実界での最高の瞬間だった。3日ほど大学の仲間内とのようでここに来ることが出来なかった。殆ど上の空ですごした3日間だった。1分1秒が果てしなく永く感じられ続けた3日間だった。
 忍びがたきを忍び、耐え難きを耐え、今日再び、あの瞬間があと少しで訪れようとしている。

 LED懐中電灯で足元を照らしながら左足を2段目に置く。真下を向いていた光曳の顔が、矢庭に頭上の暗闇に向けられる。男の顔は不安の色で染まり、口が情けなくへの字に曲がっている。

 音がしない。どうしたのだ。

 音は立てずにすこしペースを速め、3段目、4段目と進んだ。

 やはり音がしない。

 いい年をした男の双眸から、今にも涙があふれそうになっている。ついにこのときがやってきてしまったのだろうか。初めて会ったときから、常々ここを早く出たい、こんなに静まり返ったところ、わたしには耐えられないとぼやいていた。だから4日前、ウォークマンをあげた。自分の使い古しだと相手には説明したが、光曳が長らく購入するのを躊躇していた最上位のモデルを、バイト代が入るなり電気屋に全力疾走して買ってきたのだ。ついでに彼のセンスでというオマケつきだが、おしゃれと思えるアクティブスピーカーを、それも無線接続のものをセットで買った。

 6段、7段とあがる。10段ある階段は残り3段を残すのみとなった。階段を上りきる前に次の1段を上がればドアのない屋根裏の、微生物の砦と化した床面の階段付近の様子がはっきりと目に入る。そして残り2段を上がるころには、否応なしに屋根裏の全容が光曳のつぶらな瞳に飛び込んでくる。ただし、光があればという条件付で。

 物音がしないという、眼前に立ちはだかる現実が受け入れられず、足音をさせないまま8段9段を昇った。しおれる巨漢を哀れむかのように、斜め上の窓から慈悲深き月が、床面の一段下に立ち尽くす巨漢の手前まで静かに光の手を差し伸べている。

 夜目はあまり利かないほうであるが、月光の光芒の向こうにも全く何も見えなかった。

 惰性で最後の段を昇りきると、膝からゆっくりとくず折れる。衝撃で左胸のたがが外れないように、そっと音を立てないように、ゆっくりと、静かに。

 行ってしまった、遂に。

 声が出せず、唇だけが空しく形を描いた。

 メ…ク…チ—ー。

 不意に、窓際の床のほうから、澄んだピアノの音がした。
 光曳が聴いたことのある曲だった。
 今まで聴いた中で最高の弾きだしだった。
 男が思わず光芒を溯るように視線を走らせた。ふと笑みがこぼれた。

——この曲は絶対、忘れられない。

 曲の名は、クロード・A・ドビュッシー作曲『月の光』



〜『月光』 完〜