二次創作小説(紙ほか)
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.142 )
- 日時: 2013/10/08 18:09
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
『交錯する時間』
ホームは他の駅と同様なんとなく小汚い印象を受けたが、駅舎内に入ると手入れの行き届いた、光沢をはなつタイル張りの壁が水希の最初の目的地、踊り場のトイレへと伸びていた。
もうすぐ8時だというのに学生らの姿が視野の大半を占拠しているのは、明け方から勢いの衰えが全く見られない豪雨のせいなのだろう。大小様々な人間の体躯が隙間なく並び、踏み面の見えなくなった階段を女子学生らが長年の経験を活かし、器用に早足で降りていく。水希は新雪雪崩に巻き込まれたスキーやのごとく、人並みになされるがままになっていた。
最小限の目線と頸の動きで周囲の人物に細心の注意を払う。彼女自身が中学一年生の姿をした暗殺者、あるいはスイーパー(掃除屋)であるがために、周囲が学生だからといって気を許すつもりは毛頭なかった。
電車を出た瞬間は、雨音が水希の聴覚を支配していたが、いくらも経たないうちに、女子学生らのマシンガントークが雨音を圧倒した。水希が耳をそばだてなくても、それどころか耳を塞いでも隙間を縫って彼女の鼓膜を叩く会話の内容は、老いも若きも、あまねく大和撫子の間で交わされる第三者への噂話——悪い噂が9割9分を占めるという代物である——に加え、豪雨にもかかわらず授業開始を少し遅らせただけにしたという学校への不平不満によって、いつも以上にヒートアップしていた。
水希の後ろで二つに分岐した色とりどりの人の奔流が仲間との会話に花を咲かせ刺を生やしつつ、彼女を追い越してく。小学生たちは雨をまち遠しにしていたかのように、キャラクターものや鮮烈な模様の描かれた値の張りそうな傘を携えている。そして年齢が上がっていくにつれ、無色であったり単純な半透明一色のビニール傘を持っている割合が増えていた。
右脇を通り過ぎざまに、水希の出で立ちに鋭く睥睨し、すぐさまそっぽを向いていった学生がいた。昔ながらの濃紺に大きな赤いリボンのセーラー服は、この駅の近くにある名門ミッション系大学付属中の学生だろうか。瞬く間に彼女との距離を広げる背中を、しばし見つめた。水希は、アクセサリとしてロザリオを身につけたりはするが、唯一の絶対神をおく形式の宗教には、明白な嫌悪を抱いていた。
姿なき「カミサマ」が私たちに何をしてくれるというのか。毎日お祈りをしていれば、私はこの呪われた力の魔の手を逃れることができたのだろうか。時折、そうやって自身に問いかけ、常に同じ答えを自身に返していた。
こんどは左方面から私服の女子校生と思しき人物から臙脂の制服に無言のチェックを受けた。
水希は電車から降りる前から、早くも己の手落ちを思い知らされていた。彼女は周囲の学生らに厳しい注意の目を向けているが、それは彼女らにとっても同じことだった。原因は水希の臙脂の制服にあった。車内が空いたわずかな時間を使ってウェブで調べたところ、この駅から通える学校はいくつもあり、さらに学校数の数倍にも及ぶ制服のバリエーションがあるのだが、彼女の身につけているような臙脂の制服はなかったのだ。水希のそばを通り過ぎる数多の女子学生らは、多岐にわたる制服のバリエーションと水希の制服を比較し、イージスシステム顔負けの素早さと正確さで彼女が「異教徒」か否かの判定をくだすのである。そして、水希はこれまでに彼女の両脇を通り過ぎていったすべての女子学生——もちろん水希への一瞥の有無にかかわらずである——に、「異教徒」の判定を受けていたのである。
集中豪雨警報で学生たちが家に足止めされていたためか、彼らそして彼女らにとって随分遅い時間にも拘わらず、駅の通学ラッシュは今まさにピークをむかえようとしていた。
ため息をつく間もなく、プラットホームの階と地階のあいだにある、広い踊り場にたどり着いた。そのまままっすぐ進めば、RC3(前話参照)を行う公衆トイレが、そしてここから折り返す階段を降りれば、改札口に、そしてそこをまっすぐに数メートル突き進めば、持ち場へとたどり着くことができる。
水希は唇をキュッと結ぶと、Uターンを始めた人の雪崩を横切り、女子トイレへと向かった。
残り3分10秒——。
水希が女子トイレの入口を横切った。電車を降りてから50秒が経過していた。左手に持った携帯で時刻を確認しつつ、右手で一番目の個室の扉の把手を掴んだとき、彼女の脳裏を至極不穏な予感が横切った。体の動きを滞らせることなく扉を開くと、すぐさま身を翻し、内側から扉を閉じた。
——確か、持ち場まで4分って計算してたよね?
水希が自身に問いかける。
便座の上の棚に、カバンの口がこちらを向くように横倒しにしてスクールバッグを置く。チャックを開けっ放しにしておいたカバンから、手提げの形をした小さなモノトーン調の紙袋を取り出し、便座の蓋を閉じてその上に置いた。外見は何処かのショップのバッグに見えるが、内側には保冷バックのような金属光沢を放つコーティングがされていた。
水希の頭と体が、着々と各々違うタスクを同時並行して実行していた。
1分経過、残された時間は3分——。
——でもそうなると、持ち場に着いた瞬間、うぃーくんが作業をお願いしたバックパックの人がロッカーに行くってこと?そんなにギリギリなのって、よくないよね……。
水希の頭脳が不吉な計算処理を進めていく。
1分5秒経過。残された時間は——。
2分25秒。
——RC3を1分25秒で済ませ、定刻の30秒前に持ち場につく。
水希に課せられた作業の所要時間を限界まで縮めた場合を想定した結果だった。
齢わずか13歳の暗殺者の無駄のない動きがさらにキレを増す。
臙脂の制服のチャックを開き、しなやかな身のこなしで速やかに制服を脱ぐ。制服が水希の指先から落ちると、そのまま便座の上に置かれた紙袋の中に吸い込まれていった。
折り目がくっきりと付けられている新品の白いブラウスは、ボタンが10個あるが、いずれもボタンホールにボタンを通すタイプではなく、スナップボタンと呼ばれる、下の生地に縫い付け荒れた凸型の部品に、もう一方のボタンをパチっとはめ込むタイプのものだった。
水希が襟元のV字にあいた部分に左手を持ってくると、一気に手を振り下ろす。刹那鈍い連続音がしたかと思うと、音が途切れるやいなや、ブラウスは水希の右手を離れ、紙袋と彼女の指先の間の狭き空間を落下していくところだった。
右手がブラウスとの別れを惜しんでいる間に、彼女の左手は棚のカバンから鮮やかな真紅のTシャツを取り出していた。Tシャツといっても、厳冬の冷気の侵入を許さない、分厚いウール製の長袖で、丸首の穴がかなり小さめで、襟元を完全に覆うデザインになっていた。水希がそのTシャツの両袖に同時に腕を通すと、裾を強く引っ張りシャツのヨレを伸ばした。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.143 )
- 日時: 2013/10/08 18:10
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
次にカバンから取り出したのは、ポケットが幾つも付いた、黒無地のミリタリー風ジャケットだった。綿かダウンかが詰められた背高の襟が首から顔にかけてすっぽりと覆い尽くしている。ジャケットは羽織るだけなので、ものの2秒もかからなかった。
個室の扉の向こうで革靴の甲高い足音が横に流れていくのがきこえる。
豪雨のせいで、やや遅い通勤通学ラッシュを迎えた今、トイレの出入りも頻繁であるはずだったが、一人目の利用者が来るまでに、小さなEC隊員はトップスの着替えを完了していた。経過時間は、携帯を開く間も惜しいので、己の感覚でいうと、20秒くらいだろうか。とすると——。
残り2分5秒。着替えに使える時間は1分5秒——。
——大丈夫。絶対間に合わせます!
自分にそう言い聞かせる間にも、水希がボトムスの着替えに取り掛かっていた。
トップスはまだ序盤、時間がかかるのはボトムスの方である。
未だに横に膨れているカバンからカーキのショートパンツを取り出した。脱いだローファーを踏みつけながら、臙脂の制服のスカートの下にショートパンツを穿いた。
スカートのボタンとチャックを開き、くだんの紙袋にほうりこんだ。気が急いているせいで、オーバースローで叩きつけるような格好でスカートを投げ入れてしまった。誰かに見られているわけではないが、みっともない振る舞いに思わず顔を赤らめた。
——落ち着いて、落ち着いて。
衣服関係が主だったアイテムは、残すところ二つとなった。そのうちの一つ、漆黒のニーソックスカバンからを取り出し、穿きにかかる。今回のRC3ではどうしてもショートパンツを穿いてみたかったので、パンツとの組み合わせを何にするかで大いに悩んだ。
ストッキングやタイツは厚手を選べば足全体が暖かくなるが、穿くのに恐ろしく時間がかかる。外見上、着替えの所要時間上のベストは短めのソックスかと思ったが、この季節にそこまで頑張れる気がしなかった。それでニーソックスを選んだのだが、これもかなり穿くのに時間のかかるしろものであった。
右足で片足立ちになり、個室の壁に体をもたれかけさせながら長い靴下と格闘した。事前のシミュレーションの際はスムーズに履けたのだが、やはり気がはやっているのか、ふくらはぎのあたりに、ねじれたソックス独特の不快な感覚が伝わってくる。いつもは大人しく口数少なめな水希が、いらだちをあらわにしながらソックスのズレを直し、右足に取り掛かる。
最期のアイテムは本革のロングブーツ。任務中は激しく動くことが多々あるので、ヒールのついていないものを選んだ。我ながらよくもこんなに服や靴をあまり大きくはないスクールバッグに詰め込んだものだと、苛立ちの中でも己の行いに感心していた。
ブーツは靴紐で幾重にも編み上げられいた。残り時間が1分を切ったこの状況で少女のまえにダークブラウンのロングブーツが屹立している。だがロングブーツには内側に当たる部分にブーツの天辺から靴底まで縦に貫くジッパーかあり、全開にすればすんなり穿ける代物であった。
ニーソックスのときと同じく、片足でローファーを踏みつけながらの作業はみっともなかったが、今日この日のために、幾度もシミュレーションを重ねてきた水希にとって、片方のロングブーツを穿くのに10秒ではお釣りが返ってくるほどであった。
今更ではあるが、携帯を開いた状態で棚に置いておくべきであった。ボトムスを着替えるのにかかった時間は、彼女の感覚では30秒だと思ってはいたが、時間が経てば経つほど確実に誤差が広がっていくことを鑑みると、極めて不安だった。
今着ている漆黒のジャケットの右ポケットに、事前に入れておいた次なるアイテムを取り出す。そして眼前のスクールバックに目をやった。
カバンから携帯をとり出して時間を確認するだけでも、5秒程度の貴重な時間が失われてしまう。暑くもないのにこめかみから雫が垂れ、小刻み現れる白い息が水希の顔をうっすらと覆った。
——迷っている暇はないですね。
右手に次のアイテムをつかみ、左手を鞄に突っ込み、二つ折になった携帯を取り出して、直角に広げる。棚をしたたかに叩く音がしたとき、水希の瞳と正対する携帯電話の画面に、「7:57:57」の文字が映し出されているのが見えた。
——やった、ほぼぴったりです!
心の中で二つの拳を固めてガッツポーズをした。現実界の彼女の右手は今、数センチ程度の透明な滅菌パウチから小さなお椀上の物体を取り出し終えたところだった。一方、彼女の左手は、天井を仰ぐ彼女の右の瞼を押し開くように親指と人差し指を押し当てていた。
いよいよここからがEC隊員ならではの変装のメインイベントだ。裏表を問わず、世界中で最も恐れられるマッド・サイエンティストの、地味ではあるがかゆいところに手の届く、ささやかな発明のオンパレードである。
大崎影晴の裏世界での所業と、水希が右手に持っている「発明品」とのギャップに、思わず笑みが浮かぶ。
時間がなくても気持ちの余裕まで無くしてはいけないよ。時間がないのを楽しむんだ。
よく仲間——特にリーダー——からいわれ、自分でも言い聞かせ、そして時折仲間——特にリーダー——にも言い聞かせてきた文句が脳裏を横切った。
——そうよ、余裕をもって、楽しんで!
水希が左手に持ち替えた空のパウチを紙袋に放ると、右目にコンタクトレンズをはめ込んだ。大崎影晴のささやかな発明第一弾は、色合い変更機能つきカラーコンタクトレンズだ。
このコンタクトレンズは、装着中にレンズの色を変えられるのである。しかも色を変更するのに、リモコンのような別途の機器が必要ない。ではどうやって変更するのかといえば、色を意識するのである。色を変えろというメッセージを脳内に創り出し、その次に変えたい色を想像する。操作に慣れるまでに多少訓練がいるが、慣れればこれほど便利なものはない。コンタクトが駆動するためのエネルギーは、装着者のECのエネルギーである。コンタクトは者が小さいだけに、消費するエネルギーも、任務に支障が出ることなどまず考えられないほどの小さなものである。その上、ECの能力は人間の体力と同じように、使えば減るが、休息や水分、食事などの補給で回復する。つまりはコンタクトが燃料切れになることは事実上ない。そして、組織のメンバーではない何者かに不正に使用されるのを防ぐこともできる。
みるみるうちに、水希の瞳が血のように鮮やかな真紅に染まっていった——。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.144 )
- 日時: 2013/10/08 18:15
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
間髪いれず水希が髪の毛を結わえている左右のヘアバンドを指を巧み絡めてちぎった。乙女にはあるまじき所作であるが、彼女の髪の長さに加えツインテールというスタイルでは、ヘアバンドを髪を通して取り出すの時間が馬鹿にならないのである。ちぎったヘアバンドも便座の上の紙袋に放り入れた。
右手をミリタリージャケットの右ポケットに突っ込みまさぐると、再びパウチを取り出した。今度はグレーの地のパウチだ。コンタクトのものより倍くらいの大きさがある。虹色のラインがパウチの真ん中あたりを水平に貫いている。
水希がパウチの封を切り、白濁した薄緑色のゲル状の液体を左の掌に絞り出した。
大崎の細やかな発明第2弾は、色調整用トリートメントジェルである。色調整機能付きコンタクトで培った技術を応用し、それを頭髪にも応用したものであった。
水希が重量に逆らわずにおろした長い髪にジェルを擦り込み始めた。頭頂部の毛根のあたりから大雑把にジェルをのばしていく。このジェルは、大崎影晴の途方もない数の試行錯誤の末に生み出された、高い伸展性と流動性と浸透性、そして耐水性を兼ね備えた素材でできていた。そのため、ジェルをつけた手で軽く表面の髪の毛に触れるだけで、奥深くの頭髪までジェルが伸展し、ムラなく毛髪に浸透するのである。さらにこのジェルの優れているところは、40度前後の少し熱めのお湯ですすだけで跡形もなく流れ落ちるのである。そして、件のコンタクトと同じく、ECの能力者でなければ使うことができない。
襟足の辺り—毛先までではないのがポイント—までジェルをなすりこむと、水希は手を止め、手持ちのハンカチでジェルを拭き取った。頭の中で命令を発行する。そして深みのある紅をイメージする。
彼女の髪の毛の上半分が地毛の艶やかな光沢を残したまま、数秒の作業によるモノとは到底思えない見事な深紅に染まっていった。そして、ジェルが拭き取りきれていない両手も、うっすらと赤みを帯びていた。
ケイタイの画面に自分の顔の一部が映りこんでいる。右の眉毛に鮮やかな赤毛がかかっているのが見えた。そして眉毛、まつげにもジェルをすり込んだので、何もかもが深紅に染まっている。水希が満足そうに笑みを浮かべた。
だがRC3はまだ終わっていない。いよいよ最後の発明の登場である。赤毛の自分にやや陶酔している間に、彼女の右手は次のアイテムを右のポケットから取り出していた。今度もパウチである。そして、色調整用ジェルと同じように、右手にジェルを搾り出し、頭髪にすり込んでいった。今度は色調整用ジェルを擦り込んでいる髪が少し重なるあたり、耳たぶの高さのあたりからジェルを大雑把に伸ばしていく。今度は水希お気に入りのロングヘアーの端まで擦り込まなくてはならないので、ますます所作に乱雑にが増している。
すると、本来の艶やかな黒をしていた彼女の毛髪の色合いが目に見えて弱まっていき、数秒もせぬうちに消え去っていき、トイレの個室に入る前まではウエストにかかりそうなほどの長さのツインテールをしていた少女が、2分も経たないうちに、真っ白なうなじの上の端を覗かせる、ベリーショートの中性的な妖艶に様変わりしていた。
本ミッション最後の大崎影晴の発明は、不可視化ジェルである。このジェルを擦り込むとジェルの付着した部分だけ光を透過させ、人間の目には認識されなくするのである。まだ生成過程が多岐にわたり、品質も不安定なため、辛うじて少女一人分の頭髪に塗るだけの量を用意したのである。
このジェルを使うにあたり、指揮官から大反対があった。色調整用ジェルのテストのときでさえ、ウィルは驚きを通り越し、怒りをにじませていたのである。水希が日を改め、ちょっと驚かそうとベリーショートの状態でウィルのいつもの部屋に入り込んだとき、丁度ウィルはカフェラテを飲もうとコーヒーカップを持ち上げたところだった。見る影もなく豹変してしまった部下を目の当たりにしたとき、麗牙光陰の隊長の銀髪が蒼白に、瞳も光を失い真白に、コーヒーカップを持ち上げたまま金縛りにあったように動かなくなってしまった。あまりの反応に憤慨した水希は、硬直したウィルからコーヒーを取り上げ、飲みほして去っていったのである。
開発品の効果を確かめてもらうべく、開発者本人、つまり大崎の目の前で例の髪型に変化したとき、なんと大崎影晴からも芳しくない反応が返ってきたのである。さすがこれには堪えたが、それが返って思春期真っ盛りの少女の反骨精神に火をつけてしまった。
——完了!アイラインとか入れられたらもっと面白かったんだけどなぁ。
最後にスクールバッグから折りたたみ側を取り出し、バッグを紙袋にいれ、口を閉じて左手に提げると、棚の携帯を手に取った。
——7時58分40秒、かなり遅れちゃった!
トイレのレバーを引き水を流すと、内開きの扉に顔を刹那顰めながら個室を飛び出した。その瞬間丁度個室の前を通り過ぎた水希の後に入ってきた人と思しき女子中学生とぶつかってしまった。
「あ、す——」
「す、すみません、すみませんっ」
水希の言葉をさえぎるように、相手が顔を伏せ、必死になってお辞儀をしている、女の子の過剰ともいえる誤り方に両手を突き出してなだめていると、ふと目の前の鏡に映し出された己の姿が瞳に飛び込んできた。
いかにも粋がった服装に、髪も瞳も、眉毛も何もかもが燃え盛る炎のようなショートカットの女の子がこっちを見つめている。目線だけで相手を殺せそうな迫力に自身も体を硬直させそうになってしまった。
「いいんですよ、ね。そんなに謝らないでくださいね」
見た目からは想像もつかないほどの柔らかな高音と温和な物言いに、女の子がまぶたをいっぱいに開けて呆然としていると、水希が紙の手提げを正面に提げ、穏やかに頸を傾げて笑みを浮かべた。真紅の髪がかすかに揺らめく。
眼前の少女が顔を甚く紅潮させベリーショートの少女に魅入っている中、軽く右手で会釈をしてトイレを飛び出していった。思わぬタイムロスである。携帯を確認すると、12秒が経過していた。
残り38秒——。
水希が右手に提げた紙袋を上下左右に小刻みに振り始めた。この紙袋もくだんのマッド・サイエンティストの発明品であった。紙袋の口の内側から袋の内側に向かって微小なレーザーの射出口があり、そこから発射されたレーザーが、紙袋の不規則な凹凸で乱反射し、無数の刃となって中の布切れやジッパーなどの金属を塵芥に帰すのである。レーザーの供給源は、影晴が開発した、単4乾電池サイズの大容量バッテリーである。およそ20秒程度で処理が完了するので、電池を抜き、ゴミ箱に捨てることで完全な証拠隠滅が成立する。たとえ紙袋を調べ、同じサイズの電池をはめ込んでも、電力量が全く足りずに動作させることが出来ない。粉末化した証拠品を内包した紙袋は、ごみ集積車に詰め込まれて永遠に姿を消すのである。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.145 )
- 日時: 2013/10/08 18:16
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
真正面に現れたくだり階段は、多少人がはけたものの、水希の前進を妨害するには十分すぎるほどの人ごみがある。
水希が意を決し、前方を見据える。勢いよくロングブーツでコンクリートの床を蹴った。
「すみません」
言葉とは裏腹に押しのけるように肩をぶつけられた女子高生が声のしたほうを睨みつけると、さらに顔をしかめて身を引いた。赤毛の少女が人波間をすり抜けようとするたびに彼女のそばの人々はモーゼの力がかけられたかのように次々に左右に分かれていった。
改札を通り抜けるとさらに駆け足の速度を上げ、道路に達した。すばやく左右を確認し、反対側の柵にたどり着いた。走りながら傘を差したために、束の間氷の粒が刺すように可細い体を打ちすえてきた。耳を弄するほどの轟音を上げて降りしきるあられは、わずかの間に当たっただけでも水希の衣服の肩の辺りに白く積もっていた。
かすかに水しぶきをあげながら体を翻すと、RC3最後の時刻確認を行った。水希が食い入るように深紅の瞳でケイタイの画面を見つめる。
——7時59分……30秒……。
双眸を力いっぱいに閉じ、喜びをかみ締めた。目標時間達成である。
記念すべき第1回目のRC3は、所要時間1分6秒。ほかと比べるものがないが、水希の中では最高の出来栄えであった。
しばし閉じていた目を開くと、姿勢をただし、傘越しに駅入り口の向かって左奥のコインロッカースペースに視線をやり、周囲の情況を確認する。
——RC3終わりました。いま持ち場にいます。今のところ周囲に異状はありません。
——予定通りか……さすがだね、みぃちゃん。
部下から作業を滞りなくすすめているという報告をうけたのに、リーダーのヒアにはため息が混じっていた。
意識に直接響くヒアの声はよく聞こえるが、傘が破れそうなほど苛烈なあられのたてる音は非常に耳障りであった。
——もうすぐあの人来るはずだから、まわりの情況にはさい…の注意を払うようにね。……あったらすぐ連絡。僕は荷物の受け取りで引き続き構内に待機し……。
声なき会話を邪魔するかのように、稲妻が轟音をたてて下界に墜ちた。最初にきたときより大幅に近付いている気がした。
——了解です、リーダー。
水希がヒアを終えようとすると、寸でのところでウィルがヒアを割り込ませてきた。
——ごめん、一番大切なこと言い忘れてた。
水希が気持ち表情を顰めた。今までの見張りの任務で、一番大切なことというような特別な指示など今までなかったはずだ。
——今回の任務、暗闇の能力の使用はできる限り控えて。能力を使わなくちゃいけない状況になるまえに僕を呼んで、絶対だよ。それじゃぁ、よろしくね。
——え?
水希の明確な回答を待たずにヒアが途切れた。途端に右ポケットにいれた携帯のタイマーがマナーモードで作動した。8時だ。
ウィルとの会話が予測外に長引いてしまった。ウィルの最後の指示をひとまず頭の隅においやると、右手に持った傘をやや低く持ち、学生たちでごった返している駅の出入り口付近に警戒の眼を光らせる。改札の数メートル奥にある階段の中程に、例の男性の姿が見えた。男の進路を妨害するかのように横にひろがり会話に花を咲かせる女子高生の一団を目の前にしてまごついていた。
”まだ”不審な人物や現象は確認できていない。麗牙の二人はこの任務において必ず何らかの事件が起きると踏んでいた。どんなに情報の流れを厳格にコントロールしていても、必ず情報は漏洩するものなのだ。二人以上の人間が世界に存在する以上、逃れることのできない宿命なのだ、彼らの敬愛する「神」が言っていた。そして、その理を彼らは自らに課せられた侵入、窃盗などの任務を遂行することで、身をもって知っていたのである。
ようやくバックパックの男が眼前の集団を追い越すところが見えた。
水希の眼球が一層ひっきりなしに動く。
荷物の回収時刻が8時という情報が何らかルートで漏れていれば、帝国までに界隈で不審な動きがあってもおかしくないはずだが、今のところそのような兆候は全く見られない。念のため空も見てみたが、雨雲の中から鈍い音とともに光が漏れだしているだけで、不審な影などは見当たらなかった。
このような荒天では防御側は空からの襲来を察知しにくいが、攻める側も目標地点に達するのに困難を極めるのだ。それは攻撃手段が有人であろうと無線誘導であっても同様であることを、13歳の可憐な——今は見る影もないが——日本人中学生は遥か昔に知っていた。
だとすれば、次に警戒しなくてはならないのは、バックパックの男性がコインロッカーに寄り、くだんの荷物の入ったロッカーの番号を特定し、扉を開け、荷物を手にするのが確認できた瞬間。そこでもなければ、男性がロッカーから離れ、男性に代理を頼んだ依頼主のもとに戻る途中だ。
男が一番コインローカーよりの改札を小走りで抜けると、問題なくロッカーにたどり着いた。そして、右手に持った銀髪の少「女」から渡されたメモを見ながら番号を探している。
水希はロッカーにモノが入っているかが気になり、つい男性の様子に気を取られてしまった。
突然右から男声の薄っぺらい怒号がとんできて、本来の任務を思い出した。
不審者?
水希が体を回して右を向くと、痩身の男が前方の何かを睨みつけ、人間らしからぬ速さで駆けている。咄嗟に男の向かう先に体を戻した
「なにするんだ。はな——」
——あの人の声。しまった。いつの間に?
特徴的な怒号に反応してコインロッカーの方を見た学生たちの耳をつんざくような悲鳴が交錯する中、水希が深紅の瞳をロッカーに戻すと、目の当たりにした光景に愕然とした。
バックパックの男の手前に巨大な石像のようなオブジェが立ちはだかり、彼の姿が確認できない。
水希はしばし目の前で何が起きているのか理解できなかった。男の手前の石像が奥に一歩踏み出したのを見て、ようやくリーダーにヒアを飛ばした。動揺を抑えて、落ち着き払った声を送る。
——不審者が現れました、リーダー。不審者が現れ……。
水希のヒアが突然途絶えた。隅に追いやられていた土砂降りの轟音が再び指揮官の少年の聴覚を占拠した。
——こちらウィル。不審者、了解。何かありましたか。まだ待機してください。
灼髪の少女が眼前の光景に、返事をするのを忘れていた。傘を手にしたまま右手を落とし、呆然と立ち尽くした。あられに全身を叩かれても痛みを感じることすら忘れていた。
——水希、返事をしてください。水希?
黒壁の男に加勢するように、もう一人、真っ黒な覆面をかぶった妖怪ぬりかべのような魁夷がコインロッカーの一角に突っ込んでいくのが二つの灼眼に映り込んでいた。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.146 )
- 日時: 2013/10/08 18:17
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
二〇六二年三月九日 午後10時30分——
最後通牒は何の前触れもなく男のもとにやってきた。
昨日、基地内のトレーニングルームでのトレーニングを終え、地面に埋め込まれた歩道の誘導灯に挟まれながら寮に戻る途中、寮の棟の入り口に男の上官が立っていた。日本国防衛軍陸軍所属二等兵 名仮平 以宇衣(ながひら いうえ)の顔はしわ一つ揺れることはなかった。姿勢をただし、スニーカーの踵をできる限り大きく鳴らし、敬礼をする。身長2メートル50センチを超える魁偉ゆえに、上官を見下すような姿勢になった。上官が天を仰いた。
「ポーカーフェイスだけは一人前になったな。名仮平」
「……」
「名仮平、お前に緊急の任務だ」
名仮平は思わず右の頬を引きつらせそうになったが、口を真一文字に引き絞り、表情を悟られまいとした。
その場で任務のブリーフィングが行われるものと思っていたが、名仮平の上官は任務の開始時刻、集合場所、目的等必要な情報の全てが、管内ネットワークにある個人タスク一覧に追加されているので、確認しておくよう彼に告げると、彼の下から去ってしまった。
寮の自室に戻った名仮平は、軍内ネットワーククライアント端末で自身のタスク一覧を確認した。上官が言っていた任務のブリーフィングを記載した 文書が一番上に登録されていた。それは紙にすればA41枚で済んでしまう程度の簡潔な文書だった。
部隊内で出回っている噂の通りだった。明確な軍規違反があるわけではないが、兵士としての職務遂行が著しく損なわれている兵士に対しては、残留を判断するための任務を与えるという。そしてそのブリーフィングは極めて簡素であるか、短い文書一枚で済んでしまうとのことだった。
名仮平は故意ではないが、紛争若しくは災害現場での任務において、上官の指示とは異なる行動をし、他の兵士や組織へ損害を与える過失を幾度となく繰り返していた。同期の兵士や10歳以上年下の兵卒にさえ馬鹿にされ、上官からは見放され、もはや組織の中に彼の居場所は無くなっていた。
組織からは救済措置のための任務や機会を何度か与えられてきたが、ことごとく完遂できずにいた。
名仮平が端末の画面を食い入るように見つめる。大男の三白眼が何度も画面の同じ領域を行きつ戻りつする。任務の内容と完遂条件を何度。最後の任務はこれまで名誉挽回に与えられてきたものとは性質の異なる、任務完遂の可能性が極めて低いものであった。
——目的——
日本国防衛軍のさらなる拡大を阻害する、悪しき技術の発展に寄与する取引の妨害と秘密結社「EnjoyClub」の構成員の“生きた状態”での拘束。
——日時——
2062年3月10日8時00分 転送開始
2012年1月20日6時50分 転送完了
——完遂条件——
以下の2つの条件を共に満たすこと。
1.取引対象の物品の奪取。但し、当該物品の破壊は許されない。対象物は精密部品であるため、取り扱いには細心の注意を払うこと。
2.取引現場にいると思われるEnjoyClubの構成員の捕縛。但し、肉体的な損壊が無いこと。
——備考——
なお、本任務を完遂できなかった場合は、日本国防衛軍陸軍を不名誉除隊とする。
真っ先に備考に目がいった。一字一句予想通りの文言だった。だが日時の意味が理解できず、目的と完遂条件内にある不吉な横文字に、刹那思考能力を失いかけた。
——畜生。それでも、やらねばならんのだ。
端末をつかんでいた右手に思わず力が入り、耐衝撃性を備える端末の背面の外殻が音を立てて凹んだ。
「EnjoyClub——」青白い光が漏れるゆがんだ月を仰ぎながら、ぼそりと呟いた。
二〇一二年一月二十日 午前8時00分 駅前——
ついにこの時が来たのだ。雨足の勢い極る8時00分、この時代に転送してすぐにコインロッカーの付近に仕掛けておいた無線監視カメラに、メモを手にした男がコインロッカーに接近してくるのが見えた。
駅付近の物陰で息を潜めていた名仮平が転送装置のスイッチを力の限り押さえ込む。地響きのような雄叫びと共に2.5メートルの巨体が周囲の景色の溶け込むように半透明になっていき、やがてその場から消失してしまった。
次の瞬間、コインロッカーのある、改札の右側ではなく左側の壁のそばに巨体が現れた。天空より射出されるおびただしい数の氷の急降下爆撃が濃灰色の制服に直撃する。突如行く手を阻まれた道行き半ばの人々は、怪訝そうに大男をにらんだが、凍てつく嵐のために傘で己の視界を遮っていた彼らに、それ以上不審がられることは無かった。
監視カメラで見た、メモを手にした男の後ろ姿が目と鼻の先にある。カメラでは気付かなかったが、男はバックパックを背負っていた。
昂進する戦意をむき出しにして、巨体が前方へ動き出した。全身を打ちすえる氷の粒を全く意に介さず、進路上の歩行者がいないかのように一気に直進すると、コインロッカーの扉を開け、件の品を左手にした男の背後に仁王立ちになった。
不意にコインロッカーが不自然な影に覆われたのに気付いたバックパックの男が素早く振り向いた。名仮平が無言のまま男の頸を左手で鷲掴みにし、肩腕だけで難なく持ち上げた。バックパックの男の叫び声が途絶え、見る見るうちに男の顔がゆでダコのように真赤に染まる。右の方でガラスを引っ掻いたような悲鳴が波紋のように広がっていった。
「もらってくぜ」
独り言のようにつぶやくと、バックパックの男から品をとり上げた。子供が使い古したおもちゃを投げ捨てるように、バックパックの男を左側に放り投げると、鈍い音を立ててコンクリートの床面に男が叩きつけられる。
「とりあえずひとつめの任務は一丁上がりか」
名仮平が小さくつぶやき、踵を返すと、その視界に丸太のように図太い足が視界に割り込んできた。
「こぉんにゃろぉう!」
怒号が巨漢の耳を弄した。名仮平が目を見張り顔をあげたが時すでに遅し。怒号と共に巨大な何かの猛然たる突進を真正面から喰らい、アルミ製のロッカーに人型のくぼみをつくってめり込んだ。
コインロッカーに設置されていた防犯ベルがけたたましく鳴り響き、しゃにむに駆け出した人々が放りだした傘が千々に乱れる。駅前の道路を走っていた自動車の急ブレーキ音が割って入った。ますます悲鳴が激しさを増した。天空が取り乱した人間共に無数の氷の弾丸を叩き込んだ。混乱を煽るかのように、弩級の稲妻が立て続けに3回、駅付近のビルの避雷針を直撃した。
——リーダー、バックパックの方が何者かの襲撃を受けました。品は襲撃者に奪取された模様です。指示を。
左右から突進してくる人々を華麗にかわしながらヒアを飛ばす。あまりにも騒音が耳触りなので、両手で耳を塞いでいた。一時は酷く狼狽していた水希だったが、すぐに平静を取り戻し、彼女の声はいつもの任務のごとく落ち着き払っていた。
すぐに返ってきた少年のヒアの声も、この状況には不謹慎なほどに穏やかに水希の脳裏に響き渡った。
——了解。こっちからも騒動の様子は音で把握してる。僕が地上に移動するよ。人ごみの中だと能力が使いづらいから、襲撃者が現場から離れたところでモノを奪還します。
——了解です。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.147 )
- 日時: 2013/10/08 18:18
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
最後に指揮官の少年から、楽しげなヒアが飛んできた。
——テレポートって、日中は物陰から物陰って回りくどいけど、今日は一気に現場の付近に移動できそうだよ。
刹那、黒装束の少女は何のことかと返事に詰まったが、鈍い轟音が会話に割り込んできたとき、指揮官の意を察した。
——ふふ、そうですね。
徐行で自分の方に突っ込んできた軽自動車を軽快にかわしながら、折に閉じ込められた獅子のように唸り声をあげる雷雲を一瞥した。己の胎内で2度3度とぼやけた光が雲間から漏れている。
水希が2体の怪物の動きに注意を戻すや否や、一条の稲妻が勢いを衰えさせることなく、駅の避雷針に墜ちた。
駆け回っていた人々が、一斉に耳を塞ぎしゃがみこんだ。
苛烈を極めていたはずの凍てつく垂直落下の轟音がかき消された。
僅かの間に2度、空間が真っ白に明滅した——。
駅の構内は、大半の人びとがかがみこみ、人々のざわめきが数秒の間消えうせていた。警備員が駆けつける見込みのないコインロッカーから発せられる警報ベルの音が空しく響いていた。
この駅は、コインロッカーコーナーのそばに、ちょっとした見所があった。床上から天井まで縦に貫くように壁にはめ込まれた色鮮やかなステンドグラスである。
稲妻の堕ちた直後、ステンドグラスは、周りとは様相を異にしていた。
ステンドグラスの足元に、人影がひとつ、雷鳴と稲妻に取り乱すことなく、静かに佇んでいる。人影はステンドグラスの色鮮やかさに負けず劣らず鮮烈なシルバーヘアを優雅になびかせ、目深にかぶったブラウンのキャスケットで面貌を覆い、静かに体躯をステンドグラスにもたれかけさせていた。
稲妻の引き起こした混乱に乗じて1階の現場付近に瞬間移動してきたウィル=ロイファーが体をあずけている壁沿いの奥で、バックパックの男が一時的な酸欠で気を失い倒れ込んでいる。ウィルの注意は、視界の左隅で哀れな姿をさらしているバックパッカーの前を横切り、さらに奥でコインロッカーにめり込んでいる大男の右手に向けられていた。
あれが僕たちに託された品……。
麗牙光陰を前代未聞の長期ミッションに引っ立てたブツは、コインロッカーの奥で猛獣よりも獣じみたうなり声を上げる大男の右手の中に収まっていた。か細い銀髪の少年の手首と同じくらいの太さがありそうな指の隙間から、見るからに堅牢そうなマット調のガンメタリックのケースが垣間見える。麗牙の指揮官が表情こそ出さなかったものの、心の中で眉間に深々としわを刻んでいた。仕事柄あの手の抗弾素材製のケースは瞼を閉じても表面の粒状感が思い浮かべられるほど目にしてきた。そのケースの分厚さを差し引くと、問題の品物は——。
——拳銃並みの大きさしかないことになる。いったいあの中に何が?
今回の任務のブリーフィングでは、荷物の中身については一言も触れられることが無いばかりか、品物について詮索することも禁じられていた。内心までは縛られることは無いだろうと、麗牙の指揮官は心の内で品物の正体について想像を膨らませていた。
ECの頂点に君臨し、裏の世界の畏怖を恣にしてきた暗黒の科学者、大崎影晴はつま先から髪の毛の先まで、どこをとっても科学者らしい純粋な興味が隙間なく詰まっていた。それゆえに、ECにくる依頼の選り好みも激しかった。自分の好奇心を少しでも満たしてくれるものであれば喜んで依頼を引き受けるが、そうでなければどんなに金や利権を積み上げても首を縦に振るような人間ではない。そんな彼が長年傾倒している研究テーマは、生命、殊に「人の命」に関するものであった。
麗牙光陰を前代未聞の長期ミッションに駆り出してまで引き受けたこの案件もやはり、そのテーマに関するものなのだろうか。ならば、あの無骨なケースに入っている小さい(と思われる)モノの正体は武器や金銭では無いことになる。記憶媒体の類だろうか。
——水希、これからは逐一僕が指示を出すよ。
指揮官の少年は、駅前を走る道路の路肩からこちらを見て頷く灼髪灼眼の部下の姿を可能な限り見ないように留意しながらヒアを飛ばす。
ウィルがステンドグラスの下から横目でコインロッカー付近に注意を向けた。バックパックの男からモノを奪った大男は間違いなく麗牙の敵だが、その大男に体当たりを食らわせた覆面の大男の素性がわからず、しばらく静観を決め込むことにした。
己が身に受けた衝撃で片膝をつき肩で息をしていた覆面がゆっくりと立ち上がろうとすると、コインロッカーの大男も後れをとるまいと雄叫びと唾を盛んに飛ばして体を起こす。荒ぶる氷の嵐と目と鼻の先に墜ちた稲妻でこの上ない恐怖を味わされた乗降客達が、コインロッカーコーナーに現れたさらなる脅威の出現に一斉に後ずさりした。
——リーダー!
動き出した二人の大男にウィルの神経が先鋭化するさなか、突如水希のヒアが脳裏で鳴り響く。ウィルが水希の方に目線を向けようとすると、一陣の風が右から左へと少年の鼻先を横切った。ブラウンのキャスケットが吹き飛び、シルバーヘアが顔を覆った。
「なに?!」
——リーダー、男の人が!
少年がステンドグラスから離れ、体を風の抜けていった方にひねる。痩身の男がコインロッカーの大男の右手のある方に体当たりで突っ込みむと、衝撃で大男の右手から濃灰色のケースが弾き飛ばされ、大男がコインロッカーに激突すると、大男の前方の虚空に弧を描いて飛んでいくさまがスローモーションのようにウィルの蒼き瞳に映っていた。ケースが虚空を舞っている間に瞬間移動を使えば、目撃者を最小限に抑えつつ急場を脱し、一つ目の任務を完了できたはずにもかかわらず、このときは百戦錬磨の暗殺者の少年が金縛りにあったように身動きが取れなかった。
指揮官の部下の紅の少女も全く同じ状況に陥っていた。二人ともターゲットの入ったカバンには目もくれず、カバンを大男の手から引っぺがした痩身の男を穴があくほどに睨みつけていた。
——あの男、まさか。
——リーダー……。
二人のヒアを遮るかのように、遠巻きから大男たちの様子をうかがっていた野次馬の中から、驚愕する男の低い声が響いた。次の瞬間、コインロッカーコーナーからドラム缶がひしゃげるような音が轟き、駅構内を囲う壁や天井で無茶苦茶に反響した。
任務遂行の邪魔をされた大男が、人外の腕力でコインロッカーを台座からひき剥がし、気が狂ったように怒声をあげて100kgを超える緑色の直方体を覆面の大男めがけて大上段から振り下ろしたのだ。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.148 )
- 日時: 2013/10/08 18:19
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
「アビィ!」
あの化物に奪われた品を取り返すことまではできなかったが、岩よりも強固な男の拳から品を引き剥がせたのは、我ながら大金星と、満足と安堵の息をついた矢先だった。化け物が咆哮で駅舎のコンクリートの壁や天井を震わせながら振り下ろした巨大な金属の箱が魁偉の相棒の脳天に迫ると、相棒は熊よりも図太い両腕を天につきたてた。だが、怪力のアビーでさえその圧力に屈し、片膝を落とし、両手と首より上がロッカーの中にめり込んでいった。
鉄板の裂け目がアビーの皮膚に食い込み、箱の中から幾筋ものねっとりとした赤い筋が垂れてくる。ロッカーに埋もれた人影が大きく呻いたきり、微動だにしない。けたたましく鳴動していた警報装置は体躯を跡形も無く粉砕され、沈黙を余儀なくされた。周囲の群衆はようやく雷鳴と稲妻のショックから立ち直ったというのに、ひとつめの言葉を吐く前に絶句していた。氷の粒がアスファルトと自動車の外殻を打ち据えるボトボト、バラバラという音が響き続けた。
相棒の名前を絶叫する若い男の声が刹那、周囲に響いたが、すぐにバックグラウンド・ノイズに掻き消された。コインロッカーに駆け寄ろうと体を起こしかけたコードが、志半ばに再び地面にくず折れた。
怒りの覚めやらぬ名仮平が、右手からモノを弾き飛ばした張本人に射抜くような目線で睥睨すると、斜め左に飛ばされたものをとろうと、人が突き刺さったコインロッカーを前に突き飛ばそうとした。
「?」
鉄の箱が動かない。名仮平が再度100kg超の箱を前に突き飛ばそうと試みるが、やはり動かない。上下左右に振り回そうとしたが、びくともしない。そのまま手を離してさっさとモノを取りに行けば、男に課せられた一つ目の任務は完遂できるのであるが、腕力には絶対の自信をもつ男の意地が彼の手をロッカーから放させようとしなかった。
「徹夜明けの頭にいい目覚ましだったぜぇ。でくの坊」
コインロッカーの中から威勢のいい啖呵がくぐもって響いてくる。コインロッカーをかぶった人影が己を遥かに上回る怪力の圧力に抗い、ゆっくりと立ち上がった。そして勢いそのままに、覆いかぶさる超重量級のコインロッカーを取り払おうとしたが、そうは問屋がおろさない。コインロッカーの外と中で大男が二人、金属の箱を上に下にと熾烈を極める力比べが始まった。
「アビィ?」
「ぼさっと突っ立ってねえでさっさとブツとって逃げやがれ、もやし!」
首から上がコインロッカーという不気味さが巨漢の凄味を助長させていた。地べたにへたり込んでいたコードが両手をついて立ち上がり、斜め右前方に転がっている金属製のケースめがけて駆け出した。コードの足音からかなり遅れてコインロッカーの圧力が一時弱まる感触が、アビーの両腕に伝わってきた。全く力が抜けてないところからして、コインロッカーを手放したのではなく、持ち替えただけか。
それでも図らずも名仮平を陽動したアビーが、暗闇の中でニヤけついた。あとは野郎が適当に姿をくらませれば任務はやり直せる。だが——。
「俺様にこんな無様な体たらくをさせたことは許せね——」
「アビー」
アビーが陸軍兵士との一騎打ちに持ち込もうとコインロッカーを支える両腕に全身全霊を注ぎこもうとすると、コードの声がした。やけに近い。
「き、きさま。逃げたんじゃねぇのか」
「どこに行けばいいんだよ」
漆黒のバラクラバが、噴き出した冷や汗でびっしょりになった。名仮平への闘争心に加え、コードのうすのろさ加減が、アビーの肉体機関の馬力をさらに高める。コインロッカーを上へと押し上げる力が見るからに上からの圧力を凌駕し、アビーの口元あたりまでが露わになってきた。
突然ロッカーの外側から野次馬たちの悲鳴が聞こえてきた。間髪いれず、相棒の腑抜けた叫び声も。野次馬どもの叫び声の中に単語のようなものも聞こえたが、耳がコインロッカーの側面に遮られて内容の判別がつかない。氷の嵐の轟音に混じって、小さな金属製の缶のようなものが構内の床に落ちる音がした。
「アビィ!手榴弾だよぉ!」
アビーが音のした方に眼球を回した。脳裏にさきの金属音が幾重にも反響していた。
手榴弾だと?違う。あれは地面に落ちたときそんな音はしねぇ。だいいいちこんなところで放ればやつ自身も逝っちまうぜぇ。
吹き出した疑問がアビーの脳裏をふとよぎった。音の正体に気づくまでにほとんど時間を要さなかったが、アビーにとって果てしなく長い一瞬だった。耳には、幾重に鳴り響く野次馬の悲鳴がスロー再生のように薄気味悪く流れていた。
「コードぉ!目を塞げ!その場に伏せろ!」
大衆の悲鳴を制した相棒の怒号が耳に届くなり、コードが足を止めて振り向くと、相棒のバラクラバが見えるほどに持ち上がっていたロッカーが、再び図太い首の根っこまで下がっていた。既に、コードには地に伏せることはおろか、瞬きをする時間さえ残されていなかった。
一瞬にしてコードの視界が白一色に埋め尽くされると、鼓膜を突き破らんばかりの轟音が数回、立て続けに無防備の男の耳を襲った。
気付くのが明らかに遅れた。痩身の男が手榴弾と呼んだものの正体は、フラッシュ・バン、つまり閃光音響手榴弾だったのだ。瞬間移動をしようと意識を集中させようとした矢先、黒い缶は己に課せられた使命を遂行したのだ。
ウィルのまぶたの裏に、フラッシュ・バンが炸裂する瞬間が克明に映し出される。コインロッカーの中で喚く大男の声、呆然と立ち尽くす痩身の男、直後に少年の視界が真っ白に反転、したかと思った。だが今、少年は服の擦れる音一つしない、完全な静寂、そしてどんなに手を目に近づけても物陰ひとつ見えない完璧な闇の中に陥っていた。
——まさか、フラッシュ・バンで視覚と聴覚がこわれ……、そんな。
完全な闇と聴覚の喪失は、少年から平衡感覚を奪い去り、無重力空間でぐるぐると上下左右に回されているような、名状しがたい気持ち悪さが鳩尾あたりで渦巻いている。手のひらが体に触れているはずなのに、その感覚さえない。最早自分がどのような姿勢で、どのような格好で、地面に立っているのか、あるいは何かの拍子でどこかに落下しているのかもわからなくなっていた。
もう二度と世界が見えないの?聞こえないの?せめて、なにかに触れている感覚だけでも——。それさえも叶わないの?それじゃまるで、死んだも同……。
おもわず少年が心の内奥で口をつぐんだ。右手の五本の指先で恐る恐る己の右の頬を撫でているであろう所作をする。もし、彼に感覚があったなら、指先が小刻みに震えているのが青白い頬を伝わって、否応なしに彼の精神を揺さぶるのが、左右の目じりから冷たい雫が2条の筋を描いて頬を流れ落ちる感触が、克明に感じられたはずだった。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.149 )
- 日時: 2013/10/08 18:20
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
麗牙の指揮官が、決して自身に聞こえることの無い嗚咽を漏らそうとしたとき、その時は訪れた。
頭の奥に痛みを感じるほどに強烈な光が少年の蒼き瞳に突き刺さった。聞きなれた騒音が——無数の氷の粒がアスファルトとコンクリートの地面をたたきつける音が、錯乱した人々の喚声が——少年の外耳道になだれ込んできた。
彼の虹彩が能力を取り戻し、徐々に光が弱まっていくと、駅の床であろうタイル地の地面と、自身の膝が視界に映し出された。弾けたように顔を上げると、激烈な閃光と爆音で、一時的に光と音の闇に堕とされた人々ののた打ち回る光景が目下に広がる。
ようやく自分が三途の川を渡っていないこと、駅の床で膝を落とし、へたり込んでいる現状をのみこめた時、もうひとつの聞きなれた音が、少年の耳ではなく、脳裏に直接伝わってきた。
——間、一髪…でした…ね。…リーダー。
水希だ。棚妙水希が闇の能力で指揮官をフラッシュ・バンの襲撃から護ったのだ。ウィルがヒアの主に感謝の所作をしようと川沿いに目を向けると、自身の能力でフラッシュ・バンの難を逃れ、直立している件の黒衣に鮮烈な紅毛のベリー・ショートの佇まいが視界に飛び込んできて思わず体を強張らせた。
白い靄で覆われた水希の顔が苦しさで歪み、体が前のめりになっていた。
——水希、無理はしないで。一度に二人に能力を使ってはダメだ。
俯いた紅髪の少女が力なく顔を上げ、悲愁に満ちた瞳で指揮官の瞳を見つめる。
——心配なんだ。その能力を使うことで水希になにかわるいことが起きる気がして…。
続くヒアを受けると、水希が押し黙ったまま、赤き視線を下に落とした。無数の氷が地面を穿つ鈍い音に水希の意気が埋もれようとしていた。
——でも。
轟音の隙間をぬって、短いヒアが少女に伝わる。
——ありがとう。さっきは本当に助かったよ、みぃちゃん。
——…はい、リーダー。
指揮官の目には、少女の表情とヒアに光を取り戻したように見えた。
——この任務で、水希にこれ以上能力を使わせてはいけない。…絶対。
ウィルが口を真一文字に引き締め、コインロッカーを見やる。そこでは、コインロッカーを手放した大男が体を屈め、丸太のような右腕で、モノを掴んだまま地面に倒れ悶絶する痩身の男を掴みあげようとしていた。
コインロッカーが頭に被さっていたのが思いがけず幸いとなった。耳の奥でギリギリと刺すような痛みが走り、耳鳴りのせいで身の回りの音が全く聞こえないが、ゾンビのように腕を前に突き出しながら彷徨う羽目にはならない。こんな痛みよりも1000倍吐き気のする苦痛を数え切れないほど経験してきた。だが、案の定うすのろな相棒のうめき声が足元から聞こえてくる。
そしてオレさまの推測が確かなら——。
アビーがコインロッカーをかぶったまま腰を落とすと、両腕をめいいっぱいに広げ、超重量級の鉄の塊を力の限り水平に振り回した。
程なくコインロッカーが何か重たいものに衝突する音と共に、どすの効いた男の叫び声が構内に響き渡った。そしてコインロッカーが何かに強固に固定されたように、びくともしなくなった。何もかもアビーの予想通りだった。
「んにゃろう!さっさとイケェ!」
「民間人の分際で、その口二度と聞けぬようにしてくれる!」
アビーを背後から押し倒そうとする圧倒的な力が、コインロッカー越しに伝わってくる。アビーが左足を前に突き出し、澄んでのところで転倒を免れた。
「てんめぇのことじゃねぇよぉ、化物め!コードぉ、這ってでもいいからさっさと逃げやがれ!」
強烈な閃光の後遺症で白一色の世界に立たされたコードが、上着の裾を何かが掠める感触といつもの相棒の罵倒で跳ね上がると、金曜深夜に出没する酩酊の小父さまよろしく左右に大きくブレる千鳥足で前進し始めた。ちょうどコインロッカーコーナーとは改札口を反対側——フラッシュ・バンで平衡感覚と視界を失ったやじうまたちが地面に転がっている区画——へ向かっていた。
それを目の端で認めた名仮平が、左の体側で受け止めていたコインロッカーにかかる圧力に抗うのをやめ、突然アビーを中心に反時計回りに走り出した。フラッシュ・バンの爆音の影響で、鼓膜の奥で脈打つような激痛に苛まれ、相手の動きに対する注意が散漫になっていたアビーが、コインロッカーを被ったまま大きくバランスを崩した。
名仮平が半円の弧を描き切るころには、バラクラバの魁偉の抵抗からまんまと離脱し、雄叫びを上げてモノを持ち去った男との距離を詰めていった。
地面に無数に巻き散らかされた氷の粒をミシミシと踏み砕く音が、激しい耳鳴りの隙間から聞こえた様な気がしたのも束の間、その足音は駅のコンクリート製の床をわずかに軋ませながら、見る間にコードとの差を詰めていった。名仮平の標的が野次馬の集団にたどり着くのとほぼ同時に、名仮平が前に突き出した方のつま先がターゲットののかかとにかかっていた。
左足のスニーカーの踵が何かに引っ掛かる感触を受けるなり、コードが方向転換し、野次馬の人だかりの間を掻き分け、闇雲に走った。その度に野次馬たちは、サメに遭遇した真鰯の魚群あるいは人間界の空を覆い尽くす椋鳥の群れのごとく滑らかな曲線を描きながら、追いかけっこをする二人の男達を巧みに避けている。
ちょこまかと針路を変えるコードを、追いかける名仮平も逐一向きを変えて追いかけていたために、コードの体躯に大男の手が届く数センチを詰められずにすんでいた。だが、業を煮やした巨漢がコードの動きを見越して、野次馬を薙ぎ倒し、蹴散らし、投げ飛ばして先回りを試みはじめると、途端に大男の手のひらがコードの肩や背中に触れるようになった。
コードが辛うじて大男の魔手を逃れている間、彼の空いている左の掌でしきりに左の大腿を叩き、走れ、走れと叫んでいる。傍の目には、あたかも騎手が馬に鞭を入れているように見えた。
コードの左右の大腿筋が、矢庭に熱を帯び始める。ややもせず、ふたつの脹脛にもその熱が伝播した。「きた」コードが小さく呟くと、閉じた唇の端をかすかに持ち上げる。直後に前に突き出した右足が、地面を叩いた瞬間、耳を弄するような衝撃音を発する。だが、同時にその足が瞬間的に痙攣し、コードの体が大きく前につんのめった。コードの真正面で、中学生風の少女が後ずさりながら呆然と口を上げて、彼を見つめているのが見えた。少女の瞳が己が身が捕まえられたかのように痛切な煌きを残し、コードの視界を下から上へと流れてゆき、やがて見えなくなる。
そのまま行けば氷の粒で覆い尽くされた地べたに倒れこむはずだったのが、突如彼の動きがぴたりと止まった。そして右の手首に軟骨と骨がつぶれそうなほどの激痛がはしると、コードの体が大きな力に引き戻され、つま先が地面を離れた。大男に右手をつかまれた哀れな獲物が身もだえする間もなく、丸太のような左の二の腕で頸を締め上げられ、もう一方の手でコードの左胸にサバイバルナイフの切っ先をぴたりと当てた。大男が体をひねり、コインロッカーを地面に叩きつけている覆面の大男のほうを向いた。
- Re: 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.150 )
- 日時: 2013/10/08 18:21
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
「うあぁ!」
コードが首を締め上げられながらも雄たけびをもらすと、渾身の力で全身をひねり、大きく右腕を振りまわした。
己の頸の下の辺りから、黒いケースが前方に飛んでいくのを目の当りにした名仮平が、息をするのも忘れ、しばし黒いケースの飛翔するさまを呆然と眺めていた。
名仮平に薙ぎ倒されずにすんだ野次馬の視線を一身に受けた黒いケースは、ゆっくりと回転しながら緩やかな放物線を描き、人々の頭上を飛翔してゆく。数秒間の滑空のなか光沢のない黒いケースの上面では、天空より垂直降下する無数の氷の欠片が絶えず衝突とバウンドを繰り返し、濃密な白い煙が湧きたつ。
黒いケースが滑空するコースの延長線上から、新たな足音が——氷の欠片を踏み砕き、地表上数十センチの中空に巻き上げる音を盛大に撒き散らしながら——ケースに向かって急速に近づいてくる。覆面の大男が上体を力強くひねり、両腕を振り上げ、大股で駆け出した。5歩目でブツを格納している黒いケースと接触した。
「コードぉ!」
アビーが野次馬の向こうに聳える大男のほうに向けて絶叫する。アビーの喚声の音圧に押しやられるかのように、アビーと名仮平を結ぶ直線上の人々が脇に退いた。だが、アビーは男に向かって駆け出すようなまねはしなかった。そんな真似をすれば、相棒の辿る運命は火を見るよりも明らかだ。
「アビィ!それ持って逃げて!」
「もやしの分際で、オレに指図すんじゃねぇ!」
「この期に及んで何言ってるんだ!あんたプロの運び——」
人質の頸を締め上げている左腕の力が抜けているのに気づき、名仮平が先ほどよりも左腕に力を込める。頚動脈と形状脈を流れていた大量の血液が顔面でうっ血し、見る見るうちに皮膚の裏が真っ赤に染まっていく。
「相棒が苦しんでるぜ。覆面」
2メートル50センチの巨漢が、遠巻きに覆面の大男を見下ろす。今度はしゃべっている間も左腕は岩のごとき堅牢さを保っている。左胸にわずかに食い込んでいるサバイバルナイフも一分の隙も無い緊張感を維持している。
一か八かでこの貧弱な男を人質にとってみたが、さきのやり取りからすると、存外にもこいつは覆面野郎にとっては簡単に切り捨てることの出来ない存在らしい。
名仮平が面にはださずにほくそ笑むと、覆面男がとるであろう行動を待った。
——僕たちの立ち位置がわかったよ。水希。
——そうですね、リーダー。
小学生のような風貌の2名の暗殺者が、手短に音無き会話を済ませる。
コインロッカーで事件が発生した瞬間から、誰が麗牙の味方かあるいは敵か、そして無関係の人間なのかが判断しかねていた。それがわからない限り彼らの能力は全体の1パーセントの力さえも出すことが出来ない。
だが、さきの3人の短いやり取りで男達の関係がはっきりした。
若者を人質にとっている大男は件のケースを強奪しようとしている。
人質の若者と覆面の男は運び屋で仲間同士。つまりあのケースを目標地点に届けてきた張本人だ。
麗牙は己らの身元が割れないように配慮しながら、彼らを全力で護らなくてはならない。
——僕が閃光手榴弾で人質の男性を解放するから、水希は掩護の合図があるまで待機してて、絶対だよ。
——…了解です、リーダー。
そう言い、ウィル=ロイファーが名仮平を一瞥し素早く視線をアビーに向けると皿のように目を見開いたまま釘付けになり、身じろぎ一つ取れなくなってしまった。
水希がウィルの異変に気付き、目線をアビーのほうに向けると、底には目を疑うような光景が映し出されていた。
覆面の大男が、人質を抱えている大男に向けて、拳銃の銃口を向けていたのだ。
「貴様……どういうつもりだ。こいつが見えないのか?」名仮平が動揺を押し殺して言葉を搾り出すが、声がうわずり、体がこわばっているのがコードの頸と耳を伝ってはっきりと感じ取れた。
——それで、いいんだ。オッサン。
不意にコードが全身の力を抜いた。頸を絞められているというのに、息苦しさが消えたような気がした。
「ああ、しっかり見えてるぜぇ。オレの足を引っ張ることしかしねぇ、役立たずの腰巾野郎の姿がな!」
言い放つなり、アビーが拳銃の引き金を引く。50口径の 「ハンドキャノン」S&W M500 が人の頭よりも大きなマズルフラッシュを放ち、12.7ミリメートル径の.500 S&Wマグナム弾をシャバに叩き出す。日本の警察の制式拳銃の6倍強の重量、銃口通過時の運動エネルギーは10倍以上と、文字通り桁違いの威力を誇る弾丸が、発火炎を巻き込み、1条の紅き閃光となって日本国防衛軍陸軍兵士に向かって牙をむいた。
コードのこめかみのすぐ右側から尋常ではない炸裂音と衝撃波が拳銃の経験が皆無の青年を襲う。鈍器でたたき付けられるような衝撃を頭に受けたコードが、色即是空を気取った己が振る舞いから目を醒まし、情けない悲鳴をあげる。
雷鳴のような発射音のこだまが徐々に消えていく。
耳を覆い、床にしゃがみこんでいた人々が顔を上げ、銃弾の向けられたほうを見ると、そこには目を疑うような口径が広がっていた。
名仮平は立っていた。
激痛で身をかがめてはいたが、左腕に抱えた人質を離すことなく、肉に飢えた熊のような唸り声をあげながら立ち続けていた。
「腐っても陸軍かよ。人間は糞以下でも、装着している装備は一流だな」
アビーがM500の衝撃を受けても微動だにせぬ右腕を誇らしげに持ち上げたまま、覆面から露になっている双眸をにやけつかせながら言い放つ。
M500の銃撃を受けても、名仮平が抗弾ジャケットの裏に装備している制式の分厚い抗弾パネルが、50マグナムの衝撃を見事に受け止めていたのである。そして、抗弾パネルの頑強さに勝るとも劣らない名仮平の鉄壁の巨躯が、抗弾パネルの受けた衝撃に耐えていた。それでもハンドキャノンから受けた衝撃は凄まじく、サバイバルナイフを右手から落としてしまった。
「貴様ぁ、ナイフなぞ無くともこいつの首の骨を折るくらい、朝飯ま——」
名仮平が痛みを堪えながら少しずつ上体を起こしていくと、言葉を言い終えないうちに、再び特大のマグナム弾が人質のこめかみを掠めるように、立て続けに2発、ほぼ1発目と同じ位置に命中した。陸軍制式の抗弾パネルはそれでも装着者の体躯を護りきったが、バランスを完全に失った200kg超の巨体は、両腕を前方に投げ出し、上体を仰向けにのけぞらせながら、後ろに倒れこんでいく。その動きに合わせて、名仮平から距離を置いていた野次馬が、悲鳴をあげながら更に後ずさった。放り出されたコードが、すかさず相棒のもとへ疾走する。
軍所属の巨躯の介入者が倒れている。運び屋の仲間と思しき人質が解放された。今なら防眩ゴーグルを使用されることは万に一つも無い。ウィル=ロイファーが周囲の人間の目につかないように、パンツの後ろポケットから黒い缶を取りだす。私服でも携行できるように改良した結果、軍用のフラッシュ・バンに比べ、8割の威力を確保しながら、手榴弾のサイズを7割削減したものである。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.151 )
- 日時: 2013/10/08 18:23
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
ウィルが閃光手榴弾の安全ピンを引き抜こうとすると、女の子の悲鳴が上がった。空気を切るような喚き声が何度と無く繰り返される。それと重なるように、年の言った男性の怒号も聞こえてくる。男性の怒号の内容から、二つの声の主は親子のようだった。
麗牙の牽制対象に確定した大男はまだ起き上がっていないらしく、ウィルと大男との直線上にちらほらと佇んでいる人々にさえぎられ、大男と件の親子の様子が判然としないでいる。
不意に少女の父親の声が止んだかと思うと、野次馬の間からスーツ姿の男性が何かに吹き飛ばされて飛び出し、しばし宙をを舞った後、地面に叩きつけられた。何の変哲も無い会社員が争いに巻き込まれたことで、この争いが人ごとではなくなったではないと察した野次馬達が一斉に四散した。改札を乗り越える者、川沿いの道路をかけていく者、残されたのは名仮平と悶絶しているスーツの男性、そして男性の娘と思しき中学生風の少女——今は悲鳴がとまっている——、運び屋の二人、そしてウィルと水希だけになった。
ウィルも驚いたふりをして周囲の人間からやや遅れて駅を出て、川沿いの道路にでたが、それでも単なる野次馬にしてはあまりに近すぎる位置にいる。運び屋であろう凸凹コンビが己の仕事を最優先にして、その場から去ってくれれば、ウィルたちもここにいる必要は無いのだが、厄介なことに、覆面の運び屋が怒髪天をつかんとばかりの形相で大男を睨みつけている。
川沿いの道路にいるちぐはぐな組み合わせの——誰も二人が仲間だとは露ほども思わないだろうが——少年少女に避難を促す声が、改札の内側や道路の向こうから聞こえてくる。駅事務室内では、駅員が警察に、今日幾度目かであろう通報をしているのが見える。
名仮平は仁王立ちになり、今度は右腕で中学生風の少女の首に図太い腕を回していた。まだ殆ど力を入れていないらしく、首は締め上げられてはいないが、少女が名仮平の腕を掴んで天を仰ぎ、足をばたつかせている。
——リーダー!
部下の不安げなヒアに、ウィルが腰の高さに手を低く横に突き出して応じる。今は動きべきではない。絶好の好機が一瞬にして最悪のシチュエーションになってしまった。せめて背の低いほうの運び屋が品を持って安全な場所に避難してくれればいいのだが、彼は相棒の大男に張り付いたまま離れる気配が無い。
——もし、あの二人が介入者と本格的な戦闘になるようなことがあれば…。
離れていはいたが、水希の緊張がウィルの肌にびりびりと伝わってくる。
——僕も衆目の下に能力を発動させなくてはならないかも知れない。
——リーダー…。
「てめぇ!」怒声が覆面を突き破り、一直線に飛んでいく。
「自分が今なにやってんのかわかってんのか!」
名仮平が静かに応じる。
「軍は任務の遂行のためなら手段を選ばない」
アビーが鋭くしたうちをすると、再びハンドキャノンを右手に構えた。すると、名仮平が半身になり、アビーと正対する位置に——名仮平の体躯の右側面に——少女をもってくる。
「貴様が俺を撃っても、俺の息のあるうちにこの女の首をへし折ってやるぞ」
少女が激しく体をよじり、悲鳴を上げる。名仮平が右腕に力を込めてそれを抑える。そのときの反動で、少女の体が少し持ちあがり、天を仰いでいた少女の顔が正面を向いた。
「野郎……」アビーが右腕を硬直させたまま動かない。
「アビー」
コードが目線を名仮平に向けたまま、右に立ち尽くす相棒に小声で話しかける。
「何だ、ボケナス」
アビーの怒りの矛先が90度左に向きかける。
「運び屋の運ぶモノって、重要なものが多いんだろ」
「んだぁ?いまさら何言ってやがる」思わずアビーが声を荒げそうになった。
「たとえば…」コードが視線を右に寄越す。「人に命に代えても届けなくちゃいけないものとか、さ」
アビーが顔を顰めると、カエルを睨む蛇の如く、左右の目玉を相棒の方へ向けた。
「…何が言いてえんだ」アビーが声を抑えて訊き返す。
「あの化け物の狙いはそれだろ。でもそれって、もしかして人の命よりも大切な…」
「知ったような口聞くんじゃねぇ!」
予想したとおりの言葉が相棒から返ってきた。そして、予想以上に血走っている二つの眼球が覆面の奥に浮かび上がり、コードを睨みつけていた。覆面の裏につばを撒き散らしながらさらに言葉を継いだ。
「荷物より人の命だ。てめえの脳天にナイフで刻んでおきやがれ!」
「わかったよ。オッサン」
あの大男を見つけて突っ走ってった時と言ってることがまるっきし逆じゃないか。コードの口元がわずかに緩んだ。
アビーが横目で相棒をいぶかしげに睨みつけえる。
「アビー、これ…」
アビーの腰の高さのあたりにコードの右腕と件のケースが突き出された。
名仮平が予想どおり少女とモノを交換するよう要求を出してきていた。モノは一対一で手渡しにすること。もうひとりは、モノの受け渡しをしている様子が見えない位置、もしくは30メートル以上離れた位置まで退くこと。手渡しに来た者が十分に離れた後、人質を解放するという、一方的なものだった。人質をとった大男は駅員が通報しているのを目撃していたはずだったが、そろそろ到着するはずの警察のことを気にかけている様子が全く見受けられない。威嚇射撃しかできないやつらなど歯牙にもかけぬということなのか。アビーが覆面の裏で舌打ちすると、青年から乱暴にケースを取り上げた。
大股であれば10回左右の足を前に出せば、あの軍隊野郎の目と鼻の先にたどり着く。
あの大男の要求に対し、うまい打開策を考え出すことができなかったアビーに対し、頭からつま先まで純粋な文民の
相棒が言い出したセオリーはあまりにも単純で不確定要素に満ちたものであった。
1. アビーがケースを大男に渡す。
2. アビーが大男から離れる。
なお、アビーが受け大男にたどり着くまでにアビーの様子が伺えなくなった場合は、アビーの名前から始まる文句を叫ぶ。受け渡しの様子が見える場合は「オッサン」から始まる適当な文句を叫ぶ。前者の合図を受けた場合は、アビーが受け渡しの完了を音か光で合図をする(もちろん相手に察知されないように)。
3. コードがダッシュで大男に突っ込む。
4. 大男が意表を突かれて取り乱したすきをついて、ケースと少女を奪取する。
もやしの相棒が言うには、自分は走るのだけは大の得意とのことだった。確かに、ついさっきほどアビーは己が左右の眼球で、相棒が大男に対し信じられないようなスピードで体当たりをかまし、大男の手からモノを弾き飛ばしたところを目の当たりにしていた。しかし、軍隊野郎が同じ手口で1回目と同じように、うっかりブツを手放してしまうとはとても思えなかった。加えて、あの大男に追いかけ回されたときに、コードは「足」を使っていないのが腑に落ちない。この状況下において、それを問いただす暇もなく、相棒の唱えた「作戦」の有効性を評価する間もなく、相棒の言うがままに作戦を進めるほかなかった。
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.152 )
- 日時: 2013/10/08 18:53
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
いつもの半分の歩幅で歩みを進めていた。退くことは許されず、ややもせず5歩、約10メートルある陸軍の脳みそ筋肉野郎にいたる行程の4分の1に達していた。覆面に覆われていて外からは窺うことはできないが、男の顔は冷蔵庫に放置され続けていた野菜のごとく湿気ていた。
どんなに困難な状況にあっても、自分の実力と幸運の女神とかいうグラマスなブロンド女を信じていれば必ず道は開けるというのが覆面の男の信条であったが、今初めてそのどちらをも貫徹する自信が持てずにいた。
行程の半分の地点に達すると、淡々と次の一歩を繰り出した。しびれを切らしたでくのぼうが、少女を盾にする体勢を保ったままアビーを罵倒する。
覆面の裏では、血の気のひいた頬の肉が何度も引きつっていたが、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた巨漢の運び屋の心を乱すまでには到底いたらなかった。
所詮バカの遠吠え。やつがどんなに有利な立場にあっても、図太い剛毛に覆われたアビーの心臓を打ち震わせるだけの気の利いた啖呵のひとつも切れるはずがない。そして、人命と引き換えに眼前の馬鹿の手に品がわたってしまったとしても、やつから取り返す手段など星の数よりも多くあるのだ。やつが、一介の凡庸でバカでウスノロで木偶の坊なだけならば……。
アビーの当座の問題は、あの大男が陸軍の兵士であるという点と、奴が一人でいるという、この2点だった。いや、もうひとつ挙げるならば、この取引にECが関わっているというのも非常に問題だ。軍とECが同じ場所、同じ時間に遭遇する。それだけでもこの国を亡国への道程を猛進させるには十分すぎるくらいのシチュエーションだが、今回の軍の目的は、ECと打ち合わせに来たのではない。アポも事前通告も無く、ECの関わっているブツを奪いに来たことは明らかだ。これがこの国のいや、俺の未来にどんな影を落とすのか、考える気すら失せる。
覆面の目と鼻の先に人質の小学生か中学生くらいの少女の姿が迫っている。そのすぐ後ろには、半身になって銃を構えている木偶の坊の姿が見える。
もう一歩足を進める。人質の頬を掠めてやつの不細工なツラに確実に痰を吹っかけられるほどに近づいていた。
アビーが漆黒の覆面の奥の双眸を少女の瞳に向ける。極度に動転したせいで、少女の黒い瞳は尖頭銛のようなアビーの視線に一切反応しなかった。この至近距離なら、人質を力ずくで奪い去れるのではと、ベテランらしからぬ浅薄な考えが脳裏をよぎったが、すぐにそれを払拭した。アビーと名仮平の力比べに、少女のか弱い体躯が持ち堪えられるはずが無いのだ。アビーが顔を顰めると、徐に斜め左上方の大男の顔面を睨み据える。
「下手な時間稼ぎを考えるのはよせ、覆面。こいつの寿命が縮むだけだ。さっさとそれを寄越すんだ」
名仮平の言葉にアビーが口汚く応酬すると、耳を澄ませる。柄にもなく心臓の拍動音がいやがうえにもアビーの分厚い鼓膜を打ち据えてくる。背後からは野次馬のしゃべり声が途切れながら聞こえるばかりである。
——まだか、もやし。
相棒の無言の罵声がコードの軟弱な肉体と頭骸骨を容赦なく打ち据える。それでも元郵便局アルバイトの運び屋は一歩だに足を動かすことが出来なかった。
生まれて20余年、軍隊はおろか、あらゆる争いごととは無縁であったであろう若輩者が即興で考え出した作戦は早くも破綻を迎えようとしていた。しかもその原因が彼自身という、最悪の形で。
「動け、動いてくれ、僕の足!」
コードが右の握りこぶしを固めて同じ側の大腿を叩いた。だが、彼の悪あがきも虚しく、つい先ほど大男の手からモノを弾き飛ばすほどのダッシュを仕掛けられる力が一向に湧いてこない。
30メートル先で大男たちが唾を飛ばし、烈火のごとく言葉の応酬を繰り広げている。人質の少女は、肉体的な損傷を被る前に、恐怖と怒号の音圧で意識を失っていた。このままでは大男が二人、可憐な少女を挟んで人外の怪力のぶつかり合いを繰り広げるのは火を見るよりも明らかである。
鞭のようにふるっていたコードの右腕がだらりと下ろされた。拳が解かれた右手の指先が打ち震えている。
アビーがあの大男に向かって駆け出したとき、この若者も相棒の後に続いた。映画のシナリオのごとく絶妙なタイミングで能力を発動させて。その時に、若者は己が身の能力のコントロールするコツを掴んだと感じていた。だがそれは浅はかな思い込みでしかなかったのである。
己の左右の足に篭められた「能力」を発動させられなければ、彼は相棒の言うとおりただのもやし野郎でしかない。相棒が命を張って猛獣よりも凶暴な人型の生物と対峙しているというのに、自分はただ見ているしかない。余計な責任感に身を任せて、大男に向かって突っ込んでいっても、せいぜい相棒を盛大に邪魔してしまい、人質の女の子を危険にさらしかねない。
若者が下唇をかみ締めた。
——本当にそう思ってるのか?怪物が怖くて言い訳してるだけなんじゃないか?
腕を下ろしたまま、左右の拳を握り締め、頸を左右に振った。天罰のごとく若者のうなじに氷の弾丸がひっきりなしにぶつかってきた。
——アビー、今は退くときなんだ。
背後の窮状を何も知ることなく、大げさなジェスチャーと怒号をあげる相棒の姿を一瞥すると、数分の光も入り込ませぬようにぴしゃりと双眸を閉じた。
——ごめん、アビー。
コードの視界に再び光が差し込んできた。
「おやじぃ」でも「アビぃ」でもない退却の一言を叫ぼうと、ありったけの息を吸い込み、声を発しようとした瞬間。
人影が、動いた——。
コードが、アビーが、そして名仮平も、遠巻きに虎視眈々と顛末を伺っていた秘密結社の少年と少女さえも目を疑うような光景が駅前の狭い一角で繰り広げられていた。
「わたしの、わたしの娘を返せ!」
少女を人質に取る際に、名仮平に投げ飛ばされ、アスファルトの路面にしたたかに後頭部をぶつけて生死の境をさまよっていたはずの人質の女の子の父親が、ばねじかけのおもちゃよろしく体を起こし、身長230センチの大男に向かって突進してきたのだ。
不意に聞き慣れた声に鼓膜を叩かれた少女が、大男の腕で目を醒ました。
「ああ、お父さん!だめ、来ちゃだめ!」
意識はぼんやりとしていたが、筆舌に尽くしがたい危機感が彼女を叫ばせていた。だが、張り裂けそうな彼女の悲鳴も空しく、父親は見る間に名仮平との間合いを詰め、脇に佇む覆面男が男を制止させようと手を伸ばした時には、飛んで火にいる夏虫然と、名仮平の懐に入り込んでしまっていた。
「おっさん、無茶だ!」遠巻きに異状を目撃したコードが思わず叫んだ。
少女の父親がアビーと名仮平の間に吸い込まれていくのと、少女の顔が蒼白になり、引きつっていく様子がストップモーションのコマのように、ゆっくりと克明にコードの網膜に焼き付けられていった。
「それは合図かモヤシ!」
- 10(2)話〜交錯する時間(とき)〜 ( No.153 )
- 日時: 2013/10/08 18:55
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
親子の様子に完全に気を取られていたコードに、顔を正面に向けたままのアビーから不意打ちのように罵声が返ってきた。そしてコードがアビーに注意を向けている僅かの間に、名仮平が少女をかかえていない方の手——左手で中年の男の喉をわしづかみにし、血祭りに上げるかのように高々と左腕を上げていた。娘の時よりも格段に重たい肉体がために、フランクフルトよりも太い名仮平の指が、喉ぶえの両脇に深々と喰いこんでいく。名仮平の左手を引き剥がそうともがいていた男の腕から見るみるうちに力が抜けていった。
「野郎!そいつを離せ!」
民間人がもうひとり巻き込まれてしまう不測の事態に、作戦中止を余儀なくされたアビーが、名仮平に掴みかかろうとすると、敵はすぐさま右腕の少女を盾にしてアビーの腕を阻止する。
己が身をボロ切れのように振り回され続けた挙句、眼前に肉親の正視しがたき光景を突きつけられた少女は、華奢な体躯から野獣のごとき咆哮をあげた。四方に轟く自らの声にますます正体を失った少女は父親の方に目を剥き、あらん限りの力で身をよじり、両足を振り回し、丸太のような首かせから抜け出そうとしていた。
「人質の分際で騒ぐんじゃねぇ。親子ともどもぶっ殺すぞ」
名仮平の視線が激情に任せて見開かれた少女の目線と重なる。名仮平が口の右端を持ち上げ、不気味な微笑みを浮かべた。「いや、貴様らは騒ぎすぎた……。片方ずつ逝くか」
少女の首を緩く締めていた大男の左腕に徐々に力が込められていく。途端に少女の絶叫が消え失せ、上がることのない闇の帳が視界に下り始めてきた。
「や、やめて…。い、や…」
アビーが右手にモノをぶら下げ、名仮平の左腕に利き腕ではない左手一本で掴みかかるが、人外の腕力をもつ巨躯の現役陸軍兵士に左腕一本ではまったく歯が立たない。モノを左手に持ち帰る考えも浮かばぬほどに、ベテランの運び屋が混乱と焦燥に駆られていた。
徐々に膨張する巨漢の左の二の腕が確実に少女の白く細い頸を締め上げていく。数分前まで普通の中学生——家族と友人に囲まれ、一掴みの幸せと一掴みの悲しみを経験してきた——彼女が、神の気まぐれゆえなのか、名状しがたい白光に召され、生涯という舞台の早過ぎる終演を迎えようとしていた。名仮平の腕を掴んでいた左右の腕が力なく垂れさがっていった。少女の喘ぎ声が途切れ、最後に煌きを湛える瞳で父親を一瞥すると、天を仰ぎ、閉じゆく双眸からうっすらと二条の筋が頬を下っていった。
「畜生!」アビーがヤケ糞になって陸軍の怪物に金的をかました。膝頭がぶつかるはずであろう堅牢なサポータの感触がない。そのかわりに、柔らかいものがぐにゃりと潰れる感触が分厚いカーゴパンツの生地越しに伝わってきた。同時に、大男の断末魔の叫び声がアビーの鼓膜に、天使の餓鬼どもの合唱のごとく一糸乱れぬ協和音となって響き渡る。アビーが覆面の裏でニヤリと笑みを浮かべた。
「形勢逆転だぜぇ」
ヨダレを垂らして俯いた名仮平の顔面に、アビーの咆哮に乗せて渾身の左アッパーが炸裂した。名仮平が己の上前歯2本と犬歯、さらに奥の歯を2本を血糊とともに飲み込むと、思わず左手から少女の父親を落とした。一人解放。
「よくも、運び屋風情が小癪な」
名仮平が右腕に抱えていた失神している少女を、怒りに任せて勢いよく左に放り投げた。
二人の巨漢の乱闘を見ていた誰もがその先を見やった。40kg前後の人体が一直線に飛んでいく先には鉄骨鉄筋コンクリート製の駅舎の壁が待ち構えている。この勢いでは3秒もすれば頭蓋骨がカチ割れ、頸があらぬ方向に折れ曲がった少女の死体を拝むのは必至。30メートル背後から己の名前を呼ぶ声がする。
——腐れモヤシ野郎!言われなくたってわかってるぜぇ。助けりゃいいんだろ。
小包を放り投げて、230kgの巨体が地面すれすれを滑空する少女を追って、猛然と突進したが速度不足は明らかだった。
「朝っぱらから子供の死体なんか拝みたかないぜぇ!」
奥歯が下あごにめり込むほどに歯を食いしばって四肢を振り回したが、少女との差は広がるばかりだった。
その時——。
アビーの左脇を人影が抜き去っていった——。
「もやしぃ!」
アビーの叫び声が切れるのとほぼ同時に、少女の頭と上半身をひしと抱きかかえた相棒が、地面を転がりながら背中から壁に激突していた。
——お、女の子は?
コードが激痛にひどく顔を歪ませながら腕の中に埋もれている少女を見やった。意識はないが体が呼気に合わせて動く感触を感じ取った。激痛で腕が伸ばせなかったため、そのままの姿勢で右手の親指を持ち上げた。
「たまには役に立つじゃねぇか、野郎」
倒れたまま、覆面の相棒に手荒い感謝の拳骨をお見舞いされていた。
——あの若い方の男、やっぱり……。
そういうなり、麗牙の隊長がハッとして小包の方に視線を戻した。陸軍の大男が運び屋の二人組の顛末を見届けると、ゆっくりと体を前に折り曲げ、足元に落ちている例の小包に右腕を伸ばしている瞬間だった。
それでも麗牙の二人は動かなかった。大勢の人々の前で能力を晒すことは彼らにとって命取りになりかねない、場合によっては組織の存続さえ危ぶまれてしまうほどの危険な行為であった。あの兵士が小包を手にしても、運び屋の大男がすぐに立ち向かいに行くはずだ。そして彼らが余程の窮状に陥らない限り、能力を使うような事態ではないのだ。
万が一を想定し、麗牙の隊長が背中のウエストライン付近に忍ばせているダガーに手を伸ばす。緊張した面持ちで陸軍の兵士が地面に堕ちた小包を取り上げる様子を見届けようとした。兵士の右手の指先が小包に届くあたりまで下ろされる。だが、右手がそれ以上下ろされることはなかった。兵士の右手が小包のやや上方で左右に振られ、虚空を掻いた。
——水希、あの男、何しているんだろう?
麗牙の指揮官が、ヒアでの問いかけに対する部下の返事をそっちのけにして、陸軍兵士の不審な動きに気を取られていた。小包を目の前にして、右手の振り子運動は終わったが、今度は膝をつき両腕も地面に突き立てていた。要は四つん這いの状態である。そしてその姿勢のまま顔を大きく歪ませて唸り声を上げていた。運び屋のガタイのいいほうが、相棒と少女の命に別条がないのを確認し、反撃に向かおうとしていたが、敵のあまりに不可解な動きに、身をかがめて警戒の姿勢に転じていた。
「…えねぇ!」うつむいたまま、陸軍の兵士が声を発した。
——え、今、なんて言った?
氷の立てる騒音を貫き、ウィルの耳に届く陸軍兵士の声に全身全霊を傾けた。はるか前方で、四つん這いになっていた兵士が、突如上体を仰け反らせ、さらに上体ををひねり、両腕をでたらめに回しながら地面に倒れ込んだ。そして両手で顔をおおうなり、うなされたように叫び始めた。
「見えねぇ、見えねぇぞ!地面はどこだ。世界が回転してやがる、ライトはどこだ!」
ウィルの真っ白な顔面から一気に血の気が引いていく。
「ま、まっくらだ……」
恐慌をきたした陸軍兵士の最後の一言で、ウィルが弾けるように身を翻した。
真紅のベリーショートが、不可視の「気流」になびいていた——。
闇に染まっていく真紅の瞳が、ひたすらに一点を見つめていた——。
蒼白な薄い唇が、小さく呟いた……。
——ゆるさない。
部下の名前を叫ぶ指揮官の声が、氷に満ちた虚空を引き裂いた。
〜第10話(2)『交錯する時間』完〜