二次創作小説(紙ほか)
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.160 )
- 日時: 2014/01/02 17:38
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
『混迷に魅入られし者たち』
二〇一二年一月二十日 午前8時30分 ポイント駅前——
——ゆるさない!
鮮烈な灼髪を、天を衝かんほどに逆立たせた少女が語気を荒げる。聞き覚えのある声が雲間から降り注ぐ陽光のようにぼんやりと少女の耳に入りこんできたが、当の本人はそんな環境音を意に介す素振りも見せず、はるか前方で悶絶する巨漢を改めて睨みなおし、体躯の左右で握り締めた小さな拳にいっそう力を篭めた——。
学校では精錬清楚な笑みを浮かべ、漆黒のツインテールを愛らしく靡かせる女子中学生の鑑のような少女が、ミッションが始まると一変、その能力を象徴するかのように、一切の心、肉体の揺らぎを見せることなく、冷徹な視線によってターゲットの五感を光無き奈落の底に突き落とす小さな能力者となり、仲間を掩護する。気の遠くなるような数の任務を通して築きあげた彼女なりのセオリーにのっとって、最初のミッションを完遂するはずだった。
まだ、かすかに残された理性が、正体を失っている表の自分に自制を促そうと、あらんかぎりの声を上げた。だが、彼女の左右の鼓膜にこびり付いた、人質になっていた少女の叫び声がそれをあっさりと消し去ってしまった。
血のつながった家族が目の前で命を奪われる——そのような酸鼻をきわむ光景は、幾度となく目の当りにしてきた。何度見ても慣れるものではない。それどころか、かけがえのない人を惨たらしく殺された瞬間の被害者の絶叫が心の裏の奥深くにたまり続けていた。
闇の能力者は、自分と同い年かもしれない少女を、自身に重ねていた。そして彼女の悲痛な叫び声によって、水希の左右のまぶたの裏には幼き日の己の姿が映し出されていた。
おとうさん……おかあさん……どこ…どこにいるの?——
か細い声が刹那、暗闇の中に響き渡る。年端もいかない少女にはあまりに大き過ぎる不安で、声が小刻みに震えていた。
産みの親に、水希は捨てられた。彼女のもつ闇の能力を酷く忌避した両親は、ある日突然、水希の前から姿を消していた。そして水希は、秘密結社に君臨する科学者にひろわれ命を救われたのである。だからといって、水希は決して両親を恨んだりはしなかった。両親は自分を嫌ってたんじゃない。自分のこの忌まわしい力のせいで私は捨てられたのだと。
——いつか、いつか……おとうさん、おかあさんに……会いたい。
氷の轟音を貫いた少女の悲鳴が、みたび水希の鼓膜を穿つ。
仄暗くそまった紅き可変色カラーコンタクトをはめた左右の瞳を兵士に向けた。少女がぼろきれのように放り投げられた瞬間だった。
水希の激情が可変色コンタクトレンズに伝播し、瞬く間に燃え盛る火炎の如き赤が闇を凌駕した。永きに亘り小さな能力者の心に蓄積し続けてきた暗黒のマグマが不可視の閃光を迸らせ噴出した。
彼女の意志よりも速く小さな肉体が、闇の視線を大男に飛ばす。幸か不幸か今の水希の風貌がために、麗牙の指揮官はあまり彼女のほうに注意を向けておらず、彼女の異状にも気付いていない。
皮肉にも国を護る為の陸軍の苛烈きわむる鍛錬の成果が、ECの能力に対する抵抗力となってあらわれていた。人質の少女を投げ飛ばした瞬間、名仮平は強いめまいを覚えたが、うめき声を上げながらも姿勢を保っていた。
少女の怒りが一気に亢進する。歯を食いしばり、左右の瞳とベリーショートの髪を真紅に燃え上がらせ、仮借ない能力攻撃を陸軍兵士に喰らわせる。あの男が二度と動けないようにしなくてはならない。
直後、巨躯が音を立てて地面に倒れこむと、恐怖に表情を歪ませ、平衡感覚を完全に喪失した体をでたらめな方向によじらせた。己の声が聞こえなくなった兵士の発する声が、徐々に言葉の体を成さなくなっていった。徐々に声が弱まっていった。
——ゆるさない。
ますます闇の力を加速させる水希の視界に、突如濃灰色のヴェールのようなものが揺らめいた。見る見るうちに視界の彩度が失われていき、モノクロームの世界に包まれた。突如現れた濃灰色の空間に思わず息を呑んだ。
水希は暴走するターゲットの抑止に一心不乱になるあまり、自身がコントロール可能な能力の強さの限界値——暗闇に陥れるターゲットは同時に二人まで——を超えている事に気づいていなかった。眼前のターゲットは名仮平一人だが、屈強な陸軍兵士を闇の深淵に陥れるために、普段の倍以上の能力を要したのである。
自身の限界を越えると言えば、人聞きがいいかも知れないが、ECの能力の場合、殊に水希の闇の能力は自らも闇の力の一部を受けてしまうという「副作用」があることが明らかだった。組織の長に一途な闇の能力者の少女は、独自の訓練により闇の能力をより洗練したものに変えることに成功したが、同時に「副作用」も強化してしまったのである。
そして今しがた水希が受けた副作用は、本人の予想よりもずっと深く重たい闇を彼女の視界にもたらしたのである。
一瞬たじろぎはしたものの、水希は悶絶する巨漢への能力攻撃の手を緩めようとはしなかった。兵士に無残にも投げ飛ばされた人質の少女は、常人らしからぬ走りをする若者の手によって、辛くも一命をとりとめていた。人質の少女の父親も既に大男の手を離れている。自身の致命傷になりかねない副作用も発症している。それでも猶、斃れ、もがき続ける人間を水希が攻撃する理由はただ一つ——。
純然たる憎悪——ヒトを最も激しく突き動かすことのできる衝動が、少女を支配していた。
「水希!」ターゲットの無力化に専心する少女の精神をかき乱そうとする忌まわしき声が遠くでこだましていた。
灼髪を振り乱しながら、顰め面を声のしたほうに向けた。深紅の視線と深海のごとく蒼き視線が刹那交錯した。
みず——。
視線の主の唇が三度己の名を呼ぼうとしている姿が、それを言い終える前に少女の視界から忽然と消え去った。
水希の視界が一瞬にして閃光に覆われ、皮膚に圧力を感じるほどの炸裂音が至近距離で連続する。暗灰色のヴェールに覆われていた意識が白に染まっていった。
水希の意識が完全に失われようとする直前、何の前触れも無く少女の眼前に現れたおぼろげな人影が、白き光の渦にもまれながら、彼女に体当たりするかのごとく突っ込んでくるのを、闇に沈んだふたつの瞳が捉えていた。
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.161 )
- 日時: 2014/01/02 20:57
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
同日 午前8時15分 神奈川県中村川沿道——
ラッシュアワーが過ぎても、未だに進路上にはスキーの回転のごとく、2名の隊員等の前進を阻む人通りが解消する見込みはなかった。
10メートル先を行く、ダリアと呼ばれる隊員が駆け足で暗色系のコートの人の隙間をすり抜けながら、ふと天を仰いだ。規則正しくザクザクと喚いていた80kgの重量を有するバックパックが、ガシャリと呻いた。相変わらず天空は漆黒に近い灰色をしているが、天から繰り出される白き弾幕がやや薄くなった気がした。再びダリアが進行のペースを戻した。
残り1kmのところで、帝栄の女性隊員が離脱してからは2名の男性警備員の進行速度が格段にあがっていた。それぞれが数十キロの装備を背負っているとは思えないほどの駆け足でポイントに迫っていた。
コールサイン"リリー"こと稲森が視界の下端に新堂を捉えつつ、川沿いの道に沿って視線を前方に流していくと、正面からやや右に寄った遠方に、電線が密集したような塊が見える。
「こ・・・らリ・・・ー。あれ・・・駅・・・すね」
「ダ・・・・・・。そうだ。・・・・・・」
新堂が自社の整備係の名をあげて激しく毒づいた。トランシーバの調子がすこぶる悪い。本当に整備したのだろうか。1分経つごとに通信可能時間が短くなっている気がする。だいたいこんな鉄の塊のような機器が、本当にこの時代に使われていたのだろうか。
2012年時点にあわせた機器を用意したと整備係から渡されたその「金属塊」はこの時代からさらに10年前に使われていたと言われる、衛星携帯電話より遙かに大きく重たいのである。
新堂が右腕を右下に下ろし、掌を開いて小刻みに前後に揺すった。そして駆け足のペースを速歩並に落とした。新堂から後方の反対側の路肩に位置している稲森が、それを確認すると、同じように歩みを緩めた。
作戦中の通信は、よほどのことがない限り暗号化された無線で行うつもりであったが、その余程のことが起きてしまったのである。
「予定外のことは、無線通信機だけにしてくれよ」
後方を一瞥し、稲森との間隔が変わっていないことを確認すると、訝る表情で目標地点を睨みつけた。水打を離脱させてからここにたどり着くまでに一度、目標地点の駅付近で強い光が迸っているのを目の当たりにしていた。思い過ごしかもしれないが、そのときに稲妻の筋が見えなかったのだ。しかも、地表付近から放射状に光が拡散していったようにも見えた。
何より、光と同時に伝播してきた不自然に連続した炸裂音——。
どうみてもあれは閃光手榴弾。警備隊員としてよりも海外へ軍隊の支援隊員としての任務のほうが遙かに多いこの男が、稲妻と音響閃光手榴弾の炸裂音、そして閃光を勘違いする可能性は限りなくゼロに近いのである。
ポイントまで500mの地点に達したとき、新堂が後方に武装準備の合図を出した。新堂が後方を一瞥するわずかな間に、稲森が応答の合図をする。暫くすると、また違う合図を新堂が発信する。そして、稲森が応答する。
道路の両脇に斜めに位置する、登山の格好をした男の二人組の奇妙な無言のやりとりに、幾人かの通勤客が怪訝そうに左右を見て、前へと通り過ぎていく。
そのとき、二人のちょうど中程にある路地から、男が氷にしたたかに全身を打たれながら、なりふり構わぬ体で疾走してきた。
「誰か、警察・・・警察を呼んでくれ!」
「どうしたんだ、警察って。何があった」
新堂が駆け寄り、節くれ立った両手で男の肩を掴み、万力のごとく固定した。年は20代だろうか。髪は少し長めだが、前髪を後ろに流し聡明そうな空気を感じた。
「怪しい・・・大男が二人・・・」年齢の割に異様に息切れが収まらないのは、酸欠だけが原因ではないだろう。
若者の目線が彷徨っている。つかんだ肩がガチガチに硬直していた。
「二人は・・・武器を持ってた。片方が・・・」
若者が左手で胸を掻きむしった。そして気を鎮めようと、音を立てて鼻で深呼吸した。
「陸軍だと言っていた。陸軍って、自衛隊のことか?」男が最後に自問自答するかのように、小さ声を発した。
新堂が思わず、相手の肩をつかむ手の力に要らぬ力を入れてしまった。若者が声をひきつらせた。
「陸軍。そう言っていたのか」
物々しい大きな荷物を背負った男の声は、低く、音が絞られていて、感情がすっぽりと抜け落ちてしまったかのような響きであったが、黙秘を許さぬ語気を伴っていた。若者は明らかに動揺し、表情も声も蒼白に凍り付いていた。二人のやりとりを遠巻きに窺っていた稲森が左手で胸の中央を軽くたたくような身振りをし、小隊長に自制を促してきた。
。
「軍・・・関わってるぞ、この事案」
無線端末から、細切れになって届く、新堂の呻くような声が、いぶし銀の鋭敏さを垣間見せるバディを刹那、金縛りに追いやった。年の功が彼の表情を冷徹そのものに保ち続けていたが、肉体の末端から血潮が急速にひいていく感覚が男の動揺を煽った。それでも、いつもの声の音量、高さを保ち、声の揺れが大きくなり過ぎないよう、堪えながら応答した。
「了・・・。40名の・・・・・・者番号不明の対・・・というのは・・・・・・とだったのか。だが、確かポイントには・・・名の対象者で二人とも・・・元は・・・・・・いるはずだったが。・・・・・・に動きがあったのか?」
新堂が胸元の低い位置で手を左右にで小さく振り、意思表示をした。相手の動きについて、自分には情報が寄越されていないという意味と、そもそも稲森が何を言っているのか分からないという、二つの致命的な「わからない」を端的な手振りで示すことに成功していた。
本来ならば、2062年の実行本部から逐次42件の不審な反応の動きについて、状況報告を受け取ることができるはずなのだが、支給された通信装置があまりにも古すぎて、通信装置に搭載しておいた時空間通信装置が機能しないのだ。このとき既に、無線装置が明らかにこの時代より遙かに古いものであることを新堂は確信していた。
事情を察した稲森が眉を寄せ、困惑混じりの嘲笑を浮かべた。
新堂が無言のまま視線を逸らし、行く先に意識を向けた。
敵は余りに巨大だ。システムが検知したのは42人だと言うが、その背後には何十万という兵士を抱える、世界屈指の軍事組織が控えているのだ。よもやこの任務をきっかけに直ちに奴らが巨体を動かすことはないと思うが。
それでも、ただでさえ一触即発の軍部と警察の関係は、彼ら3名(一人は離脱しているが)の動きの如何によっては、取り返しの付かない事態になるおそれが十二分にあった。
——取り返しの付かない事態。
「警察、呼ばないんですか?」
矢庭にさっきの若者の声が割り込んできた。新堂がはっとして声の主を睨みつけた。
「そういやおまえ、事件現場にいたんだろ。鉄警隊はどうした」
「テ、テッケイ?」
新堂はいつもようにドスの効いた尋問するような鋭い口調に、返ってきた声はすっかり裏返っている。
「鉄道警備隊だ。奴らはどうしたんだ」
「あぁ、そう言われてみれば、全然来てなかったような」
若者が、司祭に赦しを請う罪人のごとく悲痛な声をあげる。
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.162 )
- 日時: 2014/01/02 20:59
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
「何?」
「あの男たちが現れてから20分以上経っているはずなのに、鉄道警備隊も警察も来ないんです。110番に掛けても誰も出ない」
確かに若者のいうとおり、重大な事件が起きているにも拘わらず、付近に警察車両の気配が全くしない。
それもあいつらの仕業なのか。仮にそうであったとしても、一体どうやって?
新堂の後方で、何人かの通勤者が事態の状況を確認しようと、1台のタブレットのスピーカを全開にしてラジオを聞いていた。その不明瞭な声が、新堂の自問自答をあっさりと断ち切った。新堂が呼気をとめ、再び聞こえてくるであろう声に耳をそばだてる。
わざと自分の邪魔をしているのかと勘ぐってしまうほどに、バラバラとアスファルトの地表を振動させる氷の振る舞いに焦燥しつつも、幾つかの言葉の断片を拾うことができた。
近辺の道路・・・渋滞・・・上下線通行止め・・・迂回・・・不発弾・・・信管のない手榴弾・・・。
新堂が傍らに立ち尽くす青年に、スマートホンを要求した。状況が全く呑み込めていない若者が、いわれるがままにジャケットの左袖のポケットからスマートホンを取り出した。新堂が50年前のタッチパネルの反応の悪さに、一言二言悪態をつきつつ、ニュースのチャンネルの速報を確認した。ウェブサイトのトップから3番目の記事に、新堂が想像したとおりの事故について記載されていた。
『横浜市内の国道沿いに信管のない手榴弾見つかる』
記事に目を通すと、その手榴弾は外観からすると、その手の定番となっている帝国日本軍の不発弾ではないとのことだった。続く文には、かなり年式の新しいものの可能性が高い、そう書いてあった。
新堂は愕然としていた。陸軍の犯行であることは火を見るより明らかだ。
自国の治安を維持するのが主たる任務であるはずの軍部が、わざと一般社会のど真ん中に爆弾をおいたのだ。しかもその目的は、警察に本来の職務を遂行させないためなのである。
どうみてもテロリストの行為と何ら変わらないではないか。スマートホンから視線をはずし、氷に我が身を穿たれる有らん限りの力で右の拳を固め、低く呻いた。
「例えマルタイがどんなに巨大であろうとも」新堂が胸を大きく膨らませて熱のこもった息をはく。
「取り締まらねば」
——だが。
新堂がふと頸を持ち上げると、その視線は右にカーブする道路の脇に立ち並ぶ雑居ビルを飛び越え、500メートル先にあるはずのポイントを見据えた。
——何故そこまでして。
——此処に、50年前の、錆び付いたこの時代に何があるというのだ
新堂がこれからとるべき対応を伝えようと、若者に注意を向けたとき、ポイントのある方角を向いた耳に、かすかに甲高い音が聞こえた。人の叫び声のようにも聞こえる。稲森もその音を聞き逃さず、再び前方を二人が向いたのは、ほぼ同時だった。間髪入れず二人の視界のやや右よりにある建物の群の向こうで、何度聞いても、どんなに離れていても胸糞悪くなるような不自然に連続する爆音と、稲妻とは明らかに形状の違う閃光が、下から上に迸った。
新堂が若者を突き放し、分厚い瑠璃色のジャケットを着込んだ右腕を真横に突きだし激しく前後に振った。そして殆ど役割を果たしていない通信端末に向かって、言葉を発した。秒刻みで通信品質が低下していたが、新堂が発したであろう言葉は、彼が言葉を終える前に、一言一句の違い無く、稲森の脳裏に完成されていた。
「閃光音響手榴弾確認。民間人が巻き込まれている可能性が高い。リリー、全速でポイントに急行する」
言葉が終わらぬうちに、二人の警備隊員が無数の氷を弾き飛ばし、低い姿勢で駆けだした。なおも新堂の指示は続いた。
「マルタイの抵抗が強硬な場合は、直ちに任務を武力による無力化に移行する。リリーは全体を見渡せる位置で待機。後方援護を頼む。相手は陸軍だ。慎重の上に慎重を重ねて行動せよ。以上」
細切れどころかノイズと綯い交ぜになって、ミンチと化した上官の言葉を即座に組み立てると、己の思い描いたとおりの指示が来たことに、新堂が語気を強めて応えた。
「リリー、了解」
一切の無駄のない会話が済むや否や、稲森が前を向いたままバックパックの側面を縦に貫くジッパーを一気に下ろすと、SIG560を引き出した。安全レバーを確認する作動音が、住宅街で氷を駆る足音に混じり小さく響いた。
瞬く間に小さくなっていく二つの人影を、青年が呆然と眺めたまま立ち尽くしていた。
同日 午前8時15分 川沿いの喫茶店——
部屋の高さの半分ほどもある大きな窓の向こうに、音もなく天から白い粒々が降り注ぐ住宅街の景色が広がっている。すぐ向こうには背の低い打ちっ放しのコンクリート製の堤防が見える。そして、透き通った窓ガラスには、背景に紛れて消え入りそうな半透明の女性の姿が映っていた。まるで自分の力が至らなかったがために、部隊からはずされた、窓際に座る女性警備隊員の心を映し出すかのように。
やや外に張り出した窓枠には、店主のコレクションと思われる陶器でできた可愛らしい人形が、薄暗い背景に細やかな彩りを添えている。任務でなければ何時間でもその眺めを愛でていたいものだが、今はとてもそんな気分になれなかった。そして彼女は、隊長曰く「ファースト・フード・ショップ」の空気から浮いていた。
水打静(すいうつ しじま)は新堂から彼の指示する「ファースト・フード・ショップ」での待機を命じられていた。彼女の必死の訴えにも新堂は聞く耳を持たず、彼女を一人残してポイントへ急行していったのである。
やむなく新堂の指示した看板の店に入ると、そこは個人経営と思しき小さな喫茶店だった。格子状にガラスのはめられたドアを開けると、真っ先に店の主人と目が合った。瑠璃色の防弾ジャケットに10kgの装備という、あまりに場違いな出で立ちの来客に、店の主人の挨拶が二文字目で途切れた。二人の先客も露骨に怪訝そうな表情で静を見つめている。それ以上足を進めることができなくなった静は、しきりに目線を泳がせたまま、店の出入り口で立ち尽くしてしまった。そして、1分ほど経ってから来た、店の常連客に追いやられるように、店の奥の窓際の席に座っていた。
防弾ジャケットを貫いて己の心の臟に突き刺さってくる、店主や他の客の訝る目線を避けるように窓際に寄った。肩がちぎそうなほど重くて大きいバックパックは、自分の右脇に置き、件の視線に対する防御壁にした。
頬杖をついて、濃密な失意をたっぷりと含んだ溜め息をつく。静の容姿は決して悪くなく、普段なら周囲の殆どの男共から淫靡な目線を向けられそうな「華」のある眺めになるはずであったが、今日に限ってはそんな雰囲気が微塵も感じられなかった。
暖かい店内にいるはずなのに、体も心も冷え切っていた静の吐息は、氷よりも冷たい窓ガラスを曇らせることはなかった。
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.163 )
- 日時: 2013/10/08 19:09
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
彼女がが生まれたときには既に自力で生命を保つことが不可能になっていた祖父。全ての医者が目を丸くし、顔をしかめ、唸り、首を傾げ、最期に「わからない」の一声を言わせる彼の肉体は、警察直轄の研究所の検体として当時の状態を完全に保ったまま、当時最新鋭と謳われていた生命維持装置とつながれ、警察庁直轄の病院に保存されていた。本来は件の研究所に保管されるべきものであるが、遺族の、特に静の強い要望により、一般の人々が訪れることのできる病院に保管されることとなっていた。
静は時々病院を訪れては彼と見え、彼が生前、警察官だった頃の装備品や映像等の記録、彼の個人的な趣味で秘密裏に保有していた銃器を通して、正義心をたぎらせていた頃の祖父の姿を彼女の脳裏に描いていた。勇敢で、正義感に満ち、優しいけど厳しいときもある。そして、拳銃の射撃にかけては全国の警官でも右に出る人はいない。 幼き日の、そして物心ついたころも、成人を迎えても、思い描く一人の警官の姿は常に完璧だった。20余年という歳月が過ぎても、想像の中の、後光が差す肖像は少しも色褪せることはなかった。
それゆえ祖父を生ける屍と化し、狭小な病室のベッドに磔にせざるを得なくさせた犯人に並々ならぬ復讐心を燃えたぎらせていた。警察の見解では祖父は病気による脳死ということであったが、静は端からそれ信じるつもりはなかった。外傷は一切無いにもかかわらず、大脳、小脳、脳幹にいたるまで、あらゆる組織が細切れに千切られていたという報告を、祖父の遺体の観察を担当した監察医から訊いていた。警察も苦渋の判断だったはずだ。身内が殺されたというのに、参考人はおろか、物的証拠も情況証拠すらも上げることができず、病気による脳死という判定を下さざるを得なかったのだ。
憎むべきは、真実とことなる判断をした警察ではない。全く想像の及ばぬ方法で祖父を殺した犯人こそが全ての怨さの根元なのだ。
怒りの憎しみに己を駆り、満を持して望んだはずの帝栄警備の新卒高校生向けの入社試験。身体能力は女子としては極めて優秀な成績を残したが、それでも運動能力系の試験通過ラインギリギリだった。そして判断の適格性、判断速度等を評価をする思考能力試験でも、採用ラインぴったりであったものの、通過の判定を得ることができた。だが、最後の——おまけ程度にしか考えていなかった性格の適正で、つい先程、新堂が指摘した理由により、隊員として不適合の烙印を押された。
試験の結果とともに返却される試験の講評では彼女の性格が極限状態——例えば多くの人民を助けるために、一人の仲間を切り捨てなくてはならない場合など——における判断を著しく鈍らせており、あらゆる判断が不適切なほうに傾いていると断じられたのである。辛うじて採用試験をパスしたものの、配属されたのは世界屈指のPMC、帝栄警備保障の「経理」部門だった。
齢18にも満たぬ少女の落胆の、否、絶望は計り知れなかった。生殺しのような日々。魂の燃え滓となった静は、ろくに業務をこなすことさえできなかった。本人も役員会も何度となく彼女の解雇、或いは退職を検討した。だが、同じ部署の先輩社員や上司が懇切丁寧に、ねばり強く彼女を支え続け、核シェルターよりも堅牢な殻に閉じ籠もってしまった女子社員の心を開かせることに成功したのである。
以来、静は経理業務に打ち込んだり、先輩や同僚と噂話に華を咲かせたりと、一介ののOLとしての日々を過ごしていた。祖父を殺した犯人への怨さは弱まることはなかったが、その想いのたけを実行動に移そうとは思わなくなっていた。それが決して自分を見限らなかった帝栄への、そして仲間や上司への恩返しだと思っていた。
そうして1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年が過ぎようとしていた時だった。
陰険きわむ神の悪戯としか思えなかった。
人員の配置には常に抜かりのない社長が、よりによって今朝——50年前の早朝に転送されても、静は未だに2062年の感覚が残っていた——に限って、緊急やら事故やらで実戦部隊の全員が出払っており、あらかじめ今回の任務を任されていた新堂と出動する羽目になったのである。
そして悪意に満ちた天の戯れの最たるものは、今回の事件発生による転送先が、彼女の恭敬する祖父の亡くなった、否、殺された年——2012年であったということだった。 一度は消沈し、幾重にも重なる地層の奥深くに埋没していた、彼女の暗澹とした青春時代の記憶が、本人の意に反して地表に這い上がってきた。
そして持ち前の思いこみの強さで、怨差の炎を赤々と燃え上がらせ、時空間犯罪者取り締まりの特殊任務班に参加したのである。
だが、今彼女は現場ではなく、時の流れを忘れそうになるほど悠然とした雰囲気の喫茶店にいる。どうやっても言い訳のしようのない、一重に己が身の能力不足が原因で、彼女の復讐は脆くも潰えたのである。
——「今回は」しょうがない。きっと・・・・・・きっと次があるわ。
生来、あまり前向きな性格ではなかったが、今は無理矢理、根拠があろうと無かろうと、自分にそう言い聞かせでもしないと、すでに肩を小刻みに震わせ、鼻孔の奥に痛みを感じるほどの熱いものめいっぱいにため込んでいる自分を、抑止し続けられる自信がなかった。
押し黙ったまま、窓の向こうの冷酷な景色を見やるだけでも居た堪れなくなり、彼女の右脇に、客の視線のバリゲート代わりに置いていたバックパックの一番外側のポケットに徐に右手を差し入れた。30kgあるはずの装備の3分の2を上官に託してしまったため、ポケットの中はがらんどうとしている。永らく銃火器を触れることのなかった静の細長い指が虚空を掻いた。もう少し腕を突っ込むと、冷たくて堅い、角張った金属の感触が右手の指先に走った。店内の雰囲気をしきりに気にしながら、こそこそとそれを取り出すと、音を立てないように、慎重にテーブルに置いた。そして、静の手よりも二周りほど大きい直方体状の物体のつまみをひねった。
窓の外の氷の雨よりも激しいノイズが、間断無くスピーカーから射出される。静の見込みを遙かに上回る耳障りな大音響に、お客達が一斉に、驚愕の声を上げて静を睨みつけた。
「おや、お嬢さん、懐かしいものをもっているじゃありませんか」
静が慌ててテーブルに置かれたもののつまみを戻そうとすると、それを遮るかのように、店の主人の声がカウンターの方から飛んできた。心底驚いたらしく、思わずカウンターを出て、静のテーブルに寄ってきた。主人の口振りの表情からして、さっきの騒音のせいで心証を悪くしたような雰囲気は無さそうだった。
「これは私が太平洋戦争でビルマに派兵されたときに使っていた通信機ですよ」
今度は静が驚愕する番だった。太平洋戦争?それって、いつ?即座に4つの数字が脳裏に浮かんできたが、彼女の意識がそれを瞬く間に霧消させた。
「お嬢さん、どうしてこれを?」
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.164 )
- 日時: 2013/10/08 19:12
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
呆然としていた静が、目と鼻の先で問いかけられたことに気づかず、心配そうに店主が2度声を掛けてきたところで、声を裏返して応えた。
「え?あ、これ、これですか?これ、は、そう、知り合いのコレクション、コレクションなんですよ」
途切れ途切れに前線の二人の会話が粗末なスピーカーから漏れてくる。本来なら隊員以外に聞かれてはいけない内容だが、たけるノイズ達によって、話している内容の判別が到底不可能な程に乱されていたので、静が冷静を装ってその場をやり過ごそうとした。
だが、人生で最も血気盛んだった頃を思い出し、否応なしに意気が亢進していた店主が、たった一言で、静の浅はかな芝居を打ち砕いた。
「わたしが直してあげよう」
精神の抑止力を失った静が、すっとんきょうな声を上げると、今まで静を猜疑の目でにらみつけていたお客達が、いかにも愉快そうに目を細めながら、静の席に集まってきた。そして店主と年齢の近い者は、静の通信端末を見ると、口々に思い出話——どれも例外なく武勇談であったが——を話し出して、店内が十数年ぶりかの喧噪に包まれた。
身を挺して部外者が通信端末に触れるのを阻止しようとする静と、いつの間にやら親切心が、通信端末の分解に拘泥する気持ちへと変貌してしまった店主との、息もつかせぬやりとりがしばし続いた。
不毛な争いに終止符を打ったのは、店主の方だった。正確には、店の常連客の一人が、年寄りの言うことは素直に聞くもんだぞ、と口元は微笑みつつ目は鋭く、やんわりと凄んだのである。そして刹那、静が全身を強ばらせた隙をついて、彼女の向かいの席に回り、これ見よがしにゆっくりと、己が今より50歳程若かりし日の最先端の精密機器を持ち上げた。
まだ通信機を取り戻すチャンスはある。静は店の主人がドライバーを持っていないことに気付いていた。あのお爺さんが、ドライバーを持ってくるために席を立ったところで端末を持ってここを出よう。端末を持ったまま席をたたれたら、手も足も出なくなってしまうが、今は唯一の望みに賭けるほか無かった。
だが、一向に向かいの老人が動き出す気配がしない。静がテーブルの下で小刻みにつま先で床を穿ち始めると、出し抜けに老人が端末の外郭の上下を諸手でつかみ、引っ張り始めた。動転した静が、あからさまに双眸を皿のように見開き、前のめりになって店主に詰め寄った。
「ご、ご主人?」つい語尾がうわずってしまった。
「はい、どうしましたか?」
「ドライバーは・・・・・・要らないのですか?」
一瞬、店の主人が顔をしかめたが、すぐに表情をゆるめ、おもちゃを買ってもらった少年のように明るい笑みと声で応じた。
「お嬢さん、こいつはな、分解に工具がいらんのだよ」
静が返事をするのも忘れ、老人の節くれ立った手に収まっている、憎き金属の箱を睨みつけた。前線でもすぐに修理ができるように、素手で全ての部品が分解できるとか、そもそも部品数が最小限に抑えられているだの、あたかも自分が創ったかのような勢いで、店主の老人が喋りまくっていた。そして老人の左右の手は主が(あるじ)が己の口上に陶酔している間に、鈍い金属光沢を放つ、端末のいかつい外郭を表側と裏側の二つに分けていた。
腹を決めて天井を仰ぎ、双眸を下ろした静を尻目に、彼女のテーブルにハイエナのごとく群がった戦中戦前世代の御仁等は、60年もの時を経て、小さな戦友の御開帳の瞬間を目の当たりにして興奮もたけなわになっていた。
「ん、なんじゃのぅ、これは?」
店主の左脇に陣取っていた、サンタの如く見事な白髭を蓄えた老人が、右の人差し指を小刻みに震わせながら通信端末の右上にはまっている丸みを帯びた部品を示していた。途端に、一瞬前までの喧噪がはたと止んでしまった。武勇談を披露していたご老人の面々が、眉根を寄せ、しきりに頸を左右に傾げて見るが、うめき声しか発することができなかった。
元日本兵の老獪どもを一瞬にして黙らせてしまった事態に、いたずらな好奇心をかき立てられた静が、軽く会釈をして頸を突っ込んできた。明らかに他の部品と形状や材質が異なる部品が右上にはまっている。
——これ、未来の部品?
心でつぶやくなり、いくつもの疑問が芋蔓式に姿を顕わにしてきた。
——何の部品?
——これが時空間通信チップ?
——ならどうして時空間通信ができないの?
「はて、こんな部品、この通信機にあったかの?お嬢さん、ちょっと顔をひいてくれんか」
漸く言葉らしい言葉を発した店の主人が、部品の全容をあらためようと、節くれ立った右手の3本の指を狭いケースの隙間に突っ込んだ。
店主に押しのけられた静が、謎のチップと店主の指を交互に睨みつけながら、考えを巡らそうとしたとき、目の前で店主の指がチップを掴んで取り出す瞬間が、ストップモーションごとくゆっくりと静の瞳に飛び込んできた。
「あれ、とれた」
「とれた?」
店の主人と静が同時に同じ疑問を抱いた。コードは?基盤につながってたんじゃないのか?
二人が同時に虚空の一点に視線を移した。基盤との謎のチップをつないでいたはずの、黒い絶縁体の皮膜で覆われている銅線。その先端は銅線部分が露出せず、皮膜が銅線をきれいに覆い尽くしていた。
——おかしい。これでは基盤と接続できない・・・・・・。
二人がぴったりと息をあわせて通信機に視線を落とした。そこで主人は間の抜けた声をあげ、一方では静が激しく瞠目した。
「ケーブルが・・・・・・切断・・・・・・されてる」
静が基盤に残されたチップとの接続ケーブルの残骸をしばし呆然と眺めていた。だが、妄想癖のある若き女性隊員は不吉な予感を感じていた。
——これは偶然じゃない。
燃え滓のようにくすんでいた静の瞳に、刹那、強烈なハイライトがきらめく。その勢いにまかせ、目力だけで主人を通信機から退かせた。静がいくつかの部品の接続ケーブルを軽く押さえてみた。ケースの内部に隙間無く部品が詰められていたため、ケーブルが辛うじて接続を保っていたが、少し力を加えると、いくつかのケーブルで切断された箇所が顕わになった。
「な、なんじゃ、導線が切られとるじゃ・・・・・・」
言葉を言い終えぬうちに、再び静ににらまれた店の主人が、蛇に遭遇した蛙のごとく身をすくめた。
——誰が、一体、何のために?
事態の全容を殆ど掴めていなかったが、静の脳裏には不吉な予感が作り出した虚構の世界が見る見るうちに形と色を成し、己の精神と体躯を否応なしに駆り立てた。
いつもの浅はかな妄想なら、己の頬をひっぱたいて止めていたかも知れない、だが今日は、サーバールームでのHEIBの炸裂の瞬間など、不吉な虚構の世界が真っ赤な血の一滴に至るまで吐き気がするほど精細に見えるのだ。
——わたし達の任務を妨害しようとしている人たちがいる。
「新堂さん、稲森さん!」
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.165 )
- 日時: 2014/01/02 21:03
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
音を立てて静が立ち上がった。テーブルに群がっていた老人達が声を上げて身をのけぞらせた。静が彼らを素早く睥睨すると、荷物をよろしくおねがいしますと、機敏に目礼をした。鬼気迫る静の気迫に圧倒された店の主人が会釈を返そうとしているうちに、紺色の人影が喫茶店の外へ飛び出していった。慌てて静を見送りに主人が店を出ると、アスファルトに叩きつけられ砕け散った無数の氷片が作り出す濃霧に、仄かに青みがかった女性の人影が呑み込まれる寸前であった。
そしてそれが完全に彩度を失い、乳白色の空間に消え失せる将にその時、小さな機械音を立てて、彼女の右手には不釣り合いに大きな拳銃を掴む様子が、店主の目に、深く刻まれていた。
同日 午前8時33分 ポイント駅前——
どうしてもっと早くに気が付けなかったのか。せめてあの時——痩身の運び屋の青年が自分の足を叩いてまごついている時。あの時、水希に投げたヒアが返ってこないのに気が付いてさえいれば——。
銀髪碧眼の若き指揮官が、下の唇を、その薄青い皮膚が破れんばかりに噛みしめる。そうしている間にも、ウィルは部下の最悪の状況を回避するべく、周囲を一瞥すると、野次馬のいる方に背を向け急にその場にしゃがみ込んだ。少年の不可解な動きに顔をしかめる野次馬もちらほらと見受けられたが、パニックに陥っている大半の人間は、少年が革靴の靴ひもがほどけてしまい、逃げ遅れているのだと思いこんでいるか、安全な場所を求めて、すでにすし詰め状態の階段に、我先にと体躯を押し込むのに必死になっているかのどちらかであった。
野次馬の最前列の何人かが、ウィルに声をかける。ほぼ同時にウィルが機敏な動作で立ち上がると、予想外に素早い少年の身のこなしに、群衆の最前列の何人かが思わず息をのんだ。
少年は右足で何かを地面に抑えつけており、立ち姿がぎこちない。人の群のほうからは、少年の膝下と、煙幕のように地表付近にひろがる氷の飛沫のせいで、革靴の下になにを挟んでいるのか伺い知ることはできなかった。
対して、ウィルの正面——兵士が狂ったように声をあげ、悶絶している方の一団は、麗牙の指揮官が突然しゃがみ込み、右の足の下に黒い缶のようなものを仕込み、素早く立ち上がるという、少年のとった行動の顛末を、一瞬の欠落もなく見届けていた。そして、歴戦を生き抜いてきた覆面の運び屋は、その後に100%の確率で起きるであろう、修羅場を克明に脳裏に映し出していた。外見からは想像もつかないほどの俊敏さで150kgを優に越える巨躯をを翻すと、二人で仲良く横たわり、意識朦朧としている似非運び屋の相棒と少女らに覆い被さるように、高度0.8mの中空を跳躍した。
——何であんな餓鬼が物騒なものもってやがる!
地表に達するまでのわずかな間に、アビーが少年の方を見遣る。凶行に及んだ少年の蒼い視線が覆面を貫いてきた。が蛇ににらまれた蛙のごとく、アビーの全身が強烈な金縛りにかかった。
——あれは、あれは餓鬼の瞳じゃねぇ。人間の命を殺めるような・・・・・・それも衝動的なもんじゃねぇ。兵隊みてぇにそれを仕事にしてる奴らの・・・・・・。なんでだ!なんであんな糞餓鬼が・・・・・・。
言葉が途絶えた。ある確信が脳味噌をミキサーで滅茶苦茶にかき回し、衝撃が全身を貫いた。
突如相棒の悲鳴がアビーの鼓膜を貫いたとき、アビーは危うく地に横たわる相棒を潰しかけるところだった。
「気を付けろよ!アビーさん」
「野郎!いつまでも女と仲良く寝っ転がってるのが悪ぃんだろ、ボケ!おい、目を瞑れ!フラッシュ・バンだ。それと——」
いつのもの大男の怒号が一気に萎んだのに驚いてコードが耳をそばだてる。
「あの銀髪の餓鬼——」アビーの唾を呑み込む音が、異様に重たく響く。
「ECだ」
アビーが若造の顔を見ると、思ったほどショックを受けていない。
「ああ、そうだね」
「・・・・・・なに?!」
二人とも目も耳を塞ぐのを忘れたまま、彼らの背後で麗牙光陰専用小型閃光手榴弾が炸裂した。
同日 午前8時35分 川沿いの道に接続する裏路地——
——みずき・・・・・・みずき!
無数の氷がアスファルトを、コンクリートを穿つ音がする。
自分を呼ぶ声がする。
体がひっきりなしに荒々しく揺さぶられた。無限に落ち込む闇の深淵に陥っていた世界に、一筋の光が差し込んだ。光芒は瞬く間に太さを増し、あまねく世界が光の恩恵を享受するのに数秒とかからなかった。白トビしていた世界が徐々に色味を取り戻していく——。世界は重たい灰色に染まっていた。可変色コンタクトレンズで紅く染まった瞳が、正面の灰色の空からわずかに漏れ出る陽光を認識すると、同時に視野の左隅に微動だにせずこちらを見つめる二つの蒼き瞳を捉えていた。瞳は涙をめいっぱいに讃え、打ち震えていた。
「リー・・・ダー」
雪のように白い両手の指が、すがるように指揮官のジャケットの左右の肘に深く食い込んだ。
「あれほど、能力を使ってはいけないと、言ったじゃないか!」
ヒアは使わない。自分の声で伝えなくてはならない。押し殺した声だったが、己がした行為のために八つ裂きになった少女の心に、残酷なほど重たく、幾重にもこだました。
「ごめんなさい・・・」
少女は目を伏せ、悄然としていた。
少年は暫し押し黙ったまま、紅のベールに覆われた少女の顔を見つめていた。
「でも——」少年指揮官が一層声を絞り、沈黙を断った。
「良かった、無事で。——水希」
最愛の部下の顔を、頬からこめかみにかけて、右の掌で優しく撫であげる。再び頸をあげ、蒼瞳を見やる紅き瞳から、一気に雫がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい!ウィル・・・・・・わたし、わたし・・・」
少女が灼髪の小さな頭を指揮官の胸に埋めた。
「いいよ、みぃちゃん」
水希がすすり泣く度に、ウィルの胸の中で小さな体がかすかに揺れ動いた。
——水希。
そのままの体勢でウィルがヒアを投げると、水希が顔を上げ声をあげて応じようとする。咄嗟にウィルが部下の唇の手前に人差し指をかざし、頸を左右に揺すった。
指揮官の腕の中でたゆたう二つの真っ赤な瞳が、彼の目を真っ直ぐに見つめていた。
——水希はここで待ってて。あの荷物を何としても手に入れ、送り届けなくてはならない。
水希がヒアを飛ばそうと精神を集中させようとした途端、激しいめまいに襲われた。それでも指揮官の両腕をつかむ手に力を込め、必死になって指揮官の命令に抗おうとする。可変色コンタクトレンズの色が、刹那薄らぎ、ウィルの眼前に彼女の本来の漆黒の瞳が垣間見えた。可変色ジェルに染まっているはずの髪も同じような症状が発生していた。ベリーショートヘアの先に艶やかな光沢を放つ長い髪が不規則に明滅しながら風になびいている。
目を疑うような光景に、ウィルの表情が凍り付き、暫し次の言葉が脳裏に現れてこなかった。
ごく僅かしか能力を消費しないはずのアイテムが、動作不安定になっている。
——水希の力が尽き果てようとしている。
- As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜 ( No.166 )
- 日時: 2013/10/08 19:14
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7TaqzNYJ)
- プロフ: http://www.nicovideo.jp/watch/nm8070136?group_id
もうあと一回でも能力を使おうものなら、この子がどうなってしまうのか。全く想像がつかなかった。いや、そんなこと絶対想像したくなかった。
「水希、ここで待っているんだ、絶対に動いてはいけない。絶対だ」
限界まで声を絞っているのに、氷どもの喚声を貫き、水希の鼓膜をしたたかに鼓く上官の肉声。そして仲間ではなく、ターゲットを睨みつけているかのような鬼気迫る視線。それも束の間、気を取り直した少女が声を掛ける間もなく、少年の姿は消え失せていた。
辛うじて赤みを保っているベリーショートをしおらせ、少女が地面にくずおれた。無数の氷に身を穿たれる地を見つめたまま、己の耳にも届きそうにないか細い声で指揮官の名を一度、叫んだ。
たった一つの小さな小包によって運命を歪められた人間たちが、愚かにも更なる混沌へとその身を投じようとしていた。
『As Story10(2)話〜混迷に魅入られし者たち〜』(完)