二次創作小説(紙ほか)
- AsStory10(7)話〜突入〜 ( No.192 )
- 日時: 2014/04/14 16:33
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
〜突入〜
二〇一二年一月二十日 午前8時45分
<防御スクリーン内側>
すべてが一様に黒一色の世界で宙に浮いたような、体が上下左右前後に滅茶苦茶に回されているような不快さがふと和らいでくる。漆黒の空間に体が溶けだしていくような感覚に囚われる。——これが、死ぬと言うことなの?
頭の中では上と思っていた位置に、白く透き通った光のカーテンが降りてくる。あの向こうが死後の世界。私が行き着く先は・・・・・・。
自分の胸の真ん中と思っているところに、右手だと思っている何かを当てる。あくまでそういうイメージをしただけだ。実際に何がどういう形をしているのか想像もできない。意識の主の思い出がぽつぽつと、何処からもなく湧き出してくる。
EC−Enjoy Club−、血も涙もない裏組織とは表向きのことで、実際は意識の主にとっては素晴らしい友人、否、家族に等しい仲間との素晴らしい日々だった。闇の空間の此処彼処に記憶の断片が映し出される。捨てられた自分を救い、ここまで育て上げてくれた組織のトップの名前を心の中で唱える。そして行動を共にした麗牙の仲間の二人、学校の友人を、そして最後に麗牙のリーダーであり、こんな自分を慕ってくれた人。彼の名前を慎ましやかに声にした。
しかし、死後の場所は思い出の輝かしさによって決まるものではない。生前に己が犯した罪の重さがそれを決めるのだ。
——私が行き着く先は・・・・・・。
徐々に光のカーテンが明るさを増していき、白い半透明のカーテンが濃さを増し、光り輝く壁のごとく遙か遠方に聳える。ホワイトノイズのような耳鳴りがだんだんと大きくなり、ややもせず意識の主は音と光の奔流に飲み込まれた。
白とびした視界が徐々に落ち着いてくる。白みがかった狭い路地。路地の両脇を挟む薄汚れた灰色のビルの外壁。路地の向こうに見える住宅。
——え?
棚妙水希が思わず双眸を全開にしてしまい、現実界の光を直に網膜に通してしまった。頭頂部に鈍痛を受けるほどの光を受け、目を薄めた。
——さっきまで、わたしがいた路地。
状況が飲み込めずピンボケした風景を瞳に映したまま、呆然としていた。そして突然側頭部に何かが激突した。細い首がへし折れそうなほどに左右に深く折れ曲がり、水希が甲高い悲鳴を上げた。体の外に浮遊していた自分の意識が、己の大声で引き戻されると、今度はピントは合ったがぐらぐらゆれている視界につられ、アカベコのごとく頭を小刻みに揺らしていた。混乱の上に混乱をふっかけられた少女の脳内は、オーバーヒートを回避するべく少女の自己防衛本能が働き、直ちに意識レベルを落としはじめ、頭の振り子運動も程なく終わりを迎えていた。だが、「外なる力」の仮借無き仕打ちは止まるところを知らなかった。紅蓮のベリーショートヘアに右側面から鷲掴みにされる感触が走ると、傍目には、透き通るほど儚く紅い花弁を無邪気な子供に乱暴に握られた一輪挿しの雛罌粟が、痛々しく振り回されるかの如き様相となった。
丸太のような腕の中で少女が悲鳴を上げようとして、大きく息を吸い込むとすぐさま口をつぐんだ。体内の空気をごっそり入れ換え、頭をやたらめたらに揺さぶられて漸く気付いたのだ。自分の置かれている極めて危機的な状況が。
あの兵士にー未だにこの地下組織の少女は、将校と兵士の区別がついていないのだがー捕縛されている。自分を生け捕りにすると言っていたあの兵士の言った通りになってしまった。満身創痍の精神状態で能力を使ったがために、兵士を再起不能に至らしめる闇の淵まで陥れることができず、己が気絶した途端、兵士の肉体と精神があっさりと光の世界に這い上がって来られてしまった。水希も制御を失った己の能力から、少尉と全く同じタイミングで解放されていたにもかかわらず、相手に機先を制されてしまったのは、小学生のあどけなさを残す少女の肉体的精神的消耗の深刻さを克明に顕しており、数分の休息程度では到底戦力として復帰できないことを、いやが応にも思い知らされていた。
兵士を真の闇の深淵に陥れることができず、陸軍少尉の手に堕ちた少女が胸のうちに抱えていた選択肢はただひとつ——。
この兵士の所属する組織の拠点まで敢えて拉致され、脱出の機会を窺うこと。
当座の問題は、水希が己が手で完膚無きまでに叩きのめしてしまった自身の精神状態ゆえに、ヒアでウィルと連絡が取り合えないことだった。
水希は拉致されても戻ってこられるつもりでいるが、連絡を受けていない彼女の上官ウィル=ロイファーは、血眼になって水希を拉致した犯人を突き止め、チーム『麗芽光陰』の総力をあげて救出しにかかるだろう。だが、それはこれまでになくECの最大の武器である「秘密」が明るみになりかねないリスクを孕んでいるのである。水希は己の指揮官の身元がばれてしまう可能性に対してのみ気を揉んでいたが、実際はそんなに小さな話ですむことではなかった。
過去に対する「たら」「れば」を言うのは不毛な行いの最たる例ではあるが、もしこの追いつめられた情況にウィルがいて、敢えてさらわれるという案を聞いていたら、説教好きで心配性でツインテールの部下にただならぬ思い入れがある指揮官は機関銃のフルバースト掃射のごとく、少女の軽率な思いつきをこう言って窘めていただろう。
——この国の最先端の力と頭脳が集結する軍事組織の網を、僕とみいちゃんの能力だけでかい潜っていけるなんて保証は何処にもないよ。確かに僕たちのミッションの成功率はとても高い。どんなに堅牢な警備を誇るターゲットだって破ってきた。でもそれは、僕たちの能力の高さというより、影晴様がお膳立てをしっかりしていてくれるからだよ。いつも僕たちは任務では一方的にターゲットに襲撃を仕掛けていて、ターゲットは僕たちが何時何処にどうやってくるのか、何のためにくるのかも全く把握できていない。それどころか、僕たちの姿さえ知らないんだから。物を奪取するミッションだと、持ち主がブツを奪われたことにしばらく気付かいこともよくあるよね?それは影晴様の準備が完璧だからなんだ。
タラレバの世界での銀髪の指揮官の長広舌は長い前置きを終え、漸く本題を切り出した。
- AsStory10(7)話〜突入〜 ( No.193 )
- 日時: 2014/04/14 16:37
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
——そういう見方をすると、みいちゃんのアイディアはいろいろと良くないことがあるんだ。もし僕たちが脱出に失敗して、僕たちのチームが救出に動きだした場合、陸軍の奴らはチームのメンバーが侵入する目的地がわかっていて、時間も具体的ではないけど、救出ミッションだから兎に角大至急ってことでかなり警備を強化する地点、時間を絞り込める。移動手段は空か陸か若しくは地下か、救出チームに選択の余地はあるように見えるけど軍事施設の拠点に乗り込むのだから、今までのターゲットにしてきた組織の施設、アジトとは、哨戒の範囲と質が比にならないはずだ。だとするとそれに侵入する相手そのものについても問題だらけだよ。奴らは防衛軍陸軍と言ってるけど、たぶん陸上自衛隊なんだと思う。表向きは国外の現地に行ってもインフラの整備とかいわゆる「前線」からは離れたところでの活動災害救助とかばかりで、実践のない張りぼてのようなな軍隊という評価が軍事・防衛業界での大勢を占めてたし、影晴様もそう思ってる。
でも——。
EC(ぼくたち)を生け捕りにするなんて、そんな危険を冒してでも情報収集に貪欲になっている。世界に遅れをとらないようにするどころか、世界に先んじようとしている。そしてそのような動きを影晴様の情報網に察知されなかった実力を持っている。表と裏でここまで極端に組織の性格を変えるなんて、裏の姿を隠すためというには度を越している。それ以上の何か不吉な目論見が在るように思えてならない。きっと僕たちが脱出に失敗したら、僕らを人質にしてもっと中核の情報や中心の人物の提供とか接触を試みるに違いないよ。それで自衛隊との交渉にEC組織全体が動かざるをえなくなったら、最期の腕尽くの勝負の勝ち負けに関わらず、その時点で僕たちの負けだ。自衛隊という表向きの組織と対等に渡り合うために、表の世界にECが出てきたら、もはや組織の秘密を維持できなくなってしまう・・・・・・。みいちゃんはいまそうなってしまいかねに方法を言ってしまったんだ。これは最終手段としても使ってはいけない。もしこれしか窮地を逃れる術がないというのなら、それは僕たちが既に「チェックメイト」になってしまったという事だよ。
ひとしきり言い終えた銀髪の指揮官は陰鬱な笑みを浮かべながら水希の背中を見やる。仮定の世界に召還された銀髪の指揮官には、最愛の部下の背中を覆うむさ苦しい軍人の姿など見えていない。だが自身の声も部下に届くこともない。ウィル=ロイファーは出番を終えると自ら姿の透明度を増していき、程なく路地を吹き抜ける風に霧散されていった——。
ウィルが水希を残して駅前の現場に直ちに戻るという、「運命の分岐」を選択した世界での水希は、そんな指揮官の言葉を聞けるはずもなく、陸軍少尉の図太い右腕に担ぎ上げられいつもより格段に高い視点で見えるの世界を、瞳の奥に垂れ下がっている視覚の膜に焼き付けておこうとしばし眺めていた。そして、背中のすぐ後ろに聳える男の様子を窺おうと、頭を小さくゆっくりと揺らし、寝ぼけたような声を出しつつ腕を突っ張って首をのけぞらせた。一瞬、男の右腕がスタンガンを当てられたかのように痙攣したが、この時の水希は男の不可解な動きを意に介すこともなかった——。
己の右腕が痙攣した。それがこの巨漢に起きた最初の肉体的な異変だった。健常者であっても、何らかの原因で血流が滞ると、筋肉が自ら痙攣し元に戻そうとする動きをする事がある。この痙攣もそれだと思いこみたかった。だが、無意識に築いてしまったこのシチュエーション、そしてタイミング・・・・・・。
「違う」
頬をひきつらせ、音もなく分厚い上下の唇が言葉にそって形状を変えていく。
発達した左右の大胸筋を押しつけられているような体勢になっている男まがいの髪型をした少女の工作員が上を見上げようと、左右の細い腕を突っ張った瞬間、より正確に表現するならば、樹氷になりかけている小枝のごとく白く儚い少女の10本の指が、弱々しく男の右腕の制服に食い込んだときだった。少尉の右腕がビクついたのは。
深紅の二つの瞳が首の下から己をぼんやりと見上げている。男はその時左に顔を背けていた。陸軍少尉は視線を下に向けてはいけなかった。少女の、女の淫靡な視線を絶対に感じてはいけなかったのだ。少尉が動揺のあまり、呆けたように口を半開きにしたまま、顎を震わせていた。少尉の瞳が何の面白味のないコンクリートの壁を眼球の奥に映し続けていたが、そこから目線が移る様子は全く見られず、額から粘っこく冷え切った汗が二筋、三筋と角張った顔に痕を残して垂れていった——。
兵士——正しくは将校である——の振る舞いがどこか不審だ。私の拉致以外に何か企んでいるのか。兵士の決して突発的ではない挙動不審な振る舞いが続くと、水希は徐々に己の哨戒レーダの感度を高めていった。彼女が上を向くと、兵士は左の壁を見つめていた。水希には一見、何の変哲もない薄汚いコンクリート製の建物の外壁にしか見えなかったが、そのつまらない代物をあの兵士はじっと見つめているのだ。見つめている、と言う表現は水希にとってあまりしっくりくるものではなかった。無理のある姿勢とアングルで対象を観察しているため、表情の細部まではわからないが、睨みつけていると言うには表情が弱い気がするし、身じろぎ一つせず壁の一点を見ているので、眺めているとか単に見ているという感じでもなかった。他にもこの少尉は、少女を抱え上げてから、急に無駄な動きが増えた、というよりは、不可解な挙動が目立ち始めてきた。
少尉の周囲に対する注意も散漫になっており、少尉の背後のスクリーン越しにザイルを腕に抱えた瑠璃色のジャンパーを羽織る女性警備隊員が小走りで横切る姿に気づけずにいた。さらに、所在なさげに上下左右に揺れている男の左腕もそうだ。だらりと下げているかと思えば、不意に腰の高さまで手を持ち上げて、そして何かに逡巡したような様子で再び左手をおろしたり、先ほどまでの軍人然とした横柄な素振りが消え失せていた。水希がじっと上を見上げ続けていると、男が少女の様子を確認しようと目線を下に向けてきた。だがそれも一瞬。水希がまだしつこく男の様子を窺っているとわかると、表情をこわばらせながら目線を逸らしてしまった。水希の位置だと確認できないが、あの男のいる組織——たぶん自衛隊——から何か男が躊躇するような指示を受けているの?
——私に勘付かれるといけないようなこと?
- AsStory10(7)〜突入〜 ( No.194 )
- 日時: 2014/04/14 16:46
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
全神経を男の行動分析に集中させた。凛とした冷気を手伝い、少女の思考回路は鋭敏以なっていく一方であったが、それとは裏腹に、少し厚着している程度の服装で極寒にさらされている小さな体躯は、外気に直接触れているロングブーツとショートパンツの間に垣間見える限りなく白に近い太股からしびれが進行していた。刹那少女の全身が身震いにおそわれると、顔面をしわくちゃにして気力を振り絞り、満身創痍の心をぎりぎりのところで支えた。眉をつり上げたまま静かに瞼を閉じ、意識を集中させる。
——拘束したECの工作員を生きたまま拘束する必要が無くなったから、その場で殺せとでも言われたのかしら。
水希が緊張で乾いた唇を軽く舌なめずりした。
——何を言われたのか具体的にはわからないけど、あの男はそれをするのを躊躇しているのは確か。
水希が、しっかと閉じていた瞼の力を抜き、双眸に極めて薄い隙間を開けた。光がしみこむように少女の瞼を通り抜けると、少女の視界が柔らかく白んだ。光の感触が少女の視覚を通して胸の奥に浸透していき、窮地に追いつめられざわついていた彼女の精神が静けさを取り戻していく。
少女の胸が静寂で満たされると、決断の言をかすれ声になりながらも、明解な調子で小さなその奥深くにまで響かせた。
——今は待つのよ・・・・・・待つの。
そっと瞼を持ち上げると、腕の下を横切っているごわついた制服を、長いまつげ越しに見下ろす。
——絶対に今、あの人を刺激してはいけない。
水希が、男の顔を覗き込もうとした時と同じように、虚ろな目つきで頼りなく頭を揺らしながら目線を完全に落とし、両腕の力を抜いた。すると、また丸太のような腕が今までで最も顕著に強ばり、筋肉が膨張した前腕と二の腕に、灼髪の少女の可細い体が甚く締め付けられた。思わず水希がむせていると、生暖かい風が背後から吹き降ろしてきた。不可視化ジェルで透明になっている少女の後ろ髪が風に緩やかに振り払われ、ねっとりと青白いうなじを撫でた。悪寒が雷撃のごとく全身を駆け抜ける。あまりの気持ち悪さに思わず悪態を吐きかけた。
さっきから陸軍兵(将校ではあるが)に何が起きているのか。ぬいぐるみのごとくじっとやり過ごすはずが、水希の神経は刻一刻と張りつめていき、一方では少女を抱き抱えた大男の吐息は熱を増し、ランニングの後のように切れ切れになっている。男の胸から発せられた振動が、堅牢な軍服、そして漆黒のジャケット、深紅のウールシャツ、シルクの肌着を挟んで密着している白無垢の柔肌に否応なしに伝わってくる。息切れよりも心の臓の昂進が顕著で、脈がかなり速く、一回の拍動も強く感じられた。組織内でも屈指の手練れの少女は、初めて人を殺めるミッションに携わったときのそれを彷彿とさせられていた。
だが、そんな情況がわかったところで、別に好印象を抱いているわけでもない、むしろあからさまに敵愾心を向ける男の心臓の鼓動を、衣服越しとはいえ肉体をべったりと密着させて味あわさせられる羽目にあい、吐き気がのどの入り口までこみあげていた。周囲は氷が舞っているにも拘わらず、巨躯の男の暑苦しさ息苦しさ加減に耐えかね、背中をのけぞらそうと両肘を後ろに突っ張ったそのとき、不意にある場面が少女の脳裏に映った。ハンマーで頭蓋骨を内側から殴られたような衝撃が、少女の頭を駆けめぐり、しばし周りの風景が静止画と化し、やがて視野全体がホワイトアウトしていった。
ECは、殊に麗芽光陰はあまりに仕事を華麗に、素早くこなし、失敗することも片手で数えられるほどしか無いため、麗芽が人質をとることも、ましてや彼らそして彼女らが身柄を拘束されることなど、隕石が年末ジャンボ宝くじの1等の当選者に激突するのに等しいくらい、あり得ないシチュエーションであった。今日この瞬間までは・・・・・・。それ故、人質をとる、若しくは人質ではないが見ず知らずの人間を拉致する人間の行動パターンについても、人質をとったり拉致したりして、目的が達成されれば、身柄を拘束された者を解放するか処分するかのどちらかしか考えたことがなかった。それが今、水希は極めて重要な、生死を分ける、場合によっては命よりも崇高なものを失いかねない事象に気づかされていた。それは——。
「人質をとるものが男で、人質が女性だった場合の犯人の行動」
——わたしを締め上げている兵士の不可解な行動。その原因は全て、わたしにあるのだ。なぜだかわからないけどあの男、わたしのことを拉致する対象者としては見ていない。わたしのこと・・・・・・。
言葉にしようとすると、その光景が脳裏に浮かびかけて咄嗟に止めた。一瞬遅れて戦慄が全身を走る。
身じろぎ一つとれない。
水希が陸軍兵の腕の中で蠢く度にその感触が男の感覚を激しく刺激するのだ。先ほども指が制服の袖に少し食い込んだだけで、腕全体が異様にひきつったのを目の当たりにしたばかりである。
水希が今までじっと動かずにいたのは、陸軍兵に良心が残っていて、まだ小学生のあどけなさが残っているような少女を殺めるのを躊躇していたように見えたからだ。そうしているうちに頭を冷やし、見逃すことはないだろうがこの拘束を解く交渉の余地があらわれることに賭けたのだ。正体を曝されても尚、相手に暴力を振るうのを躊躇わせる、それがECの強さの一つなのだ。しかしこれが通用するのは、あくまでほんの微塵程度でも正常な人心が残っていた場合である。今のあの兵士はほんの微塵の程度の正体が狂気に吹き飛ばされようとしている。良心につけこむには既に男は手遅れの状態になっていた。覚悟を決めて動き出そうにも、たかだか右腕一本の戒めのはずが全然びくともしない。いや、右腕がびくつくのだが、これ以上刺激する様な事をすれば最悪の事態を迎えてしまう。それこそ、死ぬことすら楽に見えてしまうほどの苦悶と凌辱が——。
少女の左右の眼球の括約筋が活動を放棄し、目の前の光景が見る間にぼけてくる。
巨木のような右腕が少女の薄っぺらなジャケットをわしづかみにする光景が瞬間的に視界に割り込む。
——いや……。
少女の歯が機械のように小刻みに音を立て始める。誰にも聞こえないはずなのに、脳裏には幾重にも反響して混乱をさらにあおる。
——いや……助けて。
視界の左の隅に、前髪がかかる。ピントを失っても見間違うはずがなかった。髪が、黒くなっていた。
——助けて……助けて!
上方で荒ぶる男の呼気が音を立てて吐き出された。
- AsStory10(7)話〜突入〜 ( No.195 )
- 日時: 2014/04/14 16:53
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
たった数分の間に、己の感覚は幻覚を見るほどに狂気に侵されてしまったのか。
——そんなはずはない。私がしたのは、ただ年端もいかない少女の姿をした裏組織の工作員を抱えただけ。
言葉を終えるなり、顔を持ち上げると眼球を左右に震わせ、スクリーンの向こうの虚空を見やった。男の顔は恐怖と興奮が綯い交ぜになり唇がへの字に曲がっているにも拘わらず、時折口の端が痙攣して不気味な笑みを浮かべていた。己のしでかした行為への後ろめたさが不安へと変わり、瞼の周りには無数のしわが寄り集まって光の無い悄げた瞳を取り囲み、口の端の肉はやや垂れ、顔だけ見ていると初老の雰囲気すら感じさせる老け込みようだった。
——たしかに・・・・・・確かにわたしは自分の苛立ちのはけ口をこの少女に求めようとした。
誰に訊かれたわけでもない。何故か神への告白するかのような言葉が口をついて出てくる。
——だが・・・・・・だが、わたしは、あの工作員に・・・拳をふるってなど・・・・・・ない!
心臓が自身を震わせながら鋭く拍動する。それにつられるように、肩を上下させて浅い呼吸をする。
——水際で・・・・・・堪えていたのだっ。わたしは・・・・・・わたしには、それだけの、理性が・・・・・・残っていた、はずなのだ・・・・・・。
混濁し始めた意識の中、吐く息に混じってかろうじて最後の声をのせた。
少尉は文字通り目と鼻の先で、ECの工作員である少女の頭髪が深紅から漆黒へと急速に変化していく様子を目の当たりにしていた。その直後、少女の頭髪は全体が灼髪へと戻らずに、赤色の光沢の波紋がつむじを中心に広がっていったのである。
己が瞳の捕らえている現実を完全に幻覚と思いこみ、茫然と眼下の黒髪を眺めていると、襟足へ達した紅の波紋が頭頂部へと打ち寄せる波の如く戻ってきたのである。その後不穏な色の光沢は長く不規則な間隔で黒髪の付け根から末端までを行きつ戻りつし始めたのである。その光景は臨終間際の心臓の心電図さながらだった。
薫り——それが軍人のステロタイプのような屈強な大男の精神と感覚をいとも簡単に崩壊させた元凶であった。
無能な部下の尻拭いをさせられる度に鬱積していった腹の底のわだかまりの捌け口を、肉体の自由を奪われている小さき者への圧倒的な力の誇示——要は腕力に訴えること——に求めていた。本人に否など無いのに、小さき者、弱き者が一方的に責められ、悲鳴を上げ、男に平伏し、悔し涙を流して赦しを請う姿と声、そして優越感と歪んだ哀れみの情を己が胸の奥に見出すことで、自らの手で己よりも遙かに惨めな境遇に少女を陥れることで、精神の安寧を保とうとしていた。灼髪ベリーショートの少女が陸軍少尉の右腕の中で、朦朧としながら自身の頸を持ち上げたとき、彼女の髪が氷の粒子を振り落としながら揺らめいたその瞬間までは——。
少女の毛髪から発せられた薫りは、少尉の鼻孔を通り、白く脆い出来損ないのヘルメットのような頭蓋骨に囲まれた神経の中枢に達し、あらゆる機能を電撃的に壊し始めた。香水ではない、肉体から発せられる生理的なにおいでもない、甘くもない、ミントのそうな清涼感があるわけでもない、名状しがたいその薫りに少尉が最後に触れたのは、1年以上前であった。そして今この薫りを、あろう事か年端のいかない少女から感じてしまった事実に、動揺を禁じ得ないでいた。
女の薫り。魔性の香。男の理性を跡形もなく粉砕し、心の深奥に押し込められていた野性を否応なしに煽動する不可思議なもの。我知らずふるえる口からうわずった呻き声が漏れだす。
——堪えろ!耐えろ!何をくそガキに欲情しているのだ!
わずかに残された理性が最後の力を振り絞り、猛り狂うもう一つの自身を押し潰さんとしていた。腹の奥底の激しいせめぎ合いに、少女を抱える右腕の震えがますます激しさを増す。既に御することのできなくなっている二つの瞳は真下を向き、目線を白いうなじを嘗めるように這わせると、儚く揺らめく鎖骨を後ろから前へと横切り、ウールTシャツの襟元と柔肌に挟まれた闇の淵へと滑り込んでいった。
職業軍人としてひたすら軍役に己が身を投じてきた少尉に、幼児性愛などという異常な性癖があることを、何人たりとも気付くことがなかった。当然である。彼はそのような性癖を持ち合わせていない。彼を蛮行に走らせたのは、自衛隊から大幅に活動範囲を拡大し、正規の国軍としての地位を勝ち取った日本国防衛軍の特異な人員構成故であった。
日本国防衛軍は、大幅な軍備の増強と並行し、自衛隊比で増加率数百パーセントに及ぶ兵士の劇的な増員も表立って行っていた。新生日本国防衛軍の幾度にもに亘る兵員募集に志願してきたのは殆どが20歳前後の若者で、男女比もほぼ拮抗していた。だが、採用担当士官が由緒正しき士官の家系揃いで、ことごとく女性志願者は落とされていった。そしていつしか男女比99.5対0.5という、おぞましき「男の園」ができあがっていたのである。特に国内外を問わず前線への派遣や日々の訓練に明け暮れ、世間から完全に隔絶された陸軍の尉官以下の将校、兵士たちの間では、戦国時代の武将と小姓を彷彿とさせる、士官と兵卒の常軌を逸脱したスキンシップが公然と交わされ、軍内部の性風紀は秩序を失っていた。水希を羽交い締めにしている将校、同時に名仮平の間接的な上官である件の少尉は、穢れきった組織の空気に汚染されなかった希有な存在だった。少尉は、彼がまだ一兵卒であった頃に、災害救助任務で派遣された先で知り合った女性と相思相愛の中になると、一途に彼女を想い続け、貞操を守り続けてきた、はずだった。天を突くようなでくの坊が彼の配下に配属されるまでは。
部下がの失態があまりにも酷いので、直接の上官でもない少尉が直々に事態の収拾役を任されるようになったのは既出の通りだが、そのせいで一年に2週間ほどしかとれない、一般社会での自由行動期間をことごこく削られていき、畢竟、恋人とふれあう時間が全く無い状況が何年も続いていた。少尉は己の境遇に対する愚痴や憤懣を組織に訴えるようなことはせず、彼の不遇の元凶に直接感情をぶつけた。人から厳しい態度をとられるのは、相手の自分に対する期待の大きさ故だという言葉が、使い古されてもなお使われ続ける名句があるが、少尉の名仮平に対する厳しさには、およそ部下の成長を願ってなどという思いは欠片も存在せず、胸の奥で結晶化した純然たる憎悪が心の主を突き動かしていた。
- AsStory10(7)話〜突入〜 ( No.196 )
- 日時: 2014/04/15 17:46
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
そして名仮平に対して際限なく膨張し続ける純粋な憎悪の影の下でもう一つ、少尉の性に対する認識があらぬ方向に歪まなかったがために、女体を欲する男の根源的な欲望が、彼の心の深海底にプランクトンの死骸の如く、音もなく着実に、急速に堆積していた。心の主に異変に気付かれることなく、「堆積物」は海底の許容量を越えて降り積もり、心の大洋底をなす岩盤を限界までたわませ、そよ風が起こすかすかな揺らぎを受けただけでも、岩盤の底を突き破る巨大な海底陥没が起きかねない状況に陥らせていた。遊び女のような風貌のECの工作員は、無意識のうちに魔性の香で極度に鋭敏になった少尉の心に揺らぎどころか会心の一撃を与えてしまったのである。
少尉が五感の求めるままに薫りの源を己の顔に更に近づけようと、少女を抱える右腕を上に引きあげる。そのわずかな間にも少女の柔らかな背中が、二人の衣服越しに魁夷の前面に押し付けられながらこすれていく感触が、脳味噌に直接スタンガンを当てられたかのような麻痺感をもたらしていた。一時は陸軍将校を再起不能直前まで追い詰めた工作員の少女は、今ではロングレングスの黒髪で顔の左右を覆い、陸軍の鑑のような逞しい右腕の中で縫いぐるみのようにじっとしていた。
気を失っているように見えるが、少女の体がこれから待ちうける彼女の運命への恐怖で、孤児のうさぎの如く小刻みに震えているのを分厚い皮膚で捕らえていた。糞生意気な小娘が声を上げ、涙ながらに抵抗する光景を期待していた男にとっては、昂進する情欲にやや水を差すシチュエーションとなってしまったが、それもこれから始まる素晴らしき惨劇をいっそう引き立てるための束の間の引き時と考えれば、あの小娘は生まれながらにしての淫売か。
口許までせり上げた少女の頭髪に鼻腔を近づけ、音を立てて息を吸い込むと、野卑な笑みを浮かべ、空いている左腕を漆黒のジャケットの胸元へと伸ばしていった。
生暖かい熱気が左の頬を掠めた瞬間、弱弱しい呼吸は完全に止まった。漆黒の瞳は瞬きを忘れ、小刻みに震えていた華奢な体躯は絶対零度の液体を浴びせられたかのごとく凍り付いていた。EC実行部隊筆頭チームの能力者は、未曾有の恐怖に直面し、正体を失っていた。敢えて敵中に墜ち脱出の機会を窺おうなどと、今となればなんと浅はかな考えだっただろう。己が身の内に慢心が欠片もなかったといえば嘘になるのかも知れないが、彼女を含め、麗牙光陰の4名があまりにも手際よく完璧に仕事をこなすため、任務のターゲットとされた人物を攻撃対象若しくは脅迫する対象以外としての意識することもなかった。意識しないことが、ミッションの遂行に迷いを生じさせず、心身への負荷を可能な限り削り落とすことになり、それが麗牙を最高の実行部隊であり続ける秘訣の一つでもあった。それゆえ、人質の心境など考慮するのは言語道断、彼女のような特殊な能力を、持たない人々が人質をとるにいたるまでの葛藤、覚悟、諸々の心理をわざわざ考えることもなかった。加えて、少年少女がほとんどを占める、彼の裏組織においても年を下から数えたほうが早い彼女が、全人類の約半数を占める、喉仏が突き出し、髭を生やす種族に宿る原始的な欲望を知る由もなかったのである。
呼吸が復帰する前にか細い両腕が最後の抗いをしようと動いていた。だがそれよりも前に、漆黒のジャケットの襟元を野獣の左腕が捉えていた。薄っぺらの布切れをつかんだこぶしにぐいと力が籠められる。引きちぎれんばかりに張り詰めた生地に、頚椎が力任せに前に引っ張られると、哀れな少女の頭部がされるがままに振り回された。主の意に反して縦横に激しくぶれる世界に、恐怖の衝動の第二波が少女の理性の堤防をあっさりと乗り越えると、華奢な体躯と堅牢であるはずの精神をあまねく蹂躙した。
ジャケットのジッパーが引き千切られ、左前身頃の布片がの目の前を斜に横切る幻影で、己の瞳を塞いだ。今ほど自分の能力が必要と感じたことはなかった。相手を闇に葬るためではない。わずかな時間とは言え、血糊と体液の邪臭に満ちたその手に触れられてしまった己の肉体を、心を、生命の輪廻から隔絶された無限の闇の淵に埋めてしまいたかった。
長い一瞬だった——。時の流れを遅く感じる度合いは、その瞬間が彼の人間にとって無為であったり、被る不利益の大きさに比例することが多いが、この忌まわしき仕組みが、灼髪ベリーショートの欺瞞が殆ど消えてしまっている黒髪ロングの少女にも適用されるならば、彼女は永遠に苦悶と絶望の渓を彷徨し続けることになっていたかもしれない。非戦争国家日本の中学生の鑑のようなたたずまいの少女が犯してきた過ちの大きさからすれば、それも妥当であるに違いなかった。
だが瞬間は僅かずつであるが、確実に歩みを進めていた。10余年の間、積もり続けてきた咎のへどろに腰まで埋もれても少女は穢れに塗れ、時間の中を進んでいた。どれほどの陰惨な結末が待ち受けていることがわかっていても、立ち止まることは許されなかった。それが神に背き、偶像崇拝ともいうべき一介の人間風情を崇拝する小さき者が背負わされた大き過ぎる十字架であった。
少女を惨劇から隔離していた刹那の幻想が、暁に照らされた朝霧のごとく霧消していき、残酷な現実の姿が徐々に露わになってくる。
二つの眼球の焦点は合わないのに、刀のように鋭い冷気に晒され続けた肌は最後に残されたわずかな温覚、圧覚で己が身のおかれた状況をはっきりと感じ取っていた。
平らかな右胸の上のあたりに、五本の突起がつきだした筋肉と骨の塊がぴたりと張り付いている。掴んだジャケットと厚手のTシャツの生地は、ほんの少し力を入れただけで、濁り無き白の両胸が露わになりそうなほどに張り詰めている。
時間が、止まった?不覚にも水希があらぬ錯覚にとらわれていた。男の腕がジャケットとシャツの襟元を掴んだまま動かない。いや、右の掌は指先をぶるぶる痙攣させながら際限なく握力を高めているが、腕が硬直したままだった。蒼白の唇を真一文字に引き締め黙したまま心の中で短い文句を繰り返し唱え、恐怖で暴発寸前の己が精神を鎮めると、目線をありったけ右上に持ち上げ、ゆくりと、右胸で固まっている人間の手の挙動にも注意を本人も動いているのかわからなくなるくらい慎重に頸を後ろ斜め上にひねった。
「誰か、いるのか?」
首を後ろに大きくねじったまま、白い靄ばかり目立たせ、己の耳にしか届かないかすれ声を漏らした。不意に何者かの気配を感じた。これから己が実行に移そうとしているあらゆる理性と倫理を破棄した行為への後ろめたさ故なのか、或いは軍人としての勘が働いたのか、確信がなかった。だが、少尉の射抜くような視線が約10メートル後方のスクリーン脇の一点を捉えていた。抱き抱えた工作員に下から様子を窺われているのにも気付かず、呼気を止め、全身全霊を視覚と聴覚に集結させていた。少尉にも長い刹那が訪れていた。
- AsStory10(7)話〜突入〜 ( No.197 )
- 日時: 2014/04/24 12:51
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: Vkpu3Lr3)
<防御スクリーン外側>
「30秒——」
栗色のセミロングを風が揺さぶった。川と道路を隔てる、道路の柵代わりの手すりから、2羽の雀がその風に乗って飛び去った。警備会社の実地訓練と知らされている野次馬の人々にも、その異様な緊迫感が伝わったのか、誰一人として物音をたてる者はいなかった。
帝栄警備に入ったばかりの頃、まだ本気で前線の部隊に配属されたいと望んでいた頃、隊員の有志で催した訓練の一部に参加したことがあった。
「現場の奴らは常に命張ってやってる。それだけに荒くれだらけで、じっとしてるのが苦手なのも多いんだよ」そのとき居合わせた帝栄の隊員と何気なく交わした言葉が、矢庭に静の心に浮かんできたのだ。それで体勢を整えてからすぐに突撃せずに、1分間待つことにした。マグナムを握った瞬間流れ込んできた「熱い何か」もなぜか彼女の意志を遮ろうとはしてこなかった。
もう残り30秒。1分待つことともう一つ、静は既に現場にたどり着いているはずの先輩隊員から、出発準備のときに受けたアドバイスを思い出していた。「警察の名前を出す前に『帝栄』を名乗れ」警察と聞いてひるまない凶悪犯でも、帝栄の隊員が来たと知るや投降するというケースも少なくない。それだけこの少数精鋭の警備会社は表でも裏でも畏れられた存在なのである。長らく社屋に籠もっているうちに静は、世の中の帝栄に対する高い評価は、噂が噂を呼び膨れ上がったものだと思っていて、虚を突くような新堂の言葉がにわかに信じられなかった。今でも半信半疑だが、際限なく昂進する意気をどうにかしてねじ伏せるために、まじないのように先輩隊員の言葉を繰り返し唱えていた。
<防御スクリーン内側>
鼓膜が耳から飛び出すのではないかというくらい、耳をそばだて、スクリーンに穴を開けんとばかりに路地の端を睨みつけていたが、遂に沈黙を続けるほど増していく名状しがたい圧力に負けて言葉を吐いた。
「な、何も、いねえじゃねぇか」
強ばる笑みを浮かべながら顔を戻す。一瞬早く、胸の中の少女が同じように顔を前に戻していたことに気付く余裕は有るはずがなかった。
——20秒。
スクリーンのすぐ脇でまた声が静かに時を刻んでいた。
少尉はゆうに2、3分は路地の出口を監視ししたつもりだったが、極度の緊張のあまり時間の感覚が殆ど壊滅状態だった。まだ時の秒針は10歩あゆみを進めただけだったのである。
顔を戻すと、少し前まで見ていた光景が、少し明るく、輪郭もくっきりして見えたきがした。何より視界が広くなった。全神経を集中させていた箇所から、注意が逸れたおかげなのだろうかか。己が心を、体躯をがんじがらめにしていた不可視の緊縛が細切れに千切れ、解けていくのはあまりにあっけの無いことであった。そして少女は、冷徹さが命のこの仕事で、不覚にも根拠のない安堵と希望を感じていた。
ケバケバしいほどに紅く染まりゆく前髪の奥で、紅の光沢を放つ瞳が俊敏さを取り戻していた。残された時間はない。本当なら少し前に衣服をまとめて引き裂かれていたはずだったのだ。あの兵士が体勢を戻すまでに、何か・・・・・・何か——。
水希の瞳が右に振れ即座に状況を見極めると、瞬時に左の端に動く。
「畜生、俺としたことが何をビビってやがる。さっさと——」
頭上から不吉な声がした。時をおかずして少女の右の襟元をつかんでいた男の左腕に再び力が篭められる。その瞬間、己の左方に向いていた二つの灼眼が一筋の真っ赤な筋を捉えていた。熱がたぎる唇を噛みしめ、双眸を真円に見開いた。拘束されてから何度も目にしていたのに、何故、何故気付かなかったのか。
——10秒。
スクリーンの外で警備隊員の声が冷え切った虚空に放たれた。
——9秒。
「済ませ・・・・・・」少尉の言葉が途切れた。
——8秒。
野卑に口を曲げながら、黒色の生地をジャケット、Tシャツもろとも引き千切ろうとした瞬間、細められた目の前で信じられないことが起きた。そしてそれを認識する前に、男の右手、右腕を焼け付くような激痛が貫いた。
体を拘束された灼髪の少女が、有らん限りの力を込めて身を乗り出し、彼女がナイフで縦に切り裂いたばかりの男の右の掌を、小さな両手で再び真っ二つに引き裂き、中指につながる掌の甲の骨と筋肉の繊維が露わになった右半分の断面に、己の右手の指を差し込んでいた。どろりとした血糊が、蟹の鋏のように広げられた肉塊から、心の臓の拍動にあわせて漏れ出している。
——7秒。
長さ10メートル足らずの狭小な空間に、断末魔の咆哮が轟いた。二人を取り囲むコンクリートとアスファルトがビリビリと震えた。少尉は尚も少女を放さず、更に右腕に力を込め、華奢な13歳の少女の体躯を否応なしに締め上げた。野太い咆哮と空気を切り裂く悲鳴がおぞましい不協和音を奏でた。
——6秒。
——5秒。
「くそアマァァ!!再三再四手こずらせやがって!今度こそぶっ殺してやる!」
「わたしは! わたしは死なない!絶対に!!」
少女が大きな瞳に熱きもの湛えながらも鬼気迫る怒号に臆せず、右手に掴んだ血の塊にさらに力を加えた。狭き空間に、際限なく激烈さを増す絶叫と雄叫びとこだまが無茶苦茶に入り乱れていた。
<防御スクリーン外側>
——4秒
——3秒
……。
——おじいちゃん。
声なき言葉を胸に刻んだ。氷のつぶてを散らしていた風が刹那止んだ。パイソン 357マグナムを握る手に、俄然力がわき上がってくる。女性隊員の瞳が見る見るうちに収縮し、鋭い点と化した。
「発射」
一年中エアガンの音すらしない平和な住宅街で、1発の9mm径強装弾は、アフガニスタンの戦車砲よりも猛り狂い、スクリーン発生装置を粉砕し、周囲に居合わせた多くの人心と平穏を打ち砕いていた。
轟音がこれみよがしに辺り一面の建築物の壁面にぶつかり、吼えまくる中、消え入るスクリーンに入れ替わり、一陣の濃紺の風が数分の躊躇いも見せず凶悪犯の待ち受けるであろう空間に滑り込んでいった。
〜突入〜(完)