二次創作小説(紙ほか)

As Story〜8話(2) アップ5回目、衝突(修正)〜 ( No.51 )
日時: 2012/02/18 14:55
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: KZXdVVzS)

 熱い何かが少年の頸を鷲掴みにし、小さな人形を振り回すかのように真横に引っ張られた。全身に絡み付く漆黒の霧が引きちぎられ、井戸の壁に激突する代わりに少年はタイル敷きの廊下に立っていた。あの時から一歩も動いていなかった。右腕もダガーを握り、前方に突き出したままだった。刃を向けられている痩身の男は筋の目立つ頸をやや右に傾げ、憔悴しきった麗牙の指揮官を冷然と見下ろしていた。

 天銀は少年に憐れみとも嘲笑とも取れる微笑みを投げかけると、重厚な木製の扉を大儀そうに閉じた。蝶番は油が丁寧に塗布され、ダンパーから空気の漏れる音だけが、緊迫した空気の中に響き渡っている。
 扉を閉めると、金属同士が接触する音がした。重厚な扉に負けず劣らず荘厳な錠のレバーが、天銀の左手によってゆっくりと回されると、執務室は完全な静寂に包まれた。

 暗黒への恐怖は感じなかった。ならば右腕を凍りつかせ、心臓を締め上げ目が落ち窪むこの感覚は何なんだ。
 廊下の向こうに吸い込まれていった痩身の男に呆然と視線を向けていた。

 青白い唇を噛みしめた。ようやく不可視の束縛から免れてからの最初の行為、天銀を牽制するどころかあいつの闇に完全に飲まれてしまった自分を責めた。突き出した腕を右足の脇におろし、ダガーを強く握りしめた。銀のレースで顔を覆ったまま肩が打ち震えていた。双眸からだらしなく悔し涙垂らすのは事を無理矢理落着させそうでする気にはなれなかった。何の役にも立たない我が身を精神を心の臓から噴き上げる炎で焼き尽くしてしまいたかった。

 役立たず。影晴様はここにはいない……。もう、どこにもいないの?

「影晴様……」

 少年の声に似た蚊の羽音が聞こえた気がしたが、露ほども気に留めず足を進めていった。からくり時計が音楽の後に告げる時報のベルを2回鳴動させていた。館の外では一日の労をねぎらう馳走の下ごしらえの香りがここかしこと漂い始め、子供らが遊びという名の任務にラストスパートをかけ始める夕刻の4時、ベルはあと2回二人の耳に届けられようとしていた。

 大崎の助手の足取りはベルの鳴動より少し早かった。二人の間に起きた悶着の決着を告げる4回目のベルが鳴り終える時、天銀は執務室の机の縁に佇んでいた。

——いる。

「え?」矢庭に割り込んできた声で咄嗟に眼を見開き、視線を上げた。

——その炎、自分に向けてはいけない。向けるべきは——

「影晴様?」違う。この声は……。

 胸が熱を帯び、少年の顔に血の色が戻ってきた。二つのサファイアは深き蒼の煌めきをとりもどしつつあった。右の拳は更に強固にかためられた。淀んでいたあたりの空気が一人の人間を中心に蠢き始める。

「影晴様——」打ち震える声で無意識に先ほどの文句を唱えた。鋭敏な天銀の聴覚はベルの残響に紛れて届いたそのメッセージを確実に捉えていたが、脳に届く前に握りつぶした。

「影晴様は——」

 再三にわたり同じ言葉が飛んできた。今度は排除しなかった。いや、鼓膜に突き刺さる波動を受け入れざるを得なかった。

 一瞬後に息を吸い込む音が男の耳に飛び込んできた。男の眼は見開かれ、その視線は壁を突き破り向こうにいるはずの人影を睨んでいた。

「どこだ!」

 館の空気が刹那震えた。いつの間にか主人を見失った怒号が廊下を四方八方に散らばり壁への衝突を繰り返した——。


 天銀のやつれた頸から前方に突き出た喉仏が目立つのは、彼が低音の声の持ち主であることを示していた。
 天銀のやつれた頬を伝う汗が館内の暖かさにも拘らず氷のように冷たいのは、彼が命に別条をきたしかねないほど逼迫した状況に追い込まれたことを示していた。
 天銀の、やつれた右手が銀髪に囲まれて透き通るように白い首の1センチメートル手前まで迫っているのは、彼の喉仏の1センチメートル手前で野卑に舌なめずりするダガーの刃をそれ以上近づけさせないためであった。


 大崎の助手のデスクの上では、ECで最高の任務遂行率を誇るチーム、『麗牙光陰』の指揮官が片膝を突き、深海を髣髴とさせる二つの瞳と右腕の「鎌」で助手の命を捉えようとしていた——。