二次創作小説(紙ほか)
- As Story〜9話(2) 〜アップしました! ( No.91 )
- 日時: 2012/07/08 06:29
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 7lLc0QEy)
素朴だが一つ間違えば怒涛の洪水で人命を奪いかねない選択を決めるのに、彼女の運は幾分か不足していた。自転車操業の会社のように、自身の強運によって解消することのできない問題がひとたび足元に残ると、次々と降ってくる災厄が彼女の足元を埋めはじめてきた。広大で何かと抜けのある「精神の海」は、創造主である水打の意向を確認することなく、水深3,000メートルの極めて平坦な大洋底のあちこちで巨獣の咆哮のような地鳴りを起こした。
1、2秒程度で鳴りやんでいた轟音は、回数を重ねるごとに確実に時間が延びていき、5回目に発生した地鳴りはゆうに30秒以上なり続けていた。それに比例して、全身の肌を打つ振動も強さを増していった。どんなに地鳴りが強くなっても、地割れや地崩れがどころか、石ころひとつ転がり落ちる様子はなかったが——彼女の海の再現力の乏しさに感謝である——、静はこのままやり過ごすのか、それとも周囲人々を巻き込む可能性を秘めたまま扉の向こうに逃げるのか、究極の判断を迫られていた。何度もドアノブを回しては、元に戻した。水に包まれているのに、冷や汗がこめかみから頬を伝う冷たい感触で、顔の左右は鳥肌が立っている。200分の1立方メートルにも満たない体躯の彼女とつながっている意識は、13億4,993万立方キロメートルを誇る大洋の激しさを増す身震いに翻弄され、いよいよ上下左右の間隔がおぼつかなくなっていた。
だめ、迷ってられない!
静は大きく息を吸い込むと、唇を真一文字に締め、歯を食いしばり、両手でドアノブを握り締め、ノブのばねがちぎれそうになるくらいににぎりをねじった。カンヌキが抜けるか抜けないかのタイミングでドア板に体を叩きつけると、暗がりに順応していた視覚が突如飛び込んできた強い光で眩惑された。コントラストが戻り始めるに連れ、水打のまっすぐ前に四角い何かの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
あれは?
「ぼうっとするな、すいうつ!周囲に注意を払っているように見えたが、また突然の思考停止か?お前はつくづくよくわからんやつだな」
野太い声がすると、五本の折れ曲がる突起を備えた、鉄球のように重い肉の塊が、断頭台のギロチンさながらに彼女の弱弱しい肩に振り下ろされた。
「しんどう、さん?」どこかで口走ったような気がした。次に来るのは自分の世界に引きこもっている静を叱咤する先輩隊員の重たい声とげんこつか。彼女の脳裏にそのシーンを映しだされると、鳥肌が全身を走り、心臓が震え上がるのがわかった。
違う、ちがう!
同じではない。さっき見たのは陳腐なアクアリウムなどではない。扉は単なる脱出口ではなかったのだ。新堂が金棒を右手に引っ提げた赤鬼のごとく彼女の瞳に映し出される前に、何かが見えたのだ。
不意に、来賓たちの立ち並ぶあたりから、二言三言強い調子のやり取りが聞こえてきた。おうような彼らの口調を貫くように、病室の心拍計のように一定のリズムを刻む澄んだ電子音が飛んできた。新堂が他社の警備員をを気にして強く注意できないことをいいことに、彼の小言を無視しで静は音のしたほうに顔を向けた。重苦しい灰色のツイードの人影の隙間から、辛うじてサーバのディスプレイの一部が見える。警察組織の長官が起動スイッチを押す時は3インチのタッチパネルディスプレイしかなかったが、起動後の処理を来賓の連中に見せるために、無線接続の20インチのディスプレイをメインサーバのラックに据え付けたのだ。すでに起動直後から実行されるアプリケーションの画面がフルスクリーンモードで表示され、先ほどの音から連想した通りの黒地に緑色の折れ線グラフが、心拍計のような振る舞いを見せている。
良くも悪くも自分に気を遣ってくれている新堂に、最小限の配慮をしてきた静だったが、数十秒ほどすると、視線だけでは飽きたらず躊躇いがちに顔全体をツートーンの画面に向け、やがて連なるように瑠璃色の細い肩が同じ方を向いた。小言を連ねていた新堂の右の頬が一瞬引きつった。ほどなくして静の左足、そして右足とすっかり彼女の体はサーバに正対していた。無意識のうちに彼女の右手はゆるく握り拳をかため、沈み込む青の上着の第二ボタンのあたりまで持ち上げられていた。やかましい先輩の声は、右の耳の穴から入るともう一方の耳どころか脳の真ん中にも届かず、鼻の穴から漏れてしまっていた。そして彼女自身の声も意識も何もかもが薄っぺらなディスプレイに吸い込まれていった。彼女の視界の中央に小さな四角い模様程度にしか見えていなかった画面の破片が視界を埋め尽くすほどに拡大していき、画面の映し出す内容が克明に描きだされていく。緑色の折れ線は、心肺停止した心臓に取り付けられた心拍計のように、静の瞳の最下方で単調な直線を描き続けていた。
「すいうつ!」後輩を慮る麗しき情愛が堪忍袋からこぼれ、控えめな怒鳴り声となって静の意識の横っ腹に突進してきたが、彼の声は砂漠にまいた水のように空しく彼女の意識をすり抜けていった。再三にわたる無礼極まりない振る舞いに、濃褐色に日焼けした彼の顔面から血の気がひき、わずかに顔色が悪くなったのを彼女が奇跡的に気づくことができれば、一人の殻に閉じこもりがちな後輩も姿勢を正し、新堂のお言葉を神妙に聞いていたかもしれない。だが、静の画面への執着は、無数の無法者やら奇人やらを相手にしてきた百戦錬磨の警備隊員でさえも想像の及ばぬものだった。正体を逸した小娘の顔面を睨みつけようと水打の右前方に回り込んだ新堂は、思わず喉の奥から絞り上げるように声を漏らしていた。
「お、おい…」
男の分厚い唇が素人のパントマイムのように歯切れ悪く形を変えるが、声がのどの底でおいてけぼりを喰っていた。ついさっきまであちこちに目線を泳がせていたかと思えば、直立不動の姿勢で居眠りと思しき粗相をしていた女が、突如全身の毛を逆立たせんとばかりに恐怖と警戒心をあらわにし、皿のように見開いた瞳から放つ二条の視線は、彼女の右前方に呆然と立ち尽くす男のわきを通り過ぎ、はるか後方の一点を射ているのである。鬼気迫る静の気迫に引きずられるように男の胴と足が勝手に右に回り、彼女の視線を追っていた。暗灰色の警護対象者らの隙間から十数インチの何の変哲もないディスプレイが見えたが、そうそうたるキャリアを持つ新堂が不覚にも強烈な動揺を抑えきれずにいた。黙り込む二人を尻目に、ディスプレイは淡々と緑色の直線を己の顔の下方に描き続けていた。
約1分、あまりの時の長さと緊張で憔悴しきった二人の精神に、持ち場のローテーションを告げる、現場警備を統括する指揮官の声が入り込んできた。我に返った新堂が、大きく息を吐き慌てて周囲を見回すと、対象者たちを眺めるように呆然と立ちすくんでいた二人に、他社の警備隊員たちが嘲るような視線を送っていた。それだけではない、一威ら警護対象の要人たちも皺だらけの額にさらに皺を刻み、二人に訝しむような目線を送っていた。褐色の肌の裏で顔面蒼白の新堂が右腕を伸ばして静の左肩を揺さぶると、声をひそめる必要のなくなったいま、全身全霊をこめて未だに状況を把握できていない後輩を怒鳴りつけようと音を立てて空気を吸い込んだ。見る見るうちに新堂の顔が紅潮し、額の両脇に血管が浮き出てきた。それとは対照的に、全身に電撃のようなもの感じて咄嗟に左に首を振った静が、人知を超えた先輩の変貌振りを目の当たりにした途端、全身の毛細血管が収縮し、北欧系のモデルのマネキンと見紛うばかりに、制服から露出した肌が真っ白に染まった。本日幾度目かのスローモーションの瞬間が訪れ、最大限に開かれた新堂の口腔の奥に、喉の血管が見えたそのとき——。
——ピーン。
サーバー室の空気が一刀両断にされた。毎時0分の時報のような澄んだ電子音が、メインサーバの貧相なスピーカーから四方の壁めがけて発射されたのだ。魂が抜けかけていた静がディスプレイに目をやると、画面中央に上向きの緑の山型が映し出されていた。静の目の前では、再びディスプレイに意識を吸い取られたようになっている先輩の姿があった。さらに首を回すと、同じ空間に居合わせているすべての人間が目の前の男と同じものを見つめ、言葉を失っている。
やにと芳香剤の入り混じる人間達の息がにわかに停滞し床面に落ち込んでいく1,000平米のホールでは、無数のコンピュータのファンが奏でる一本調子の合奏曲が響き渡っていた。
直方体の時の使者が鳴らしたラッパが、見てはならない幻想と混乱の物語の表紙をめくってしまったことを報せるものと気づく者は、誰ひとりとしていなかった。