二次創作小説(紙ほか)

烏ヶ森新編 26話「日向愛」 ( No.215 )
日時: 2015/08/21 03:46
名前: モノクロ ◆QpSaO9ekaY (ID: 0qnzCmXU)

「——こんなもんかな」
 剣埼一騎はペンを置くと、机の上の紙を手に取って眺める。
 ざっと目を通す限り、不備はない。書くべきことはすべて書いた。なにも問題はない。
「残りは焔君と黒月さんに任せるとして、俺が手を出すのはこのくらいにしとこう。あの二人なら、上手くやってくれるだろうし」
 そう言って一騎はその紙を鞄に仕舞い込んだ。
「さて、やるべきことは終わったけど、どうしようか……っとと」
 椅子を引き、立ち上がったところで、足元がふらつき、よろける。少しばかり立ちくらみしたようだ。
「やっぱり暑いなぁ、扇風機くらい買おうかな……」
 長時間机にかじりついていたこともあったのだろう。疲れも溜まっていたのかもしれない。
 しかしそれ以上に、暑い。密閉性の高い部屋ではないものの、この部屋にはエアコンがなければ扇風機すら存在しない。ただ熱風を通す窓が開いているだけだ。
「もうすぐ夏休みか……そういえば、合宿の打ち合わせもあるんだっけ」
 部屋は暑苦しいが、一騎としては、そんな暑さなどどうでもよくなるくらいに、未来が明るかった。
 懸念事がなくなった、とでも言うのか。肩の荷が降りたような解放感。より正確に言うなら、“彼女”が戻ってきてくれたことによる安心感が、一騎の心の平穏を取り戻すことに繋がっていた。
 ゆえに、今の一騎はとても晴れやかな気分だ。いくら自分の家がサウナになろうと、この晴れ晴れしさを打ち消すことはできない。
 と、その時。

ゴンゴン

 部屋がノックされた。
 いや、それはノックされたと表現するには些か乱暴だが、しかし外にいる人間が中にいる人間に来訪を伝える行為をノックと呼ぶなら、これもれっきとしたノックだ。
 家賃を滞納した覚えはないので、大家ではない。闇金に手を出した覚えはもっとないので、その手の人が来たわけでもない。となると、なんのアポもなしにこんな乱暴なノックをする人物は、一人しかいなかった。
「入るぞー、いつきぃ」
 一騎が来訪者について推理しているうちに、痺れを切らした向こうから、なんの返答も聞かないまま入ってきてしまった。施錠していない一騎にも非はあったかもしれないが、しかしそれにしても無遠慮だ。
 などと言うことは無駄であると一騎は理解しているので、そのような言葉はすべて飲み込み、代わりの言葉を口にする。
「……いらっしゃい、愛さん」
「昔みたいにおばさんでもいいんだぜ? そんなマセたガキみたいに呼ばなくても」
「いや、そんな……お世話になってる人に、しかも女性相手に失礼ですし」
「そういうとこがマセてんだよなぁ、お前はよ」
 ま、いいけど。と来訪者はどうでもよくなったように、その話を打ち切る。
 女性にしては高い背丈、しかしそれでいて細い身。どことなく虚弱さを感じさせる体つきだが、その体を包むのは適当なカラーリングのTシャツとジーンズという、非常にラフな服装だった。
 さらさらとした色素の薄い髪は、髪の毛の一本一本が繊細で美しいが、邪魔だから、の一言で済ませたかのように、ざっくばらんに切ったショートヘアにされている。
 まるで宝石の原石をハンマーで打ち砕いたような女性だ、と一騎は常々思っている。
 日向愛。それが、この女性の名前だった。
 つまり、恋の母親だ。
 そして、一騎の母親代わりでもある。
 形式上の話をするなら、しっかり者ではあるが、それでもまだ中学生である一騎の、名目上の保護者だ。
「それで、愛さん。わざわざ俺の家まで来るなんて、どうかしました? 急ぎの用ですか?」
「あー、んー……まあ、急ぎっちゃぁ急ぎかぁ……? いや、でもまあ、すぐってわけじゃねーか。なに、ちょっとお前にお願いがあってな」
 ニヤリ、というような笑みを浮かべる愛。嫌な予感しかしなかった。
「実はなー、ちーっと仕事で面倒なことがあってなぁ」
 言いながら愛は、ジーンズのポケットをまさぐり、白い箱を取り出す。タバコだ。箱を開けると、バニラっぽい匂いが漂ってくる。キャスターだかキャシーだか忘れたが、女性用の甘いタバコだ。仕事仲間との付き合いで吸っているうちに嵌ってしまったようで、よくうんちくを一騎の前で垂れるので、一騎もなんとなく覚えてしまった。
「あの……一応、このアパートは禁煙なんですけど……」
「部屋の外だから問題ねーよ」
「目と鼻の先は俺の部屋なんですが……こっち風下ですし」
 一騎の注意など聞く耳持たず、愛は流れるような動作でタバコに火をつける。後で部屋をちゃんと消臭しておかなければ。
「で、どこまで言ったっけ?」
「まだなにも聞いてません。仕事でなにかあったんですか?」
「あぁ、そうそう。アタシの所属してる部署で色々とあったんだが、まあ面倒なとこは省いて一言で説明するとだ」
「大分ざっくりですね……それで、なんですか?」
「単身赴任することになった」
 いつもの軽い調子でそう告げる愛。
 一瞬、一騎はその言葉の意味を理解しかねたが、すぐに頭を働かせ、即座に理解する。
 つまりは、そういうことだった。
「正確には転勤っつーのかね? まあ細かいことはどうでもいいんだが、なんにせよ、アタシの職場が遠くなったわけよ」
「えっと……つまり、愛さん自身も住居を変えるってことですか?」
「そうなるだろうな。国外に飛ばされなかっただけマシだが、そんでもこっから通勤するには遠すぎるわ」
 やはり軽い調子のまま、しかしどこか呆れたような、諦めたような口ぶりで、愛は続ける。
 ——恋はこの話を聞いて、どうするだろう。
 一騎が真っ先に思ったのは、彼女の事だった。
 親が住居を変える。それも、この口振りからすると県外。地方を跨ぐレベルだろう。
 そして、親が引っ越すとなれば、自動的に子供もそれを付いて行くことになるはずだ。まだ彼女は中学一年生、一人にできるわけがない。
「……人の事ばっか心配してんじゃねーよ、ガキ」
「え……?」
「恋のことでも考えてたんだろうが、日向家の引っ越しは、お前にも関係するんだからな、剣埼の坊ちゃんよ」
「その呼び方、やめてくださいよ……」
「アタシからしたら、お前もまだまだガキなんだよ、中坊。お前がワガママ言うから、こうして一人で暮らさせてやってるが、本当ならうちに一緒に放り込んでやりたいんだぜ」
 それは分かっていた。一騎も重々承知していることだ。
 一騎がこうして一人暮らしができているのは、すべて愛のお陰である。両親のいない自分を育ててくれたのは愛だし、形式上でも保護者となってくれているだけでありがたい。
 だが、だからこそ、一騎は愛に頼っりきりにはなりたくなかった。彼女の家の近くとはいえ、アパートで一人暮らしをしているのも、そういう理由だ。
 本当なら、彼女の厚意を素直に受けて、彼女らと一緒に暮らすべきなのかもしれない。恋の一件があったのも、そうしなかったことに原因の一端があったかもしれないと、後から思ったくらいだ。
 結局のところ、一騎もまだ子供なのだ。しっかり者かもしれないが、それでも、たかだか15歳の少年だ。
 大人の手を借りず、一人で生活するなど、おこがましい。
「……と、本来なら言うとこなんだがな」
「え?」
「アタシの転勤に伴う引っ越し。それに恋とお前を連れて行くつもりだったんだが、ちょいと気が変わったわ」
 フゥー、と部屋の外に向かって白い煙を吹いて、愛は一騎に向き直る。
「恋……変わったな」
「……はい」
「アタシも仕事ばっかであいつのこと見てやれてなかったんだが、それでもこの前、見てすぐ分かったわ。あいつ、過去を乗り越えられたんだな、って」
「……はい」
 ひとつひとつ、一騎は頷く。
「あれ、お前がやったのか?」
「違います。俺はなにもしてません。俺は、なんとかしようとして、全部空振ってしまいました……でも」
「でも?」
「太陽みたいな子が、現れたんです。底抜けに明るくて、輝いてて、眩しいくらい光っている子が。その子が、恋を変えてくれたんです」
 思い返す、あの一戦を。
 どれだけ昏い光に照らされても、どれだけ光を拒絶されても、それでも輝き続けた彼女の姿を。
 彼女がいたからこそ、今の恋がいる。それが、今の自分の幸せだった。
 そして、夢だった。ずっと思い続けていた負い目。それが、彼女の手によって払拭された。
 恋が、元の日向恋に戻れたこと。こうして、彼女の前に幸せな世界が広がっていること。それがたまらなく嬉しい。
 それが今の一騎の、素直な気持ちだった。
「アタシも無粋な女のつもりはないんでな。今の恋の状態を壊す気にはなれねーわ。だから、あいつは置いてこうかと思ってる」
「確かに、俺もそうした方があいつのためになりますし、あいつも喜ぶと思いますけど……」
 恋とて、彼女と離れ離れにはなりたくないはずだ。せっかく出会えたというのに、救世主のような人物が現れたというのに、大切な人ができたというのに、その仲をこんなに早く引き裂くのは、忍びない。
 しかし彼女はまだ幼く、未熟だ。一人で生活できるとはとても思えない。
 一騎のような人間がついていれば、話は別だろうが。
「つまりそれだよ」
「え、どれですか?」
「お前だよ、お前。恋とお前をここに置いていく。アタシは一人で転勤する。以上だ」
「以上だって……そ、それで愛さんはいいんですか?」
「構いやしねーよ。それに、最初に言ったろ、単身赴任だって。お前ら置いて行ったら、アタシは寂しく一人暮らし、正に単身赴任じゃねーか。悲しいねぇ」
「は、はぁ……」
 そんな生き生きと「寂しく」とか「悲しい」とか言われても、反応に困る。
「んで、アタシがいなくってから、恋の世話はお前に任せる。そもそもアタシもほとんどあいつのこと見れてやってねーけど。まあ、だからお前の方がうまくやってくれるだろ。あ、あとこの部屋もう契約切ったから、お前今度からアタシの家に住めよ」
「はぁ……って、ちょっと! なにを勝手にやってるんですか!」
「いーじゃねーか。こんなオンボロアパートなんて捨てちまえよ。うちのマンションの方がよっぽど便利だぜ?」
 それは否定できない。
 そもそも、恋の世話を任されたというならば、恋と一緒に暮らす方がなにかと便利なのは確かだ。わざわざ金をかけて一人暮らしをする必要なんてもとよりなかったのだから。
「お前は親が親だったから金には困ってねぇんだろうが、そんでも節約するに越したことはないだろ。つーかもう、なんか色々面倒だからうち住めや」
「今ので本音ぶちまけましたね……」
 しかし、愛も愛で、なんだかんだで一騎のことは心配しているのだ。できれば、自分の近くに置いておきたいという気持ちは分かる。
 色々面倒だから、というのも、本心であり、その“色々”や“面倒”の中に、様々な思いが込められているのだろう。
 それに加え、恋のことも考えると、一騎を一緒に住まわせるというのは、合理的に考えても最良の選択だ。
「ま、お前はアタシのことを気遣って、こんなとこで一人暮らしてんのかもしんねーけどよ、そのアタシがいなくなるんだ。よかったじゃねーの」
「いやいや、そんな喜べませんって……」
「でも、気遣う相手がいなくなったら、お前が別居する理由もなくなるだろ」
 理屈の上では確かにそうかもしれない。
 しかしそんな理詰めのように言われても、首を縦に振りにくい。
「まー、その、なんだ……あー、やっぱこう言っとけばよかったな」
 だが、急に愛の様子が変わった。
 さっきまでの前に押していくような話しぶりから、むしろ引き気味の、どこか自分が卑屈になるかのような態度になった。
「言っちまえば、お願い、なんだよ」
「お願い……?」
「あぁ。あいつを、恋を近くで支えてやってくれ、ってな」
 口に咥えたタバコを抜き取りつつ、愛は語るように続けた。
「仕事仕事で、アタシは結局あいつのことを見てやれなかった。たぶん、これからもそれが続くと思う。母親失格だってのは、アタシ自身分かってんだ。つっても現状を変えることは難しい……とかぐだぐだ考えているうちに、あいつは変わった。生き方良くなったな」
 それは、一騎も同じだった。
 いや、空回っても、行動を起こそうとしていた、行動を起こしていた、状況を改善しようとしていた一騎よりも、愛は己を悔やんだことだろう。
 一騎よりも近い立ち位置にありながら、なにもできなかった。母親でありながら、なにも変えられなかった。そのことは、彼女の引け目になっていた。
 彼女が救われたならば、一騎はそれでよかった。愛もそれは喜ばしいこととして受け入れるだろうが、しかし、彼女には母親の矜持がある。母親としての、プライドがある。
 それも重なり、よりいっそう、愛の悔恨は大きなものとなっているだろう。
「そんな時だからこそあいつのそばにいてやりたいが、社会はそれを許してくれないみたいでな。だから、アタシの代わりに、お前があいつのそばにいてやってくれや。それくらいなら、引き受けてくれるだろ?」
 愛はタバコの火を手で揉み消して、願うように言った。
 いや、実際にそれが彼女の願いなのだろう。
 実の娘を救えなかった。どころか、なにもしてやれなかった悔しさ。表面上はいつもの軽薄さを漂わせているが、彼女の内面に、悔恨の念が重く沈んでいることは、一騎にはすぐにわかった。
 だが、だからこそ、その矜持をかなぐり捨ててでも、愛は娘の幸せを選んだのだ。
 それが、自分にできるただ一つのことであると、信じるかのように。
「……分かりました」
 そして、それを拒絶できる一騎でもなかった。
 一騎はゆっくりと頷く。
「そもそも、契約切られてもうこの部屋にはいられないみたいですし、あのマンションを使わせていただきます」
「おう、頼むぜ。恋のこと、任せた」
「はい、任されました」
 こうして、一騎のこれからが決まった。
 少し意外な展開だが、しかし、恋は変わったのだ。それに応じて、環境が変わることも、あるのだろう。
 そして、自分も変わるのかもしれない。彼女たちの影響を受けて。
 そう思うと、この変化も悪いものではないのかもしれないと、少し思った。
「んじゃ、アタシは帰るわ。あとで恋にもこのこと伝えとかねーとな」
「それじゃあ、俺、送りますよ——」
 と、一騎が足を踏み出した時。
 グラッと、一騎の身体が傾いた。
「……っ」
「おっと」
 体が倒れる前に、愛が一騎の腕を掴んで引き起こす。
「大丈夫か?」
「あ、はい……すいません」
「熱中症かぁ? こんなクソ暑い中、クーラーどころか扇風機もねぇ部屋でこもってるからだぜ。ぶっ倒れるのだけは勘弁してくれよ?」
「き、気を付けます……」
 さっきも立ちくらみを起こしたばかりなので、本当に熱中症かもしれない。部長という自分の立場と、これから恋の世話もすることを考えたら、体調管理もしっかりしなくてはならないな、と思った。
「アタシは一人でも大丈夫だ。お前も疲れてるんだかなんだか知らねーが、少し休め。いつ家を出るとか、いつ契約が切れるとか、細かいことはまたあとで連絡する」
「は、はい……」
 そして、また乱暴に、バタン! と扉が閉められる。
 蒸し暑い部屋の中で、一騎はしばらく立ち尽くしていた。