二次創作小説(紙ほか)

65話 「知識欲」 ( No.237 )
日時: 2015/09/26 17:24
名前: モノクロ ◆QpSaO9ekaY (ID: arA4JUne)

 ——知りたい。

(っ……!)
 その時だった。
 そう、思った刹那。
(まずい……!)
 発作のように、衝動が襲いかかる。
 御しがたい、強烈な被支配感覚。
 全身を操られるような、すべてを求める欲望。
 そんな欲求が、浬を飲み込んでいく。
(ダメだ……飲まれるな……! こんなことを知っても何にもならない、倫理的に、道徳的に考えろ、俺……! 理性を持て、こんな衝動、抑えろ……!)
 胸を掻き毟り、内から湧き上がる衝動を必死で抑える浬。
「ご主人様? どうしたんですか? 顔が真っ青ですよ……?」
「っ、エリアス……」
 急に顔面蒼白になった主人を不審に思い、エリアスは浬の顔を覗き込む。
 彼女の氷のように透き通った、クリスタルの瞳が、自分を見つめている。
 その瞳を見ると、彼女の奥にあるものが見えてしまいそうで、そして——
「ぐ……っ!」
「ご主人様!? だ、大丈夫ですか? どこかお身体の具合でも……」
 ——欲求が、激しくなる。
(くそっ、ダメだ……こんな欲望に飲まれてたまるか……!)
 抑えきれない。今すぐにでもすべてをぶちまけてしまいそうなほどに、湧く上る衝動が暴れている。
 すぐ隣では彼女が心配そうにこちらを見つめている。もうその眼を見ることはできない。次に彼女の眼を見てしまえば、本当に抑えられなくなりそうだった。
 氾濫する大河の如く、溢れだす知識への欲求。望むも望まないも関係なく襲い、浬を心身ともに蝕んでいく。
 知りたい、知りたい、知りたい。
 未知の事実を既知にしたい。
 不確定な事項を確定したい。
 未確認な事案を確認したい。
 ただそれだけのこと。だが体が四散しそうなほどに激しく暴れ回るその欲望は、危険すぎた。
 知れば楽になる。欲望に身を任せれば、この苦しみからは解放される。
 いくら抑えても、知りたいという事実に変わりはないのだ。
 ただ事実を確かめるだけだ。恐れることなどなにもないはずだ。
 だから、衝動に身を委ねてもいいのだ。
 知りたいのならば、知ればいいのだ。
(違う……! 俺は……!)
 ひたすら衝動を抑える。事実を捻じ曲げてでも、本当の自分を偽ってでも。
 自分に、言い聞かせる。

(知りたくない……!)



 ——何故、知ることを拒もうとするのかな——



 どこからか声が聞こえる。
 純粋な疑問の声。しかしその裏に秘めた冷やかさと怖気が、耳朶から身を凍りつかせるような、謎の声。
「っ……! なんだ、誰だ!?」
 ——知りたい欲求を抑えようとするだなんて、理解しがたい愚行だよ。知りたいのに知ることを嫌がるなんて、そんな愚考があるものか——
「なんなんだ……! どこにいる! 姿を見せろ!」
『ここだよ』
 刹那。
 一人の男が、姿を現す。
 線の細い、若い男だ。氷の鎧と、水の外套で身体を包み、凍てついた羽帽子と具足を身に着け、腰には飛沫を散らす剣が、手には水流が螺旋する錫杖が、それぞれ収まっている。
 男は軽薄そうな表情で、薄ら笑いを浮かべながら浬たちを見下ろしていた。
『初めまして、霧島浬君』
「っ、なぜ、俺の名前を……」
『知ってるからさ。君のことはずっと見てきたからね、僕の残した核を通して』
「核……」
 それは、神核のことだろうか。
 ふと周りを見渡せば、そこは先ほどまでの図書館ではなかった。酷く冷たい、青い空間。氷の中に閉じ込められているかのようだ。
 そんな折、浬の隣にいたエリアスが、ぽつりと声を漏らす。
「……ヘルメス様」
『やぁ、エリアス。久しぶりだね、元気かい?』
 どこか裏がありそうな笑顔で返す、ヘルメスと呼ばれた男。しかし、その裏を見通しているかのように、エリアスは苦い表情で彼を見つめるだけだった。
「ヘルメス……お前が……」
『あぁ、そういえばちゃんと名乗ってなかったっけ。そうだよ、僕が十二神話の一柱、《賢愚神話》のヘルメスさ』
 そう言って男——ヘルメスは名乗りを上げる。
(こいつが、ヘルメス……)
 今まで何度も耳にしてきたその名前。
 なんとなくそうなのだろうとは思っていた。当然ながら初めて見るが、想像以上に近づきたくない人物だった。
 表面上は好青年を装っているように見えるが、しかし取り繕え切れていないほどに、彼の内面から、彼の危険さ、邪悪さが滲み出ているのが分かる。
「ヘルメス様……どうして、あなたがここに……?」
『どうして、か。そうだね、言うなれば、僕の力を継承してもらうためかな』
 浬がヘルメスに対してそんな分析をしていると、エリアスが彼に呼びかける。そして、ヘルメスは答えた。
『どうやら、アポロンさんとヴィーナスさんが先んじて継承を終わらせたようだけど、だったら君らもこの現象がなんなのか、見当がついているんじゃないかな?』
 その通りだ。
 暁や恋よりも断然、浬は聡明で、状況把握もできる。まだ多少混乱しているが、それでもこの状況がどういうことなのか、概ね理解していた。
 つまり、これが暁や恋が経験したという、神話継承なのだろう。
 神話空間と似た、しかしそれでいて別の空間。目の前にはエリアスが仕えていた、十二神話の一柱がいる。聞いていた話とほぼ一致していた。
 ただ分からないのは、なにがあって、どういう理由があって、如何なる条件を満たして、自分はこの場へと来ることができたのか、だ。
 リュンの話によれば、神話継承するには、それぞれの十二神話の意志と同調する必要があるとのことだが、一体どの時点でそのようなことが起こったのか。そもそも、ヘルメスの意志とはなにか、自分はそれと同調しているのか。
 そこだけが、浬には分からなかった。
 しかしその未知は、すぐさま既知へと姿を変える。
『僕は浬君の知識欲に呼応して、こうして姿を現したのさ。君は、この僕、《賢愚神話》の力を受け継ぐに相応しい資質を持っている。ゆえに、この力を君の従えるエリアスに授けようと思って、こうして満を持して登場した次第だよ』
「知識欲に呼応して、だと……?」
『そうさ。僕が司るのは、“知識”。僕の行動原理、僕の存在理由、僕の自分自身、それはすべて知識と、その知識を得るための欲求、即ち知識欲さ。ゆえに、僕の力を受け継ぐべき者は、僕が認めうるだけの、知識に対する欲望を抱いていなくてはならない』
 知識欲。
 知りたがる心
 知識に対する渇望。
 ヘルメスが己自身と称するほどのそれを、浬は求めている。
 彼は、ヘルメスは、そう言うのだ。
『……霧島浬君。君は今、抑え難いほどの知識欲を抱いているね』
「っ……!」
『いいんだ、隠さなくても。僕も同じ欲求を持つ者。見れば分かるよ』
 諭すように、理解を示すように、ヘルメスは優しく語りかけてくる。
 ヘルメス片手を上げ、パチン、と指を鳴らした。
『そんな君だからこそ、僕の力を授ける。エリアスには、枷も外してあげないとね』
 パキン、と。
 どこかで、何かが外れるような音が聞こえた気がした。
「ん……っ」
『弱い君の姿も、それはそれで悪くはないんだけどね。まあでも、これが僕の役目だから』
 そう言って、ヘルメスは微笑みかける。
 浬に、エリアスに、願うように手を差し伸べる。
 自分自身のすべてを、彼らに託すかのように。
『さあ、いよいよだ。僕の力を君たちに託そうじゃないか。僕の力を受け継いで、あらゆる知識を統べる者となってくれ。浬君、エリアス』
「…………」
 こんな時、彼女たちはどう思っただろうか。
 アポロンの太陽の力は、どれほど熱く、暖かなものだったのか。コルルはどれだけ彼を慕っていたのか。
 ヴィーナスの慈愛の力は、どれほど優しく、美しいものかったのか。キュプリスはどれだけ彼女を愛していたのか。
 コルルと共に戦った暁。キュプリスと共に立ち向かった恋。
 二人は、純粋に神話の力を継承し、己のものとした。
 彼女たちは、かつての十二神話に、なにを思ったのか。
 自分と同じような感覚を、抱いたのだろうか。
(……いや)
 そんなはずはない。
 想像でしかないが、もし、自分が彼女たちと同じような感覚を抱いたならば、自分は彼女たちと同じ道を進むだろう。
 しかし想像する彼女たちの感覚と、今の自分の感覚は、まったく異なるものだ。
 浬は、エリアスを見た。
 自分の仕えていた主と出会い、従者はなにを思うのか。
 彼女はこの邂逅を待ち望んでいたのだろうか。
 そう思い、彼女の眼を、見つめる。
 その奥に宿るのは——
「——ない」
『ん? なんだって?』
「いらない、お前の力なんか」
『ん……なんだって?』
 理解できない、と言うように、ヘルメスは聞き返す。
 浬も、同じ答えを、ヘルメスに、叩きつけた。

「お前の力なんかいらない。賢愚だかなんだか知らないが、俺は、俺たちの求めないものは受け取らない」

 それが、浬の答えだった。
「ご主人様……」
 どんなに強大な力でも、どれほど重要な叡智でも、それを求めないのであれば、どちらも無価値に等しい。
 それになにより、拒むべく力は拒むべきであり、求めざる者がいる力を受け入れることは、それこそ愚行である。
 浬は彼女の眼を見て、そう結論を出した。
 だがその結論に、彼は納得しない。
『……君さぁ、自分がなにを言ってるのか分かってるのかなぁ? いや、分かってないからこんなこと言ってるのか……まったく理解できないな、僕よりよっぽど愚かしいよ、君』
 ヘルメスは、はぁ、と大きく嘆息する。呆れてなんと言えばいいのか迷っている風だ。
 そして本当に理解できないと言うように、無知な愚者を蔑むような眼で、浬を見下ろす。
『僕としては、僕の力を継承してもらわなければいけないんだけどなぁ……でもこれはエリアスを従えて、かつ僕が認めるだけの知識に対する欲望を持つ君だからこそ、託せることなんだよねぇ』
「そんなことは、俺の知ったことではない」
『とりつく島もないか。さて、どうしようか……』
 浬の眼を見るも、説得は無理だと思えた。顎に手をあて、目を閉じ、思案するヘルメス。
 しかしなにを言われようと、浬は引き下がる気はなかった。
(……あいつの眼は、恐れていた)
 覗き込んだ彼女の眼の奥にあったのは、恐怖。
 それだけではない、嫌悪。
 長い時を経て蓄積し、累積された負の思い出。
 それらが詰まったあの眼を見て、彼の力を愚直に受け取れるほど、浬は強欲ではない。
『……仕方ない。こういうのは僕の得意分野じゃないんだけど、ちょっと手荒な真似をさせてもらおう』
 再び浬の眼を見てから、ヘルメスは決心したように口を開く。
『君は打算的なようで案外、感情に振り回されるみたいだし、それになにより頑固だ。待ってても意見を変えてはくれなさそうだし、僕も長いことここにいられるわけじゃない』
 だから、とヘルメスは杖を浬たちに差し向けた。
『僕の力を直接、君に叩き込む。受け取り拒否を主張するなら、僕の力を退けてみなよ。君程度の惰弱な人間と、不完全で欠陥製品クリーチャーに、それができるのならね』
 その時だ。
 空気が、変わった。
 それは自分たちがよく知る。あの空間。
「これは……」
「ヘルメス様、まさか……」
『そのまさかさ。たとえ残響であろうとも、僕は僕だ。その力の欠片くらいは残ってる』
 冷たい氷の空間に、いつもの空間が少しずつ溶け込んでいく。
 人間も、語り手も、神話も、すべてが関係なく同じ土俵に立つことのできる場所。
 元々は彼らの世界であった空間に、引き寄せられる。
 そして誘われた。



 ——神話空間に。