二次創作小説(紙ほか)
- 103話「柚の憂い——屋敷にて」 ( No.315 )
- 日時: 2016/02/15 14:34
- 名前: モノクロ ◆QpSaO9ekaY (ID: 9Mczrpye)
「はぁ……」
柚は溜息を吐く。自分に対する呆れ、嫌悪感、後悔……様々な負の念が渦巻いて出て来る。
思わず、走り出してしまった。いてもたってもいられなくて、家まで帰ってきてしまった。
「結局、逃げちゃいました……」
我慢できなかった。
見ていられなかった。
楽しそうな彼女を見ると、自分も楽しくなる。彼女の嬉しさは、自分の嬉しさだ。
だが、楽しさを、嬉しさを、幸せを享受する彼女の隣には、違う少女がいる。
そこに、自分はいないのだ。
今までずっと、彼女の隣には自分がいた。それが心地よく、幸せだった。
しかし、もう彼女の隣に自分の居場所はない。
そのことを、思い知らされているようで、耐えられなくなった。
だから、逃げてしまった。
「わたしは、弱いままです。ずっと。ずっと、いつまでも——」
「柚」
「ひゃぅ……っ!」
襖越しに声をかけられる。厳かだが、その裏には気遣うような声色が含まれている、落ち着く声。
柚は、ゆっくりと襖を開く。するとそこには、
「お、おにいさん……」
と、そこには柚の義兄、橙がいた。
「ど、どうしたんですか? わざわざ部屋までくるなんて、わたしに、なにかご用事ですか?」
「用事と言うほどでもないが、やけに慌ただしく帰ってきたと思ったら、すぐに部屋に入り、挙句は俺が呼びかけても反応がなかっただろう。少し心配になってな」
「そ、そうだったんですか……」
全然気づかなかった。
橙は鋭い眼差しで柚を見つめると、おもむろに口を開いた。
「なにか悩みか?」
「え? えっと、いえ、あの、その……」
なんと言えばいいのだろうか。この胸のざわつきを。彼女の幸せを、同じように享受できないこの感情を。
それとも、自分が乗り越えるべきは、もっと別のことなのだろうか。
少し考えて、柚はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……おにいさん」
「なんだ」
「わたしは、どうして弱いままなんでしょう……」
「……どういうことだ?」
「わたしも、もっと強くなりたいんです。おにいさんや、あきらちゃん。ぶちょーさんやかいりくんたちのように……でも……」
強くなれない。
自分の弱さに打ち勝てない。
今日も己の弱さが、逃避という選択肢を選んでしまった。
だから、強くなりたい。
しかし、弱い自分は強さを理解できていない。強くなるためには、強さを知らなくてはならない。これは、それを知り合いがための問いであった。
橙はしばし考え込むようにして黙する。そして、やがて開口した。
「俺も言うほど自分が強い人間だとは思っていないんだがな。それに、お前の言う強さ、お前が求める強さがなんなのか。俺にはそれが分からない。お前自身も、恐らくよく分かっていないだろう」
「は、はひ……そうかも、しれません……」
「強さの形は人それぞれだ。だがそれでも、それを踏まえたうえで、俺がお前に対していつも思っていることを、一つだけ言ってやろう」
一拍おいて、橙は続けた。
「お前は、もっと我儘になってもいいんだ」
「え? わ、わがままに、ですか……?」
思わぬ言葉に、目をぱちくりさせる柚。
我儘になること。それが、強さにつながるのだろうか。想像もつかない。
「我を通せ、と言うべきか。自分がしたいと思ったことを、もっとやってもいいんだ」
お前を束縛していた俺が言うのは不適格だがな、と橙は自嘲気味に言う。
「お前はよく、自分のしたいことを犠牲にして、他人に譲る」
「そ、それは、そうですけど……」
「言っておくが、自分の意思を犠牲にして他人に譲歩することは、美徳ではないからな」
「……っ」
心臓を鷲掴みにされたようだった。
核心を突かれた、と言うべきか。自分の無意識の中での行いを、すべて否定されたかのようだった。
「過ぎたるは及ばざるが如し。お前の譲り癖は度が過ぎている。他人を立てたがる性質なのか、我を出すのが怖いのかは分からないが、そうやって自分を出さず、他人に譲ってばかりのお前は、俺からすれば“悪”とさえ言える」
「あ、悪……ですか……」
悪、と橙は言った。
正義とは違う、善悪の二極で示されるもの。
譲ることが悪なのであれば、自分はその悪を内包しているということになる。
誰がどうあっても、千人が千人、忌み嫌う悪。
自分は、悪人なのだろうか。
「自己犠牲は美徳ではない。逃避と萎縮だ。そして度が過ぎれば、悪になる。自分自身を、己の意志を無意識のうちに殺す、恐ろしい悪だ」
橙はさらに続ける。
逃避、萎縮。
今までの、そして今日の、自分そのものだ。
いずれ、自分は殺されるのだろうか。
自分自身という、悪に。
言葉を失った柚が呆然としていると、ふと橙が目を伏せる。
「すまん。言いすぎた」
「い、いえ……その……」
言葉が続かない。橙の言葉は、あまりにも深く突き刺さりすぎた。
反論の余地がない。反駁しようがない。それほどに、彼の言葉は的確に今の柚を表していた。
今まで自分が気づけなかった面が露呈して、惰弱で醜悪な面が晒される。そして、気づかされた。
自分がどれだけ醜く弱い人間であるかを。
自分が思う以上に、思い知らされた。
「……これだけ言っておいてなんだが、抱え込みすぎるなよ。いや、抱え込んでもいいが、ちゃんと消化しろ。少しずつでいい。一つずつ、お前の中で答えを見つけていくんだ。誰しもそんな弱い面、悪い面はある。大事なことは、それをどうやって自分の中で折り合い付けるかだ。お前はまだ若い。あまり深刻に考えるな」
顔が蒼白になりつつある柚を気遣ってか、橙はつとめて穏やかに言う。
「最後にもう一つ、言っておくか」
「もう一つ、ですか?」
「さっきのは、お前の弱い部分を指摘しただけだからな。強さについての言及ではない。だから、俺の思う強さについて、一つだけ言っておく」
また、一拍おいた。
しかし今度は、先ほどよりも力強い声で。それが、自分の中で絶対の信条であるかのように、橙は告げた。
「譲れないものは、絶対に譲るな」
「ゆずれない、もの……?」
そう、彼は言った。
「お前にも、一つくらいはあるだろう。自分の身をすべて投げ出してでも、守り抜きたいものが。それは富であったり、名誉であったり、友であったり、人によって様々だが、人が生き、そして高みへと目指すうえでは、必ず持つことになるものだ」
誰もが持つ、なにか。
酷く曖昧だが、はっきりと、それは存在している。
「譲れないものは絶対に譲らない。その意志があるから、譲れないほど大切なものがあるから、人は強くなれる。譲りたくないから、強くなる」
少なくとも俺はそう思っている、と橙は締め括った。
譲れないものがあるから、人は強くなれる。
自分が強いと思う人たちには皆、譲れないものがあるのだろうか。
少しだけ、希望の芽が見えた。
「おにいさん……ありがとうございます」
「俺みたいな奴の言葉で良ければ、いくらでも聞かせてやる」
もう大丈夫そうか? と問われたので、はい、だいじょうぶです、と答えると、彼は安心したように去っていった。
譲れないもの。
なにがあっても、自分の意志を貫きたいと思えるもの。
それが、強くなるために必要なものだという。
ふっ、と。
言葉が零れ落ちる。
「わたしにとっての、ゆずれないもの……」
それは、やっぱり——
「柚ちゃん、きっと日向さんに嫉妬してるのよね」
「嫉妬? 霞がか?」
沙弓と浬は、リビングで言葉を交わす。
あの後、結局柚の姿は見つからず、しばらくしてメールが来た。それのメールによると、先に帰ったらしい。
それを見て、沙弓は今日の尾行は失敗だったかもしれないと、少しばかり後悔した。彼女のためにと思ったことだが、逆に彼女を追いつめてしまったようだ。
「嫉妬なんてする奴には見えないが……」
「これだからカイは。女心や乙女心どころか、人の心ってものが分かってないわね。あなたは機械なのかしら? メカニカルなハートの持ち主?」
「生憎ながら心理学はこれっぽっちだ。女心も乙女心も知らん」
「人は見かけによらないなんて、使い古された言葉だけど、その通りよ。嫉妬心は西洋じゃ人を罪に導く罪源とさ言われていたほど、ありふれている感情なの。柚ちゃんみたいないい子でも、多少なりとも嫉妬心は持ってる。まあ、あの子の場合はやきもちって感じだから、可愛いけど」
「字面の問題か? しかしそう言われると、納得できなくもないが……」
「やきもち?」
「普遍的な感情って意味の方だ」
「あらそう。ま、柚ちゃんは暁が大好きだからね。ちょっと依存しがちにも見えるけど、今は日向さんが暁を独占状態だから、寂しいんでしょう」
寂しさ。孤独。
時として人を殺す凶器にさえなり得る狂気。精神を摩耗させ、肉体を蝕み、心身共にゆっくりと死に追いやる負の感情。
今、彼女はその寂寥に襲われている。嫉妬心と孤独の二重苦に苛まれている。
「流石に放っておけないから、たまに慰めてあげてるけど、私が胸を貸したくらいじゃ、あの子の辛さは解消されないわ」
「確かに、根本的な解決にはなっていないな」
「私もなんとかしようと色々考えてはいるんだけど、これはどうしても、あの子自身で解決しなきゃいけないと思うの」
だからこその、今日の尾行であったのだが、彼女はまだ踏み出せていないようだ。
自分が手にしたいこと、自分が求めるものを、追えていない。いまだに足踏みをして、とどまっている。
「きっかけはどうにかして作れるけど、問題はあの子自身が動けるかどうか」
「霞は引っ込み思案だからな。難しそうではあるな」
「だから、起爆剤が欲しいのよね。あの子を突き動かす、なにかが」
今日はそれに失敗した。嫉妬心と寂寥感を煽るだけで、起爆しなかった。
また、考えなくてはいけない。
それとも、もう自分たちは手を出すべきではないのだろうか。
彼女自身が次に進むために、彼女自身が一歩を踏み出すために、彼女自身にすべてを委ねるべきなのだろうか。
時間が解決することなのか。それとも、もう既に始まっているのだろうか。
ひょっとすると、彼女が動くのは、もうすぐそこにある未来なのかもしれない——