BL・GL小説 (オリジナルで全年齢対象のみ)

兎→虎 ( No.385 )
日時: 2011/09/13 08:16
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)
プロフ: 久しぶりです。酷いものです。

 ずぶり、それに沈むとひどく心地よかった。セピア色をし、まだら模様のそれらは温かい。母の胎内で眠っているような、妙な安堵感さえ覚える。尤も虎は赤ん坊の頃の記憶など持ち合わせていないし、胎内にいた時のことなんて想像に過ぎないのだが。

「……! ……、……」

 あぁ、誰かが何かを叫んでいる。
 目蓋を開けると、まつげについていた小さな気泡がふわふわと上へ上へと舞い上がっていった。綺麗だとは思うけど、外へ戻りたいとは思わない。虎は唇を尖らせて、またこのセピア色へと深く深く潜り込んだ。
 世界は辛いし、苦しい。
 だから虎は世界から逃げ、セピアへと潜るのだ。
 だんだんと深く濃くなっていくセピアを横目で眺めながら、虎はさらに両手を伸ばす。底に何か大切なものがあるとでも言いたいように。

「っ、×××ぇ……」

 ふと、息を切らせた虎が一人の名を紡いだ。
 その名は虎にとってとても大切で、愛おしくて、一番欲しかったものをくれた人の名だった。
 しかしそれは————過去というセピア色の海から抜け出せなくなった、死に取り付かれた人物で。
 暗い暗い色の底に、波に揺られる黒髪が見えた。虎はその黒髪に目を輝かせ、掴もうとさらにもがいた。息苦しかったことさえも忘れ、黒髪と共に現れた真っ白い手を握り、はち切れんばかりの笑顔で語りかける。
 そして、心底幸せそうに、手に頬を摺り寄せた。

「これからは、俺がいるからな。……だから、一緒にここにいような。ずぅーっと、二人で、一緒に……」

 濁った瞳の死体は、目に涙を浮かべる虎を見て、薄い唇を少しだけ動かした。紡がれた言葉が何かは、虎には分かりはしなかった。




■人魚は過去に何を思ふか、




「……っ、虎徹さん……」

 真っ白い兎は、海に沈んだ虎を思い唇を噛んだ。
 何かに操られているように、凍った表情をして海に落ちた虎は、未だに海面へと浮かんでこない。持ち主の失った帽子が、所在なさげにぷかぷかと水面に揺れているだけだ。

「虎徹さん、早く戻ってきてくださいよ」

 震えながらも搾り出した言葉は、虎に向けてのものだった。
 腕をぎゅっと抱き、兎は誰も居ない海へと一人言葉を続ける。

「ここには、貴方の大好きな楓ちゃんも、ヒーローの皆も、貴方を慕う人々も——そして、相棒だって、いるんですから」

 だから、と兎は泣きそうな表情で言葉を吐く。
 痛そうに、辛そうに、一生懸命に。

「だから……過去にずっと縛られないで、くださいよ……!」


 ぷくぷく、と水面にいくつかの気泡が現れた。
 しかし、気泡の後には何も水面に変化は起こらず、静寂のみが海を支配していた。
 そこで兎はようやく気付いてしまった。
 あぁ、彼は過去に囚われてしまったのだと。