BL・GL小説 (オリジナルで全年齢対象のみ)

田夏 ( No.528 )
日時: 2012/10/10 00:17
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: hFu5/zEO)

 ひゅう、と夏目の薄い唇の端から漏れた呼吸で俺は現実に引き戻される。ここは現実なんだと夏目の鳶色の瞳に浮かぶ涙で理解する。日常ではけして見られない彼の泣き顔は想像していたものよりもずっと苦し気で、俺は手を伸ばしかけた。夏目は、そんな顔で泣くんだな。整えられた眉はぎゅっと下がっているし、ただでさえ白い肌はしっとりと濡れて余計に白く際立っている。静かに泣こうと努力しているのか、嗚咽はこちらまで聞こえてはこなかった。それにしても妙だ。夏目はなぜ今泣いているんだろう。最近は悪い妖もいないし、学校生活も安定しているはずなのに。だというのに、なぜ。なぜ滅多に泣いているところを見せない彼が、俺の眼前で、こんな風に?

「……おかしい、と思ってるんだろう? なにも嫌なことなんてないし、幸せなのに、って」

 密やかに笑う夏目の両頬にはやはりまだ雫が流れていて俺はその場に足が縫いとめられてしまったかのように動けずにいた。自嘲、とでも表現すれば良いのかわからないが今の夏目は泣いている自身がひどくみっともないと思っているように感じる。儚げな雰囲気は暗闇に紛れて余計に輪郭が曖昧になっていて今にも消えそうだ。霧散した彼の欠片を拾い集められるのかも怪しい俺は、触れられずに、まだ動けない。

「いま幸せだからって……昔の痛みが無かった事にはならないんだよ、田沼」

 秋の夜は肌寒くて静かで、俺はいつも不安になる。今日みたいに月の出ていない晩なんかは、特に。何か得体のしれないものがやってくるような気もするし足元から崩れてしまいそうな気さえする。夏目はか弱いから、この夜に紛れている何かしらに連れて行かれてしまいそうだ。それは嫌だ、と俺は少しだけ指先で空気を引っかいた。



 夏目はあの穏やかな笑みの下に、幾つもの傷を隠しているのだろう。傷は未だ癒えておらず、赤黒い血が滴っているものも、青く変色したものもある。かさぶたになったものなんて極僅かだろう。
 

(——だからと言って、引き摺られるな、夏目)


 今にも消えてしまいそうな夏目の細い手首を乱暴に掴み、月の光に溢れたこちら側へと無理矢理に引っ張った。見た目通り軽い夏目は抵抗もあっけなくそのまますぽりと俺の腕の中に収まる。

「ちょ、たぬ、」
「……すまん」

 小さな制止の声が聞こえてきたが、ぼそぼそと視線をそらせたまま頼んだ。少しぐらい許してくれ、こうして存在を確かめていないと俺は怖くてたまらないんだ。


(過去の痛みに、引き摺られるな。そこにはただの底無しだ。夏目のようなやつが入ってしまえば、二度と戻れなくなるから)

(だから、お願いだ。お願いだから、今の幸せを受け止めてくれ)



 けして、過去に引き摺られぬように。







■底無しの淵に爪先を伸ばし、君は笑っていた