BL・GL小説 (オリジナルで全年齢対象のみ)

ジャシン的なアレ ( No.548 )
日時: 2012/11/04 22:17
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: hFu5/zEO)



 水を含んだ裾もそのままに歩いていく。一度絞り、腰の辺りまでたくし上げたら歩きやすいんだろうが、面倒なのでやめておいた。これは夢の中で私以外誰もいないのだから、少しぐらいものぐさになってみたって誰も何も言わないだろう。じゃぶじゃぶと派手な音をたてながらそう結論づけた。あぁ、重い。溜め息をつくのも面倒で、水ばかりの世界も退屈になって。ついと顎を上げ、私は濃紺に塗りつぶされた空を見上げた。
 ——こつん、
 歩みだそうとした爪先が、弾力のある何かに触れた。何でしょう。変なものじゃなければいいのだけれど、とわずかな心配が胸中に掠めたが、構わず視線を下へと向ける。
 眼下には真っ黒い、この夜空のような色合いの髪の毛がたゆたっていた。さらさらと水の流れに沿ってたゆたう黒色には見覚えがある。髪の毛を伝っていくと、水面に浮かんでいる青白い顔と出会った。女性だけでなく、男すらも虜にしてしまうほどの美しい風貌の彼に。


「……シン?」


 吐息と共に出てきた名前は波の音に掻き消され、足元で眠りこけている我が主——シンには聞こえていなかったようだ。ぴくりとも動かない。(死んでいるのだろうか)胸の奥にふつりと湧く疑問、だがすぐにその芽は彼の強さという真実により摘み取られた。(……まさか、死ぬわけがない)自分のくだらない考えを一笑し、再び微動だにしないシンへと視線をやった。
 死んでいないのはわかっている。しかし、真一文字に結ばれた色の失った唇、頬の朱が削げ落ち青褪めた頬、動くことのない目蓋。どれをとっても死人のようではないか。ぴちゃりと波が進路を邪魔され、シンの横顔へと飛沫をたてた。

「シン……眠って、いるんですか」

 疑問ともとれる言葉。シンは私の言葉に反応しない。夜の色に支配された水面はどこまでも色濃く、まるでおぞましい化け物のようにも思えた。波は眠っているシンの身体に容赦なく叩き、水量が増し始めているのかどんどんと彼の顔は隠れていく。
 ——いったい、この水は、どこから?
 自分の夢の中だというのに、その発端がよくわからない。あたふたと(自分でも珍しいほどに)慌てつつ、周囲を見渡す。水が溢れ出てくる音はすぐ近くに聞こえるのに。水源がわからない。早く見つけないとシンが溺れ死んでしまう(あぁでもおかしい。だって彼は強いから死ぬなんてことありえない、ましてやここは私の夢の中だ。夢の中で彼が死んでも現実の彼とは何も関係がな、)


「ひとまず、シンを引き上げて……—————、」


 ぐったりとしている彼の身体を引き寄せ、私は気付いた。


 シンの身体の、ちょうど中央。腹の真ん中、ちょうど内蔵が詰まっている辺りは誰かに食われたようにぽっかりと空洞だった。そして、その穴からは、空虚さを埋めようとしているみたいにだくだくと水が溢れ出していて————あぁ、何と非現実的な光景か。
 シンの腹から、どす黒い濁流が生まれている、だなんて。


 ざぶん、と先ほどよりも大きな波音が私の耳を掠める。引き寄せた拍子に勢いを増した水流が、まだ濡れていなかった私の膝元までをも冷たく湿らせた。膝をついているので、腰の辺りまで水が入り込んでくる。余計にずっしりと、私の身体は重力を孕んだ。
 ——重い……重い。
 私は元々力仕事が苦手だ。普段の乾いた衣服ならまだしも、今は水を吸収し身体の重さは二倍ぐらいになっているし、眠り続けているシンの身体も同じ。三十路近い、さらに筋肉も綺麗についているし体格も良い男の身体をそうやすやすと運べるものか。じょじょに眉間に皺が寄っていくのが自分でもよく分かった。

「……シン。起きて、ください」

 手をシンの背へと入れて、上半身を起こそうと奮闘する。頭が支えを失いぐらりと揺れるので見ているこちらは冷や冷やした。シンはやっぱり、呼びかけに一切応えない。
 あの弾けるような笑顔も、子供のようにむくれる怒り顔も。全部抜け落ちた表情をしている。薄っすらと閉じた目の下にあるのは隈で、血色が悪いせいかすぐには気付かなかった。

「ほら、早く起きてください、シン。沈まないで。私が、手伝いますから……私だけじゃない、マスルールも、ピスティ、ヒナホホ……みんなみんな、貴方を手伝いますから」

 もう片手を腰の辺りに回し、バランスをとる。今にも水に攫われてしまいそうなシンをこの場に留めようと、私は歯を食いしばった。「ふ、っ」息を短く吐き、水に濡れた体を持ち上げた。
 水の手が名残惜しそうにシンの首筋を伝い、まだここにいろと呼びかける。

「……やめ、なさい」

 無機物であるはずの水たちに、私は冷たく言い放つ。頬に跳ねた水滴は拭えず、ひどく鬱陶しく思えた。

「貴方がたの冷たさも、重さも、この人が背負う必要は、ないんですから」

 だから、と私は奥歯を噛み締め、両腕に収まっているけして軽いとは言えないその冷たい冷たい身体を確かめるようにぎゅっと抱きしめた。水にいくらかさらされて温度は奪われかけていたが、まだ、ほのかに残っている。
 ——そうです、シン。貴方はこの濁流にのまれてはいけません。
 私は唇を動かさないまま、彼に伝えた。きっと彼は、このわずかな体温の糸を頼りに、再び私たちのために目を覚ましてくれるでしょうから。だから何も言わずとも、シンは、私たちといてくれます。

 







■死んでくれウンディーネ、







 ぼんやりとした温かさに包まれ、世界が白んできた頃。
 ようやく夢から目覚めた私はどこか幸せな気持ちで、隣にいる彼の「おはよう」を耳にするのです。