複雑・ファジー小説

Re: 吉原異聞伝綺談 *水無月了 ( No.100 )
日時: 2011/09/19 17:17
名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: .WzLgvZO)
参照: 「彳丁」は高校生クイズより学びました。




 ————あれ……?

 目を醒ました途端、視界に入ってきたのは見覚えの無い天井。そして井草の香り。
 そしていつの間にか、中華服から桜色の浴衣になっているのに気付く。琳邑は布団を矧いで、起き上がった。四畳一間の質素な和室の中央に立つ。きょろきょろと見回し、陽の光が射し込む障子を見つけ、何と無く向かった。両手でゆっくりと開き、顔を出す。朝の匂いが鼻をついた。朝露が光を反射させ、きらきらと輝いているのが綺麗だ。少女は裸足のまま、縁側を降りた。枯山水に足跡を付けながら、ぺたぺたと散策を開始する。

広い庭には、いくつもの鉢が置いてあった。自分のいた部屋から相当遠ざかった場所で琳邑はふと足を止め、その場でしゃがんだ。前に見えた鉢に惹かれた。鉢にあるのは、蔓と喇叭らっぱ形の紫の大きな花だ。手で触れてみる。朝露が、掌に付いた。
「なんて花だろう……」琳邑には見覚えの無い花だった。しかし、彼女の知っている花の名は一つしかない。その一つを、呟きに出した。
「————仙翁?」
だが、名前しか知らない。花の形も、匂いも知らないのだ。


「違う、朝顔だ」


ははは、と言う女声の笑い声と同時に引き戸が開く音がした。ハッとし、振り向く。草履の音を鳴らしながら、桔梗色の着物を着た女性が向かってくるのが見えた。左目に眼帯をかけた、濃紺の髪の凛とした女性だ。彼女は琳邑の隣にしゃがみこんだ。彼女と目線を合わせ、柔和な顔で説明をする。
「昔は薬用に栽培されていたんだ。朝に咲く」
「はあ……」
「因みに、お前が言った仙翁は濃い紅色の五弁花をつける花だ」
女性はぼんやりと朝顔を眺め始めた琳邑の頭を優しく撫でた。見知らぬ人間に声を掛けられ、頭も撫でられたのだが、琳邑は警戒しなかった。彼女からは、敵意は感じられなかったのだ。


「巴殿————っ!」


邸の内部から、若者の声がした。女性はゆっくりと立ち上がり、琳邑に手を差し伸べる。
「さあ、朝食だ。腹も減ってるだろう」
うん、と少女は頷いた。それから女性の手を取った。


【吉原異聞伝綺談 四月目……望】


「起きましたか」

ハッと目を醒ましたチェンの眼前に碧眼。彼が起きたのを確認した碧眼の相手は、すっと離れた。背中を向け、喋る。
「朝食の支度が出来たので————well...取り合えず起きてくれますか?」
紅毛碧眼の青年が黒い上着を羽織る。チェンは急いで起き上がった。布団を矧ぎ、莱姆緑ライムグリーンの寝間着のまま青年の後を追った。その最中に、今までの記憶を探った。


 すぐに最近の記憶が見つかったので、今の状態になるまでの過程を更にまさぐった。

 嗣が一人何処かに行った。それから琳邑と一緒にいた。そのあとに討幕派の人間に襲撃され————。

————と言うことは、此処は敵陣じゃないか!

 ——今更と遅い。敵陣のど真ん中、琳邑と二人きりで逃げられるのは不可能に近かった。

————いや、でも。

ハッとし、嗣の顔を思い出させた。もしかしたら、討幕派である彼がいるかもしれない。そんな淡い希望が脳内を駆け巡った。


 暫く進み、広い広間に到着。中には幾つものお膳が立ててあった。お膳と一緒に並ぶ人の中に琳邑の姿があった。チェンは思わず先走りそうになった、が止める。それから青年に席へ案内され、座った。生憎琳邑からは遠い。隣には、ここへ連れ去ってきた(と思われる)長髪の男が座っている。仏のような表情で居る。一斉に食べるのかと思いきや、そうでもなかった。既に何人かが食事を始めている————琳邑もだ。しかし、その中に希望を抱いた男の姿は無い。
「食べないんですか?」
青年に訊ねられ、チェンはハッとする。急いで銀しゃりを口に頬張った。

 全員が食事に入ったのを確認したのか、長髪の男はチェンと琳邑を交互に見た。
「昨晩はよく眠れましたか?」
「まあまあ」
男の質問をチェンは適当に返す。琳邑は食事に集中して、耳に入っていないようだ。
「取り合えず、自己紹介はしなくては————ですね」男はほんわかとした気を纏って、濃紺の髪の女性を見た。「では、まず巴さんから頼みますか」

 巴と呼ばれた濃紺の髪の、眼帯をした女性は箸を置いた。
「私は桂巴という。取り合えず、討幕派を纏めている」
巴は名乗るだけなのってから、ふたたび箸を取り、食事を始めた。次に言葉を始めたのは紅毛碧眼の青年だ。
「僕は織田時雨、色々事情があって此方に身を寄せています」
彼が日本人では無いのは何と無く分かった。チェンが思うに、彼は欧米の人間だ。見掛けと、言葉遣いからしてそう察知出来る。
「私は入江蕀と言います」
時雨に続いたのは長髪の男。チェンの隣で微笑んでいる。

 黒いキャスケットを深く被った片腕の女性は山縣韵やまがたひびきと名乗った。枯草色の短髪に片目を隠した女性は井上珊瑚、黒髪で無精髭を生やした男は前原那桜音なおとと名乗る。チェンも名だけは名乗ろうかとしたが、その前に入江が口を開いていた。
「チェン・フェルビースト君に、琳邑さん————あれ、嗣はどうしました?」
入江は名乗る前にピタリと二人の名を当てていた。ついついあんぐりとしてしまったが、首を振って振り払った。それから答える。
「————さあ」
「"なだ"って聞いてから、どっか行っちゃっいました」
チェンの返答に足りなかった言葉を付け足しながら、琳邑は視線を落とした。ある単語を聞き、時雨以外の人間の肩がピクリと動く。顔付きも変わっていた。

 反応に質問——嗣は此処にも居ないことは普遍的事実に違いない。二人の少年少女の表情が曇る。
 入江は落胆する二人の気を和らげようとしたのか、時雨に新しい話を振った。
「暫くは時雨さんに二人の面倒でも見て貰いましょう」
「え?僕?」
時雨は挙動不審になる。ふわりとした赤毛を揺らしながら、入江と巴を交互に見た。入江は微笑んでいる。巴はそっぽを向いた。
「いいじゃない」山縣韵が満面の笑みで時雨に語りかけた。「日本語の勉強になるしっ♪」
「でも……」
怪訝な表情の時雨は恐る恐る巴を見た。しかし巴は目を合わせようとしなかった。挙げ句、「じゃあ、暫くの間面倒を頼む」と小さく呟かれた。時雨が落胆する。————やはり周囲は時雨を気遣う様子は無かった。
「朝食を食べ終えたら、一先ず時雨に従って、大久保邸まで行ってください」
と、箸を置いた入江蕀は少年少女に笑いかけた。








 虚空を虚ろに眺めながら、琳邑が彳丁てきちょくしている。先程まで降っていた驟雨が去っても、外を望む窓際から離れることはなかった。嗣の部屋だと言われた場所で、ずっと窓際に佇んだままの琳邑をチェンは横目で見る。彼女はぼんやりしていた。
「俄か雨で良かったですね」
襖を開けて部屋に入ってきた時雨が言う。
「あ————うん」
まだまだ相手を許す気にはなっていない。取り合えず用意された服に着替え終わったので、横目で時雨を見た。準備は出来ている、という意味合いを孕んだつもりの合図はなんとか伝わったらしく、青年は微笑みを返してきた。
「然程離れていませんから、————本当、すぐですよ」
そう言葉を残した時雨が銃を確認、仕舞い、一足先に部屋を出、二人を待つ。

「りん」と声をかける前に彼女は気付いたらしく、はっとし、続いた。部屋を最後にしたのはチェンだった。全員が出たのを確認した時雨を先頭に、檜の廊下を歩み進む。

「なあ、こういうの訊くのはどうかって思うんだけど」躊躇いながら、チェンは時雨に訊ねた。「日本のヒト——じゃないよな?」
「Yes,生粋の米国人ですよ」
時雨は凛とした横顔で、何事も無く答えた。西洋の顔立ちは実に中性的な美を醸し出し、男であるチェンも何か不思議な気がしてくる。顔を激しく左右に振り、その感情を吹き飛ばした。
「そういう貴方も、日本人では無さそうです」
今度は時雨が訊ねる。確かにチェンの容姿は金髪に緑眼と西洋に近い色合いだ。ただ、顔立ちはどちらかというと亜細亜の方だ。背もそれほど高くはなく、小柄だ。チェンは時雨が素直に答えたように、返した。
「母親が中国、父親が白耳義ベルギー人のハーフ。父親は耶蘇会イエズスかい宣教師で基督キリスト教布教に来てたんだよ」
「それは、それは——」時雨が曖昧な顔を作る。「基督教の宣教師なんですか」

 確かに、教会に属する人間が布教先で結婚などあまり考えられなかったのだろうとチェンは心の内で思う。残念ながら、父親は然程信仰心の高い人間ではなく——寧ろ低いので——ただ単に各国へ赴きたかったという理由で教会にいたのだ。本人曰く、「亜細亜の女性は美しい」。だから、母と知り合い、情愛を重ねたのだ。……あまり信じられない行為である、が。
「でも俺は、どちらかというと無神論者で」
チェンが苦笑する。はっきり言って、生まれて間も無く日本に来たので精神は日本寄りなのだ。今までずっと、日本の靉靆とした宗教感で生きてきたので信じる唯一の神は居ない。
「良いと思いますよ。僕もあまり宗教寄りではありませんから」
青年も苦笑した。碧眼が閉じられ、長い睫毛が笑みを作っている。やはり中性的だ。何処か仕草が女性的で、怪しい。だがそういう人もいるよな、とチェンは割り切った。世の中は十人十色なのだ。

 そうこう話している内に玄関につき、靴を履く。最初から履いていた靴のままなので支障は無かった。邸から出たところで、またチェンが訊ねた。
「時雨は米国から来たのに、何で討幕に荷担してんの?」
「ああ、ちょっと謀(たばか)られまして」
時雨が苦悶の顔になる。が、直ぐに顔つきを豹変、大輪の花を咲き散らせ
「ま。その話はいつかしますよ」
とチェンに言った。一瞬見せた表情に、「どうせ嗣辺りが巻きこんだんだろうな」と思いながらチェンは彼女に続く。少しだけスピードが落ちている琳邑の手を引きながら。

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