複雑・ファジー小説
- Re: 吉原異聞伝綺談 ( No.2 )
- 日時: 2011/03/06 12:06
- 名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: 9nPJoUDa)
- 参照: テストがオワタといか言わないよ。言わないよ。
【一月目、卯月】
江戸、吉原。日本が開国したのは良かった。西洋文化がある程度染みてきた時に、突然"妖魔"と呼ばれる人に害を与える存在が吉原という場所で溢れ出たのだ。人に化けるのも居れば、醜い姿をそのまま晒している輩も居る。
それらは闇に潜み、人を喰らう化け物だ。吉原から発生した妖魔はそこから外に出られなかったが、その頃吉原と呼ばれる地区は江戸の殆どを覆っていたのだ。幕府の周囲辺りがまだ吉原とは呼ばれない江戸という名称で残っていたのだが……、兎に角"吉原"は昔よりも広範囲に及ぶ名称になっていた。
愛と欲望の園、吉原。快楽を得んとする男達の楽園であり、遊女として縛られる女の牢獄。所々遊郭が有るものの、既に妖魔発生から百年、一種の国家とも言えるくらい自治区になっていた。町を行き来するのは江戸の城下町と変わらぬ人々。遊女がちらほら歩いているくらいか。
木造建築の三階建てぐらいの高さの店が建ち並び、多くの人が往来している。その人込みの中に、大きな丸い白帽子が一つ浮いていた。帽子の主は、紫のかかった黒髪に薄桃色の中華服を纏った、一風変わった少女だ。
確かに今の日本、いやこの吉原にも西洋服や和服と混ざり混ざりになっているがその娘は明らかに浮いていた。
少女は何かを探しているようで、流れに逆らいながら目をキョロキョロとさせていた。
ふと探し物を見つけたようで、動いていた眼球がぴたりと止まる。そのまま人を掻き分け、掻き分け、紅白に金箔の刺繍が入った着物を着ている遊女に一直線。色白の手を必死に伸ばし、喉から声を出す。細い頸の所為か、張り上げても大きくならない。
「せん!———の、せんっの———っ。仙翁っっ!」
人の影に邪魔され、声が届かない。それだけでなく発声までも邪魔される。それでも少女は名を呼ぶ。呼び続けた。
遊女はその声に気付いたようで振り向いた。彼女のよく知る、黒髪の少女が名を呼び手を振っていた。まだ幼さの残る丸顔に、丸い若紫の瞳。まるで長い間、陽に会っていなかったように焼けていない雪のような色白の顔だ。白に映える紫はきらきらとしていた。
仙翁と呼ばれた遊女は自分の傍らにいる男に掌を見せ、頭を軽く下げた。「下がって」という合図だ。そのまま退いてくれた男をその場に置き去り、仙翁は少女に歩み寄りながら手を振った。———少女と同じよう、彼女の名前も呼んで。
「琳邑!」
「仙翁っっ!」
右側だけ伸ばされた髪は御下げを作っている。その御下げを元気に揺らした琳邑は仙翁に抱き着くかのように飛び込んだ。まるで長らく母を探していた稚児が母親を見つけたときのようだ。
「全く危ないのに……。琳邑、久し振りね」
帽子越しに琳邑の頭を撫でながら、そっと語り掛けた。柔らかな声もまるで撫でるようなものだ。母の如く、仙翁は琳邑に接している。この地で路頭に迷う女など、狩られて遊郭に売られるのがオチなのだから。
「久し振り、仙翁。今日もお仕事ですか?」
甘えるような声色。にこにこしながら琳邑は仙翁を見ている。
「ええ、今日も仕事よ」
仙翁は琳邑と話すときだけありんす言葉(遊女の使う語)ではなく標準語だった。通じる、通じないの問題では無い。ただ琳邑が標準語で喋るので、自然とそれに合わせてしまうだけだ。他の人間とはそうでも無いのに……。
二人は和気藹々と話し込んでいた。しかし、まるでそれを裂くかのように、先程まで仙翁と一緒に居た男が遠くから声を放った。
「仙翁!!!」
それを聞き、彼女は一つ、重い息を吐いてから「今行くでありんす——」と語尾を伸ばした声を飛ばした。
「また、会える?」
まるで捨てられている仔犬のような双眸を向ける琳邑は然り気無く仙翁の袖を掴んでいた。遊女はまるで母のように、優しく琳邑の髪を撫でる。
「大丈夫、また会えるわ」
化粧で彩られた艶やかな口元は微笑を浮かべていた。いつもの別れ方とは変わらない。いつも琳邑は道を行く仙翁を見付けては、今さっきのやり取りと同じ出会いと別れを繰り返している。が、何故か今日に限っては感じが違った。……"普段通り"の筈なのに、離れて行こうとする仙翁ともう二度と会えなくなりそうな気がしてならないのだ。
じゃあねと、遊女は手を振って琳邑から離れた。それはあまりにも一瞬なことで、またそれも普段と変わらないものなのだが、少女にとっては普段よりも別れたタイミングが早く感じられ、また会えるときまでの時間がとてつもなく長いものに感じられた。
「誰と話していたんだい」
遊女の隣についた男はそっと彼女に訊ねる。
「……例の娘でありんす」
仙翁はぶっきらぼうな言い方で返答した。
「———良いのかい?」
ひゃっひゃっ、という非常に好き嫌いが別れるような卑しい笑い声をあげながら男は仙翁の顔を覗き込んだ。お世辞にも「格好良い」とは言えない顔立ちだ。双眸は剥き出すように大きく見開いていて、人をおちょくるような表情をしている。————その姿を仙翁は好かない。
「もう、あの娘とは会えないよ」
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