複雑・ファジー小説
- 【中間】 ( No.81 )
- 日時: 2011/06/04 22:09
- 名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: rbVfLfD9)
- 参照: は く り ゅ う = jeep (゜д゜)
□ □ □
少女は軽やかな足取りで石畳の上を歩いていた。朱色を基本とした鮮やかな花柄の振袖を風に揺らし、潤み色の瞳で周囲を見渡す。ふと何か見つけ、駆け寄った。塀に背中を付けて、菫色の艶を放った黒髪を垂れ下げて微動だにせずしゃがみこんでいる。首元に淡紅色のバンダナを巻きつけているのが鮮やかに光って見えた。少女は不安げに焦げ茶色の髪を付けた頭を近付け、垂れた黒の流れを手で掻き上げる。左半分を血の滲んだ包帯で隠した、少女のような幼い顔立ちが見えたが、性別は違うと確認。
よくよく見てやると傷だらけだった。呼吸を確認すると、弱々しくもしていたので一先ず生きていることは分かった。
少女は悩む。拾えば、大久保は怒るのだろうか。少なくとも、同居の西郷は怒る。が、大久保はどうだろうか。自分を拾った大久保のことだから、きっと笑顔で喜ぶのだろう。
それに見捨てたくなかった。なによりそれもが一番だった。目の前で脆弱な呼吸を立て、今にも黄泉に引きずり込まれていきそうな命が、黄泉と現世の狭間に引っ掛かって現世に留まっている。そんな姿を見捨てたがゆえに彼は落ちて短い生涯を終えるとしたら、その行為はどんなに罪深いものなのだろうか。嘗て自らが同じ境遇だったのを思い出す。西郷という冷ややかな人間に制止されながらも大久保という男は自分を助け、名前までも与えてくれていた。
『彩りが灼爍としているのを仰ぐ様————彩希爍。どだ、俺のネーミングセンス』
褐色の短髪に映えた赤い服を着た大久保紅羽という男はそう言いながら少女の髪をくしゃくしゃと撫でた。その笑顔は彼女にとって太陽。それはまさに、名前を名乗る声を死なせた、絶望の淵にたった彼女に告げられた黎明だった。
だからもう躊躇わなかった。そのまま細く脆そうな腕を引いてやる。意識が無いようでまるで人形のようだった。仕方がないから持ち上げる。少年と言っても男、その躰を支えるほど力があるわけでもないのだが彼是言っていられない。背負うような形にして運んでいった。
□吉原異聞伝綺談<ヨシワライブンデンキダン>
□【皐月】 間。
吉原のすみに聳える木造の邸、大久保邸。家主は大久保紅羽という二十三の若者だった。広い邸は元来遊廓だったのだが幽閉された大久保が買い取り、改造したのである。しかも独力で、だ。一月程で完成させた彼の体力は人間を凌駕する。生命力もゴキブリ並みと称され、驚異のものを持っていた。最早人の領域には置いておけないレベルなのだ。
「アキトおっせぇなあ」
隣で煙草を吹かす眼鏡の男————西郷重兵衛に言うように声を出した。相手はレンズ越しに冷たく細い目を紅羽に向ける。
「恐らく、近所で遊んでいるのだろうな」
「西郷、テメェはいつもそうだ。アキトはなぁ、アレでもまだ十五!盗んだバイクで走り出す夜を迎える年なんだよっ」
一人白熱する大久保紅羽に対し、西郷は冷えていた。冷静に投げられた言葉を返す。
「盗まれた奴の気持ちにもなってみるんだな」
言われた紅羽は黙り込む。…………正論。
紅羽がアキトを拾ったのも一月程度前だった。
昔結ばれた薩長同盟で大久保の属する薩摩藩と桂巴率いる長州藩は協力状態にあったのだが、結ばれた当時には幕府を倒すには至らなかったらしい。以降衰退し、結局将軍も現在は三十二代目徳川定晴。今の時期になって動いたものの見事に吉原に閉じ込められてしまった。それから間もない頃、紅羽はぶらりと外を歩いていた。そこで幾人もの浪人に追われていた少女を見つけ、助けた。————それがアキトだ。
彼女は何らかのショックにより、言葉を失ってしまったらしい。更に名を訊ねても筆談で返してくれることもない。仕方無く紅羽は少女に名を付けた。アキト———彩希爍、意味と由来は同志西郷重兵衛に失笑されてから口に出していない。自信のあった名だっただけに悔しい。
呆れながら門を眺めていた。紅羽の褐色の瞳が鮮やかな着物を捉える。アキトと直感した彼は走り出した。着込んだ赤いジャケットが風に靡く。そのまま少女に一直線、向かい合った所で彼は停止した。
アキトは潤み色の双眸を真っ直ぐに紅羽に向けていた。背中には黒髪の子供。嫌な予感がしたので訊ねる。
「……今日は可燃ゴミの日だったのに不燃物あったから拾ってきたのか?」
恐るべき変化球でも動じずに少女は小さく丸い顎を引いた。緩やかな弧を描いた顎がしっかり引かれたのを見た大久保は溜め息を吐くが、仕方無い。アキトの親切を無駄にするのは嫌だった。それに、人を見捨てたくない。
「アキト、サンキュな。お前偉いよ。人助けたんだぜ?」
彼は素直に褒めた。決して取り繕われたような飾りまみれの言葉では無い、純粋な気持ちだった。アキトの性質に改めて感動する。彼女は優しい人間だ、と。褒められたアキトは頬を染めた。純粋に嬉しい。彼女はぱくぱくと口を開閉する。
「『ク、レ、ハ、が、わ、た、し、に、し、て、く、れ、た、の、と、お、な、じ、だ、よ』……か。嬉しいなコノヤロォいっ」
的確にアキトの言葉を読み取り、彼は彼女の頭をくしゃくしゃに撫でた。特に読唇術というものを極めた訳でも無いが、アキトの言葉だけは的確に読み取れる。西郷には出来ないこと————いや、大久保にしか出来ないことだった。
大久保に頭を強く撫で回されるのが好きなアキトは更に頬を赤める。暫くしてから紅羽は後ろに回って子供を背負いあげた。菫の艶がかかった黒髪に、巻かれた包帯、傷だらけの躰。アキトの時を思い出す。空いた手で少女を引いて戻った。中の重兵衛は今の紅羽の様子を見て目をパチクリさせている。紅羽は構わずに自分のペースで言っていた。
「————西郷。今日から家族一人増えるわ」
そのまま背中を見せて自室に向かっていく。申し訳なさそうな顔のアキトが軽く会釈した程度で大久保は何もしなかった。
「————————は?」
ポトリ、と吸殻が口許から綺麗に零れ落ちた。
◇
光。
眼前に広がったのは升目上の檜板だった。ぶら下げてある灯りは点灯していない。差し込んだ黄昏時の陽射しが眩しかった。少年は開いている右目から入る光の眩しさに目を細める。景色に見覚えは皆無だった。
ゆっくりと上半身を起こそうとした先に一人の男が視界に侵入する。
「あ、ウェイカプしてら。おは」
穏やかな顔付きが、明るい髪によって際立たされていた。男は優しい面差しを向け、そっと少年の閉ざされた左目に手をやった。火傷で爛れ、目は塞ぎきっている。男は目を細め、苦い顔をする。
「やっぱひでえ。これじゃあ、見えそうにないな」
火傷の上に、更に多数の切り傷。視力の望みはないらしい。後ろから包帯を出して少年の頭に巻き付くていく。それは大変鮮やかな手付きで、あっという間に綺麗に左目を覆った。
同時に襖が開く。顔を覗かせたのは、まだあどけなさの残る女だった。潤み色の双眸を不安げに向けていたので少年は紫紺の目を合わせてやる。すると少女は驚いたのか、ひょっと顔を引っ込めた。それでも、絶えず少年がその方向を見つめていると男は少女に声をかけた。
「————彩希爍、おめも来い」
彩希爍と言うのか、と少年は脳内にインプットする。アキトはひょこひょこと現れ、軽く会釈した。その小さな肩を男の厚い手が叩いた。
「無愛想とかじゃねぇんだ」潤み色の少女の目が伏せられる。「ただ単に喋れないだけでな。俺もよくは知らねえけど、事情ってやつだ」
アキトが頷く。少年は何も言わずに俯いていた。すると男が少年の頭に手を当てて無理矢理面を上げさせる。
「あ」
小さく声を発した少年に男は笑いかけた。
「俺は大久保紅羽っつーんだ。クレハともクボとも好きに呼んでくれ」大久保は少年の黒い流れを揉む。「お前は何て言う?」
少年は口をすぼめていた。記憶を検索するが残念ながら少年の脳内検索エンジンには何もヒットしなかった。文字通り空っぽなのに気付く。名前おろか、年齢も出生も分からない。紅羽もそれに気付いたのか、なんとも言いづらそうな顔になって、ヘラヘラとした顔を真面目にし、申し訳なさそうな頭を下げる。
「わりぃな」
「…………ううん」
小さく頭を左右に振った。すると紅羽は立ち上がり、部屋の本棚を漁り始めた。目は何かを探しているみたいで、端から端を抜かずに見ていく。ふと視線が止まった。先にあった分厚い書物を引き出す。漢和辞典だ。それをパラパラと適当に捲り上げる。
「思い出せない」呟いてから、もう一度同じ言葉を今度は文を装飾して少しだけ声を張って言った。「僕、名前も何も思い出せない」
「だからよ」
男のパラパラと捲る音が止んだ。アキトを手招きして呼び寄せ、止めたページを見せながらにやつく。それからまた少年の方へ近付いてきた。
折目のついたページを突き付ける。紫紺の目と間近にあるページの感じを一つ指で指してやっていた。
「名前をつけてやるよって話だ」
あったのは「黎」の字。離してまた捲る。すぐ止めてまた突き付けた。今度は「靉」の字。
「えぇと」
吃る少年は字を追う。訳の分からない二字だ。大久保はにやついている。
「まだ俺は未婚だけどよ。産まれたら子供につけたい名前があんだ」
またアキトを呼び寄せる。ちょこんと少女は潤みの目を頭上の大久保に向けながらも唇に微笑を浮かべている。
「黎靉。————黎は黎明の黎でほのくらい光、夜明け方の意味を持つ。靉は雲が纏わりつく様を現す。つまり、雲が仄かに——徐々に晴れて行く様を現す」
少年————いや、レイオの瞳に光が宿った。まるで今生を受けたように、紫紺の珠が輝きを灯す。彼は名前を繰り返した。レイオ、レイオと。
「気に入らなかったか?」
繰り返し言うレイオに対し、大久保は不安そうだった。
「ううん」レイオは首を左右に振る。「気に入った。————ありがとう」
「どういたしぃー。それぁ良かったよ」
紅羽は安堵する。子供は照れ臭そうにしていた。空っぽの内部に"自分"が生まれた気がして、嬉しかったのだ。
この日、大久保邸に新たに家族が加わった。
大久保黎靉、空っぽだった少年。
【中】 了