複雑・ファジー小説

Re: 吉原異聞伝綺談 *更新完了 ( No.91 )
日時: 2011/08/04 19:27
名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: rbVfLfD9)
参照: 糸色 イ本 糸色 命

 ————家族の記憶はない。というよりも、過去の記憶自体殆ど無かった。思い出そうとすれば、頭に激痛が走る。記憶なのか、幻覚なのか不確定なヴィジョンが時たま頭を流れるが、すぐに頭痛で消されていた。

 ただ、今までいた幕府には"嫌な気分"しかしない。僅かに残る記憶の中に、いや、残っている記憶全てが、幕府の暗い檻に閉じ込められているものだった。出ていくときに誰か白衣の男に手を引かれていった気がする。————それも曖昧だった。靉靆とした記憶に代わり無かった。

「お母さんやお父さんはどんな人?」

あどけない笑みを浮かべた少女に問う。琥珀の目を煌めかせて、鄙子は答えた。
「優しい、優しいひとだよ。ひなと遊んでくれるの」一旦置いて、続ける。「みぃんな優しいのよ」
「…………みぃんな?」
最後の単語を復唱して琳邑は聞き返した。
「ひなには兄弟がいるから」
鄙子は琳邑に抱きつきながら言った。無邪気に、無垢に笑う彼女は琳邑を慕うようにくるくると甘える。頬をすり寄せ、途中、にこやかに鼻唄を交え始めた。琳邑は取り合えず頭を撫でる。


 遊廓の混じった通りを歩む。


 琳邑は袖先に居る鄙子を見た。鄙子は童顔を真っ直ぐ先に向けて歩いている。口許には微笑。連れ歩く様子が、自然と嗣達に重なった。

——仙翁と別れたとき。

記憶も意識も曖昧な琳邑を連れて歩いた嗣とチェン。敵対する筈の二人は、何故か共闘し、琳邑を連れてくれた。————内面には黒いものがあるのかもしれない。しかし、それでも二人は琳邑を守ってくれていた。仙翁から遠退け、傷付き、庇う。その姿が今、絶対的な信頼を寄せている理由になっている。

——嗣も、チェンも私を連れてるときにこうだったのかな。

鄙子の手の温もりを感じながら耽った。町中を忙しく歩く人々に囲まれながら、ペースを保つ。————同時に親子とは如何なるものか考えていた。嗣もチェンも、答えてはくれていない。


 嗣に訊いた。『"おやこ"って何?嗣にもお母さんやお父さんが居るんですよね?』
 嗣は答えた。『俺にマトモな記憶は無ぇよ。ホラ、エロさ〜が〜、ちがう〜っよ♪ってな』
 チェンにも訊いた。『"おやこ"っている?嗣ははぐらかして、答えなかったから……』
 チェンも答えた。『俺にも居るさ。……ただ、思い出っていうのはそんなに無いよ』


 じゃあ、なんなのだろう。

 母も、父も、分からない。

 靄のかかった先にいたのが、父なのかもしれないし、それ以外なのかもしれない。琳邑は分からない。こだましていた声も、父のかもしれないが分からない。

 突然、琳邑の先に見えた武家屋敷の前に人影が映る。————菫色の艶を出している胸までの黒髪にまだあどけなさの残る少女の顔。漆黒の団栗眼。虚弱そうな白い肌の小柄な体型が、薄紅の中華服を纏い、誰かに手を伸ばしている。———実に琳邑にそっくりであった。

峰一ふひと様が居てくれれば、この煌琳こうりん、何も要りません』

少女の声と同時に、彼女は誰かを抱き締めていた。段々と輪郭がはっきりする。白衣が見えた。煌琳と名乗った少女とは全く異なる体格、男のものだった。雰囲気からして十歳は離れていそうだ。不思議と、琳邑が見ていた幻の人間と似ている。

「ふひ……と?」
琳邑が声を放つと、煌琳が此方を向いた。そして、煌琳に峰一と呼ばれた白衣の男も顔を向ける。——しかし、相変わらず口から上が光で隠れていた。峰一も煌琳も微笑を浮かべる。そして峰一が呼んだ。

『りん』


優しくて暖かい光が射し込んでくる。眩しさに、眼を閉じた。





「やってお仕舞いよ、久坂!」
女が軍配を振るように命ずると久坂はチェンに斬りかかってきた。
「だぁか!!」火花を散らしながら双剣による猛攻を防ぐ。「俺ァ、高杉の知り合いだって!!」
「そんなもん、騙ってるだけッス!!」
伽羅色の髪の青年は聞く耳を持たなかった。チェンは剣戟を避けてくるりと廻る。その隙に沖田が刀を貫かせた。

————二人も相手にしてらんねぇよ!!

対立する筈の二組が同時に襲い掛かっている。脳裏に琳邑が浮かんだ。——このまま、チェンが殺されれば琳邑はどちらかに奪われる。嗣が護るにしろ、信用はまだしきれていない。なら————。


「お、れ、はっァあ!!」


荒い呼吸を吐きながら、素手で二人の剣戟を受け止めた。沖田も久坂も刀を押すが、押しても進まないくらいの力で止められていた。——この少年にそんな力があるとは考えられない。ならば……。


————"意志"か!?


紅く燃ゆる焔を眼に宿らせた少年に気圧される。血に染まりながら、まるで鬼神の如く、その場に立っているチェンは最早意識を朦朧とさせていた。それでも彼の"想い"は揺るがない。最強の壁となった少年は立ちはだかったままである。


「何していますの久坂!早く殺りなさい!!」
切らした女帝が命ずる。
「いや、でも」
刀が、と続けるより早く、熾織が小刀を取り出してチェンへと接近した。振り上げ、冷酷な目で見下す。
「もういい」冷淡な口調は躊躇いなど無かった。「わたくしが殺りましょ」


————ああ。

 "この人間は傷付けるのを畏れない人間なんだ。"

 熾織という女は、きっと残酷な仕打ちを呼吸すると同じくらい自然に出来る人なのだ。人を傷つけることを、更には殺すことさえも何も不思議に思うこと無く行えるのだろう。

 小刀の光が反射する。刹那、脳裏に今までの人生観が流れた。走馬灯なのか、そうか、これが最期か、————悟った。


「馬鹿馬鹿しぃ!!」


 降り掛かったのは聞き覚えのある、あの嫌な男の声。
 目を開くと、黒いスーツを靡かせた白髪の男が日本刀で小刀を受け止めていた。

「高杉嗣…………!!?」

突然すぎる人間の登場に、女は金切り声を上げた。嗣は口許を吊り上げて不敵に笑う。
「久しぶりだねぇ、久坂にドS女王サンよォ。相変わらずなSM漫才じゃあねぇのよ」
「せせせせ、先輩!?」
嗣を見て久坂も驚きの声を上げる。一人、萱の外にいた沖田総爾郎だったが、嗣のことは情報で知っていたので特に驚きは無い。続いて、熾織の手が何者かに払われた。小刀が地面に落ちて金属音を奏でたと同時に、キャスケットを深く被り直す人間が参上。片腕で、マフラーを風に揺らすお下げの女性だった。にこやかに喉を鳴らす。
「お久し振りね、伊藤熾織殿」
「あら、此方こそ会いたくなかったわ、山縣韵」
熾織が得意に皮肉で返す。しかし、慣れているのか山縣と呼ばれた女には効かなかった。彼女は極々自然に受け流す。
「あまり下手なことすると、入江先輩怒りまするよー」
「あらま、入江先輩がどうこうってねえ」
熾織は優雅だ。余裕を見せびらかす。韵は呆れ顔を作っていた。そのまま顔を熾織の黄土の髪の後ろにずらす。其処から耳打ちした。
「……此処で幕府の人間を殺したからと言って、簡単に兵器が手に入るわけでもないのにね」
聞いた女の眼が見開かれる。その流れに沿って脱力し、遂に足掻くのを止めた。同時に意識を失ったチェンが倒れ込む。嗣は受け止めもせず、寧ろぞんざいに彼を放置した。解放された総爾郎と久坂がお互いに眼を合わせる。


 総爾郎が刀を仕舞う。其れから数秒ずれて、久坂も刀を仕舞った。草鞋が地面と擦れる音を奏でながら、沖田は身を翻した。曖昧な笑みを浮かべて。
「やれやれ、此処まで倒幕勢が集まってしまったら勝てる気がしないよ」
微笑みを浮かべながら、呆れたように顔を左右に振った。同時に亜麻色の髪が宙に残像を描く。嗣も、久坂も熾織も韵も停止していると錯覚するくらいに微動だにせず、去っていく背中を見つめていた。沖田が一瞬だけ振り返る。振り返った顔が見せたのは、何処までも純粋な殺意だった。

「今度は局長も土方さんも————"一家"総出で向かわせてもらうよ。
キミ達が見るのは、同志と己の血液、そして死体……かな?」

一陣の風が吹く。純粋な殺意が風で掻き消されていったと同様に、浅葱色の羽織の後ろ姿も一瞬で消えていった。


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