複雑・ファジー小説
- Re: 吉原異聞伝綺談 *更新完了 ( No.92 )
- 日時: 2011/08/04 21:05
- 名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: rbVfLfD9)
- 参照: 糸色 イ本 糸色 命
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吉原、某所。
「何処に居るんだ、沖田ァ!? 」
静寂を破るような罵声が、突如屋敷中に飛び交った。後ろで髷(まげ)の様に結った黒髪をした男が畳の上を乱暴に歩く。濃緑色の細めが障子の向こうに広がる青空を眺めた。空を見ながら、再び罵る。
「局長まで連れて行きやがって何考えてんだよ沖田あ!」
廊下で怒鳴り散らしている男の隣をすれ違った小さな影が小顔を上げながら冷たく言う。
「副長、あまり大声出さないでください。齋藤隊長に迷惑です」
男と同じ濃緑色の瞳に伸ばしっぱなしの黒髪をした少女だった。小柄で痩せ形、きちんとした食事を摂っているのか不安になるように体型である。浅葱色の羽織もずるずると引きずっている。
「だからって、あんの馬鹿。近藤局長を連れ回すこたぁ無いと」
「土方空華(くうげ)副長、恐らくは近藤局長が無理矢理連れて行ったんだと思いますよ」
「あんなぁ」土方と呼ばれた男は眉間に皺を寄せる。「頼むから下の名前を言わんでくれ。俺は女々しくて好きじゃないからよ」
すみません、と少女は頭を軽く下げる。そして意識を少しだけ過去に遡らせた。————この新撰組を束ねている近藤という者は、拾った訳有りの人間に名を付けるのだ。土方も同様だった。直々に局長から聞いた話であったが、彼もまた訳有りで拾われ、名を捨て、名を与えられた者なのだ。
『"空華"とは、仏教用語の一つなんだよ。空中に存在すると思われている花でね。現実世界の全ての事象っていうのは、本来実体のないものなんだってさ。でも、それを正しく認識しないで、恰(あたか)も実体を持っているように間違えて考える事を例えるのに用いる言葉なんだって。
————まるで彼そのものさ。彼は存在しているようでしていない。拾った時には生きた屍の様な男だったんだよ?』
恐らく、見た目だけでは自分よりは年下と判断されるのだろう。しかし、近藤と言う人間は何年たっても十歳前後以上にも以下にもならない。——歳を取らないのだ。永遠に少女のままで、そして永遠にその世界から抜け出せない。それでも近藤と言う人間はにこやかに生きていた。まるでその世界を楽しむように——……。
「全く、引っ越してきたばかりで、新屯所すらきちんとなっていないっつーのに」
土方は髪の毛を掻きむしる。その右肩が背後から誰かに叩かれた。一瞬の寒気を感じ、瞬時に振り向く。背後には決して血色のいい顔をは言えない、憂いに満ちた長身痩躯の青年が居た。
「副長、五月蠅いです」
青白い顔の青年は、見た目よりも断然に歳を食っているように見える。ぼそぼそと言う声に、極々自然な返答を土方はする。
「ああ、申し訳ないな齋藤」
齋藤と呼ばれた青年は視線を落とす。——土方よりも背が高い為、見下ろしているようにしか見えないのだが、そんなことをしているつもりではなかった。
齋藤の痩せこけた頬の左に残る傷痕を土方は眺めた。余命宣告を受け、そして過酷を極めた過去を持ったこの罪人には今何が残っているのだろうか。————いや、きっともうこの世には興味など、意識など無くなっているのだろう。それを包み込んだんが彼を拾った近藤局長だった。母として、そして守るべき主として。彼女の絶対的な存在が恐らく彼を今現世にとどめている最大の理由なのだろう。
「いえ」齋藤はだらだらになっていた寝巻の皺を伸ばす。「局長様の外出は副長にとって一大事ですからね。……仕方ないことにしておきます」
生気を感じさせない、まるで屍の様な男はそれだけ言って、長い廊下を渡って行った。残された土方と少女がその背中を見つめる。
「伊東続紅(つづく)」
土方が少女の名を呼んだ。
「なんでしょう」
「アイツは何処まで孤独なんだろうな」
違う二つの濃緑色のガラス玉が孤独な背中を見送る。其処には足音と風の哭く声以外、何もなかった。
まるで屍を踏み歩くように。
土方は眼を閉じる。————幕府に忠実な狗と罵られる新撰組であっても、其処はやはり俗世間から切り離された居場所のない人間のたまり場に違いは無かった。
—— 一揆で家族を失い、居場所を無くし、この世の全てを呪った少年を温かく受け入れた黒髪に琥珀の眼をした"女性(ひと)"。その時は、母の様に大きく包み込んでくれるような見た目だった局長も、土方が成人する時には不思議と縮んでいた。それでも彼女の正体を訊こうとはしなかった。————正体など、関係ない。正体以外の彼女なら、何でも知っている気がしたからだ。
"感情が死んでいる無邪気な殺人者"という勝手な評価を世間から付けられ、迫害されてきた純真無垢な子供だった少年。あまりにも人を超越して居た為に恐れられ、居場所を失っていた沖田総爾郎。そんな十にも満たない子供を拾ってきた局長の姿は慈愛に満ちた母親以外何でもなかった。沖田を拾って来た時も、まだ局長は"大きかった"。沖田が十五歳になるころ新撰組が結成されていたのだ。無論、その頃には既に少女の姿をしていたのだが。
新撰組が結成されるより遥か昔。確かに其処には捨て子やらなんやらを拾い、育て、生活する局長の姿があった。今も変わらぬその様子に土方はそっと胸をなでおろす。あの頃の齋藤も、やはり土方や沖田と同じだったのだ。
——朝廷に属する高陽院(かやのいん)家の令嬢である伊東続紅でさえも。
年を超えても、月日を超えても、局長は母で居続ける。
「さて、どうしましょう。齋藤隊長があの様子では、隊士にも迷惑がかかりますよ」
望郷に浸っていた土方は伊東の投げかけに答えなかった。それにむっとした伊東が小さな足で彼の脛を蹴りあげる。勿論それ程破壊力は無いのだが、彼を現実に引き戻すには十分の威力があった。蚊に刺された場所を叩くようにしながら土方はもう一度と聞き返す。伊東は呆れながら律義に言いなおした。
「齋藤隊長があれでは、隊士にも迷惑がかかりますよ」
「あー、まあその辺は明海(めいかい)とか、萩葉(はきば)がどうにかしてくれるさ」
そう言って土方も、もう消えた齋藤の背中を追うように歩きだす。伊東も勿論続いた。
「僕の他に居る、もう一人の"イトウ"参謀の動きもみなきゃいけないですよ」
小動物の様にパタパタと歩く伊東に痺れを切らしたのか、土方は彼女をひょいと持ち上げて担ぐ。慌てふためく彼女を別に、彼は独自の世界を展開させていた。
————伊藤槝緒(いとうかしを)。恐らくアイツは局長の敵となる人間だ。
そして今、その伊藤が怪しい動きを見せている————。
"殲浄計画"によって生み出された表の兵器[RIN-YOU]と裏の兵器[KAN-OH]。理の"破壊"と"創造"——それぞれ対なる力を持った存在。
伊藤槝緒という男はそのうちの"創造"を司る[KAN-OH]に関わっていた人間の一人だと局長に聞いていた。[RIN-YOU]の性質を奪い取り、内密に作り上げられたもう一つの存在[KAN-OH]。恐らく、それを手中に納め直して、更に新撰組に奪わせた[RIN-YOU]を合わせて幕府という邪魔物を滅ぼすつもりなのだろう。
「大丈夫だ」
土方が低く言う。そして瞋恚の焔を燃え滾らせた眼を真っすぐと前に向ける。
「局長に仇名す奴らは全員殺すさ」
その意志に迷いなど無い。
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