複雑・ファジー小説

Re: 吉原異聞伝綺談 *[皐月]終了、水無月開始 ( No.97 )
日時: 2011/08/17 22:49
名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: .WzLgvZO)
参照: 糸色 イ本 糸色 命



「先が思いやられるのは此方もでしてよ」

先方からしたのは、優しさを帯びた柔らかい女性だ。チェンは見上げる。薄紫の布地に、桔梗を模した刺繍の入った着物を着、番傘で日差しを防ぐ女と、寄り添う伽羅色髪の青年。髪留めで留められた黄土の髪に黒真珠の細目、凛とした顔立ちで右目の下の泣き黒子が更に美しさを際立てていた。
「熾織と久坂のSMコンビじゃねーか」
嗣は目を細める。着物を着た女性は伊藤熾織いとうしほり、寄り添う青年は久坂扈雹くさかこはく、二人は嗣と同じ倒幕派だ。————新撰組の沖田総爾郎との戦闘時に割り込んできた二人である。チェンに良い印象はない。
「お背中のお嬢さんはおネムのようね」
熾織はくすくすと笑う。が、優しさだけで出来ていそうにない。久坂は無言で立っている。

ガードに入ろうと、チェンは嗣の後ろに隠れた。眠っている琳邑が兵器だと悟られてはまずいと直感した。————嗣も同様だ。二つの黒曜石をぎらつかせた。
「何か用かよ」
「ええ」女はにこやかだ。「そうね、お茶でも如何いかが?」
「断るよ」
「イエスかハイしか認めないわ」
毒の舌が容赦無く嗣にかかる。答えに詰まり、黙りになった。

「一杯くらいならご馳走するもの」







 入ったのは、遊廓が並ぶ通りに面した茶屋だ。そこそこの広さを誇ってくれており、個室に居させてくれる。襖を閉め、完全に密室とした部屋で熾織は注文したほうじ茶を啜る。香りをも味わい、暫しそれに微睡んだ。
「入江先輩も嗣先輩のこと、心配してたッスよ」
煤けた黄の上着を脱ぎながら久坂扈雹が言う。嗣は軽く返す程度だったので、久坂は会話を繋げようと勤しむ。
「相変わらずの細目で、『嗣は生きてるかな』って言ってたッスよ。珊瑚さんも、前原先輩も変わらずッス」
「あ、そ」
茶を飲む。目覚めたら琳邑を膝に乗せ、妹のように茶を飲ませた。美味いか、と訊ねると琳邑は笑顔を返す。和やかな雰囲気だ。


しかしチェンは気に入らない。琳邑が日を重ねる毎に嗣になついていくのが心配でもあり、疎ましくもあった。その心情を読んだのか、熾織が薄笑いを浮かべた。
「如何やら、思春期少年さんは御機嫌斜めのようね」
「失礼ですね」
不貞腐れ、ぞんざいに器を扱って一杯飲み干す。飲み終わった硝子の器を机に乱暴に置いた。気分を害したという態度が露わになっているにもかかわらず、熾織はのほほんとしている。嗣とチェンの空気が一気に重くなった。理解していないのは、琳邑だけだ。



「しっかし、先を越されてしまうなんて心外だったっスね」


重い空気を一掃しようと、久坂が口を開く。嗣や熾織の通っていた松下村塾の塾生では最年少だった久坂扈雹は気を使うのに慣れている。自分以外は全員二十歳を超えたにも関わらず、久坂だけは未だ一年足りていない。つい先月、十九になったばかりなのだ。それでも彼は先輩に追いつく程の能力を発揮している。——熾織は自分以外の人間に先を越されると最高に僻むのだが、久坂は真逆に尊敬の念を示すのだ。その様な元来からの人間性も、きっと松下村塾の四天王に数えられる理由の一つに含まれるのだろう。熾織と同じくらいに尊敬している嗣に対して、久坂は正直に敬っていた。——吉原に迷い込んだ兵器を既に保護して居るのだから。
「ということは、仙翁と戦っても無事だったってコトっスか」
「そうだな」
嗣の脳裏を韵の言葉が過る。——久坂と熾織も仙翁と対峙したが、彼らは運悪く妖魔の種子を埋め込まれてしまったのだ。
「流石先輩」
白い歯をニッと見せ、彼は笑った。隣の熾織は気にいらなそうに、眼をぎらつかせている。

 状況の分からない琳邑はいそいそと目線を至る所にやっていた。そんな彼女に気付いた久坂がそっと和菓子を渡す。ぺこり、とお辞儀をして頬張った。——普通の少女と変わらぬ素振に思わず久坂は苦笑する。
「なんだ、兵器と言っても変わらないんスね」
矢張りこの二人は気付いているのだな、とチェンは敵意を仄めかす。それは嗣も同じだ。——この場で熾織と久坂が琳邑を奪うために攻撃をしてくる可能性も低くは無い。冷静に、息をのんだ。
「そうそう。どうして[RIN-YOU]が人型をしているのか、知っています?」
芳しい茶葉の香りを堪能しながらの熾織が悪戯に訊ねた。無論二人は答えない。しかし、場の空気の読めていない琳邑は惚けた様子で応える。
「どうして?」
紫紺の双眸は濁り一つも無い純真な宝石だ。熾織は子供に教えるように、急に優しい声色になり、柔和な顔で琳邑に接近する。

「妖魔破壊の力を唯一持つりんちゃんが人の形をしているのは、人間に紛れ込んで、誘き寄せられた妖魔はさくさく殺っていけるようにしたからよ。——ねえ、チェン君」
澄んだ熾織の言葉にチェンは取り敢えず頷いた。説明されても、本人はあまり理解していないようで、キョロキョロとしてる。
「あ、あの……。よく分からない、です」
おどおどしながら琳邑は熾織に訊ねる。緊張して強張った顔の琳邑に、熾織は柔らかい表情を向けた。色白に映える紅の唇が優しい旋律を産み出し始めた、が
「存在自体が猥褻物の嗣に、私が花魁の格好をして接近します。馬鹿で変態で枯れ気味で男としての能力を一切使う時がなかったアホンダラ嗣——いや、猥褻物は馬鹿みたいに興奮して、いとも簡単に釣れますね。そのまま『ここへ来て——……』みたいなことを言って寝床に誘うの。そこで無防備になったところをブスリと刺して殺してやる感じね。
……りんちゃん、わかったかしら」
笑顔で淡々と紡ぎ上げた言葉は顔や様子からでは決して分からないような恐ろしい内容であった。女から吐かれた大量の毒ガスが充満する。
「はい、なんとか」
そう言う琳邑であったが今一掴めていない。取り合えず、これ以上訊くのも失礼だと思い、空気を読んでそう答えたのだった。そのあたりは、何とか空気を読めたらしい。


 彼女の横にいた久坂は左手の拳を上に突き上げて大声を上げる。
「流石シホリ先輩ッッス!!これ以上に無いってくらい上手い説明でオイラ感動したッスよ!」
久坂が一体何に感動したのかは分からない。瞳を輝かせる久坂とは対極的に、嗣の表情は暗く沈んでいる。
「……それは良く分かんねえよ」
確かに、であるがその場では誰もツッコミを入れなかった。


 膝元の琳邑の口元に付いた餡子を拭うチェンをちらりと見てから、嗣は一杯淹れて飲む。酒を飲みたい気分でもあったが、昼間から飲む訳にもいかないだろう。
「まあ、猥褻物ならまだマシですわね」
澄ました表情の熾織に嫌悪の眼を向ける嗣。——先程までと呼称が変わっている。
「おい、呼び方が変わってる」
「あの憎たらしい井上や、喋る空気の前原先輩に奪われるくらいならまだマシですもの」
見事に無視である。一人で自分と対話をする熾織の事は無視することにしよう、と嗣は無視を通す。そんな男に、チェンは小声で訊ねる。
「————もしかして、お前らって結構仲悪かったりする?」
「女同士は最悪だ」
白髪の男は苦笑して答えた。旧名梢の桂巴に眼前の伊藤熾織、そしてあともう一人の井上珊瑚の三人は昔から非常に仲が悪いのだ。それを聞いたチェンも苦笑い。どうやら、幕府も倒幕勢も似たような物らしい。以外に人間関係は脆い様だ。


 気付けば琳邑が微睡んでいる。退屈な会話は眠気を催したらしい。膝の琳邑を背中に背負い上げ、嗣は立ち上がった。チェンも続く。久坂が二人の動きに気付き、独り言に夢中だった熾織の肩を叩いて彼女を現実に戻させる。戻った熾織は黒真珠の眼を向けてにこやかに笑いながら
「そう言えば、"なだ"と言う名の遊女が居ると聞いたわ」
と去り際の嗣の背中に言葉を投げた。一瞬高杉嗣の両肩がピクリと震える。が、取り乱さずに平然を保った。
「気になるなら探してみれば良いのではないかしら?」
「————誰がテメエの戯言なんか真に受けるかよ」
嫌らしい笑いを上げている女には別れの挨拶すらせず、皮肉を投げて嗣は先に部屋を出た。一瞬残ったチェンも、久坂と熾織に会釈をしてから、出て行った。

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