複雑・ファジー小説
- Re: 吉原異聞伝綺談 *[皐月]終了、水無月開始 ( No.98 )
- 日時: 2011/09/07 17:53
- 名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: .WzLgvZO)
- 参照: 糸色 イ本 糸色 命
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涙と書いて、「なだ」と読む。
涙が訛って、「なだ」。それが女の名前だった。
元は遊廓にいた遊女の一人。運命は優しく微笑み掛けてくれたようで、一人の志士に気に入られ、買われ、幸せな家庭を手に入れた女だ。
「お父さんは忙しい人だから、滅多に帰ってこないのよ」
いつもそう言って頭を撫でる。————優しい母なのだ。
そんな日々が狂ったのは、思い出したくなくても鮮明に覚えている。
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熾織らと会ってから三日経った。骨董品の並べられた店内を、緑の目が覗き込んでいる。高価に見える豪華な皿やら、像やらと不規則に置かれていた。像が見ている先も無論、バラバラな筈だが、妙に自分を見ているようで怖く感じてくる。だから目を逸らした。
「気に入ったものはあったかい」
しゃがれた老婆の声が少年に投げられた。店内の奥にいる、砂色の肌をした老婆が此方を見据えていた。
「いいや」チェンは首を振る。「ただ、色々と綺麗だなあ、って」
「そうかそうか」
深く多く、皺の刻まれた砂地が笑顔を作った。白色の、てっぺんの禿げ上がった彼女の口が次に言葉を繋ぐ。
「なんなら一個どうかい?」
彼女の言葉にチェンは一瞬戸惑った。買うつもりなど無いのだが、こう言われてはなんだか断りづらくなる。
「いや、でも高いし」
「安くすルよ?交換、とカ、ねぇイゥうゥウ」
チェンの言葉の後で老婆の顔が醜く歪んだ。直後、顔が縦に伸び砂の顔が広がる。眼球が飛び出て、首が勢いよく伸びた。頭はチェンの横をもうスピードで過ぎていった。マズイ、と振り向く。奴は老婆に身を窶(やつ)していた妖魔だったのだ。
「仙翁さマに仇為スへいキめぇエぇえエエィアい!!」
突き声と共に顔が琳邑に急接近。長く伸びた面から無数の尖った歯が現れる。ガパリと空いた大きい口が琳邑の頭を狙った。
「っつぅう……!」
目を閉じた少女の細い体躯から光。眩しいフラッシュライトが焚き付けられ、妖魔が呻く。
「ぐぎュルルらァあああ」
泥々に融けたような声が鳴る。反射的に理の力を使った琳邑の躰はまだ光を帯びている。妖魔の頭頂部が溶け、落ちた液体が蛆虫と化した。蠢々と蠢くそれらが白い琳邑の足に這い上がった。
「いやぁああ!」
叫びと共に閃光。虫たちが弾かれる。だが、頭のてっぺんが溶けた奇怪な頭はニタリとした笑みを作っていた。その頭に刃が突き立てられる。
同時に飛んだ生暖かい柳色の液体の間から白髪。サングラスの奥にある冷たい目は妖魔を見下していた。老婆だった化け物の喉がからからと悲鳴を挙げる。
「五月蝿ぇんだよ、雑魚」
刺さっていた刀を更に奥へ突き入れる。しかし、妖魔の特性である不死のお陰で徐々に躰が形を取り戻していた。血が戻る。頭頂部が戻る。
「りん!早く消すようにして!!」
駆けてきたチェンがへたっている琳邑に声を投げた。彼女は顎を引いた。
「嗣っ!」繊細な声が張り上げられ、嗣へと飛んだ。「刀に私の力を入れてみる!」
武器に理の、妖魔を消すという作用を与えてみようという試みだ。瞼を閉じた琳邑から青白色の光が滲み出、嗣の刀へ一筋の道を作る。刀がその光を帯びた時に琳邑の躰から光が消えた。宿ったらしい。
「チェンも!」
戦闘能力は高くない。だからこそ、戦闘に長けている二人に託す。チェンの複数のナイフにも光が宿る。これで二人、琳邑の力を借りた者が出来たのだ。
元はと言えば自分の失態だった。だからこそ、ここで挽回するのだ。足を踏み込み、跳躍。刀を突き刺したままの嗣の真上からナイフを投げる。妖魔の爛れた右目に突き刺さり、敵は悲鳴を挙げる。回復しないのだ。
「ボケッとすんな!」
「してねぇよ!」
少年の忠告に対した態度を妖魔に当たる。一旦引き抜き、横に一閃、斬る。脳天を横にスライス、脳漿が飛び散った。——鼻をツンとつく匂いがする。嫌な予感は的中だった。
脳漿は毒を持っている。頭を斬られても尚生きている妖魔は哄笑。ぶちまけられた脳漿が二人に降り注いだ。が、触れる前に弾かれる。————光の壁が隔てていたのだ。地面に手をつけてしゃがむ少女の視線が投げられる。
「私、援護に回ります!」
理を使っての防御だ。琳邑が二人に言葉を投げた。————使い方は仙翁と対峙した頃に比べると上手くなっているが、まだ制御しきれてはいない。ちょっとしたことで暴走してしまう。
妖魔の舌が伸びる。嗣の死角に入るが、読み取った彼は容易に斬り落とした。理の力で再生をさせない。柳色の血液をぶちまけながら化物は悶える。——頭部に蹴り。防壁から飛び出て、チェンが跳躍、足を降り下ろす。頭蓋を砕く音がなり、悲鳴。哭いた喉に鋭利な刃物を突き刺した。
「なだなだなだなだなだなだなだなだなだ」
頭部が仰け反りながら叫ぶ。喉からは血が吹き出ていた。叫びに何か反応した嗣がピクリとする。
「嗣……?」
琳邑が心配の色の音を奏でていた。ハッとし、笑顔を返す。そして刀を握り直した。
「なだなだなだなだ」
「五月蝿ぇなッ」
刃の先が一点を目掛けて降ろされた。突き刺さったのは顔の中心部。琳邑の力で、そこが陥没、徐々に顔がそこに沈んでいく。沈みゆく唇が言葉を紡ぐ。
「なダが、ツぐルにナミねに謝ルのトはくるるる……」
呂律の回らない、そして文法も滅茶苦茶な作りになっている言葉だった。琳邑が右手を突き出す。中心部に落ちていた眼球が絶望の色を表した。死を恐れたのか、慟哭を始める。この世のものとは思えない叫び声を奏でながら、妖魔は絶命。残骸は砂塵に紛れて、風に吹かれ、舞い消えた。
刀を鞘に戻し、立ち尽くす嗣の後ろ姿を紫紺の双眸がぼんやりと見つめた。妙な孤独が漂っている。
「つぐ……」
白雪の腕が彼に伸びた。が、触れるのを頑なに拒む彼の背中に気圧され、手は届くのを止めた。虚しく中に浮く空気をつかみ、降りる。
「どうしたんだよ」男の虚勢にまみれた言葉が浮遊する。「早くしろよ?」
彼は既に進んでいた。ぼんやりする琳邑の手を、チェンが引いた。紫の瞳に映った少年の横顔は、ひきつった笑いを描いていた。空気がぴりぴりと肌を刺しているのが、二人にはよく分かった。
□
吉原某所、討幕勢の居座る邸の一室で山縣韵は笑顔を曇らせ、正座をしていた。眼前には爽やかな笑顔を作った長髪の青年が鎮座している。
「取り合えず韵さん、要するに貴女は嗣と接触しながらも[RIN-YOU]には接触しなかった、と」
彼は柔らかな音色を奏でた。が、見えない棘に覆われている。見えざる棘がチクチクと韵の躰を刺していた。苦し紛れに、言葉を繕う。
「えー、あー……入江先輩、私の記憶上から何故かそれは消滅してまして、ね?気付いたときにはなんか出遅れっていうか、既に居なかったって言うか」
「韵さんは昔から喋るの得意ですからね〜。言い訳は飽きました、よ?」
入江と呼ばれた青年はにこにことしたままだ。韵の頭が項垂れる。
塾生の中でも、比較的歳上であった彼————入江蕀に敵うものは殆ど居なかったのを韵は思い出す。今年で二十七、嗣や自分の年齢よりも五歳ほど歳上だ。最年少の久坂とは八つも離れている。まあ、それでもまだ最年長の前原に比べれば歳下だ、と韵は一人笑いをした。
「取り合えず、韵さんがそれでは、きっと熾織や久坂も駄目だったんでしょうね」
仏のような表情で入江は顎を少し上げた。仙翁に妖魔の種子を埋め込まれたさいに潰した瞳は閉じたままである。
「先輩は、義眼とかつけないんですか?」
ふと嗣と会ったので韵は思い出し、問う。嗣は片眼が義眼だ。両目を潰した入江にも、見た目だけはどうにかと思ったのだ。しかし、韵の優しさに容赦なく入江は首を左右に振った。
「義手をつけない貴女と同じですよ」
「だって面倒じゃないですかぁ」
「私も面倒だと思ってつけないのですよ」
そうですか、と女は少しぶうたれた様子で姿勢を崩した。気がもうもたない。
「さてまあ、どうしますかね」
青年は呑気な様子でいる。近くにあった急須を取り、緑茶を注いだ。一つの湯呑みを韵に渡す。韵は口をつけた。が、中身は無い。どうやら、自分で煎れろと言うことらしい。
————口に出してよ……。
昔から入江は妙に一言足りない。呆れ顔で韵はお茶を注ぎ、一気に飲んだ。——温い。お湯は冷めていたらしい。
「暫くしたら、出ましょうか」
青年は飲んだ湯呑みを床に置いた。
「あと、どのくらいですか?秒単位?」
「いいえ〜、日単位ですかね〜」
そう言って彼は窓から見える外に顔を向けた。
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