複雑・ファジー小説

Re: 吉原異聞伝綺談 *[皐月]終了、水無月開始 ( No.99 )
日時: 2011/09/11 18:33
名前: 朔 ◆sZ.PMZVBhw (ID: .WzLgvZO)
参照: 糸色 イ本 糸色 命




 此処最近、妙な気まずさが漂流している。琳邑も、チェンもまともに嗣と会話をして居なかった。彼は何処かをぼんやりと眺めたまま、静止しているのだ。そんな嗣は誰も近づけない雰囲気を纏っている。宿に居ても、道を歩いていても、戦闘中でも変わらない。

 彼は、あの妖魔と接触してから変なのだ。

「ねえ、嗣。"なだ"って誰?」


気まずい空気を突き破るように、透明な声がピンと伸びた。嗣を貫く。彼は、顔をひきつらせて振り向いた。眉間には深い皺が刻まれている。
「ああ?」
怪訝な低音が、琳邑を気圧した。が、少女は引くこと無く、凛と立っている。軈て、怖じ気つくすらも払いきっていた。
「だって、変だから。嗣、"なだ"って聞いてから変です。誰、"なだ"って」

————あー……。

一番訊きづらい、しかし一番の疑問をとして君臨している質問にチェンは頭痛がした。琳邑は素直に訊ねた。が、それは先程言った通り、一番訊きたくても訊けない質問なのだ。————彼のプライバシーに関わる。そしてそのプライバシーに触れても良い程、溶け合ってはいない。
「何でもねぇよ」
嗣はふい、と逸らした。が、彼の腕を細い手が掴む。
「違う」いつもより少しだけ声を張り上げた。「嘘吐いてる、何かある」
琳邑の紫紺が潤んだ。それでも嗣はそっぽを向いたままだ。
「無えって!!」
嗣は罵り声を上げ、琳邑を振り切った。少女が地べたに這いつく。堪らなくなったチェンが怒鳴った。
「何キレてんだよ!」
「餓鬼にはわかんねえんだよ」
二人して唾を飛ばしながら怒鳴りあう。一歩も引かず、二人はギリギリと睨み合った。琳邑は何をして良いか分からず、呆然と見つめている。場は遊郭の立ち並ぶ大通り、多くの人目が集まっていた。

 その中で一声が響く。
「"なだ"だって?」
その音を耳にした嗣がピクリと動いた。直ぐ様に口論から離れ、彼は声を発した初老の男に詰め寄った。グラサン越しの黒目が逃げられない光を放っている。
「オッサン、何か知ってんのか!?」
「ああ、まあ……ちょいと前に抜けた遊女らしいのが先に居て——。確か名前が"なだ"だったなあと」
男は僅かに残っている薄い頭髪をかきむしりながら目線を横にやった。嗣は直ぐにそこへ躰を向ける。チェンが声を飛ばした。
「おいっっっ!」
嗣は無視だ。二人になど気を配らずに、彼は走り出した。
「嗣っ!嗣 !! 」
琳邑も叫び、彼を呼んだ。しかし、やはり嗣は応えない。そのまま走り、姿を消した。


 二人だけが残る。白髪の男の姿はもう無い。琳邑はその場にペタリと座り込んだ。チェンも緑の双眸にぼんやりと虚空を映して立っている。


 子供二人には理解できなかった。
 彼の行動も、何もかも。
 これからも、何もかも————。





「やっぱ、嗣変だったよ」
「まだ言ってんの?もう忘れろよ、あんな奴」
「でも……」
紫紺の水晶を沈ませ、琳邑は顔を膝に埋めた。隣に座るチェンが立ち上がる。
「これで、討幕派も敵に回ったし…………俺らに居場所は無くなったな」
臀部に付いた砂埃を払う。今後など一切考えていなかった。琳邑を連れ、妖魔をどの程度祓えるか——幕府から、討幕勢から逃げれるか————考えると肩が重くなった。


 だが、敵は二人に考える暇など与えてくれなかった。

 地面から青黒い皮膚が生える。角を生やした妖魔が涎を撒き散らせながら琳邑に覆い被さってきた。彼女の躰が発光し、妖魔を溶かす。チェンはブーツでその痕を踏みつけた。
 団子を口に頬張ったまま、琳邑の折れそうなくらい繊細な手を引く。
「行こう」
少年の言葉に少女は顎を小さく引いた。走った軌跡から次々に醜態を晒した妖魔が現れる。空いている右手に持ったナイフを的確に投げ、斬りつける。まず最初に目を潰していた。琳邑も理を使って破壊したり、再生を阻止する。だが、消耗が激しい。かれこれもう、一週間程休み無しに戦っているのだ。


 琳邑が荒い呼吸を散らす。背中に現れている光の羽が消えかかっていた。————力を使いすぎたため、限界に達してきているのだ。これ以上は無理だと察したチェンは琳邑を抱え、薄暗い路地に転がり込んだ。同時に腰に巻いていた布を遠くに放り投げる。視力を失った化物は迷わず嗅覚が捉えた方へと向かっていった。知能の低さに有り難みを感じ、チェンは身を潜める。気付くと琳邑は寝息を立てていた。理の操作による消耗は、睡眠を要するのだ。汗を滲ませ、苦しそうな寝顔の少女の額をそっと撫でる。こうしてみると、やはり彼女は人間にしか見えなかった。


————岩倉峰一も彼女を人として見ていたのかな。


対妖魔用人形兵器開発計画——通称、殲浄計画——の中心的人物だった岩倉は人一倍に琳邑に愛情を注いでいるように見えた。まるで父娘のように。
 やはり琳邑にはただ兵器としてだけは生きて欲しくは無い気がする。敵うならば、彼女の力を自分が全て受けとりたい。でも無理だ。だから、妖魔が居なくなったら、仙翁を倒したら、普通の少女としての生活を送らせてやりたい。不思議とチェンもそう感じられるようになっていた。


 周囲を見回し、人気がないのを確認する。安全だと思えたので、そっと琳邑を降ろし、壁に背中をつけて置いてやった。再度額を撫でて、今度は優しい囁きを渡した。
「ちょっと待ってて。俺、周囲見てくるから」
眠り姫は起きて返事はしなかった。だが、代わりにか、彼女は寝顔を少しだけ安らかにさせていた。チェンは安心し、彼女からそっと離れた。近くだけ確認できれば戻ってくる。

 路地からひょこりと頭を出した。警戒しながら、次に全身を現す。懐に入れてあった拳銃に手を伸ばし、安全装置を外した。両手で押さえながら、ゆっくりと足を踏み出す。人気の少なくなった通りを一望。よし、妖魔は去ったなと確信し、琳邑を連れ戻しに後ろを向いた瞬間だった。


 額に冷たい砲の感触————。

「Don't move(動くな)!」
中性的なテノールが、滑らかな英語で罵った。眼前で銃を向けるのは紅毛碧眼の青年。まだ二十歳を越えていないように見える、若い男だ。西洋に向いた顔立ちは彼が日本人で無いことを示している。
「And...You Listen to me(言うことを聞け)」
「————Ok,I see(ああ、分かった)」
チェンはこくりと頷いた。動くなと言われていたのだが、つい動いてしまったのに気づく。しかし、相手は優しいのか撃ちはしなかった。

 青年に言われるがまま、チェンは通りに出た。先に、長髪の男に抱えられている琳邑が見えた。理性が飛びそうになるが、抑える。
「入江殿、なんとか捕まえれましたね」
青年は片言な日本語で男に言った。長髪の男は微笑みながら頷く。目は閉じたままだ。
「[RIN-YOU]をこの手に押さえられましたからね。これで幕府に対抗できるでしょう」

————やっぱり、か!

 幕府に対抗できると言った。
 こいつらは、討幕派に間違いない。そして琳邑を利用するんだ————。感情が理性の錠を壊した。感情が溢れだし、少年を突き動かした。

 押さえていた両腕を振り払い、青年を押し倒す。
「キャッ!」
青年が驚きの声を上げた彼の腹部に肘を打ち付ける。しかし、チェンにばかり攻撃はさせない。青年が発砲する。鉛玉がチェンの右肩を傷付けた。

 しかし、少年の勢いは止まらない。チェンは青年を振り払って前へ突き進む。長髪の男目掛けて走った。
「時雨さん」
男の優しく芯の通った声色に、表情を歪ませた青年が返事した。
「は、ハィ!」
「彼女を頼みますよ」
そう言って背負いあげていた琳邑を投げる。時雨と呼ばれた青年は両腕で受け止めた。手ぶらになった男は刀を抜く。


————目を開く様子はない。
————この男、盲目だな!

長髪の男の目は全く開かれない。感情に身を任せながらも、チェンは感じ取っていた。先程から彼は男が聴覚を頼りにしていると見えた。

 だが、それに対する方法など考えてはいなかった。
 ただ猪突猛進。手にしていた銃の引き金を引いた。発射された弾丸が男に向かう。

 その一瞬がチェンにはスローモーションに見えた。枯草の長髪を靡かせながら、男は刀を振った。空中で横に斬られた弾丸が一瞬で速度を失い、地面に堕ちた。
「なあっ」
驚愕したが、余裕の無さを見せないためにチェンはナイフを手にし、斬りつけに走る。しかし、男は子供を相手にするように遊び半分で受け流していた。
「まるで、嗣のようですねえ」
男はにこにこと笑う。和服の袖と長髪をひらひらとさせながら、舞い、避ける。
「同じにすんな!!」
怒鳴ったと同時に腹部に衝撃が走った。次に頭部に痛み。脳震盪を起こした。チェンの視界が何重にも重なり、歪む。よろめいた躰が吹き飛ばされた。

 壁に激突し、ずるずると落ちる。長髪の男がその前に立った。チェンは僅かに残る意識で彼を見上げる。端麗な顔が、歪んだ笑みを生んでいるように見えた。哄笑を浮かべた唇が言葉を紡ぐ。
「幕府の狗には消えて貰わなくては、ですね————」
彼は凛と光る刃をチェンに突き付ける。

————こんなときに、何で嗣が居ないんだよ!

今までは邪魔に感じていた存在が、今は不思議なくらい必要としていた。彼の力が欠けるだけで、琳邑を守ることさえ出来ない。爪が食い込むまで、手を強く握り締めた。血が滲む。
「何で、何で何で何で」
少年が自分の無力感に慟哭する。叫びが轟いた。男はうんざりした顔を作った。
「何であの馬鹿、こんなときに居ないんだよぉッッ!! 」
叫んだ少年の腹部に何かが撃ち込まれた。朧になった意識を先に集中させると、紅毛碧眼の青年が拳銃をチェンに向けて整然と立っているのが見えた。銀の砲からは白煙が宙を畝って、出ている。銃弾が当たった腹部からは少し遅れてから出血が始まった。穿たれた孔から蘇芳の液体が溢れ出る。激痛と同時進行で意識が遠退いて行く————。


「…………チェン?」

青年の腕の中で、微睡みに浸る少女の虚ろな紫水晶が、倒れた少年を見据えていた。





【水無月、了】