複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.2 )
- 日時: 2011/03/09 23:35
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: tQGVa0No)
第一章 兵器と少女
世界の北端に位置する極寒の国家シアラフ王国。環境に恵まれていないのは言うまでもなく、さらに年中続く隣国との国境付近での小競り合い。その上、典型的な絶対王政の国で、平民は泥水をすするような生活を送っていた。
そんなシアラフ王宮の地下室に一人の少年がいた。コンクリート作りの部屋に地味な黒い服、その中で黄緑色の髪と真っ青な目だけが異様な存在感を放っている。丘で戦っていたあの奇妙な少年だ。さすがに刃と化していた右腕は元に戻し、返り血でべとべとになっていた服は着替えていたが、あの冷めた感情のこもらない目だけはそのままだった。
暗く冷え冷えとした、窓もない殺風景な部屋。ここが彼にとって戦場以外の唯一の居場所だ。兵器としてこの世に生を受けた彼にとっては。
少年の名はアレス。彼はこの長い歴史の中でも数人しか確認されていない先天性のノーテンスである。つまり、生まれたときから戦いを義務付けられているということだ。
しかし、彼の宿命はそれだけではない。アレスは、生物兵器なのだ。ただの生物兵器ならまだ良い。生物兵器はシアラフに千体以上はいて、特筆すべきことでもないだろう。だが、彼は数多くいる生物兵器の中でも圧倒的な強さを持つ完全体であった。
こうも呼ばれている。究極の兵器、シアラフの切り札、と。
少年の母親が、生まれてくる子がノーテンスであると知った時、この国の王は無理やり彼女を国の研究室に連行し、胎内にいる状態からその子を生物兵器にすべく、改造を施していった。
そうして生物兵器アレスは完成した。しかし、妊婦にそんなことをし続けて無事に済むわけがない。彼女は息子を産むとすぐに死んでしまった。生まれてきたわが子と、実験に協力する際、人質にとられていた家族のことをひたすら案じながら。
そんな少年も明日で十五。長かったのか、短かったのかはよく分からない。ただ、もう世間では大人と扱われる歳になるということだけは事実として残る。そしてその事実が、少年を——恐らく生まれて初めてではないかという——“苦悩”へと導いているのもまた事実。
この国には、先に記したようにおよそ千体の生物兵器がいる。さすがの政府もそこまでの面倒を見るのはバカらしく、十五歳になった者は独り立ちするようにしているのだ。もっとも、生物兵器で十五歳の日を迎える者は一部でしかないのだが。
とにかく、彼は明日を以ってこのコンクリートで囲まれた薄暗い地下室から解放されるということである。普通に考えれば、それは何の問題もなく、少年にとって喜ばしいことのように思える。誰だってこんな窓もない部屋に住みたくはないだろうから。
しかし、少年の心を占めている感情は“苦悩”なのだ。
理由は何か。答えは彼の生活にある。生物兵器は今の今まで家事なるものを行ったことがないのだ。
食料は必要最低限に調理された状態で与えられていた。
洗濯は籠に放り込んでおけば誰かが勝手にしてくれていた。
掃除もいつの間にか、されていた。
こんなだめ人間の一人暮らし——考えただけで身の毛がよだつ。
対策はある。全ての迷える生物兵器たちはこの手段を選ぶ。というより、これ以外に方法はないと言っても過言ではない。よく言えば規制のゆるい、悪くいえば“悪”の蔓延ったこの国だからこそ使えるこの手。
そう、奴隷を買うことだ。安い奴隷を買い、それに全ての家事をやらせる。生物兵器として戦場に出てもたいした金が手に入るわけではない。人一人生活するのに手一杯なほどだ。だから奴隷にはそれこそ“生かさぬように、殺さぬように”レベルの生活をさせる。それで何とか生きていけるということは先輩にあたる同類から聞いていた。
はっきり言ってアレスは一人のほうが好きである。それは彼以外のほとんどの生物兵器にも言えることであった。ずっと生物兵器だ何だと後ろ指指され、嘲られながら生きてきたのだ。当然だろう。
ただ、生きていくためならこのさえ手段は選ばない。そんな贅沢が言える状況でもなかった。
「先輩、入りますよ」
ベッドの上で眠りへと落ちようとしていたアレスは、どこからか聞こえる声にはっと目を覚ました。すると起き上がるのとほとんど同時に、暗い部屋へと光が差し込んできた。と、言っても部屋の外も大して明るいわけではない。蝋燭による微かな明かりがあるだけだ。それでも、ずっと暗闇の中にいたアレスにとっては十分に明るかった。
「あ、ごめんなさい。もうお休みになっていらしたのですか」
入ってきたのは銀髪の少年。髪はアレスより長く伸ばしていて、肩につくほどだった。着ている服はアレスと同じ黒い袖なしの服で、アレスよりもずっと白いその肌とは対照的であった。金色の瞳はほのかな、そしてまぶしい光の中で輝いていて、この監獄のような場所には不似合いであった。
「何の用だ? リューシエ」
アレスは少し不機嫌そうな表情で少年を睨んだ。普通なら、いつもの戦場にいる彼なら、もうこの瞬間にも目の前の少年の首を、その腕で、掻き切っていそうなほどの口調である。
それでも、アレスが少年に見せている表情は、寝起きに訳もなくへそを曲げる、幼い子どものようなものであった。
「あ、あの、先輩……」
「だから何だ? リューシエ」
アレスはベッドから立ち上がって、なかなか話し出さない後輩のほうへと一歩足を進めた。
そう、恥ずかしそうに手を後ろにやってうつむいているこの少年は、とてもそうは見えないが、アレスと同じく生物兵器なのだ。もちろんアレスのほうが強い。だが、このリューシエも、千体もの生物兵器の中ではトップクラスの、確実に五本の指に入るほどの優れた兵器であった。
「……アレス先輩!」
「な、何だよ、リューシエ」
「十五歳のお誕生日、おめでとうございます! と言っても、一日早いですけど」
リューシエは、はちきれんばかりの笑顔をアレスに向けた。最強の生物兵器の表情には明らかに戸惑いの色が現れる。リューシエは、元々生物兵器らしさからかけ離れた生物兵器であった。笑顔が綺麗で、戦場にさえ立たなければ、どこにでもいる純真な少年なのだ。
しかし、彼の生物兵器としてのプライドは、人一倍高かった。だからこそ、最強であるアレスを兄のように慕うのだろう。いつしか自分もその横に立ちたいと。
「さっき、町で焼き菓子買って来ました。一緒に食べませんか?」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.3 )
- 日時: 2011/03/10 21:28
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: tQGVa0No)
次の日の早朝、アレスは朝食を取るとすぐに城を追い出された。これから住むのは城から数キロメートル離れた山の中。コンクリート部屋とは真逆の開放的な空間。
新しい住処となる小屋に向かう前に、アレスは商店街を歩く。貧しいながらも活気に満ちた商店街。ただ、少年が来たことにより人々の声がピタリと止む。そしてほとんどの人がいそいそと家に戻っていった。当然である。彼は世にも恐ろしい史上最強の生物兵器なのだから。
そんな中、二十歳前くらいの男がアレスに近づいてきた。粗末な身なりである。少年と同じ黄緑色の髪で顔立ちもどこか似通っているが、優しげな碧眼だけは全く違うものだった。
「アレス……」
優しげな男はそっと少年の名を呼んだ。今ではほとんど使われないその名を。
だが、その柔らかい言葉とは裏腹に、アレスはひどく冷たい目をしていた。短気な彼のことだから、すぐにでも目の前の男を殺していてもおかしくないような殺気を放って。
「馴れ馴れしく呼ぶな。リョウ=レヴァネール」
「馴れ馴れしくって……。俺ら兄弟なんだからさ、それくらい」
生物兵器である弟の様子にひるまず兄がそう言うと、アレスは不機嫌そうに舌を鳴らし、左腕を刃に変えると、即座にそれを彼の喉元に突きつけた。遠巻きに見ていた人々から小さな悲鳴が上がる。それでも青年の眉は一つも動かず、少し悲しそうな顔をしながらも、澄んだ碧眼はまっすぐに弟を見つめていた。
「黙れ、リョウ=レヴァネール。俺に家族は不要。お前を兄と思ったことは一度たりともない。何度も言わせるな」
そう言うとアレスは腕を元に戻してその場を後にした。目的地はこの商店街ではない。商店街の先にある国内最大規模の奴隷市場だ。突然の兄の登場という意外な障害があったが、大して時間を割いたわけではない。問題はないだろう。
一方、残された少年の兄は去り行く弟の姿をずっと見つめていた。うっすらと、誰にも分からない程度だが、その目には涙が浮かぶ。母親は弟を産むと死に、父親もかなり昔に病で死んだ。アレスは彼にとって、たった一人の家族なのだ。だからこそ悲しい。もう何回目の失敗だろうか。ただ一度“兄”と認めてもらいたいだけなのに……。
「アレス」
つぶやいた言葉は商店街のざわめきに混じり、鉛色の空へと消えていった。
シアラフ国内最大規模を誇る奴隷市場。元は“カザック”というどこにでもある中規模の町だったが、数十年前から外国人による裏商業が蔓延り、現在に至る。一般のシアラフ人たちは絶対に入り込まない。子供の頃から「カザックには近寄るな」と親からきつく言われているのだ。
そんな奴隷市場の主な客はこの国の貴族達。もしくは、アレスのような生物兵器である。彼らの目的が何であれ、買われた奴隷達のほとんどは死ぬまで人間らしい生活を送れない。ペットよりもひどい生活の中、死んでいくのだ。もっともそれがこの国、いや世界の常識であるから気に掛ける者は少ないが。
奴隷市場に着いたアレスはゆっくりと辺りを見回した。薄暗い。それは天気だけの問題ではなかろう。メインストリートの両端にはみすぼらしいござが布かれていて、その上にはずらりと鎖で繋がれた奴隷達が並んでいる。その首には名前と値札。基本的に二十代から三十代ほど、もしくは十代の若い娘が一番高い。それから外れていけば徐々に安くなっていくようだ。
その奴隷達を貴族と思われる人々が気に入った者を選び出して買う。奴隷は必死で貼り付けた笑顔とともに新しい主人に媚びる。少しでもいい暮らしをしようとでもしているのだろうか。
(どうせ何にも変わらないのにな、いくら何をしたところで)
ふと、アレスにしては珍しくそんなことを思う。それはもしかしたら他でもない、自分自身に向けた言葉だったのかもしれない。大きく一度息を吐くと、アレスは市場を歩き出した。
「ねぇ、落し物」
——場違いなほど、鈴のように澄んだ声が聞こえた。
振り返ると、店の品物である少女がアレスに財布を突き出していた。肌は汚れてはいるが、よく見ると新雪のように真っ白で、腰に届くほどの黒髪は一本に結んでいる。年齢は十三、四歳だろうか。アレスよりわずかに年下のように見える。着ている服は他の女奴隷と同じ薄汚れた茶色の貫頭衣。それから片足にも他の奴隷と同じように鎖でつながれた輪がはめられている。
しかしそんな中でも、この少女の瞳だけは生き生きとしていた。
「……ん」
少女の手から財布を受け取ると、今度は落とさないようにしっかりとズボンのポケットの中に入れた。しかし財布は長く留まることもなく、またポケットから落ちる。その様子を見て少女は面白そうに笑った。
「穴開いてるね、そのポッケ。それじゃ落ちるよ。針と糸があれば私にも直せるんだけど」
その言葉を聞き、不機嫌そうだったアレスの表情が少しだけ明るくなる。もしかしたらこの少女は家事ができるかもしれない。法外な値段でなければ買おう。そう思い、ちらりと値札を見る。そこではっと少年は目を見開いた。
「名無し……?」
値札と共に下がっているネームプレートには、ただそうとだけ書かれていたのだ。
「あは……私、小さい頃の記憶なくて名前、分からないんだ。だから名無しとか数字とかで呼ばれるの」
力なく少女は笑う。明るく生きていこうとする彼女の強さと、それでも自分が何者か分からない悲しみが伝わってくる。その様子を見て少年は足元に目を落とした。兵器の彼でさえ名や記憶は持っている。もう一度少女を見た。青い目はまだ優しく透き通っている。
(強いな。現実を諦めて割り切ることもなく……)
きっかけはそれだけだった。
強く生きる奴隷の少女。彼女の生き方に憧れに近いものを、アレスは知らないうちに抱いていた。そして、自然と彼の手は財布に伸びる。若い女奴隷だけあって、決して安い買い物ではない。しかし、そんなことはどうでも良かった。そのまま迷わず金を引っ掴み、太った店長に渡した。ただ一言、
「あいつをもらう」とだけ言って。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.4 )
- 日時: 2011/03/15 18:14
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: tQGVa0No)
ところどころに返り血を浴びている少年が、白銀に染まった森の中を歩いていく。その姿はまるで絵から切り取って無造作に貼り付けたように、静かな、時間が過ぎていくことすら忘れてしまうほどゆったりとした、そんな森の景色と不似合いであった。
普通の人が見たら、血がついているというだけでぎょっとするだろうが、これでも昔から見ればかなり量は減ったはずである。彼なりに気を遣って生活しているのだ。
しばらく進むと、流れの急な川に出た。その前に立つと少年は着ていた黒い服を脱ぎ、ばしゃばしゃと音を立てながらそれを洗い始めた。ついでに自分も川に入り、腕や顔に付いた血を落とす。水温はかなり低いが、生物兵器として改造された彼にとってはたいしたことなかった。
やっと血が目立たないくらいになると、アレスは川から出る。そして体についた水を犬のように飛ばすと、乾いていない黒服を着て、さっさと森の奥へと進んでいった。
数ヶ月前までは当然のように王宮へ戻っていた。しかし実質追い出された今、その必要はない。帰るべき場所はあのコンクリートの部屋ではなく、王から与えられた山小屋。みすぼらしい家だが、彼はわりと満足している。
満足している理由。それはなんだろうか? コンクリートの暗い部屋からの解放。静かな場所での生活。
理由はいろいろとあるが、一番はあの少女だろう。
彼女は、アレスにとって初めての傍にいてくれる“人間”である。いくら自分の帰るべき小屋があってもそこに誰もいなくては昔のコンクリート部屋と大して変わらない。待っていてくれる人がいるから、家に帰る喜びはある。
少女に名前はなかった。自分で名乗りたいと思う名もないという。だからアレスは傲慢だと思いつつも、彼女に名前をつけた。はるか昔の、神々の大戦よりも昔の、ある神話に出てくる女神から取った名——エリス、と。
今、彼が生きている理由はエリスにあるといっても過言ではない。返り血を気にしていたのもただ少女に見捨てられたくなかったからだ。今では王よりも国よりも、世界よりも大事な人だけには絶対に……。
「ただいま、エリス」
アレスは穏やかな表情を浮かべて小屋に入った。玄関には几帳面に揃えたスリッパが置いてあり、先程まで火の側で暖めていたのか、冷えた爪先にじわりとエリスの優しさがにじむ。アレスは右手でそっとスリッパに触れた。自然と優しい笑顔が少年の顔に表れる。王宮にいたころは何があっても——たとえそれが一番心を許していた生物兵器、リューシエであっても——見られなかった顔だ。
「おかえり! もうご飯できるから、ちょっとだけ待ってね」
小屋の奥から、トントントン、という軽快なリズムと共に明るい声が聞こえてきた。アレスはスリッパに触れていた手を離す。その時、ふと悲しそうな顔をした。暖かさが手から失せたためではない。スリッパに触れて、暖かさに浸っていた自身の手。それは紛れもなく先ほどたくさんの人を殺した手だ。それも“山賊”の汚名を着せられた国の改革を願う志高い人々。
アレスは今でも自分が人間ではなく兵器だと思っている。それでは何故暖かさを喜ぶのか。その答えがどうしても出ない。
アレスは一度こぶしを強く握り締めると、何事もなかったように暖かい場所へと歩いていった。