複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.21 )
- 日時: 2012/03/10 23:15
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
素早く分かる(?)前回までのあらすじ
生物兵器アレスの実兄、反乱軍突撃隊隊長リョウ=レヴァネール。弟を兄として愛していた彼は、アレン王子への絶対的な忠誠のために弟を殺すと心に決め、その前に現れる。
生物兵器とノーテンス、その兄弟の戦いの中、止めようと間に入ったのはかの奴隷少女、エリスだった。 アレスによって深手を負ったエリス。その事実に耐えられず、少年はエリスを兄に託して戦場へと消えていった。
変革のハジマリ(三)
“王の兵器”アレス=レヴァネール。彼の突然の寝返りによって、反乱軍は最小限の犠牲で国王軍を打ち破ることができた。まだ国王軍の一割も倒せていないといえども、この様子なら無謀であった反乱も成功する可能性が出てきた。
初戦を快勝し、勢いに乗る反乱軍。陣営もうれしさで溢れ、どの顔にも明るい色が浮かんでいた。戦で大切なのは士気である。いくら強い軍でも士気が低ければ、敗戦の日を見る可能性は高い。それを考えると、今の兵達の様子は最上だろう。勝つと信じられればそれは何よりも強い力となる。それこそが国を変える力なのだ。
そんな活気ある陣営のテント群。その最端に位置する突撃隊隊長リョウ=レヴァネール専用のテント。中では今回の影の功労者とも言うべき少女、エリスが治療を終えて静かに寝息を立てていた。
テントの前には反乱軍突撃隊隊長リョウ=レヴァネールの姿。木製の柱に寄りかかり、がっしりとした腕は組んでいる。目は固く閉ざされ、その上、眉間には不機嫌そうにしわを寄せていた。
そんな中で、時折、目を開ける。しかし、それも束も間。何かを確認するように目を前後左右に動かすと、すぐにまた目を瞑って元の難しい顔に戻ってしまう。
戦勝ムードで浮かれている中でのその様子。しかも、それが何時間も続いているのだ。
リョウのことを熟知している幼馴染のティム=ウェンダムかバーティカル大公が気を回して一人にさせたのだろうか。いつの間にかリョウの傍には誰もいなくなっていた。
青年は、もう何度目か分からないため息をついた。そして勝利を祝うような、満天の星空に憂いのこもった目を向ける。
弟が、帰ってこないのだ。
あの後二人は離れ、アレスは確かにその場にいた国王軍を徹底的に壊滅させた。国王を裏切ったアレスは、何をどう考えても、もう国王軍には戻れない。しかも、こちらには彼にとって何物にも変えがたいほど大切な少女、エリスがいるのだ。
それでも、何時間経っても少年は帰ってこなかった。
弟の姿が閉じた瞼の裏に浮かび上がる。生物兵器だと、諦めきっていた彼が見せた人間らしい表情の数々。別れ際に生物兵器に戻ってしまったが、ほんの一瞬だけ、確かに彼は再び人間に戻り、言った。
——エリスのこと、よろしく頼む。
その途端、リョウは閉じていた目はこれでもかというほど、大きく見開かれた。組んでいた腕はだらりと力なく垂れ下がり、よく見ると小刻みに震えていた。
嫌な予感がしたのだ。よろしく頼む、という言葉の真意。それはこの戦闘の間ということではなく、もっと長く、ずっと続くような時間を意味していたのではないだろうか。
つまり、戻ってくる気はない、と。もちろん、国王軍に戻ることもできない。そうなれば、エリスもいない弟にとって残った選択肢は、一つしかなかった。
「馬鹿野郎……」
リョウは搾り出すようにつぶやくと、いてもたってもいられず、本陣を置いている森の奥へと入っていった。目指す場所は、アレスが住んでいる小屋である。前々から、どこの山に住んでいるかは知っていた。知っていて、一度も尋ねたことはなかった。理由は分かっている。恐かったのだ。また拒絶されることが。しかし、今になって考えてみると、それはただの杞憂であり、また、ひどく臆病で滑稽な話であった。
本陣からその山までは、ノーテンスであるリョウが全速力で走っても小一時間掛かった。ふもとは真っ白な雪原で、村らしいものは何一つない。そんなものだろう。少なくともこのシアラフに、生物兵器が、しかも、その中でも傑作と謳われる兵器が住む山のふもとに、住みたいと思う者はまずいない。それが分かっているから、国王もアレスをここに住まわせたのだ。
その、ふもとだった。ただひたすら走っていたリョウは、誰かがこちらに近づいてくることに気付いて立ち止まった。アレスかもしれない。リョウはじっと前を見据える。すると近づいてきた人影は、リョウが自分の存在に気付いたことが分かり、一気にその距離を縮めてきた。
「お前……」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.22 )
- 日時: 2011/04/24 23:35
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: MxRrFmUb)
——果てしなく広がる虚無感の中、アレスは何の目的もなく、自然と自分の小屋の前に立っていた。戦闘が終わった今、彼はもう兵器ではない。人間だ。目からはとめどなく涙が溢れ、心は大切な人を傷つけてズタズタになった、ただの、人間だった。
小屋のドアノブに手が伸びる。いつものようにひねり、またいつものように玄関へと足を進める。癖になった「ただいま」という言葉。のどまで出てくるが、口から出る前に噛み砕き、ただ歯軋りの音だけが聞こえた。
ふと、その時に彼は気付く。靴が、置いてあったのだ。シアラフ人は普通、家でも靴のままだが、エリスはそんなところには厳しかった。何があっても土足で上がるのを許さず、妥協、とでも言おうか。この小屋ではスリッパが強要されていた。
それを知っている人はほとんどいない。小屋に招いたことのある者は五人に満たないのだ。エリスが戻ってきたのか。一瞬そう考えるが、あれほどひどいことをした後だとアレスは頭を激しく振った。だいたい、それ以前の問題として、置いてある靴は男物で、しかも軍用であった。そうなれば、もう消去法。該当者は、一人しかいなかった。
「リューシエ……」
急いで小さなダイニングの扉を開くと、そこには案の定、よく知った銀髪の少年が椅子に腰掛けてひどく険しい顔をしていた。
「……何故、どうして」
リューシエは立ち上がって、いつもの穏やかな様子からは想像できないほどの剣幕で詰め寄ってきた。立ち上がった衝撃で椅子は音を立てて倒れる。しかしそれを彼が気にした様子は微塵もなかった。
「エリスが、反乱軍についた。だから——」
「——私はそんなことを聞いてるんじゃない!」
無気力な答えを聞くと、リューシエはアレスの胸元を掴んで、頬を思いっきり殴った。避けられただろう。アレスなら。その手を振り払い、逆に殴り返すことくらい、容易かっただろう。しかし、アレスはなされるがまま。リューシエはそのまま何度も殴った。
「何でこのまま反乱軍に身を寄せなかったんです? そうすれば、そうすれば私は!」
そこで、リューシエの手が止まった。顔は下を向き、振りあがっていた腕はそのまま力なく落ちる。こぶしにはアレスの血が付いていて、床へと滴り落ちている。もう一つ、地面へと落ちていく透明なものがあった。リューシエは顔を上げる。泣いていた。
「そうすれば私は、あなたを殺さずにすむ、のに……」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.23 )
- 日時: 2011/04/30 22:59
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: MxRrFmUb)
リューシエはそう言うや否や床に崩れ落ちた。両手をつけて何とか倒れこまずにいるが、小刻みに震えるその体は、仮にもトップクラスの生物兵器と呼ばれる存在からは程遠かった。
アレスは同じように床に座り込む。冷たい。隙間風が、床が、などとそう言う問題ではない。
そして、生物兵器は後輩から目を背けて口を開いた。
「なら、なら殺せよ。王の命令は絶対だろう? 何をためらうんだ。お前らしくない」
その言葉に、重みというものは全くなかった。ひたすら、どこまでも投げやりな言葉である。
そんな、どうでもいいとでも言うような言葉に、リューシエは顔を上げた。唇はわなわなと震え、何を言おうとしても言葉にならないようだった。こぶしをぎゅっと握り締める。長い爪が刺さり、そこからは血がにじみ出ていた。
それにも拘らず、アレスはある意味で非常にも言葉を続けた。
「殺してくれよ。頼むから。お前に殺されるんだったら、俺は——」
——皆まで言わせず、リューシエは立ち上がった。そしてすばやく右腕を巨大な刃に変化させる。一度、リューシエは大きく咳き込んだ。そしてそれと同時に刃はアレスのほうへと向かってくる。その最中、彼は再び咳き込んだ。それでもまっすぐに刃を突き立てる。見るとその手は血に塗れていた。
それは、アレスの血ではなかった。リューシエの刃はアレスの頭のすぐ左の壁に突き刺さっていた。一方、彼の咳は止まらない。口を押さえる左手は真っ赤だった。
「リューシエ、お前、限界が……」
アレスはそう詰まりながら言うと、立ち上がって両腕で何とか抵抗するリューシエを支えて、椅子に座らせた。その精一杯の強がりは、リューシエにしてはひどく弱々しいもので、アレスはさらに暗い表情になった。
彼の言葉にあった限界。そう、この少年たちには、限界なるものが存在する。生物兵器とて、元はといえば普通の人間である。そんな普通の人間が超人的な力を使うには、やはりそれ相応の代価がいるのだ。そしてその代価こそが彼らの命であり、限界というものだった。
どんな医学でも治療法は見つかっていない。この生物兵器研究の目的は、“神に愛でられし者”を人工的に作る事だったと言われている。当然、神はそんな人間を助けはしない。つまり、行く行くは確実に死に至る苦しみ。
それが、今のリューシエを襲っていた。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.24 )
- 日時: 2011/05/05 23:19
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: MxRrFmUb)
「……ださいよ」
「え?」
リューシエは荒い息の中で何かを言った。そして、息を整えようと大きく深呼吸をする。しかし全く意味はなかった。もう一度リューシエを発作が襲い、何度も苦しそうに咳をした。何とか持っていた布を当ててアレスに見えないようにするが、かなりの血を吐いていることは、その布から染み出ている赤い色から容易に分かる。
しばらくすると、それはやっとおさまった。その間アレスは、ずっとその背中をさすっていた。それしか、できなかったのだ。
リューシエは大きく息を吐き出すと、アレスを憎らしげとも、また、咳き込む苦しさとは違う、もっと辛そうな、別の表情で見た。
「先輩はまだ、時間、あるじゃないですか。……くださいよ、そんなにいらないなら、くださいよ。私は、まだ死にたくない!」
真っ赤な両手で顔を押さえ、何度もリューシエは「死にたくない」と泣き続ける。勝手な話ではあるだろう。この少年によって命を奪われた人はごまんといる。それでも、リューシエは泣き続けた。生物兵器としてはこれ以上もない醜態であり、自身が生物兵器であることに人並みならぬプライドを持っていたリューシエらしくなかった。
それほどまでに、自分の奥底の信念すらも変えてしまえるほど、リューシエには大切なものがあるのだ。
それが何か分からないアレスではない。いや、同じ生物兵器であるからこそ、アレスはリューシエの苦しみを多少なりとも理解することができた。
だが、何も言えなかった。苦しみを理解すればするほど、言葉はのどを通らない。こうなってしまっては、もうすでにリューシエの運命は決まっている。気休め程度の慰めなら、ないほうがいいのだ。
沈黙を破ったのはリューシエだった。息を大きく吐いて椅子から立ち上がり、別の布で顔についた血を拭う。そしてポケットから黒い手袋を取り出すと、無言で玄関のほうへ歩いていった。アレスは動かない。先程と同じように、未来のない後輩の背中を見続けている。
リューシエは黒い軍のブーツを履き終った時、やっと口を開いた。玄関から響いてくる声。表情は分からない。アレスは見送りに出る気力すらなかった。
「明日のこの時間にまた来ます。もし、また会える日が来るなら、私は今度こそ、ためらうことなくあなたに刃を向けます」
扉が閉まった後、小屋の中はただひたすら静寂に包まれた。
後輩がどんな気持ちで今の言葉を言ったのか。少年は少し考える。だが、結局は分からなかったようで、アレスは力を無くしたように壁へと寄りかかり、そしてそのまま床に座り込んだ。
リューシエが刺した壁の傷を手で触れる。棘が刺さった。わずかな血が流れる。しかし、そんな痛みは気にならなかった。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.25 )
- 日時: 2011/05/13 22:55
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: MxRrFmUb)
——リョウは、目の前に現れた少年を凝視した。
月の光を思わせる、緩やかに風を流れる銀髪に、切れ長で太陽のように輝く金の瞳。線は細いが、その体のどこにそんな力を秘めているのかというほどの、圧倒的な存在感。
知っている。リョウはベルトに付けていた折りたたみ式の棒に手をかけた。
「リョウ=レヴァネール殿、ですね?」
「そうだが、何のようだ? “銀露”のリューシエ」
リョウは相手の丁寧な口調にもかかわらず警戒を解かない。この少年が兵器であることは知っている。いや、リューシエという名前としてではなく、“銀露”という通り名のほうでは、リョウだけではなくこの国の大半の人間が知っているだろう。
銀露。その美しい朝露のような見目や立ち振る舞い、戦いなどから、彼は国内外でそう形容されている。その優雅さゆえに兵器としての貴族からの人気は絶大で、また、どの兵器よりも人間らしいその性格は、兵器嫌いで有名なバーティカル大公爵家からも一定の評価を得ていた。
だが、その美しすぎる魂は、何者にもなびかないとも言われている。
彼の王家への忠誠心。他の生物兵器と違って、彼は生物兵器だから、義務だからなどというつまらない理由で戦っているわけではない。それゆえの忠義。揺らぐことは決してない。
だからこそ、一般の国民からの評価は最低でもある。彼らからすると、己の意思で戦う生物兵器は、義務で戦い続けるよりずっとたちが悪いものだった。
そして、それが分かっているからこそ、リョウは警戒を続けているのだ。
そんなすでに臨戦態勢に入っている彼の前で、リューシエは突然黒い軍用の靴を脱ぎはじめた。リョウの顔には明らかに動揺が走る。
それに構わずリューシエは、さらに靴下までも放り投げ、白く冷たい地面へと素足をつけた。極寒の地であるシアラフでは、土下座と並んでこれが一番屈辱的なこととされている。いくら生物兵器とはいえ冷たいだろう。それでもリューシエは眉一つ動かさなかった。
「お願いがあります。どうか、どうかお聞き届けください」
唖然とするリョウに、リューシエはそう言うと深々と礼をした。
普通なら、敵である彼の言うことに耳を傾ける義理はない。しかし、どうも様子が違うことは彼にも分かっていた。
生物兵器としての彼のプライド。その高さはリョウも知っているし、世間でも有名な話である。だが、今はどうだろうか。敵である人間にここまでしている。リョウは表情こそ崩さないが、棒からは手を離した。
「……言ってみろ」
戸惑いながらのリョウの言葉に、リューシエは顔を上げた。その顔には感謝の色がこれでもかというほど浮かんでいる。
「先輩を、アレス先輩を、お願いです、お願いですから、許してあげてください」
「は?」
予想外の願いに、リョウは目を白黒させた。てっきり、どう考えても無理な、軍事上の頼み事をされるものだと思っていたのだ。リューシエはそんなリョウの様子に構わず続ける。
「お願いです、どうか、どうか。あの人を、許してあげてください。私は、先輩を殺したくない……」
リューシエはそこまで言うと、雪が積もって真っ白になった地面に膝を付けて、土下座でもするかのような姿勢になった。リョウは慌ててリューシエを立たせようとする。だが、彼は応じなかった。
「死なせたくないんです。あの人には、生物兵器の力なんかに頼らないでも生きていける先輩には、生きて欲しいんです。お願い、します」
声は震え、言葉はところどころで詰まり、目からは大粒の涙が出ている。誇り高い少年からは想像もできない様子であった。
今度こそはと、リョウは力ずくで少年を立たせる。そしてその目をしっかりと見て、一度はっとしたような目をしたが、すぐに微笑みにかけて、その見事な銀髪を撫でた。
「許すも何も、リューシエ。俺は弟を連れ戻すためにここにいるんだ。あいつが今までしてきたことが何だ、生物兵器が何だ。俺は気にしない。俺はアレスの兄貴だ。いつでも、いつまでも、あいつの味方だよ」
リューシエは目を見開いて、それからほっとしたように目を細めた。満月の光が降り注ぐ。月の光に照らされたリューシエは、これ以上なく美しかった。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.26 )
- 日時: 2011/05/18 23:36
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: MxRrFmUb)
「そう、ですか。何だ、私のただの杞憂だったんですか。ハハ、ちょっと恥ずかしいですね。でも、よかったです。先輩も、いい家族に恵まれているようで」
素直に顔を赤くしてはにかむリューシエ。リョウはいつもの優しそうな表情であった。だが、その中でもう一つ、目だけはわずかに影を落としていた。ほっとして、安心しきったリューシエはその違いに気付かない。リョウはその表情のまま、彼の澄んだ瞳をじっと見つめた。
「アレスの弟分なら、俺から見れば、お前も弟の一人だけどな。まったく、何故か知らないが俺には手の掛かる弟ばかりだ」
「私も、手が掛かるんですか……」
リューシエは苦笑いをして少し無念そうに自分を指差した。生物兵器として、今まではずっと優等生で来たのだ。手が掛かるなどといわれたのは、正直今がはじめてであった。
その様子に、リョウは不意に真剣な表情になった。
「……お前さ、もう戦うな。分かってるだろう? 遅かれ早かれ、死ぬぞ」
「……何だ、手が掛かるって、そんなことですか」
リューシエは空を見上げて悲しそうに微笑んだ。冷たい風が少年の銀髪をゆっくりと抱き寄せる。その儚げな様子からは、もう自分の運命を受け入れていることがよく分かった。しかし、リョウはそれでも退かずに言い続ける。
「生物兵器のガタはいくら俺でも治せない。でもな、その力を使わなければ、多少なりとも命を延ばせる。こっちへ来い、リューシエ。反乱軍に。それで戦わずに、ひっそりと暮らして、ちょっとでも長生きしろ」
必死だった。つい先程まで敵視していた少年である。しかし、そんなことはリョウにとって些細なことでしかなかった。アレスの弟分なら——確かにこれも理由の一つだろう。ただ、それ以前に、彼の中にある医者としての矜持が、見殺しにすることを決して許さなかったのだ。
しかし当のリューシエは、説得の最中もただぼんやりと空を眺めているだけだった。話を聞いていないわけではないが、リョウの目を見ようとはしない。そしてやはり目を合わせないまま、淡い雪のような声をつむぎ出した。
「リョウさんは、優しいですね。でも、私にも生物兵器としての誇りがあります。王家のために戦って散る。……私は、元々生体実験用の奴隷だったんです。兄も姉も父も母も。全員売り飛ばされ、もう生きてはいないでしょう。その中で私は、シアラフ王家に売られて、生物兵器に改造され、今こうして生きています」
無念そうではあった。彼が生物兵器になったのは七歳のときである。そのため、離れ離れになった家族の顔は今でも鮮明に覚えていた。過酷な戦いの中で、その記憶がどれだけ大切だったか。そして大切であるが故に、今を生きているということが彼にどんな影響を与えているか。
リューシエはリョウを見る。強い目をしていた。
「哀れんだり、可哀想だなんて思わないでください。私は今、これ以上ないくらい、幸せなんですから」
そう言って微笑むリューシエの顔を見た時、リョウはやっと悟った。何を言っても無駄であることに。
しかし、哀れむなと言われても、可哀想だと思うなと言われても、置かれている境遇が違いすぎて、リョウはどうしてもその気持ちを理解することができなかった。
リョウの当惑を感じ取ったのだろう。リューシエは、ほう、と白い息を宙に吐き出すと、やっとリョウを見て言葉を続けた。
「でも、死にたくないのも、事実ですよ。私は、まだ生きていたい。でも、誇りだけは捨てたくない。そうしたら、私は、自分を保てなくなって、狂ってしまうと思うんです」
狂う。その言葉の意味について少し記しておく必要がある。
生物兵器に改造する際、必ず表れる副作用がある。それが、精神を病んでしまう、ということだ。改造の手術は荒療治で、とても普通の人間に耐えられるものではない。だから、生物兵器は多かれ少なかれ皆、精神的に弱い。そして日ごろの戦闘や生活での些細なことの積み重ねで、完全に狂ってしまう兵器が後を絶たないのだ。狂ってしまったら完璧な兵器とは言えず、それをリューシエは恐れていた。
「何か、俺にできることはないか?」
「残念ながら。これは私の問題ですから。……あ」
言いかけてリューシエは何か閃いたように小さく声を上げた。すぐに「何でもないです」と訂正するが、もう遅い。リョウはそれを聞き逃さなかった。
「何だ? できることがあるなら言ってみろ。さっきも言ったようにお前は俺の弟だ。ほら、何でも言ってみろよ」
リューシエは困ったというような顔をしていたが、ついに決心したようにリョウを見た。
「あのですね——」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.27 )
- 日時: 2011/05/28 23:25
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: o93Jcdrb)
その小屋の周りはずっしりと雪が積もっていて、除雪された様子もなく、まるで訪ねてくる者を拒むようであった。
小屋の窓からは弱々しい光が、白く曇った窓の向こうからひっそりと漏れている。人がいると唯一思える形跡は、そんな今にも消えてしまいそうな寒々としたものだった。
玄関の戸を開けたリョウは、その小屋の様子に感心する。おそらくずっと前に焚かれていたのだろう。シアラフに生える木から作る香がわずかに漂ってきた。そして玄関の棚の上には、シアラフではほとんど見ない桃色の花が小さな素焼きの鉢植えに植えてあり、微笑を浮かべながらめったにない訪問客を出迎えている。——エリスだろう。この粗末な家にあってもなかなか粋なことをすると、リョウは思わず微笑んだ。
靴を脱いでスリッパに履き替え、小屋の短い廊下を過ぎる。その短い間でも暖かな生活の痕跡が所々に見られた。半開きのドアからわずかに明かりが漏れている。微かな光に導かれるように、リョウはその突き当たりの部屋に入った。おそらくダイニングなのだろう。明かりは暖炉のもので、とっくに燃えさしにかかっていた。だが部屋を見渡すと、案外鮮明にいろいろなものが見えてくる。
そんな部屋の奥だった。リョウの視線はその一点に集中する。弟がいた。部屋の隅で座り込みながら驚愕の念と共に兄を見ている。その後ろの壁には刃物の傷があり、わずかにだが血の飛び散った跡があった。
「……兄さん」
アレスはかすれた声でうわ言のようにつぶやく。少しの間があった。二つの視線が声もなく交差する。だが、ほんのわずかな時だった。アレスは兄から目を逸らす。そして、そのまま俯いてしまった。
「アレス、帰るぞ」
リョウはゆっくりと弟のほうへと近づいた。わずかな明かりの中で顔はそれと分かるほど輝いている。だがその一方で、アレスは依然として暗い様子のままだった。
「俺の帰るのは、ここだ」
俯いたままだった。吐き捨てるような言葉。兄を突き放そうとしたのだろうか。確かについこの前までならそれで十分リョウを退かせることができた。だが甘い。一度分かり合う希望を見つけたのだ。リョウの表情は弟の言葉とは逆に、さらに決意の強いものになっていた。
「帰る場所ってのはな、アレス、帰りを待ってる場所のことを指すんだよ」
「……兄さんがいるだけじゃないか」
「あー、残念ながら俺ももれなく付いてくるな」
“だけ”という言葉に少なからずショックを受けつつ、リョウは自分の頭をかきながら言った。するとアレスはやっと顔を上げる。涙こそ見えないが、その顔は薄暗い中でもすぐに分かるほどくしゃくしゃに歪んでいた。
「兄さんじゃ、意味がない。俺は——」
「——エリスもいる。こっちにはエリスがいるだろ、このバカ!」
「そのエリスを! 俺は、傷つけたんだ。もう俺がいるのは“ここ”しかない」
その言葉に、リョウの感情は爆発した。
思いっきり頬を殴られたアレス。先程のリューシエに殴られた後と相成って、彼の身体は傷だらけだった。
その、リューシエの思いを知っているからこそ、リョウは我慢ができなくなったのだ。
ここ——つまりそれは、待っていればそのうち誰かが殺してくれる場所、を意味しているのだ。“誰か”は、もちろんリューシエを指す。
あの誇り高い少年が、人前で醜態を晒してまで、生かそうとした命である。もう自分の命が長くないことを知って、それでもなお、くだらない嫉妬に流されることなく守ろうとしたのだ。
それを捨てて、生から逃げ、ただ惰性的に死を待つ弟。リョウは静かに手袋を外した。
「……もういい、ああ! もういいさ。話し合いの余地なんかないな」
リョウのあらわになったがっしりとした手から青白い氣が溢れ出す。ノーテンスの印がその中ではっきりと見えた。それを見たアレスは一瞬驚いた表情をするが、次の瞬間には観念したように、いや、安堵した表情になっていた。
リョウは舌打ちをして、それから悪戯っぽく笑った。
「——気絶させてでも連れて帰ってやる!」
——その時だった。
開けっ放しだった部屋のドア。その向こうから不意に冷たい風が入ってきた。
そしてその風と共に美しい少女は、薄暗い部屋へと転がり込んだ。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.28 )
- 日時: 2011/06/08 23:25
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: o93Jcdrb)
「待ってリョウさん!」
少女は、部屋に入るなりドアの前で座り込んだ。手を床につき、肩はせわしなく上下している。先の戦いでの傷が痛むのか、片手で腹を押さえていた。背中には輝く大きな翼。氣術だろうか。ここまでは走ったのではなく、飛んできたようだ。その証拠に、長く使用された翼は力を失ってぐったりとしていた。
その美しい純白の翼は徐々に消えていく。それとは逆に、エリスの体力は幾分か回復したようで、彼女はその美しい顔を上げ、ただ一人何よりも大切に思っている少年を見つめていた。
「エ、リス、何で……」
アレスはただそうとだけつぶやくと、震えながら、エリスから逃れるように座ったままずりずりとその場から動いた。白い息が絶え間なく霧のように出ては消える。青ざめた顔はエリスから逃れるようにすばやく横に向く。そこには、何の因果かリューシエの刃の跡があった。
そんなアレスを見て、エリスは何とか立ち上がった。部屋は決して広くはない。だが、少年との距離は妙に長く見えた。ゆっくりとした時間が流れているように感じる。少女は走った。迷うことなく、一直線に。
そして——座り込んで少女を凝視している少年の胸に飛び込んだ。
言葉はなかった。一言たりともなかった。ただがむしゃらに、苦しいほど少女は生物兵器を抱きしめていた。
それを見ているリョウは、こちらも何も言わなかった。その表情は場違いなほど穏やかで、安堵しきっていた。だが、こぶしは強く握り締めている。結局最後は力づくという手段を選ばざるを得なかった。そのことを、気付かないうちに心のどこかで思っているのだろう。
「まだ、まだ、俺の傍に、いてくれるのか……」
エリスの思いは、言葉に出なくても、アレスはその体温や抱きしめる腕の力、震え、その全てから感じていた。その目には、今晩初めての涙が浮かぶ。とめどなく流れるそれを、無理に止めようとはしない。もはやその必要もなかったのだ。
「生物兵器でもか、俺が、戦うことしか、傷つけることしか、できなくてもか……」
アレスの言葉に、エリスはうずめていた顔をさっと上げた。目は充血していて、頭を小刻みに横に振っている。そのたびにゆらゆらと左右に振れる黒い髪は、この薄暗い中でもそれと分かるほど美しかった。
「そんなの、アレスだけじゃない。違う、私だって! 私だって、アレスと会うまでは——」
——戦うことしかしてこなかった。