複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.31 )
- 日時: 2011/06/15 22:42
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
物心ついたときから、少女は奴隷だった。奴隷兵士、だった。
奴隷兵士。
それはその名の通り戦いのために売買され、意思とは関係なく剣を握らされる人たちのことである。傭兵とは違う。そこには危険に見合った報酬も、拒否権も、最低限の自由すらなかった。
物心ついた時、と言っても少女は記憶喪失であった。最初の記憶は、奴隷商人の牢だという。
そこまでを、エリスはとつとつと話した。アレスの厚い胸板から離れて、軋む床に足を崩さずに座り込んでいる。表情を何一つとして変えない。彼女にとって奴隷兵士であった事実は変えようのないことである。だから、彼女はしっかりとそれを受け入れて、もっと言えば、どうしようもないことと割り切っていた。
そこまで聞くと、リョウは静かに部屋を出た。理由は何も述べない。自分が入り込んでいい話ではないと、何となく感じ取ったからだろう。リョウが消えた暗い玄関からは冷たい風が入ってくる。すると、すぐ木製の扉が静かに、だが重い音を立てて閉まるのが聞こえた。
そして、小屋の中は二人きりとなった。
「……記憶がはじまってからそんなにかからなかったと思う、私は初めて戦場に立った。九年か、八年前だったかな」
そう言いながらエリスはアレスの隣に座った。先程とは違い、足を崩している。
隣。意図したわけではないだろう。だがそれは、ちょうどリューシエが付けた傷をすっぽりと隠すようであった。
一方で、アレスは何も言わない。何も言わずにその視線はエリスの白く細い手に向いていた。
「すごく恐くて、戦場を逃げ回ってた。でも、年長の奴隷兵士にね、怒られた。役に立たない兵士は殺される。戦わないと、後で雇い主に叩き殺されるって。だから、前を向いてね、戦場を見て、それから、ね」
「……もういい、もういいから、エリス」
エリスの声は、徐々に震え始めていた。いくら割り切っても消し去りたいほど嫌な記憶は、しつこく影のように付きまとう。それは誰よりもアレスはよく理解していた。だからこそ、彼は少女の話をそこで遮ったのだ。
少しの間、少女は俯いて何も言わなかった。だがアレスの気持ちも虚しく、エリスは一度つばを飲み込むと、少年の手に自身の掌を重ねて、再び口を開いた。
「……自分の力に気付いたのも、やっぱりその戦場だった。周りとは比べ物にならない力、それから、バラバラの言語で響き渡る断末魔。何を言ってるのか、私には、全部分かった。おかしいって、自分でも分かった。並外れた身体能力も、並外れた言語能力も……バケモノだって自分でも分かってた」
震える声でつむがれる言葉の数々。一つ一つ積み重ねられるごとに、アレスはエリスの言わんとすることが分かってきた。信じられない。顔はそう語っていた。だが、先程の戦場でエリスが見せた疾風のようなスピード。あれは常人のものではなく、嫌な想像は次第に確信へと変わっていった。
「……エリス、お前」
「そう。ごめんね、アレス、黙ってて——」
エリスは重ねた手をぎゅっと握った。薄い窓ガラスを、風がガタガタと叩く。
「——私も、ノーテンスなんだ」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.32 )
- 日時: 2011/06/24 23:33
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
アレスはその言葉を聞き、自身の顔を片手で覆った。エリスがどんな顔をしているのか、彼は見ようとしなかった。ある意味正解で、またある意味では失敗だった。エリスは、天井を見上げて、その頬には一筋のしずくが流れていた。
「何で、何でお前が……」
「ごめん、ごめんね。こんなバケモノみたいなの、アレスには知られたくなかったから、だから」
「違う、違う! そういう事じゃない。そうじゃなくて」
うまく言葉が出てこなかった。話下手なのをこれほどまで恨んだことはない。いくつも、いくつもいくつも、いくつも、言葉を紡ぎだそうとした。だが、出てくるのは所詮ただの白い霧。目の前に現れては霧散する。
そんな時になって、アレスはやっと先程の指先の痛みを感じた。さらにエリスの背が隠しきれなかったリューシエの赤い血に目が映る。
そうして、やっと思いが色を帯びた。
「戦いは、戦場なんて、俺だけで十分だ……」
万感の思いが、胸から、そして喉から、搾り出されるようにして出てきた。
誰に向けたのか。エリスだろうか。もしかしたら、誰より美しい心を持った後輩かもしれないし、誰より深く広い優しさを持った兄かもしれない。
ノーテンスにしろ、生物兵器にしろ、それは戦うことを義務付けられている、という運命を持つ者たちである。そんな渦の中にエリスやリョウ、それからリューシエがいるのを、アレスは認めたくなかったのだ。
「アレスは、優しいね」
「やさ、しい?」
エリスは不意にポツリとつぶやく。それに対して少年は、一音一音を確かめるように聞き返した。
「アレスは私を、戦う道具と見ない、この力を知っても。柵を壊して、奴隷兵士から解放してくれた」
その言葉に、アレスは何か心にかかる部分があったように感じた。しかし、それが何かは分からない。その間も、エリスは続ける。
「だから、私は国王を倒して、アレスを自由にするの。それで生物兵器も、ノーテンスも関係なく自由に暮らしたい。そのためだったら、私は何度だって武器を取れる」
エリスは、そう言ってまぶしいほどに笑っていた。アレスはそこで気づく。先程自分が感じた何かを。
同じだったのだ。彼が少女を奴隷兵士と見ず、さらにそこから解放したことと、彼女が少年を生物兵器と見ず、また“王の兵器”から心を解き放ったことは。
だからこそ。アレスは口を開いた。
「エリス、大丈夫、大丈夫だから、反乱なら俺が成功させる。戦いなら俺がする。だから、お前は戦わないでくれ、戦うなんて、言うなよ。俺が守るから、ずっと……」
アレスは必死で訴えた。もうこの少女を傷つけたくないという思いからであろう。“守る”その言葉は、彼が口を閉ざした後でもその目から痛いほど伝わってきた。自分が彼女の分まで宿命を背負うという決意と共に。
だが、エリスは首を縦には決して振らなかった。もの儚げな微笑が、少年の心を射る。
「やっぱり、アレスは優しい。でも、二年も私は運命から、ノーテンスから逃げた。もう逃げないって決めたの。アレスにだけそんな重いものは背負わせない。一緒に背負おう。今まで、それから、これからの義務を、罪を」
エリスはそう言いながらアレスの硬い両肩を掴み、そのまま身を彼に預ける。突然の出来事に、アレスは声を発することができない。エリスはにっこりと笑って彼を見つめた。そして——
静寂の中、アレスは少女を優しく抱きしめることしかできなかった。