複雑・ファジー小説

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 緋色の軍人 ( No.41 )
日時: 2011/08/06 00:08
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 何にも代えがたい優しい時間の中、“その時”は、突然やってきた。
先程、キャン達と別れたところから数分歩いた同じ街道。ずっと変わらない様子で歩いていたシンが、ふと止まってリョウの手を離した。リョウは突然の手の冷えに驚いたようで、持っていた買い物袋を落としてしまった。
 いつもなら、苦笑を浮かべながら一緒に荷物を拾ってくれるシンの手はない。その代わり彼は、背負っている大剣の柄に手をかけていた。

「隊長? 何が……」

 リョウは荷物を拾おうと屈んでいたが、さすがに師の様子がいつもと違うことに気付き、きょろきょろと辺りを見回す。しかし、彼には何が起きているのか全く分からない。
 いきなり、シンは大剣を目にも留まらない速さで引き抜いた。積もっていた雪が、その風圧で舞う。
 白い地面には、茶色の折れた矢が数本落ちていた。

「さすがに、そんなものでは死なないか。天才軍人シン=ウェンダム」

 誰もいなかったはずの街道。そこに突然、一人の男が現れた。三十代前半くらいだろうか。真っ白な景色に溶け込んだ白装束。腰まである長い髪も染めたような不自然な白色で、持っている弓まで白く染め上げている。その中で、狂気を感じる赤い目だけが、異様な存在感をかもし出していた。

「何者だ? 貴様」
「さぁ? どうでもいいじゃないか、そんなこと」

 男は持っていた弓を捨て、腰の剣を抜いた。その隙にシンは先制攻撃を仕掛ける。かなり大きな剣だが、シンはそれをまるで短刀のように扱う。ノーテンスと一般人の身体能力は比べようがない。ありえないことを現実にする。それが“神に愛でられし者”。しかも、同じノーテンスの中でもシンの能力はずば抜けているのだ。それが彼の“天才”たる所以。
 しかし、それで殺されるような刺客ではない。シンの初撃を大きく跳んで避け、ある程度の間合いを取る。そして体勢を整え、シンと同レベルの速さで間合いを詰めた。

「貴様、ノーテンスか?」
「死に逝く者に教えることなど、何一つない」

 そこからは二人とも激しく剣を繰り出し続けた。最初のうちは互角に見えた彼らだったが、途中から男の動きが鈍くなった。シンはそれを逃さず利用し、刺客の腹を斬り付ける。致命傷とまではいかなかったが、もう今までのように戦うことはできないだろう。普通なら、これでシンの勝利は確定していた。

「シン=ウェンダム。たしかに強い。が、これならどうかな」

 男は隠し持っていた白い五本の短剣をシンに投げつける。もちろんそんなものを食らわない。軽々とシンは避けたが、男はその隙に、後方に下がっていたリョウのほうへ駆けた。シンが短剣を使った攻撃の目的に気付いた頃には、もうリョウの前にはあの男がいた。シンは必死でリョウのもとへと走る。男は一度だけ、シンを見て笑う。
 そして——リョウの頭上で男の剣が振り下ろされた。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 緋色の軍人 ( No.42 )
日時: 2011/08/30 22:15
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 その頃、町に戻ったキャンとティムは最近できた雑貨屋で妹への土産を選んでいた。
 赤いピン留めにするか、それとも赤いヘアゴムにするか。どちらも値段は同じ。しかも自分達は使ったことがないため、二人とも大いに悩んでいた。

「なぁ、ティム。ちょっと待っててくんない? 戻ってどっちがいいか聞いてくるよ。こんなんじゃ埒が明かん」
「でも、キャン兄さん。シン兄さんも分かんないんじゃないの?」

 ため息交じりの兄の言葉に、ティムは品物から目を離さず言った。
 彼らの兄、シンは武術と料理に関してのセンスはずば抜けているが、ファッションセンスは皆無である。その血は実は先祖代々のものだとキャンは昔、父から教えられた。その父のセンスもおぞましいものだった記憶がある。

「ばーか。たしかに兄貴じゃだめだけど、リョウに聞きゃいいだろ? あいつはファッションについて多少の——まあ、俺達以上の——心得はある」

 ちなみに、キャンの言葉について補則を入れておくと、リョウのファッションセンスは“自分達よりまとも”というレベルではない。彼はいろいろな意味で天才なのだ。料理に家事、そして医術と戦闘……リョウの特技は挙げたらきりがなく、ファッション関係もその例外ではない。
 言ってしまえば、キャンの先ほどの言葉は負け惜しみと言うところだろうか。弟のティムは兄の負けず嫌いな性格をしっかり理解しているようで、商品から目を一度だけ離して微笑んだ。

「リョウ兄がうちにいてよかったね。兄さん」
「……じゃ、すぐ戻ってくるから」

 弟の毒気ない笑顔に、兄は少し苦い顔をする。どんな人間でも、弟妹のほうが大人だと感じてしまった瞬間は悲しいものだ。
 キャンは決まりが悪そうに頭を左手で掻き、それから店を出た。この選択によって己の人生が大きく変わることに、少年はまだ気付いていない。
 にぎやかな町から兄達のいる寂しい街道へと、キャンはオレンジ色の髪を風に流しながら全速力で走っていった。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 緋色の軍人 ( No.43 )
日時: 2011/09/03 23:16
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

「リョウ!」

 男が目の前に立って死神の重い足音を確かに感じた時、リョウにできたことはただ一つ。目をつぶることだけだった。足が震える。抵抗もできない。無駄なことはよく分かっているのだ。

(あぁ、死ぬんだな……)

 自分でも驚くほど冷静でいられた。大好きな師に名を呼んでもらったからだろうか。その声を抱いたまま死ねるからかもしれない。
 しかし、どんなに待っても痛みはない。即死だったのかとも思うが、まだ足は地面についている。そっと目を開けると、そこには自分のほうを向いて優しく微笑む隊長の姿があった。いつもの澄んだ黄緑色の目。美しさに吸い寄せられるように、リョウはつぶやいた。

「……隊長?」
「謀られた、かな。タイミング的にも何にしても、こうしないと君を、守れなかった。でも、リョウが無事で、よかっ……」

 シンは静かに崩れ落ちた。時間が止まったかのように感じる中で、赤い血だけが確実に辺りを赤く染めていく。

「シン=ウェンダム。所詮、こんなものか」

 刺客はつまらなそうにつぶやくと、シンの血で赤く染まった剣を呆然とする少年に向けた。

「さぁ、終わりにしようか」

 リョウの足の震えが、止まる。いつのまにか、少年の中から恐怖は消えていた。残ったのは薄汚い感情。“殺す”、そのことだけが彼の心を支配している。
 リョウはかばんの中からすばやく携帯用の棒を取り出した。護身用としていつも持ち歩いているそれ。彼の父親が作ったもので、贈り物らしい贈り物はそれしかない。リョウにとっては父親の唯一の形見とも言えるものだ。
 リョウが抵抗しようと武器を構えたのが可笑しかったのか、刺客は高らかに笑った。ぞっとするほど耳に突き刺さる冷たく高い声。そして剣の切っ先を彼に向けると、まっすぐに走ってきた。
 リョウの視界は涙で曇っている。しかし、不思議なほど、その動きは読めた。見えなかった男の速さに体がついていく。彼の右手の甲には、ぼんやりとだが、たしかに黒い、槍のような形をした紋章があった。

 ノーテンスとしての覚醒。それは、本人が気付かないところで起こっていた。

 リョウは自分のほうに奔ってくる刃を紙一重でかわし、棒で刺客の腹を狙った。シンがすでに傷を付けている。そこをもう一度突けば勝てると、彼は思ったのだ。
 しかし、甘い。この男とは、天才の名を持つシンだからこそ互角以上に渡り合えたのだ。それに比べてリョウは、まだ覚醒して一時間も経っていない新米のノーテンス。自身の力に振り回されていると言う言葉がしっくり来る。いかに手負いの相手とはいえども、勝てるはずがなかった。
 当たり前のように、腹を狙った棒は虚しく空を切った。リョウは突如消えた男を探そうと、辺りをすばやく見渡す。しかし、いない。追い払えたのかと、リョウは少し気を抜いて、倒れている師のもとへ向かおうとした。
 その時、少年は背後に何とも言えない冷たさを感じた。振り返るまでもない。すぐ後ろに、いなかったはずの男はいた。男の剣はリョウの胸に向かって放たれる。誰かの血を吐くような叫び声が聞こえたような気がした。彼のそんな辛そうな声を聞いたことがなかったリョウは、一瞬確信が持てなかったが、たしかにそれは師のものだった。
 シンの願いが通じたのだろうか。剣が少年の胸に突き立てられようとした時、突然この雪国であるシアラフではありえないような砂嵐が発生した。薄茶色の壁がリョウと刺客の間に作られ、攻撃を阻む。そして砂は男の体を分厚く覆い、どんどん圧力を掛けていく。

「てめぇか! 兄貴を、あんなにしたのは!?」

 砂の中から聞こえた怒鳴り声は、紛れもなくキャンのものだった。砂は彼のノーテンスとしての能力、“物質変化”によるもの。キャンは触れたものを別の物質に変える能力を持っている。この砂はキャン自身の体と衣服、その他諸々が変化したものだ。
 天才と謳われるシンが“自分ですら本気のキャンと戦ったら危うい”と評したように、彼は恐ろしく強い。刺客は手も足も出せず、押しつぶされようとしている。
 しかし、もう少しというところで男は消えてしまった。跡形もなく、まるで最初からいなかったかのように。
 街道を埋め尽くしていた砂は一箇所に集まり、そしてだんだんと人の形になっていく。気付いた頃には目を充血させ、ぼろぼろと止め処なく涙を流しているキャンの姿があった。服の袖で何度もそれをぬぐうが間に合わない。彼には分かっているのだ。もう、兄は助からないことが。全て遅すぎたことが。
 ふと横を見ると、そこには小さな袋を握ったティムの姿。長い間迷っている彼を見かねた店員が、ヘアピンを少し安くしてくれたのだ。大喜びでそれを買い、意気揚々と戻ってきたティムを待っていたのはあまりにも惨すぎる光景。辛すぎて、何がなんだか分からない彼にも、一つだけ分かることがある。キャンの様子から伝わってくる、残酷な現実——

「キャン、リョウ、ティム。こっち、へ」

 虚ろに目を開き、弱々しい声でシンは三人を呼んだ。
 降り続く雪、血に染まった街道。最期の時が、やってくる。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 緋色の軍人 ( No.44 )
日時: 2011/09/10 23:56
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 降り続く雪。せめて青空が見えたなら、嘆く少年達の気持ちも少しは救われただろうか。
 悲しみに暮れる彼らの表情。嘘でも笑顔が見えたなら、心残り無く兄は天へ旅立てただろう。
 しかし、そう上手くはいかないもの。だから、去り逝く者は言葉を残す。最期にできるのはこれくらいしかないから。
 今は泣くことしかできずとも、いつか前を向いて歩く時がくる。その時、道の上で迷わないように。道標として言葉を残す。

 寂しい街道の端で横たわっている、天才軍人シン=ウェンダム。傷は深い。先程まで白かったはずの地面にはその影すらない。そして皮肉にもその色は、シンの大好きな緋色だった。
 彼の周りには二人の弟と、一番弟子の姿。弟達は兄の手を握り、弟子は無駄と知りながらも師の傷の手当てをしていた。雪が降っている。冷え込みの激しい、暗い道での出来事。
 瀕死のシンはまず、一番上の弟、キャンのほうを向いた。ギリギリで駆けつけ、リョウを助けたその少年。
 しかし、兄を助けることはできなかった。それが、悔やまれてならない。力はあったのだ。全てを救う力は。力があるだけではどうにもならない。少年は痛いほどその事実を感じていた。

「キャン。お前は、人並み外れた力を持っている。いいか? 力を持つ者は孤独だ。その気持ちに打ち勝つ強さを持て。己を見失うな。力は常に誰かのためにある。自分のためだけにそれを振るうな。……俺のバンダナをやる。母さんの想いが詰まったものだ。大切にしろ」

 キャンは黙ってそれを兄の頭から取った。まだとても暖かい。涙でぼやける視界の先に映るのは、はるか昔に母親がそれを暖炉の側で編んでいるところ。優しい微笑と共に。今度はキャンのも作ってあげるから、と約束してくれたが、それが果たされることはなかった。
 バンダナを着けたところを満足そうに頷きながら見ると、次にシンは隣に投げ捨てられていた大剣の柄を握った。持ち上げる力はもはや残っていない。シンは右手の上に乗っているティムの手をできるだけ強く握り返し、そっと弟の手を大剣の柄へと運んだ。

「次に、ティム。お前には、俺の大剣を。全てを守るのは、無理だ。だが、自分の大切なものくらい、全力で、守ってみせろ。だめでもいいから、全力で」

 血に汚れた兄の大剣。それをまともに見たのは初めてだった。
 いつも、何となくティムは避けてきた。戦いの中に兄がいる事実を認めたくなかったのだろうか。それとも、その流れた血のおかげで生きている自分を感じたくなかったからだろうか。
 その答えは出てこない。ただその大剣の重みだけが少年の腕にずっしりと落ちてきた。
 そして、シンは最後に傷を必死に治療している弟子の頬に手を伸ばした。リョウの手の動きが止まる。師を見つめる青い目には涙が溜まり、次々と頬を伝う。シンの手は、すでに悲しくなるほど冷たかった。

「リョウ、俺の大切な一番弟子。楽しかったよ、本当に。いつも苦労ばっか掛けてごめんな。これで最後だ、リョウ。王子を、アレン様を、支えてくれ……俺の、代わりに。ピアスを、リョウ。昔、父さんからもらったんだ」

 シンに促され、リョウはそっと彼の両耳から赤いピアスを外した。涙が止まらない。それどころか、さらに溢れてくる。夢も希望も何もかもこの青年からもらっていると、少年がはっきりと感じた瞬間だった。

「俺は、生き方に後悔はしてない。人はたくさん、本当に、たくさん、殺したが、それでも家族を、友を、守ることができた。ありがとな、みんな。サミカにも、伝えてくれ。大好きだ、お前ら全員……」

 ほとんど聞き取ることができないような、かすれた声。しかし、三人の心でたしかに響いたその言葉。それが天才軍人シン=ウェンダムの最期だった。眠るような死とはこのことを言うのだろうか。「み……」とわずかに口元が動き、目に輝きが宿る。それきりだった。ふと目を閉じたきり、再びその瞼が開くことは無かった。
 暗い街道でのひっそりとした最期。二十歳という短すぎる生涯。

 その後、シン=ウェンダムはシアラフ王国バーティカル大公爵家のもとで手厚く葬られた。軍人を中心に参列者は世界中から集まり、皆その早すぎる死に涙したという。
 キャンは葬儀が終わった後、“自分の道を探す”とだけ書かれた置手紙を残して、一人シアラフを去った。戦うことに踏ん切りがつかない彼は、真に守るべきものを探すため、旅に出たのだ。誰か必要としてくれる人を探すために。並外れた力の意味を知る旅に。
 シンはバーティカル領風の村、生家近くの丘で眠っている。夕焼けの名所として有名な場所だ。
 慰霊碑には“天才軍人シン=ウェンダム、ここに眠る。その生涯は愛する家族と友に捧げられた”と。
 今日も丘では緋色の風が吹き渡る。優しく、包み込むように。