複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 あの花求めて ( No.45 )
- 日時: 2011/09/23 00:48
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
外伝 あの花求めて
シアラフで反乱が起きる、およそ一年前。
暗い雪道をただ一人、少年が走っている。大切そうに何かを手の中に抱え、軽い足取りで弾むように先へ先へと進む。その表情は寒い雪道にも拘らず暖かい。うれしそうで、またどこか得意げな表情。よく見ると手には桃色のかわいらしい一輪の花。
(言ってたのとは違うけど、まあ、いいよな)
話は、その日の朝にさかのぼる。
「ねぇ、アレス。桜って花、知ってる?」
朝食時、ティーポットを台所から持ってきながら、唐突にエリスがその話題を出した。無論、兵器として生きてきた少年が知るはずがない。彼は今まで戦いのことしか教えられておらず、そのためか一般常識すら危ういのだから、ある意味では仕方ないだろう。
「えっと、日本に咲いてる花でね。この時期になるとすごくきれいなんだって」
きょとんとした顔の少年に、エリスはティーポットに紅茶の葉を入れながら言った。窓から入る朝の日差しと相成って、長い黒髪とともにその青い目はきらきらと輝いている。いくら世間知らずのアレスといえども、さすがにその言葉一つ一つから、いかに“サクラ“なるものがきれいらしいかは分かる。ただ……。
「シアラフじゃ、無理だ。日本で春に咲く花がシアラフにあるわけないだろ」
日本はシアラフから南にある島国だ。その領土のほとんどとはシアラフと似ても似つかぬ温暖な地域である。それに対してシアラフは極寒の地。何とか雪の中でも花を咲かせて実を付けるように進化した植物はあるが、温暖な地域に咲く桜はいくらなんでも無理がある。
アレスはティーカップをこげ茶色の戸棚から二つ出した。少し欠けているものと、比較的新しく、水玉模様が描かれているもの。欠けているのがアレス、可愛らしいほうがエリスのカップだ。
「そうだよね、まあ、分かってはいるんだけど」
沈んだ声で言う少女。ティーポットに湯を注ぐ表情も少し暗い。彼女が何故桜にこだわるのかは分からないが、落ち込んだ彼女の様子を見るのはアレスにとっては何よりも辛かった。
そして、人間はこんな状況の時にこそ、無謀な約束をしてしまうものである。
「探してきてやるよ。今日は非番だから。どんな花だ?」
「本当!? 桃色の花!」
口約束といえども、言ってしまった以上、取り消すことはもはや叶わない。
本日の、生物兵器アレスの任務は“桜探し”。聞こえだけなら平和そうである。だが、しくじればどんな任務よりも辛い罰が待っていることは、少女の満面の笑みから容易に想像できる。この笑顔を壊さないためにも、何とかして桜を見つけなくてはならない。
これはある春の日の、世界最強の生物兵器の物語。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 あの花求めて ( No.46 )
- 日時: 2011/10/05 23:16
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
機嫌良く、うれしそうに、小躍りしながらエリスは茶を淹れた。言ってしまった約束が約束だけに、いつもなら心地良いはずの少女の笑顔が気まずい。
一口でお茶を飲み干し、アレスは逃げるように小屋を出た。粉雪が舞っている。アレスはぼんやりと遠くを眺め、ため息をついた。
「そもそも花ってどこにあるんだ?」
花が自然に咲いていても、それは桜ではない。桜を探すのは無理としても、せめて桃色の花だけは探さなくてはならないだろう。だが、自然に咲いている花はほとんど黄色。桃色ではない。王都に行けば、輸入した貴族向けの花がある。しかし、そんな金はどこにもない。
山を降りたアレスは、近くにある小さな商店街に足を踏み入れた。庶民向けの店なら、良心的な値段で売っているのではないか、そう思ったのだ。そして、隅から隅まで歩いて花屋を探す。だが……。
(桃色の花どころか、花の“は”の字すら……)
結局、その町で探すのを諦め、少年は次の町へと行くがそこでも結果は同じ。次も、その次も、そのまた次も。気付けばアレスは、住んでいる山から隣国ダルナ連合との国境の川まで来ていた。日はすでに傾きかけ、いい加減にもう戻らないとエリスが心配する。
川原に腰掛けて少年は、小屋を出た時のようなため息をつく。考えてみればこの日は一日中歩き続けていた。生物兵器なのだから、そのくらいで疲れたりはしないのだが、精神的にはかなり参っている。一日探しても見つからない。明日探しても変わらないだろう。川を渡って外国に行けば容易に見つかることは分かっているのだが、アレスはここシアラフから出ることを国王に許されていない。エリスの笑顔が見たいだけなのにそれを国王が邪魔している。飼い犬のように縛られていることを少年が初めてしっかりと自覚した瞬間だった。
「おーい! そこの君、それ取ってくれ! 今流れてるやつ!」
物思いに更けていたアレスの耳に誰かの大声が入ってきた。顔を上げて川を見ると、ちょうど目の前を木箱が逃げるように流れていくところだった。中には野菜や魚、それに花まで入っている。
アレスがそれを取ると、先程声を掛けてきた青年が、細い大根を一本抱えて走ってきた。男にしては長い黒髪で、それを後ろで丁寧に結んでいる。目はずっと閉ざされたままだった。
「ありがとう。もう少しで今日の食料を全部おじゃんにするところだったよ。いやね、そこで野菜を洗っていて、気付いたら箱がないんだ。びっくりしたよ、本当に」
「どういたしまして。あんた……その」
目を閉じたまま話し続ける青年に、アレスは怪訝な顔をして返事をした。人の体のことは、なかなか面と向かって訊けないものだ。それでも知りたい気持ちは間違いなくある。
アレスがじっと青年を見つめていると、彼は「あぁ」と頷いて口を開いた。
「目のことかい? 小さい頃にだめにしてさ。でも、物の気配くらいは感じられるから生活にほとんど支障はないし、目が見えない代わりに僕の場合、他のものが見えるからそれはそれで楽しいんだ」
青年は笑顔で答えた。本心からそう思っているのだろう。“他のものが見える”がどういう意味かアレスにはよく分からない。この盲目の青年なりの考え方があるのだろうか。
目の事を聞くと、アレスの関心事は他の場所に移っていた。
箱の中の花。それから目が離れない。五本のうち一本はなんと桃色。“あの花”ではないが、何しろ色は同じ。アレスは食い入るようにそれを見ていた。
「なぁ、この花は何かに使うのか?」
「え? あぁ、知り合いからもらってね。欲しいの? 君は食料の恩人だからあげてもいいよ」
「本当か!? じゃ、この桃色のをくれ!」
アレスはそう言うとすかさず桃色の花を一輪出した。青年はその花をそっと触るとうれしそうに微笑む。
「美影草か、いいのを選んだね。僕の一番好きな花だ」
「美影草……?」
綺麗な名の花だった。美しい影。不思議な響きがある。アレスはもう一度その花をじっくりと見る。薄い桃色の花弁に、少しだけ紫がかった線が入っている。先端がくるりと巻いている葉は生命を感じさせ、何となくどこかの少女と似た雰囲気を感じた。
「そう。アメジストの二つ名を持つ花でさ、花言葉は“あなたの傍に”だったかな。本当は藤色なんだけど。そうか、それは桃色なんだね」
「あなたの傍に、か」
青年が言った花言葉を、アレスは満足したようにつぶやいた。
“あなたの傍に”——なんともぴったりではないか。桜ではないが、きっとエリスも喜んでくれるだろう。
「じゃ、僕はもう行くよ。また会おう、君とはそう遠くない未来でまた会うことになる」
「は?」
謎めいた言葉に、木箱を渡そうとしていたアレスの手は止まった。川の流れが聞こえる。青年はそれに構わず彼の手から木箱を取った。
「言っただろう? 僕は他のものが見えるって」
「未来、か?」
「うーん、何だろうね。まぁ、とにかく君とはそのうち会うよ。それじゃ、その時まで」
青年はそう言うと、目が見えないとは思えないほどしっかりとした足取りでその場を去っていった。残ったのは未だに難しい表情をしているアレスと、その手にある一輪の花。
日はもう完全に沈んだ。少年が本気を出して走ればそう時間を使わず小屋に戻れるだろう。アレスは大事そうに花を持ち、傷つけないよう気遣いながら走り去っていった。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 あの花求めて ( No.47 )
- 日時: 2011/10/23 00:21
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
小屋の古びた戸を開けると、いつものようにエリスの料理の良い香りが辺り一面に広がる。アレスが一番ほっとする瞬間で、自然とその口元はほころびた。もう一年半以上続いているのだが、未だに少年は生物兵器でも、こんなにも表情が変わることに、自分のことながら驚きを感じていた。
「ただいま、エリス。今日は魚か?」
アレスが玄関で雪を払いながら訊くと、奥のほうから澄んだ声が返ってきた。
「おかえり。わりといい魚が釣れたからね」
弾むようなその口調。そして、そのすぐ後に楽しそうな鼻歌が聞こえてきた。魚を焼くパチパチという音が、不思議なハーモニーを醸し出している。
アレスはふっと微笑むと、花を玄関の棚の上に置いて小屋の奥へと歩いていった。
夕食後、エリスは後片付けを済ませて窓際の椅子に腰掛けてくつろいでいた。
そこは彼女の特等席である。暇なときはそこから外を見て、一日ごとに少しずつ変わっていく景色を楽しむ。一度絵を描いてみようと試みたこともあったが、ものの十分で挫折した苦い記憶がある。基本的に何でもできるエリスだが、絵だけは悲惨なのだ。
ぼんやりと外を眺めていたエリスだが、ふと窓ガラスにアレスが映っていることに気付く。はっきりとは見えないが、右手を後ろに回して何かを隠しているようだ。
座ったまま振り返るとアレスは照れくさそうに笑い、右手をエリスの目の前に突き出した。そこにはあの桃色の花。
それを見たエリスの表情は一瞬固まった。小刻みに震える手は花には伸びず、ぎゅっと藤色のひざ掛けを握るだけだった。
そんな変化に気付いたのか、アレスは申し訳なさそうに話し出した。
「桜、どこにもなくて……」
エリスは少年の言葉に答えることなく、その花を、まるで取り憑かれたかのように凝視する。
アレスは思わず視線を泳がせた。それからすぐ、気を持ち直そうとするかのように、わざとらしく明るい調子で続けた。
「代わりといっちゃなんだけど、この花。美影草って言ってさ、花言葉は——」
「——あなたの、傍に」
エリスは少年の早口をさえぎって言った。そして、花をそっと受け取る。その青い目からは、いつのまにか大粒の涙がこぼれ出ていた。
「何でだろ? 私、知ってる。この花……どこで知ったのか、全然、わかんないけど」
少女は戸惑いながらも大切そうに花びらに触れた。バラのような華やかさはない。どちらかというと、道の片隅にひっそりと咲いていそうな花だ。殺風景な道にわずかながらの色を与える、小さいがとても大切な存在。
“あなたの傍に”——この花言葉はそんなところから来ているのかもしれない。
涙と共に花びらが一枚、藤色のひざ掛けにそっと落ちていった。