複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.58 )
- 日時: 2012/03/10 23:35
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
素早く分かる(?)前回までのあらすじ
十年前起こった天宮大虐殺。それによって両親と幼い妹を殺された日本の少年、天宮飛龍。そして、その乳兄弟で、同じく母を殺された乃木勇一。
二人の少年は、天宮大虐殺の黒幕、ユビル帝国への報復を心に誓い、生きてきた。
そんな中で、ユビル帝国がシアラフ反乱に軍事介入することが決まり、日本はそれに対抗して反乱軍側として軍の派遣を決定する。
第三章 各国の思惑(二)
かつて起こった大戦。それによって、世界はどうしようもなく破壊されたという。
伝承によると、川という川が干上がり、森という森が焼かれ、植物すら生えない不毛の地になってしまったらしい。戦いに勝った神々は頭を抱えた。これではやがて滅びてしまう、と。
結果、神々は力を合わせ、世界を再生した。その過程で変わった世界の理は数え切れないほどあるが、その中でも特に大きく変わったものが世界地図である。
大陸移動説というものを知っているだろうか。「大戦時、六つあった大陸はそのはるか昔、一つの巨大な大陸(パンゲア)を形成していた」というものだ。大戦後、神々が世界を再生する際に強大な力を用いたため、副作用として大陸が動き、そしてバラバラになっていた大陸は、大陸移動説のパンゲアのような一つの大陸になったのだ。
一つの大陸といくつかの島で構成されているこの世界。島は東側の中緯度地域に多く、そのあたりは全て日本の領土になっている。
北には今反乱が起こっているシアラフ王国。
また南には多数の民族からなるダルナ連合と、そこから五十年ほど前に独立した、草原の民が住むウル民族区がある。ただし、ダルナ連合は現在西の大国ユビル帝国の属国となってしまっているため、ダルナの各民族に実権はない。
そのほかにはここ数年で突如ユビル帝国とウル民族区、そしてダルナ連合の国境付近に現れた“死の砂漠”や大陸の中央に聳え立つウル山脈など、大戦前とは似ても似つかない世界になってしまった。
ユビル帝国首都ホークテイル。その都市の中心部には各省庁などが並び、また人通りも多く、シアラフ王国のような田舎とは比べ物にならない。その町には、当然のことながら、国防の要であるユビル軍本部がある。まるで世界一の軍隊としての栄光を見せびらかすかのように今日も偉そうに踏ん反り返っていた。
そんな大きな軍本部の横に、ひときわ目立つ豪邸がある。
日本の天皇家や天宮家と同じ世界五大家の一角、フィギアス家の屋敷だ。現フィギアス家当主は二十八歳のユビル軍副司令長官カレル=フィギアス。五歳のときにノーテンスの印が現れてから、一族の期待を一身に背負い、軍人としての英才教育を受けてきたエリート軍人である。
屋敷の奥にあるカレルの部屋。ベッドと机、そして本棚とゴミ箱。それからクローゼットと椅子が二つあるくらいで、先程記したような経歴の人間の部屋だとはとても思えない。ただ一つ一つ注意深く見ると、全てが最高級の家具で、やっと少しだけ納得できる。
そんな部屋の机を挟み、向かい合うようにして、二人の男が座って話をしている。一人は黒髪で紫水晶のような色をした目の青年——カレルだ。生真面目そうな顔つきは生まれつきなのか、相手が何を言っても変わることはめったにない。その真面目さは髪形にも表れているようで、坊主頭とまではいかないが、かなり短く切っていた。
「……ハデス様。日本軍が動くそうですね」
カレルは目の前の男に敬称を付けて言った。このことについては少し前、国内でかなり問題視されていた。フィギアス家当主が平民上がりの人間に“様”を付けるのは何事か、と。
しかし、カレルはそれらの意見を一蹴した。目の前の男——ハデス=シュレインは幼い時から彼の目標だったのだ。
ハデスのようになりたいから如何なる訓練も耐え、どんな悲しみも涙一つ流さず堪えてきた。そう、全てはハデス=シュレインのような強い人間になりたかったから……
「ああ。誘いに乗ったな。コウも」
ハデスは机の上のコーヒーを一口飲んで言った。
ちなみに先程の彼の言葉に出てきた“コウ”とは、日本軍大将乃木光一のことである。ハデスと光一、そして天宮飛龍の死んだ父親、隼人は若い頃からの友達だったのだ。かつては共に夢を語り合い、同じ未来を心に描いていた。
「天宮飛龍。彼もシアラフに来るのですね。せっかく助かった命。軍に入らず幸せに暮らせばよかったのに」
「そうだな。……恨んでいるか? 天宮大虐殺を引き起こした俺のことを」
ハデスはふとそんなことを訊いた。そして、もう一度コーヒーに手を付ける。しかし、長い髪がカップの中に入りそうになり、ハデスは面倒そうな表情で白のゴムをポケットから出して、荒々しく髪を後ろで束ね始めた。
「なぜ、私がハデス様を恨まなくてはならないのですか?」
カレルは手に持っていたペンを素早く回しながら、静かな口調で尋ねた。
窓から入ってくる日差しが、少し強くなる。
ハデスは無言で椅子から立ち上がり、薄いカーテンを閉めた。そして、カレルに背を向けたまま先程の青年の問いに答えた。
「お前の母親は天宮出身だろ? 俺はお前の母の死の黒幕だ」
「知っていますよ。そんなこと。大体母は父が死ぬと私の腹違いの弟を家から追い出したり、気に入らない女官を独断で辞めさせたりしていましたからね。正直嫌いでした」
カレルは相変わらず冷静な表情で、背を向けたままの師に言った。
たしかに、彼の母であるかつての日本軍大将天宮隼人の姉、香織についてはいい噂を聞かない。傲慢で、世界は自分を中心に回っていると信じているような女であったとさえ言われている。
もっともそんな彼女も天宮大虐殺で無残な最期を遂げたが。
「しかし、五大家の一角の天宮家を潰したんだ。同じ五大家として何も思わないのか?」
ハデスはカレルのほうを向いて言った。顔はゆがんでいたが、それ以上弱みを見せることはない。錯乱して、壊れそうな自分を何とかして抑えようとしているのは、長い付き合いのカレルにはよく分かる。
カレルはペンを置いて立ち上がった。そして、ハデスの横に立ち、カーテンを開けて外を見る。窓の向こうには美しい庭園と、壮大な軍本部が広がっている。また身を乗り出すと、ここホークテイルの町並みが見えた。今日もたくさんの人々が笑顔で歩き、この町を作っていく。
カレルはハデスのほうを向いた。珍しく微笑を浮かべている。その表情といい、纏っている空気といい、かつての自分とそっくりで、ハデスは一瞬言葉を失った。
「だから飛龍を生かしたのでしょう? 天宮家を完全に潰さないために。感謝しています。ハデス様。……あの時点で天宮大虐殺を起こさなくてはならなかった理由は、分かっています。友好条約は一部の政治家たちの意見でしかなく、あのまま行けば、ユビル国内で大暴動が起こることは間違いありませんでした。そして、それは世界を巻き込んだ戦いになるでしょう。それを起こさないためには、友好条約を破棄するしかなかった、そうですよね?」
カレルの言葉は若い頃のハデスと同じだった。聞こえはいいが、所詮はきれいごとでしかないただの言い訳。戦いを起こしてしまったのは事実。結果大勢の人間を殺し、この日本とユビルの冷戦をさらに深刻化させたのもまた然り。そして今、ユビルと日本は戦争を起こしつつある。
ハデスはそっと若い弟子の頭に右手を置いた。そして、すぐに椅子に掛けてあったコートを取って、部屋を出て行った。
扉の前で、弟子への願いを囁いて。
「俺の背中ばかり追うな。俺のようにはなるな。お前は、正しく生きろ。誰より、誰よりも……」
それが彼に届いたか、ハデスは知らない。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.59 )
- 日時: 2012/02/01 23:35
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
師が部屋を出て行った後、しばらくカレルはこげ茶色のドアを見つめていた。後は追わない。いや、追えなかった。いつもそうなのだ。触れられる距離にいるのに、寸前のところで消えてしまう。まるで最初からなかったかのように。“孤高の戦士”——それがハデス=シュレインの若い頃の通り名だが、四十代後半になった今でも、それは変わらないようだ。
開けたままだった窓から、音を立てて風が入ってきた。机の上に置いてあったペンが転がって、床に落ちそうになる。カレルはドアを見るのを止めて、ゆっくりと窓を閉めた。
すると、ちょうどハデスが門を潜っていくところが見えた。カレルは少し複雑そうな表情をしたが、すぐにいつもの生真面目な表情に戻す。そして、ワイシャツの胸ポケットに先程の愛用しているペンを入れ、机に立て掛けておいたシャムシール(一メートル弱ほどの湾刀)を持って部屋を出て行った。
大理石の玄関まで辿り着くと、そこには懐かしい顔があった。
扉をちょうど開けたところだったのだろう。無精髭を生やした、筋骨隆々の男。顔立ちはまだ若々しさを留めていて、青い瞳は旧友を前にして朝日を受けた湖畔のように輝いていた。
「ダラン! いつダルナから帰ってきたんだ?」
カレルの真面目そうな顔は、めったに見ることができない満面の笑顔に素早く変わった。目の前の男、ダラン=フェーレルは、カレルにとって親友と呼ぶことのできる数少ない人間なのだ。同じ夢を持ち、同じ未来へと目指して、共に進む友。夢が夢だけに、なかなかいない存在であった。
「つい数刻前だ。植民地軍もシアラフに出すと言うからな。すっ飛んできた」
ダランの言う植民地軍。それは読んで字の如く、ここユビル帝国の植民地である、ダルナ連邦から民を召集して構成される部隊だ。司令官は代々殖民相を勤めてきたフェーレル家当主。つまり、この場合ダランのことである。かつてはどの部隊よりも扱いが難しく、実戦でも大きな爆弾を抱えているようなものだったが、当主がダランに代わってから、融和策などが功を奏して、実戦でも十分に使える部隊に成長していた。
「ダルナの情勢はどうだ? たぶん主力は植民地軍になるだろうし」
「悪くはない、が、捨て駒扱いしたら俺も言うこと聞かないからな」
軽い冗談を言うように軽い調子で笑うダラン。それはカレルなら自分達を見捨てないと言う、絶対的な自信があるからこその言葉であった。
彼の思いの通り、カレルは「もちろんだ」と言うように笑いながら頷く。見捨てるわけがない。そんなことをしたら、カレルの“願い”は主柱から崩れるのだ。
「中に入れよ、ダラン。茶くらい出すから」
「いや、いい。今日はお前に紹介したい人たちがいるから、それで来ただけだ」
ダランはそう言うと、扉の外に顔を向けて、「こっち来いよ」と手招きした。すると少々遠慮しながら、ゆっくりと若い女性が二人彼の一歩後ろに立った。二人ともさらさらとした黒髪に、真っ青な大きい目をしていて、顔立ちも体格もよく似ている。服装は派手ではないが、質のいいものを纏っていた。
「妻のレイラとトゥラだ」
紹介すると、二人とも深々と礼をした。その表情はかわいそうなほど緊張で固まっている。このユビル帝国では一夫多妻が公的に認められていて、そのためダランも二人の妻を娶ったのだろう。
カレルはその礼に答えて、その場に合った夫人に対する略式の礼をした。
「奴隷兵士出身者を妻にしたとは聞いていたが、彼女たちか」
「ああ。フェーレル家直系は俺しかいないからな。そろそろ娶らないとなって思ってさ」
そう言うダランに、カレルは何か言いたげな表情を向けていた。
「何だ、未だに独身主義者には何も言われる筋合いはないぞ」
「……いつか言ってた、奴隷兵士の少女は諦めたのか?」
ポツリと口にした親友の疑問に、ダランはどこか遠くを見るような目をした。一瞬だが、妻達の表情も曇る。ダランは後ろのことなので気付かなかったようだが、それを見逃さなかったカレルは心底まずいことを言った、というような顔をした。
そんなカレルの表情の変化は見えていなかったようだ。ダランはぼんやりとした目つきのままでつぶやく。
「諦めちゃ、いないさ。今日も、これから奴隷商人のところに行ってくる。……ちょうどお前が弟のことを諦めらんないみたいなもんだな」
最後のほうだけ、微笑んでいた。妻達も元の緊張した面持ちに戻っている。
カレルは答えない。答えない代わりに親友と同じような微笑を浮かべた。
「じゃ、俺らはこの辺で失礼するよ。今日こそ見つかるといいな、カレル」
「ああ。お前もな」
簡潔な別れ挨拶。それだけだった。もうすぐシアラフの出会うことが分かっているからだろうか。いや、そうではない。ただ言葉を並べる必要がないだけだろう。
ドアを開けたまま、カレルは出ていった親友とその妻達の後姿を眺める。何か言葉を交わしているようだが、距離があることと、話している言葉が母国語であるユビル語でなかったため、その内容までは分からなかった。
ただ、分かるのは生粋の貴族と奴隷出身という垣根なく、楽しげに話しているということ。
親友の姿が見えなくなった頃、カレルはようやくドアを一度閉めて、近くのハンガーにかけておいたコートを取った。着崩すのが今風のスタイルであるが、根が真面目なカレルはそのようなことはしない。きっちりと一番上までボタンを留めると、再びドアに手をかけて、先ほど親友が通っていった石畳を歩いていった。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.60 )
- 日時: 2012/02/05 23:27
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
屋敷を出てカレルはしばらく通りを歩く。護衛は一人もいない。周りは付けるように口うるさく勧めるが、彼にとって護衛は邪魔なだけである。所詮は自分より弱い者。いても役に立たない。それどころか、むしろ足手まといに等しい。さらに、仲間を見殺しにできるほどカレル=フィギアスは器量な人間ではないのだ。
「カレル君!」
洋服屋の前を通った時、カレルは店からちょうど出てきた女性に声を掛けられた。買い物袋を抱えた黄緑色の髪の美しい人。年は三十代前半くらいだろうか。彼のよく知る人であるが正確な年齢は聞いたことがない。
「シンシアさん。お久しぶりです」
カレルは丁寧に挨拶をする。シンシア、と呼ばれたこの女性は青年の師、ハデスの妻なのだ。年の差はそれなりにあるはずだが二人とも仲睦まじく、おしどり夫婦と評判が高い。五歳になる娘がいるのだが、今日は一緒にいないようだ。
「カレル君、非番? もうそろそろシアラフに行くんでしょう? 大変ね」
「大丈夫ですよ。我らユビル軍は常勝無敗ですから」
カレルは自信を持ってそう答えたが、女性の表情は暗くなった。
彼女は結婚前、軍に所属していた。“戦女神”と称されたその鮮やかな戦いは、いまだカレルの頭からは離れない。退役する時、周りはもちろんのこと、シンシアもひどく悲しんでいた。そんな彼女が、ユビル軍の話題を出して気分を悪くするだろうか。
カレルは困った様子で女性を見る。すると、それに気付いたようにシンシアは話し出した。
「あまり人には言いたくないけど、私ハーフなのよ。ユビル人とシアラフ人の。しかもユビル人の母がシアラフで死んで、しばらくしてから父はシアラフ人と再婚してね。腹違いの弟がシアラフにいるの。しかも、今反乱軍に参加しているわ」
「そう、ですか。……名前は分かりますか? できる限りのことはします」
カレルはメモ帳とペンを取り出しながら訊いた。しかし、シンシアは首を横に振った。悲しそうな微笑を浮かべながら。
「気にしないで。私はユビル人よ。そんなこと考えるべきじゃないのは分かってるから。……それより、カレル君。今日も、スラムに行くのよね。腹違いの弟さんを探しに」
「ええ。あいつが母に追い出されてからかなり経ちますが、諦められなくて……」
そう言うとカレルは恥ずかしそうに頭をかいた。
弟を探し始めたのは、天宮大虐殺で母が死んだころから。もう何年も経つ。死んでしまったのではないかと、彼自身、もう何度思ったことだろうか。だが、いざ止めようと思うと、昔の楽しかった思い出が蘇る。それが、体を強引に動かすのだった。
「諦めちゃだめよ。私とは違うのだから」
「はい……」
カレルの周りにいる人間はいつもこうである。諦めるなと、そればかり言う。
ぎこちなく頷くカレルを見て、シンシアは満足そうに笑った。カレルも少しだけ頬を緩める。
「気を付けてね。最近ユビルの貴族を狙った犯罪集団がいるらしいし。何だっけな、たしか——」
「——“黒霧”」
「そうそう、それ。それじゃね、カレル君」
シンシアは片手を振りながら街角に消えていった。
残ったカレルは伸びをしてもう一度歩き出す。町の裏側にあるスラム街に向けて。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.61 )
- 日時: 2012/02/13 23:35
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)
首都ホークテイルから南へ小一時間歩いたところに、そのスラム街はある。
にぎやかな町の裏道を抜け、だんだんと荒んでいく景色を眼で見て、またその空気を肌で感じながら、カレルは一般的にスラム街と呼ばれる場所に着いた。
スラム街の入り口には、風が少し吹いただけで倒壊してしまいそうな門がある。門の上のほうには、雨風にさらされてかなり読みにくくなっているが、何とか“ようこそ! ファッションの都、トールへ”と書いてあるのが確認できる。かつてこのスラム街は、先程のホークテイルに匹敵する大都市だったのだ。
荒れ果てた光景が目立つが、よく見ると過去の発展の跡とも言える古い大きな屋敷などが見られる。“盛者必衰”——この町の状態を一言で表すならこれ一つに尽きるだろう。
カレルが通りを歩いていると、多くの人がそそくさと逃げ出す。別に彼らがやましいことをしていたわけではない。ただ、恐ろしいのだ。スラム街の住人達のほとんどは、ユビル貴族に迫害された人々。今のように、ユビル貴族の筆頭であるフィギアス家当主のカレルが突然現れたとなると、恐れるなというほうが無理というものだろう。
(これが、この国の現状、光と闇。スラムに溢れる人々……)
カレルは悔しそうに歯軋りした。幼い頃から見てきた現実とはいえ、この悲惨な状況の原因が自分達にあると思うと居た堪れなくなる。ましてやこの現状が、彼からたった一人の弟を奪ったのも同然なのだから尚更だろう。
カレルは貴族制について否定はしないが、このままで良いとも思っていない。“貴族という立場を最大限に利用して、小さくても構わないから、いつか自分自身の手で改革を起す”——それが彼の幼い頃に師であるハデスにこっそりと語った夢である。
いつものように歩きながら物思いに更けていたカレルの視界に、一人の男が入ってきた。貧しい身なりだが、どこかスラムの住人とは違った気配。髪は着ている服と同じように黒く、目は凍りつくような冷たい碧眼だった。
男はカレルを見ると、すばやく踵を返して、通りの裏へと入っていった。カレルははっとした表情をすると、無言で彼の後を追っていく。
「どこまで行く気だ?」
ただでさえ暗いスラム街の、さらに日差しさえまともに入ってこないような建物と建物の間に辿り着いた時、カレルは目の前を歩く男にやっと話しかけた。彼は無言で振り向く。冷たい目はそのままだったが、ほんの少しだけ柔らかい表情になった気がする。
「ここらでいいだろう。……久しいな、兄上」
記憶の中の幼い少年は、たくましい青年に成長していた。束ねた長い黒髪が、その年月を思い知らせる。思わず、カレルは涙を流しそうになった。生きていた。その事実だけが、彼の心を占める。
「やっぱ、リーフか。その、なんと言うか、元気にしてたか?」
カレルは照れくさそうに頭を掻きながら、一歩弟に近づいた。リーフもまた、そっと兄のほうへ足を進める。
改めて見てみると、腹違いとはいえ、この兄弟はよく似ている。もともと二十歳辺りからあまり外見の変わらないカレルである。弟とは七歳も離れているが、まるで双子のようだった。
弟の目の前に立つと、カレルはそっと片手を差し出した。いつもの彼では考えられないほどの、光が差したような笑顔と共に。弟もまた、手を伸ばす。
しかし、それが向かう先は兄の手ではない。風を切ってそれは喉元へと伸びていった。
「な……!?」
カレルは体勢を低くしながら、すばやく身を引く。その時に見えた弟の目は、この世のものとは思えないほど憎悪に満ちていた。
冷や汗でも流れたのだろうか。水が頬を伝う感じがし、カレルはそっと手を当てる。当惑して頭が上手く回らない彼の中で、仕事上慣れた生暖かいものが指先に付く感覚だけが、ひどく鮮明に感じられた。
「兄上。何故スラムにいる? ここはあなたのような貴族がいるべき場所ではない!」
先程、彼の表情が少しだけ柔らかくなったのは、ただの気のせいだったのだろうか。軍人として、人の生死や血なまぐさい戦いを見続けてきたカレルには分かる。今のリーフの表情は、深い悲しみと憎しみに支配されていた。植民地のゲリラと同じように。
「リーフ、私は……」
「フン。大方お優しい兄上のことだから、俺を屋敷に連れ戻しに来たのだろう? ふざけるな! 誰のせいで母さんは死んだ? お前ら貴族のせいだろ! 母さんは何も悪くなかった。ただ俺を生んだだけなのに追い出されて、このスラムの片隅で血を吐きながら死んだ……」
リーフはそこまで狂ったように叫ぶと、急に下を向いた。肩は震えていて、何かを堪えようとしているのか、服の裾をぎゅっと握っている。
カレルは掛ける言葉が見つからなかった。探していた大切なものが手に触れる瞬間。それは失う始まりを意味しているのかもしれない。
「もう、やめてくれ。俺を……」
リーフはうわ言のようにつぶやいた。何かその後に一言付け加えたようだったが、唇をわずかに動かすだけで、兄には全く伝わらない。呆然としているカレルが聞き返すこともなかった。
少しの間、二人とも無言で向き合っていたが、しばらくすると、リーフは背を向けて走り去っていった。少し前までのカレルなら後を追っただろうが、ここまでひどく拒絶された彼は、ただ立ちすくむことしかできなかった。頬の傷の手当ても忘れて。
夕日が暗いスラムを鮮やかな赤に染め上げる。だが、あの裏通りだけは暗いまま。黄昏に消える弟と、暗闇に取り残される兄。この光景は、ただの偶然か、それとも何かを暗示しているのか。兄弟の壁である光と影。皮肉にも、このスラムでは通常とは正反対の示し方をしていた。
先程の裏通りから場所は移って、スラム街のとある古いビルの中。兄の元から走り去ったリーフは、そっと中に入った。外観は薄汚れた建物だが、中は意外ときれいに掃除が行き届いている。かなり居心地のよい場所ではあるようだ。ただし、誰の趣味か大量のサボテンが置いてあることを除けば、だが。
そのビルの入り口に一人の女性が立っていた。セミロングの群青色の髪を二つに結び、頭には三角巾を付けている。歳は二十代前半ほどだろうか、優しい微笑を浮かべていた。リーフもほんの少しだけ硬い表情を崩す。
「ただいま、美菜」
「おかえりなさい。ブラック首領」
少しずつ時代は動き始め、また、だんだんと戦いの火種は蒔かれていく。
あとがき
第三章終了です。今回の章では、天宮大虐殺という事件を軸、シアラフ反乱を歯車にして、歴史が動く序章が書ければいいなぁと思いつつ話を進めました。んー、振り返ると、突然舞台が変わったり登場人物が増えたのに、あまりしっかりとしたフォローなり何なりができてないなと反省しています。
次は外伝、カレルの弟リーフの物語を挟んで、懐かしいシアラフに戻ろうかなと思います。あくまで予定ですが。
それでは、これからもお付き合いいただければ幸いです。