複雑・ファジー小説

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.62 )
日時: 2012/02/19 23:35
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 外伝 反旗の色は

 雨が降り続く薄暗い路地。ゴミ箱は倒され、金の目をぎらぎらと光らせた野良猫が、数匹辺りをうろついている。
 しかし、猫は散乱したゴミにたかっているわけではない。その横にある人間の死体に群がっているのだ。
 見たところ、まだ幼い少女。着ているものは剥ぎ取られたのか、何も身に着けていない。肉体はすでに腐っていて、辺りには臭気が立ち込めている。
 ここはユビル帝国のスラム街。その中でも最下層とも言える場所だ。
 そんな路地の片隅で絶えず苦しそうな女性が咳き込む音が響き渡る。三十代前半くらいだろうか。古びた布を体に掛け、石畳の上に横たわっている。げっそりとやつれた顔をしているが、それでも美しい女性であることは疑いようがない。
 だが、そんな彼女には、無情にも冷たい雨が矢のように突き刺さる。
 その哀れな女性の背を、ずっとさすり続ける十歳にも満たない少年がいる。黒髪は女の子のように長く、目は何とも言えない力を感じさせる碧眼だった。

「母さん、苦しい? 寒い?」

 そう呼びかけていることから、少年は女性の息子なのだろう。
 子どもの黒髪に対して、女性の髪色は淡い栗色。顔かたちもあまり似ていない。しかし、その眼の色と、纏っている雰囲気が似ていると言われれば頷ける。

「大丈夫、リーフ。ごほっ……」

 母親は何とか笑おうと必死に顔を歪めるが、むしろどんどん苦しそうな表情になっていく。少年はそのたびに背をさするが、時間が経つにつれ女性の命は削られているようだった。
 咳のたびに、血が辺りを赤く染める。暗い路地にある、ただ一つの明るい色。だがそれは、ただ路地の暗さを強調するだけの色だった。

「リーフ、いざという、時は、カレル様かハデス様を、頼りなさい。あのお二人なら、きっとあなたを——」
「——いやだよ、母さん! それじゃ母さんも一緒に行こうよ。一緒じゃなきゃいやだよ」

 リーフは涙目になりながら訴えた。
 母親は息子をなだめようと、彼の頬にそっと触れる。すると、少年の瞼の裏に溜まっていた涙が途端にこぼれ出し、大粒の雫が母親の手に流れた。冷たい手。直感的に分かるのだ。母親の命がもう残っていないという事実が。真に頼るべき人がもう消えてしまうということが。

「ごめんね、リーフ。生きて……」

 そうつぶやくと、女性のまぶたはそっと閉じた。声にならない叫びと共に、少年は母親の両手を取る。
 しかし、女性が再び目を開けることはない。握っている手はどんどん冷たくなっていく。少年が泣こうが喚こうが、誰も来ない。雨が強くなる。もう何が涙で何が雨水なのか分からない。冷たく暗い寂れた路地の片隅で、猫の声だけが不気味に響いていた。

 反ユビル組織“黒霧”首領ブラックことリーフ=フィギアス。これは彼の記憶の中、その大きく重過ぎる、一欠片。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 反旗の色は ( No.63 )
日時: 2012/02/29 00:44
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 スラム街。かつての名を、ファッションの都、トール。
 ユビル帝国首都のホークテイルとは比べ物にならないくらい荒んでいるが、ただ一つ、町の中央にある立派な噴水だけが、かつての栄華を物語っている。
 噴水は、当然だがもう機能していない。それでもきれいなまま残っているのは、この薄汚れたスラムにある、たった一つだけの心安らぐ造形物だからだろう。水が出ていなくても、噴水の上で天を仰ぐヴィーナス像とその周りで戯れる三体のキューピット、それだけで十分に立派な美術品である。

「惨い話じゃな」
「本当に」

 そんな広場に今、人だかりができている。集まっているのは皆スラムの住人だ。晩秋の寒空の下、貧しい格好に悲しそうな表情をしている。これからこの場で行われることが、彼らにとって認めがたいことであるのは容易に分かるだろう。
 その人だかりの中で、一人の青年が何とか前に進もうと人を押し分けていた。ぼろぼろの衣服を着て、無造作に一本で結わいである黒髪。背はかなり高く、目は美しい碧眼をしている。
 青年の名はリーフ=フィギアス。あの雨の日から、およそ十三年の歳月が経った。母の死を乗り越え、今も青年はこのスラムで生きている。
 リーフはやっとの思いで人だかりの前に出た。正午を知らせる鐘が、寂しく響き渡った。秋の冷たい風が、土煙を運んで辺りを覆い隠そうとする。だが、隠し切るには力不足であり、ただでさえ暗い雰囲気の人々に、追い討ちをかけるが如く涙を流させるだけだった。
 砂煙の先、噴水の前には十字の磔台。その周りには大勢の兵士。いつもならスラムで一番活気あるこの広場は、暗い空気に満たされる刑場となっていた。

「なぁ、あんた字読めるか?」

 隣に立っている中年の男が刑場に張られている張り紙を指差してリーフに訊いた。
 このスラムでは、字の読める者は少ない。リーフはこれでも八歳までフィギアス家の次男として相応の教育を受けてきた。それに対して、スラムに住んでいる者は基礎的な教育すら受けられないのだ。
 この男もきっとそうなのだろう。スラムで生まれスラムで暮らす。そして、字の読み書きもできないまま、このスラムで最期を迎えるのだ。

「ああ。ええっと……“この者、帝国軍シュラバス将軍から金塊を盗んだ。帝国将軍から物を盗むことは重罪である。よって極刑に処す。貴様らもよく肝に銘じておくように”だってさ」
「やっぱり極刑か、可哀そうにな。まだ出てきちゃいないがまだ若い娘らしいぜ。せめて最期くらいはスラムの仲間としてしっかり送ってやらないと」

 男はそう言うと腕を組んで前を見据えた。
 “スラムの仲間として”と、その言葉が妙にリーフの心に突き刺さった。母が死んで、一人になった彼が今まで生きてこられたのは、スラムの人間達にあるその心のおかげだからだ。
 同じスラムの仲間だから助け合おう。同じ苦しみを分かち合っているのだから、喜びも分け合おう。
 では、たとえば彼が名門フィギアス家の人間と知れたら、彼らはどうするのだろうか。今まで通りに接してくれるのか。そう考えるとリーフは恐くなる。スラムは彼にとって家も同然なのだから。
 その時、刑吏が罪人を引っ張ってきた。群青色の髪をした二十歳ほどの女。手には鎖が巻かれ、体中に痛めつけられたあとが痛々しく残っている。女はゆっくりと顔を上げ、噴水を見上げる。彼女にとって何か思い出深いものなのか、それともただ単に見ただけなのか。それは分からない。
 だが、その顔を上げた瞬間、リーフの表情が変わった。知っているのだ。この女を。

 母が死に、食べるものがなかった当時のリーフ。腹が減り、それでも母が頼れと言った二人の元へ行く気にはなれず、ただスラムを歩いていた。一歩足を進めるごとに、どんどん力を奪われていく。おまけにその日は雨が上がったばかりの、とても暑い真夏の日だった。
 いつからそこで倒れていたのか分からない。気付いたときには道端で寝転がっていた。このまま死んでもいいかもしれない、という考えが頭をよぎる。そうすれば、母に会えるだろう。きっとこの世より良いに決まっている。そう思うと気持ちが楽になった。
 
「死んでるの?」

 目を瞑り、死を安らかに待っていると突然真上から声がした。死神かもしれない。そう思いリーフは顔を上げた。太陽がまぶしくてよく見えないが、まだ十歳にもなっていない女の子がそこにいた。

「生きてるんじゃない。じゃ、そんなところにいちゃだめ」

 女の子はそう言うとリーフの手を掴んだ。意外にも力は強い。リーフを日陰へと無理やり引きずっていった。
 まぶしさがだんだんと消え、女の子の顔が鮮明に見えてきた。群青色の髪をした色白の子。ただ、ところどころ顔には泥が付いている。手には薄汚れたバスケットを持ち、そこからはパンがいくつか見える。

「あたしは美菜。お腹空いてるんでしょ? これあげるからもうあんなところで寝ちゃだめよ」

 そう言うと彼女はバスケットごとリーフに渡した。そして、それだけでどこかへ去っていった。
 それ以来、美菜とは会っていない。幻だったのではないかと何度も思った。しかし、バスケットはずっと残っていた。住んでいるプレハブ小屋に、今もそれはある。
 そして出会ったのだ。こんな形で。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 反旗の色は ( No.64 )
日時: 2012/03/04 23:55
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 秋風の中でマントを泳がせながら、罪状を読み上げる刑吏。しかし、その声はリーフの中に入ってこない。風が長い一本結びの黒髪を、まるで生きた蛇の如くうねらせる。
 彼の心を占めるのはただ一つ。怒りの感情のみだった。
 その怒りの牙が向けられる先はどこか。目の前にいる刑吏、金塊を持つ将軍、このユビル帝国の貴族。それに間違いはない。
 ただ、一つ忘れている存在がある。それは彼、リーフ自身だ。
 いつも、何もできなかった。本妻に虐めぬかれる母、フィギアス家を追い出された時、そして血を吐き死んでいった母。力がないとは何と悲しいことか。結局何も変わらない。変えることなど出来やしない。

 ——でも。

 リーフの、目の色が変わる。その手には、隠し持っていたナイフ。フィギアス家の紋章が刻まれた、七歳の時に異母兄カレルからもらった宝物。「自分の身と大切なものは自分で守れ」と、十四歳の少年とは思えないほどのはっきりとした口調でカレルはそう言い、リーフにそれを渡した。
 その時、リーフは王宮で貴族の子供に虐められていたのだ。卑しい妾の子、と。
 そこを、通りがかった兄がこのナイフを突きつけ、フィギアス家の紋章を彼らに見せつけた。リーフに手を出すことはフィギアス家を敵に回すことであると、厳しい口調で言って。

 このナイフを、処刑に立ち向かうために使ったと知ったら、兄は何と言うだろうか。
 カレルは、ユビル貴族の頂点に立つ存在で、軍でも相当の要職に就いている。きっと許しはしないだろう。
 リーフは母を殺した貴族を憎んでいる。しかし、兄を憎んだことは一度たりともなかった。幼い頃から、優しかった彼の姿しか見たことがない。だから、兄を裏切るようで少しはためらった。

 ——自分の大切なものは自分で守れ。

 ふと、そんな力強い言葉が、灰色の雲がかかる秋空から、彼の目の前に落ちてきた。
 そうだ。それなら、全てを裏切ったことにはならないのではなかろうか。
 リーフは強くナイフを握る。そして、暗い処刑場を切り裂くように飛び出した。恩人を守るために、何より、心の弱い自分に牙を立てるために。

「邪魔をするか!? この愚民が!」

 長い黒髪を揺らし、飛び出した途端、帝国兵達がリーフを取り囲む。彼らの胸元には鷲の紋章。フィギアス家が代々長を務める近衛軍の人間だ。
 現在のトップはカレル=フィギアス。きっと、カレルはこのことを知らないだろう。知っていれば、こんな見せしめのような刑を許すはずがないと、リーフは信じている。
 武術はフィギアス家にいたころ手解きを受けた。さらに、このスラムでの厳しい生活。近衛兵にも後れを取ることはない。
 もし、それが二、三人相手であったなら。
 しかし、今は少なくとも二十人はいる。ノーテンスでもないリーフには、装備の差からも厳しい戦いだった。

 水のない噴水を背にして、なるべく囲まれない位置を取る。微笑むヴィーナス。その下で、リーフは腹をくくる。母譲りの碧眼で、まっすぐ帝国兵を睨みつけ、兄譲りのナイフを、迷うことなく敵に向けた。
 処刑を見に来たスラムの人々は、皆あっけに取られて声を上げることもできない。それでも、その場を離れるものは一人もいなかった。外にいる住人の目という目は噴水周辺に釘付けになり、周囲を囲むレンガ造りの建物全ての窓からは、老若男女の視線が注がれていた。
 そんな中での、一人の戦い。
 砂埃を上げて束でかかってくる斬撃を、一つ一つ冷静に見切り、隙をうかがう。時には噴水から離れ、時には噴水に背を当てる。そして、いけると思えば的確に相手の喉元を切り裂いた。次の瞬間にはまた間合いを取り、次の隙を探す。それの繰り返しだ。

「そのナイフ、窃盗品か? その紋を何と心得る!?」

 目ざとく隊長格の兵士が、リーフのナイフを指差した。
 窃盗品と見なされたのは彼にとって心外だが、幸いだったと言ってしまえばそうだろう。もしこの兵士がもっと位が高く、幼い頃のリーフを知っていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
 彼だけならどうなっても自身のことだから構わないが、カレルまで巻き込むことになると考え物だ。まだ兄を大切に思っているから、リーフは彼の邪魔をしたくなかった。

「あんたこそ、その胸に付いている紋をなんだと思っている? それは力と誇りを表す鷲だ! あんたらに誇りなんてあるのか? 馬鹿馬鹿しい!」

 リーフは強い口調で言い返す。フィギアス家の紋はリーフにとって良い意味もあり、また悪い意味もある。前者はもちろん優しい異母兄との記憶。カレルはいつもこの紋章について誇らしげに語っていた。

 ——力があるから、誇りは何より大切にしよう。誇りを失った強者はただの獣だ。

 これは、カレルの師であるハデス=シュレインがよく言っている言葉。幼いカレルも、それを真似して弟に伝えた。
 だから、目の前の兵たちの胸の紋章を見ていると、リーフは無性に腹が立ってくる。大切な思い出を汚されたような気持ち、そして何より、兄を侮辱されたように感じるのだ。
 リーフは隊長格の男の紋章をナイフで突き刺す。胸を裂かれた兵士は地面に崩れ落ちる。
 もう一度間合いを取ろうと、リーフは後方に下がるが、それが大きなミスだった。
 同じ動きを繰り返していたため、行動が読まれていたのだ。

「……くそ」

 完全に囲まれた。前、右、左と辺りを見渡すが、逃げ道はどこにもない。
 兵士たちは一斉に、それぞれの武器を持って彼に向かってくる。
 リーフは覚悟を決めてナイフを構えると、何となく、先程美菜が見ていた背後の噴水に目をやった。
 キューピッドは、この戦いの中まだ戯れている。
 ヴィーナスも相変わらず天を仰いで——いなかった。
 驚くことにリーフを見つめ、彼に向かって手を差し伸べていたのだ。
 思わず、青年は両手をヴィーナスへと伸ばす。すると、突然辺りが純白の世界に変わった。

Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 外伝 反旗の色は ( No.65 )
日時: 2012/03/10 23:45
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 白い世界。
 それ以外説明しようがない。足をつけている地面も、そこから天を仰いでも、どこを見ても白一色なのだ。明らかにこの世ではない、どこか別の空間。それだけはリーフにも直感的に理解できた。
 下手に動くと危険かもしれない。かといって何もしないでじっとしていたら、元の世界に帰る手がかりすら見つけられないだろう。
 悩んだ挙句リーフは後者を選び、慎重に足を進め始めた。

 しばらく行くと、初めて白以外のものが見えた。
 いや、色で表すと違和感があるかもしれない。そこには拳ほどの大きさの光が浮かんでいたのだ。何とも言えない魅力が漂っている。ある意味病的とも言えるだろう。見たら触らずにはいられない。簡単に言うとそんな感じだ。
 リーフはその光の中心に右手を入れる。中は暖かかった。どう感じるのかは人それぞれかもしれないが、リーフには母親の手を握った時のように不思議な、それでいて懐かしく心安らぐ気分になっていた。
 その時、突然光がより強く輝きだした。リーフは驚いて手を抜こうとするが動かない。何かとても強い力で手を握られているようだ。
 慌てるリーフを尻目に光は語りだす。高く透き通った、寂しく疲れきった口調で。

「かつて世界には神々がいた。その中でも、三人。兄と姉と妹と。仲のよい兄妹だったが、次第に兄と妹達は対立し、世界を分ける戦いとなった。妹達は人間の中から優れた若者を選び出し、自らの印を付けて力を与えた。そして対立していた兄を倒し、世界を巻き込んだ戦いは終わった。そして妹達は壊れた世界を再生した」

 最後だけは、はるか昔より伝わる伝承と全く同じだった。
 古の大戦後、神々が世界を再生したという伝説は小さな子供でも知っている。また、経緯や細かい理由は置いておくとすると、神々が人間達に印を与えた、というところも伝説にある。
 その印を与えられた人間というのは、五大家の祖先達。日本の天皇家と天宮家、ウル民族区のハン家、ダルナ連合のガダフィ家、そしてユビル帝国のフィギアス家。
 捨てられた身とはいえ、リーフはそのフィギアス家の出身である。だから、光が語りだした伝承を他人事のように感じられなかった。彼もフィギアス家の祖先である“緑風”フィン=フィギアスの血を、間違いなく引いているのだ。

「誰、だ? それに今のは……」

 光の声が一度途切れたところで、リーフは畏怖の念を浮かべた表情で訊いた。答えて欲しいことは山のようにある。自分の知らないこの世界の歴史。知ることは恐怖であり、また快楽でもある。
 始めは恐怖が占める割合が多かったが、すぐにそれらの気持ちは逆転した。

「古の大戦の物語。葬り去られて伝説と化した歴史。多くの犠牲を払ったあの戦い。でも世界は戦い続ける。平和なんて来るのか分からない。醜い戦い。変わりたいのに変われない自分。何も変えられない。でも今に満足できない。何で? 分からない。でも、何かを——変えたい」

 リーフの問いに答えたその口調からは、無念さがにじみ出ていた。
 光は自身が何者であるか告げなかったが、おそらく古の神の一人なのだろう。そして、何よりもリーフが心を打たれたのは“変わりたい”と強く願うその心。彼もそうだ。変わりたい、何かを変えたい。だからこそ、処刑を止めるという行動を起こしたのだ。

「……私は古の姉神。妹と兄の対立から始まって、しばらく私は傍観していたけれど、一向に戦いは終わらず、結局妹についた。それで戦いは終わったけど、血は流れた。たくさん。そして自分に失望した私はこの世界に閉じこもった」
「それが、世界の正しい歴史か? ずいぶんと違うんだな。兄妹なんて今の伝承じゃ一言も」
「歴史なんてそんなものよ。どの歴史も時の権力者の都合でどんな風にも変えられるし、それについて私はとやかく言おうとは思わない。私の愛する子達がそうしたいと望んで、正しい歴史を葬ったのだから」

 姉神は“愛する子達”と言った。子というのが人間達のことだというのは、言うまでもない。いくら血に塗れた戦いをしようとも、自分の思い通りにならなくても、それでもなお、彼女は人間を愛していると言ってくれたのだ。

「あなたを導いてきたヴィーナス像は私のしもべの一人。思ったとおりね、血族の子。あなたと私は良く似ている。何かを変えたいと願っている。でも、違うのはあなたが行動を起こしたところ。私は閉じこもっているだけ。あなたには諦めて欲しくない。力をあげる。何かを変える力を」

 ぼやくような口調でそう言った姉神。リーフに疑問を挟む余地はなかった。すぐに光はリーフの腕を通して全身に入っていく。
 全て終わった後に残ったのは、自身の中に突如生まれた圧倒的な力を感じているリーフ、そしてその足元に一本の小さな木だけ。淡い光を放つそれはどこか嬉しそうであった。きっと、姉神だろう。

「あんたは、何がしたいんだ? 俺に力なんて与えて」
「私はすべての人を愛している。でも、その中でもかつて狂おしいほど愛した一人の人間がいた。彼の名を、フィン=フィギアス。あなたはその子孫。あなたの力になりたい。フィンに何もできなかったから。気をつけて、リーフ。これから世界はまた戦いに明け暮れる。兄神の復活」

 木となった姉神はそこまで言うと、突然緑色の光を出した。光はリーフの横に集まり、門を作る。そのはるか向こうにはスラムが見えた。
 今なら何者にも負けない。彼女の力を得た今なら。
 そんな自信がリーフの中で満ち溢れてきた。美菜を助けられる。気がおかしくなりそうなほどの喜びを噛み締めている青年。そんな彼に向かって、木はゆっくりと話し始めた。
 
「最後に、リーフ。何か困ったことがあったら、私の妹を頼りなさい。“末姫”という名よ。たぶん今でも人間として転生を繰り返しているはず。長い黒髪と白い肌に憧れていた子だから、きっとそんな感じの姿をしている。あなたを見たら向こうから話しかけてくるわ。懐かしい私の力を感じて。その時はよろしく言っておいてね」
「長い黒髪に白い肌、か。分かった。本当にいろいろとありがとう。女神——」
「——私の名は姉神。もしくはフィンが昔付けてくれた名、皐姫」

 それを聞いたリーフはフッと笑って緑色の門の中へと入っていった。
 彼がある程度進んだところで門は消える。何もなかったように、跡形もなく。
 そんな白い世界で、門が消える寸前にスラムの英雄が叫んだ言葉だけが響いていた。

 ——また会おう! 皐姫!

 残された小さな木の葉の上には、一粒の雫が付いていた。

Re: 【あらすじ】ノーテンス〜神に愛でられし者〜【追加】 ( No.66 )
日時: 2012/03/20 01:24
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Pc9/eeea)

 門を抜け、白い道を行くと、そこから見えるスラムはまだ遠くだというのに、リーフの体は強烈な光に包まれた。
 あまりのまぶしさに、リーフは思わず目を瞑る。
 それからどのくらい経っただろうか。おそらく、一分と経ってはいない。光が消え、目を開けると、そこは先程の広場であった。
 時間は皐姫の白い空間に飛ばされた時から、全く進んでいないようだった。兵士たちは彼を取り囲み、武器を振り上げている。兵士の隙間から見える美菜は涙を水色の目に溜めて、わずかに見える青年を凝視していた。
 リーフは短剣を目の前の兵士に向かって突き出す。それは正確に兵士の胸を捉え、兵士は血を吐きながら絶命した。
 しかし、それだけでは終わらない。兵士の傷口から植物の蔓が溢れ出てきたのだ。蔓は一瞬のうちに辺りの兵士の絡みつき、その動きを止める。
 その隙にリーフは高く跳んで包囲を抜けた。跳躍力は以前とは比べ物にならず、蔓といいそれといい、リーフが皐姫からもらった能力はやはり人間離れしたものだった。
 結んだ黒髪が宙を上下左右、鮮やかに舞う。
 スラムの青年は残った兵士を一人、また一人と倒していった。最初に彼を包囲していた兵士たちは、蔓に首を絞められてもう生きていない。

「俺達も……武器を取れ、野郎共! 嬢ちゃんを守れ!」

 リーフのその強さを目の当たりにし、スラムの人々は次々と武器を握って乱入した。
 貴族側から見たらおぞましい虐殺であったが、スラム側から見れば、仲間を救うための戦いだった。そして、リーフはスラムの人々にとっては“虐殺者”ではなく“英雄”。颯爽と現れ、貴族からスラムを守ろうとする義士であった。

 一人の男の反抗から、スラム住人の乱入によって大暴動と化したこの処刑。
 リーフはそれに乗じて、すばやく美菜の元へ走る。すると、この処刑を仕切っていたユビル軍“鷲”、齢六十の老将軍シュラバスが立ちはだかった。
 黒いマントをなびかせる姿は、さすがに威厳がある。長い白髪と銀の髭はスラムの風に流れるが、しゃんと伸びた背がなびくことは決してない。
 シュラバスはしわの多い顔をしかめ、リーフの顔をじっと見つめた。その表情は徐々に困惑の色へと変わっていく。そして、短剣を目にした時、明らかに目の色が変わった。

「あなたは、まさかリーフ様? 何故このような」
「久しいな、シュラバス……よもやこのような形で再び相見えることになろうとは、思いもしなかったぞ」

 シュラバスの問いに、リーフはわざと見下すような口調で答える。その声は冷たく、鋭い殺気に満ちていた。老将軍は、迷いながらも槍を構える。
 彼は、かつてリーフの教育係だったのだ。根っからの貴族主義者で、他民族やスラムを低く見る傾向があったものの、子供のないシュラバスはリーフを実の息子のように可愛がっていた。また、リーフ親子を追い出すと言った義母に、最後までこの老将軍は異議を唱え続けてくれた。
 できるものなら、殺したくないとリーフは思っている。しかし、現実はそう甘くはいかない。ここで彼を殺さなくては、スラムの暴動は収まらない。それどころか、シュラバスを通してリーフのことがカレルに知られてしまう。それだけは、避けたかった。

「俺は、この貴族社会を否定する。全部が間違っているわけじゃないなんて、甘いことは言ってられない。力を手に入れた。俺は、家を、スラムを守る。自分の大切なものは自分で守る!」

 リーフの言葉を、シュラバスは静かに聞いていた。その顔に、怒りの色はない。一度頷き槍を構えたその表情は慈愛に満ちていて、不意にリーフは鼻の奥が痛くなった。それでも、かろうじて涙は流れていない。ただ辛そうに唇を噛んで、師を見つめていた。

「……立派に、なられましたな。しかし、最後に言っておきたいことがあります。このシュラバス、たとえ今あなたに殺されようとも、あなたはいつまでもわしの愛しい教え子です」

 そう言うと老将軍はリーフに向かって槍を奔らせる。だが、皐姫の力を得たリーフに効くはずがない。ひらりと避けて、リーフは深々と短剣を師の首に突き立てた。
 母譲りの碧眼からは、涙が一筋流れる。今まで胸にしまっていた、フィギアス家での思い出と共に。

 シュラバスの死を確認すると、静かに、リーフはのどから短剣を抜いた。血が溢れる。この手で師を殺した。しかし、不思議と後悔はしていなかった。
 これでよかったのだと、リーフは一度スラムの空を見た。雲の合間から見えるのは、老将軍の凛とした目と同じ色の青空。シュラバスは、迷わず天へ旅立てるだろう。
 遺体の横に立ち、リーフは一度軽く頭を下げる。それが、せめてもの追悼だった。
 
「リーフ=フィギアスって本当なの?」

 美菜の鍵を壊そうと、リーフが隣に屈んだ時、彼女は小声でそう訊いた。先程の話はすべて聞いていたようで、複雑な表情で彼を見ている。
 周りに聞こえないような声量で訊いたのは、彼女の気遣いだろう。もし、彼が大貴族フィギアス家の次男と知れたら、このスラムにはいられなくなる。ここを家と考えているリーフにとっては、耐えられないことなのだ。

「忘れてくれ。もうあの家に戻るつもりもない」

 リーフは静かに言った。その頃にはもう戦いは終わったらしく、こちらに人が近づいてくるのが見える。
 開放感溢れる人々の顔。当然だろう。今まで散々虐げられてきた貴族に勝ったのだ。そして、その誇らしい表情の先にはリーフがいる。スラムの名もなき英雄。歓声と共にリーフは立ち上がった。その横にはうれしそうに水色の目を細める美菜がいる。

「今日、この時、この場所が、反ユビルの始まりだ! 俺は今のユビルを認めない。大切なものは自らの手で守る!」

 そう宣言したリーフに、割れんばかりの拍手が起こる。スラムの男も女も、若者も年寄りも、皆リーフを称えて、何人もの追随者が現れる。
 若き指導者はシュラバスの遺体の横に戻り、その槍と黒いマントを取った。そして、その黒いマントを広げ、再び短剣で老将軍の喉を刺し、その血で黒いマントに罰印を描く。それからマントを槍に括り付け、旗のようにそれを高く掲げた。

「俺の名はブラック! そして俺達は反ユビル組織“霧”! 自由が欲しい奴は俺に付いて来い!」

 黒い旗を掲げた反ユビル組織“霧”。それは弱い自分に見切りを付けたいと願った青年の、望みのない反抗から始まった。
 そして、彼らは混濁の世に。歴史の激流の中で彼らが辿り着くのはどこか。破滅か自由か、それとも……


 あとがきです
 ここを書いたのは、二年と幾月か前、でしょうか。書き直しに際して話の内容に手は加えていませんが、読んでいて分かると思います、地の文が、長いんですね。台詞は少なくて……
 何がひどいって、段落すらほとんどつけてなかったんです。
 そんな感じの、外伝、反旗の色は、でした。
 次は予定通り、シアラフに戻ります。最後にシアラフ書いたのって、去年の十月なんですね。お久しぶりです。当時は受験生でした。

 それでは、第四章特別攻撃隊、またお付き合いいただければ幸いです