複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.8 )
- 日時: 2011/03/23 17:01
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: tQGVa0No)
場所は、戦場から変わる。
夕日が沈んだ後の、暗い森の中にあるみすぼらしい小屋。外では雪が降り、かなり積もっている。小屋の周りは最低限人が歩けるように除雪されていて、それと小屋から漏れる明かりが少し不気味な森で人間がいることを示していた。
そんな小屋の中では二人の話し声が聞こえる。
外から見たらただの薄汚い小屋だったが、中は意外と掃除が行き届いている。玄関にはシアラフでは珍しい桃色の花が小さな植木鉢に植えられていて、さらにほのかに香の香りが鼻腔をくすぐる。そんな小さな風流心は、その小ささゆえに輝いていた。
ただ、一度歩いてみると分かる。床は軋み、今にも抜けそうな箇所もある。つぎはぎで何とか直した跡も見受けられるが、どうしても行き届かない場所は存在するようだ。そんなところが、この香が焚き染められた風流な小屋が、実はボロ屋であることを思い出させる。
部屋は三つあり、一つは個室となっている。もう一つは台所。そして一番大きな部屋はダイニングルームとして使っているようだ。
その比較的広い部屋のテーブルを挟んでアレスとエリスは椅子に座っていた。テーブルの上にはお世辞にも十分とは言えないほど少量の料理が並ぶ。当然といえば当然である。人一人やっと生活していけるほどの収入で二人生活しているのだから。
「今日の料理、どうかな? この前獲ってきたウサギの肉、もうなくなっちゃってさ。しょうがないから魚獲ってきたんだけど」
少女は少し申し訳なさそうに言った。アレスは肉が好きなのである。十七歳といえば育ち盛りで、本来ならどんなに食べても足りないほど。それが“少女”で無く“少年”となれば尚更だ。本当なら魚ではなく肉を食べさせてやりたいところだが、そう上手くいくことはほとんどなかった。肉は高級品で、とても今の収入では買えない。自分で獲ろうとしてもいつも目の前にいるわけではなく、しかもエリスは狩猟の達人でもないのだ。その面、魚なら何とか買える上に川や湖に張った氷を割ればわりに釣れる。シアラフでは重要なタンパク源の一つであった。
「ん? 俺、魚も好きだから大丈夫」
アレスは魚を骨ごと食べながら言った。せめて物を食べているときは口を開くなと、エリスは思うがそれは言わない。言っても直らないことはよく分かっている。注意しない代わりにエリスの中では違う不満が湧き上がっていた。
「私の料理だからおいしいってのは、関係ないんだ……」
粉雪のように淡い声は、食事に熱中している少年の前では儚く溶けて消えてしまった。
はぁ、と少女は思わずため息をつく。持つだけ無駄な期待なのは少女も分かっている。分かってはいるのだが、それでも多少の寂しさは感じるものであった。
一方、浮かない表情をしている上に、ため息までついた少女を見て、アレスは心配そうに彼女の澄んだ碧眼をじっと見た。
「どうかした? エリス」
それを聞きエリスはもう一度ため息をつく。やはり分かっていないのだ。寂しさは次第に怒りへと変わっていく。
「なんでもない。うん。本当になんでもない。気にしないでもらって構わない」
エリスは早口でそう言うと、残り少ない料理を再び食べ始めた。アレスはしばらくそんな少女を思案顔で見つめる。しかし、結局何も分からなかったらしく、気まずくなったのか横に置いてあった水を一気飲みした。
料理を食べ終えてエリスは後片付けに入る。昔はアレスが手伝おうとしたものだったが、壊滅的に手際が悪く、最近では何も言わずにただおとなしく椅子に座っている。その手には渡しそびれたリューシエの焼き菓子。何もしないほうが効率はいいから問題はないといえばないのだが、所在なげに座っている軍属の少年とはなんとも滑稽なものだった。
エリスが食器を戻しに台所から帰ってきたところで、おとなしく座っていたアレスはふと口を開いた。
「ちょっとこれから忙しくなるかもしれない」
「そう。何かあったの?」
食器を片付けながらエリスがそう訊く。棚の上のほうにしまいたいから、彼女は一所懸命に背伸びをしている。だから話しかけてきたアレスの顔を見ることはない。しかもアレスの声が軽いものだったため、何気なく打つ相槌のような口調で返した。食器はなかなか上手い具合に棚に収まらない。何度か上手く載せようと悪戦苦闘していると、アレスが先程と同じような口調でさらりと言った。
「アレン王子が反乱起こしたらしい」
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.9 )
- 日時: 2011/03/25 16:30
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: tQGVa0No)
「……え? は、ふぇ、あわ!」
背伸びをしていたエリスはそれを聞くと、少しの間そのまま固まっていたが、はっと我に変えるとその途端バランスを崩した。エリスは何とか踏み止まったが、食器は手から落ち、真っ逆さまに床へと吸い込まれるように急降下する。しかし激突する前にアレスが何とか間に合い、皿を受け止めた。エリスはほっと胸を撫で下ろす。食器一枚買うのにもかなりの金がかかるのだ。ただでさえ金欠なのに余分な出費を重ねるわけにはいかない。
「ありがとう、アレス。それより、あの……」
エリスは礼を言うとそのあと何かを言おうとした。しかし留まる。彼の仕事のことについて、事実上使用人である自分が口を出すべきではないと思ったのだろう。アレスは黙って食器を難なく棚に戻す。そして先程の椅子に座った。
「……アレン王子と平民達。勝ち目がないことくらい分かってるだろうにな」
アレスはエリスが何を思っているか的確に理解していた。反乱の内容を簡潔に言うとつまりはそういうことだ。アレスはいつもと同じ冷静な口調で説明した。しかし本人は気付いていなかったかもしれないが、その手はかすかに震えていた。
ここで反乱首謀者について書いておこう。アレン王子とはこの国の第一王子だ。生真面目な青年で貴族からの支持は無に等しいが、平民からは絶対的な人気を誇る。おそらくその真面目な王子は、暴君を絵に描いたような父のことが許せなかったのだろう。そして愚かと知りながらも、とうとう行動に移したというわけだ。
「ま、王位継承権まで弟に移されたんだから、そうするしかないだろ」
「そうだね……ねぇ、アレスは、もちろん王子と戦う、の?」
「そうなるな。それに、俺は……いや、なんでもない」
兵器だから、とアレスは答えようとした。少なくともそれは彼にとって変えようのない事実である。しかしそのことを口に出すことは、なかなかできない。
彼は二年間この少女と共に過ごしてきたが、まだ一度も自身が“生物兵器”であることを話していないのだ。軍人だと、それだけしか話していない。さらに、エリスもエリスで必要以上に詮索しようとしたことはなかった。
兵器であって人間ではない、それはずっと昔に彼自身が導き出した結論である。それを忘れたわけではない。しかし言えなかった。どこに自分から生物兵器とともに暮らそうとする人間がいようか。答えは考える前から出ているだろう。
あるいは、これなら兵器であると簡単に割り切っていた頃のほうが楽だったのかもしれない。もっと言えば、ある種の幸せだったのかもしれない。
後世の歴史に残る大事件、シアラフ反乱、その歯車が回り始めた一場面。想いを乗せた冷たい春風は、次の場所へと走り去る。