複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.81 )
- 日時: 2013/02/25 23:46
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: YSxnKZLO)
すぐに分かる(?)これまでのあらすじ
ユビル帝国の、軍事介入が始まる。圧倒的な軍事力を前に、総隊長リョウ=レヴァネールは、最強の生物兵器である弟アレスの投入を決める。
だが、兵士達からの反発は強い。とうとう、部隊はバーティカル大公ロイドを立てて、単独でユビル帝国軍との戦いを開始する。
むろん、勝てるはずがない。窮地に陥った彼らを助けたのは、アレス=レヴァネールその人だった。真に強く、真に頼れる軍人。ロイドをはじめ隊員達はアレスに忠誠を誓うのであった。
第五章 悪魔の贖罪
雪深い森を通り、その昼でも暗く空の見えぬ道なき道を行くと、突然と、視界が明るく開ける。眼前には凍った湖が現れ、その上を、白いウサギが赤い目をくりくりとさせながら、滑ることなく走り去っていった。
その、湖の先である。一軒の丸太小屋が、ひっそりと建っていた。手入れの行き届いた小さな木々は、雪の中でも健気に葉をつけ、また赤い実を下げている。
その下に、足跡があった。見ると、小屋からその裏へ、ずっと続いている。風が吹いた。誰か、女性のすすり泣くような音が、冷たい風の中から聞こえた気がした。
「トィマヨシャースティエ」
足跡を辿って森をいくと、そんな、透き通った声が、はっきりと聞こえてきた。
大きな木の陰に立ち、そっと様子をうかがってみる。すると、そこには朽ちた石造の厳かな建造物があった。おそらく、宗教的な意味を持ったもので、似たような神殿が、ユビル帝国でも見られる。
その、神殿の石畳。銀髪の少年が、膝をついて一身に祈りを捧げていた。この寒い中、着ている黒服の袖はない。筋肉質の白い肌が、露わになっていた。
そう。生物兵器、“銀露”こと、リューシエである。
生物兵器。それは、シアラフ王国が半ば専売特許のように研究開発を行ってきた、生体兵器の通称。ユビルや日本などの強国があるのにも拘らず。何故だろうか。
「トィマヨシャースティエ」
リューシエは、目を閉じて両手を堅く組みながら、もう一度、その言葉を口にした。
生物兵器開発。別に、他国が人道的な面などを鑑みて手を出さなかったわけではない。理由は至極単純。技術がなかったのだ。この研究を代々行ってきているのはシアラフのキルギスという一族。門外不出の資料を先祖代々守り、そして日々発展させている。
シアラフという大した資源もなく、厳しい自然環境にある弱小国家が、何故今までダルナ連合のようにユビル帝国の属国とならなかったかと言うと、実はこの生物兵器技術によるところが大きい。
「スパスィーバ、バリショーエ」
少年はそうつぶやくと、初めてまぶたをゆっくりと上げた。金色の瞳は、まっすぐに、神殿の中央にある朽ちた像を見つめている。もはや、それが何物か分からない。それでも、リューシエは見つめ続けた。
そのとき、少年の金の瞳が、初めて揺らいだ。すぐに口に手を当てる。苦しそうに表情は歪み、伸びていた背中はエビのように丸まった。
しばらくして、口元から手を離すと、その手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
生物兵器。それは大きな力と引き換えに、酷使しすぎた肉体の崩壊というリスクも背負っている。
リューシエは自嘲気味に乾いた笑い声を上げると、その場からすっと立ち上がった。灰色の空を見上げると、神殿に深く礼をして、元来た道を戻っていく。
「ダスヴィダーニャ」
古いシアラフ語で、さようならと、澄んだ声でそう言って、少年は去っていった。後には、朽ちた神殿が、ただそこに建っているだけである。
生物兵器。
その長い歴史を見ても、現反乱軍特別攻撃隊隊長のアレス=レヴァネールほどの完全体はいないと言われている。ノーテンスで、しかも、その中でも優れた力を誇る。氣術、武術、戦いにおいての機転……何を取っても彼は完璧すぎた。
しかし、彼が完全体と謳われる一番の理由は他にある。アレスは戦場で己を失わないのだ。一般的な生物兵器は何度か戦いに出ると、気が狂ってしまう。
当然だろう。荒療治の改造のショックで精神的に元々弱く、その上、幼い者は五歳くらいから戦場に放り込まれるのだ。
狂っていない生物兵器は、指の数で足りる。かの天才軍人シン=ウェンダムは、かつてアレスのことを「まだ人間に戻れる」と言ったことがあった。その言葉の通り、奴隷少女エリスと出会って——本人がどう思っているかは別として——彼は人間に戻ることができた。
「エリスは、今回の戦いは怪我のこともあるし、出てくるなよ」
件の最強の生物兵器は、森の中を行く軍勢の中で、ひたすらに前を見ながら言った。その格好は、この寒い中、先ほどのリューシエと同じような袖のない服。だが、水色であるということだけは、黒服のリューシエと比べて違っていた。
「もう大丈夫だよ、アレス。リョウさんの治療のおかげで。ゴーフル伯爵戦はただでさえ厳しいんだし」
長く美しい黒髪をゆらしながら、エリスは隣の少年の手を握った。ゴツゴツと大きいその手のひらは冷たく、かすかに震えていた。
ゴーフル伯爵。それは、バーティカル大公家と同じくらいの長きに渡り、王家を支えてきた名門一族で、その領土は王城がある天領のすぐ隣に位置している。アレス達が謹慎していた間に、反乱軍は日本軍の力を借りて、兵をそこまで進めていたのだ。
「生物兵器が、おそらく相手の主戦力だ」
「そのくらい分かってるよ、ゴーフル伯爵家っていったら生物兵器開発の責任者でしょ」
複雑な表情をするアレスに、澄んだ碧眼で返答するエリス。少年はさらに気難しげな顔になり、黄緑色の頭についた雪をくしゃくしゃと払った。
「リューシエとだって、戦う。お前に、そんなの見せたくない」
アレスは、少女の手を強く握り返した。やはり、震えている。エリスはそっと、もう片方の手も重ねた。
「だからこそだよ。アレス一人になんてできない」
そう言って明るく微笑むエリスから、アレスは思わず目をそらす。潤んだ碧眼が、笑顔の下に見えてしまったのだ。
それでも、その手を離すことはできない。強く握り、そして決戦の時は、刻一刻と迫ってくる。
刻一刻と迫ってくる決戦の時。流れては過ぎていく時間の中、反乱軍を迎え撃つゴーフル伯爵軍では、甲高い笑い声が響いていた。狂ってしまった生物兵器たちである。誰も近づこうとしない。彼らは、たとえ味方であっても、時としてその刃で手にかけてしまうのだ。
「なんでかなぁ……」
狂気に満ちた生物兵器の軍勢の中で、憂いのこもった少女の声が一つ聞こえた。蒼く長い髪をした生物兵器。生物兵器隊長の露である。桜の紋が刻まれたペンダントを握りしめ、灰色の空をただひたすらに見上げていた。
「ねぇ、アレス君、どうして……?」
ぽつりとつぶやいた、偉大だった生物兵器の名。最強、完全体、理想。ついこの間まで、生物兵器の頂点に立っていた。そう、つい、ほんの少し前までは。
「置いてかないでよ、どうして、みんな私を置いてくの? アレス君、リューシエ——」
——お兄ちゃん。
と、言葉は続いたが、その途中から、少女の声は震え、肩をゆらし、とうとう甲高い声で笑い出してしまった。目の焦点は合っていない。どこを見るでもなく、笑い続ける。ほかの生物兵器達と同じように。
そばを通った生物兵器の肩が、そんな露に当たった。と言っても、少し触れたくらいである。
次の瞬間。文字通り、瞬きする間に、その兵器の首は白い雪の上に落ちていた。赤く染まっていく地面。無数の刃に変形した少女の髪は、わずかな風の中で妖しく揺れていた。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.82 )
- 日時: 2013/01/31 11:05
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: 1SUNyTaV)
戦いの舞台であるゴーフル領は、森の占める割合が圧倒的に大きい。
そのため、戦場は雪の積もった森、その木々の合間を縫って。見通しがこの上なく悪く、戦いにくい。
だが、それは敵も同じ。普通ならそのはずであるが、相手方の主戦力、生物兵器にその常識は通用しない。彼らは視力、聴力などの感覚も改造によって常人離れしているのだ。
ただ、そうだからと言って反乱側が驚くことはない。生物兵器が如何なるものか。それは、同じ生物兵器である特別攻撃隊隊長のアレスが、全員によく言って聞かせていたのだ。
「奴ら木の上から来やがる!」
「一人で行動するな、死ぬぞ!」
生物兵器対反乱軍主戦力。
戦いは壮絶を極め、双方入り乱れ、地獄絵図となっていた。特に恐ろしいのが生物兵器。けたたましい笑い声と共に、刃と化した己の真っ赤な腕を振るい、血の舞う中倒れていくのだ。
そんな中で、アレスはエリスと共に、敵陣の最奥を目指して走っていた。背の高い木々の合間を、長く美しい黒髪が流れる。エリスは氣術で作り出した光の刀を手に、アレスは自分の両腕を巨大な斧に変えて、かつての仲間である生物兵器たちを切り刻んでいった。
その中に、見知った顔もあっただろう。それでも彼に容赦の二文字はない。
この二人の強さは、反乱軍内でも群を抜いている。同じノーテンスでもここまで違う——リョウや飛龍、勇一はそれをこの戦いで実感していた。
平和な世であったなら、それは畏怖への対象となるが、戦において圧倒的な力は味方からすれば絶対的な信頼。英雄。
そうして、二人は次々と敵を、振り返ることなく、打ち倒していくのだ。
「エリス! 頭ァ屈めろ!」
戦いの最中、アレスが隣で刀を振るうエリスに声を掛けた。斧と化した腕は淡い光を放っている。
次の瞬間、その腕の血管が無数に浮き出てきて、指を鳴らすような音が連続して聞こえてきた。
すると、急激に斧は大きくなり、刃の数も増える。
それを見たエリスは、敵の攻撃の隙を突き、すばやく体勢を低くした。
それと、ほぼ同時だった。
アレスの腕が、辺りを切り裂いた。視界に入る敵は全滅。それどころか、森だというのに、辺りには切り株しかない。足下には、二人を避けるように大きな木が一面に倒れている。空が開け、曇り空から、わずかに日差しがこぼれていた。
「ナイス、アレス」
「次行こうか、エリス」
二人は互いの武器を合わせる。「次も援護を頼む」といった意味のそのサイン。エリスは満足そうに微笑み、アレスはどこか複雑そうな表情を、微笑みのしたに隠す。
そして、どちらが言うでもなく、二人はさらに奥へと走っていった。
一方で、同じ戦場の、ある一場面。森の中。反乱軍と生物兵器の戦いが続く。
そこでは、二人の水色の軍服を着た青年が、背中を合わしたり、また、離したりしながら、武器をふるっていた。隙をつき、大樹の陰に隠れ、次の瞬間には、磁石のようにぴたりと背中が合わさる。一人は蒼い短髪、もう一人は、長い金髪を優雅に揺らす、美しい男であった。
「生物兵器って言ってもこの程度か? ぬるいもんだぜ、なあ、コウタ」
金髪の男が、一体の黒髪の生物兵器の喉に剣を突き立てると、それを勢いよく引き抜きながら鼻で笑った。名を、ティクシ=ウェンルという。
「そうやってすぐ調子に乗る。生物兵器は生物兵器でも、アレス隊長なら、僕たちなんて瞬殺だろうさ」
そう返した青髪の男、コウタ=ドレイルの表情は、幼なじみをたしなめつつも、どこか誇らしげであった。つい先日まで、目の敵にしていた生物兵器“氷心”である。ところが、今では何よりも尊敬する軍人として見ている。
そんな親友を横目で見て、ティクシも輝く笑顔を浮かべた。
「隊長は反則だ、反則。俺らの隊長は、何たって軍神みたいな人だからな」
「軍神アレス、良い響きだな」
そんなことを言いつつ、先ほど隠れた木の上から襲いかかってくる生物兵器を一体、コウタは斬り捨てた。舞う血しぶきの中、対照的な蒼い短髪が、その存在を強く印象づける。
そんな時だった。ちょうど、辺りにいた生物兵器たちを、あらかた倒し終えたくらい。蒼い髪が、風を切り裂き、わずかな間だけだけ、ゆっくりと見えた。そして、目にも留まらぬ速さで、コウタの額をかすめる。同じような、蒼い前髪が、はらりと雪景色の中を落ちていった。
「貴様ら如きが、貴様ら如きがアレス君の名を口にするな!」
長い髪の先を無数の刃にした少女が、辺りで一番大きな大樹、その下にいた。速い。先ほどまで、コウタの目の前にいたはずだった。
蒼い髪が、たいした風もないのに、四方八方に意志を持っているかの如く動き回る。蛇に近い。うねりながら、刃一つ一つが、二人に牙を剥いているようだ。
コウタの額からは、一筋の血が流れる。蒼い眉毛を通り、そして、まぶたへと流れた。まるで、片目から赤い涙を流しているようであった。
「新手か!」
叫ぶや否や、ティクシが動いた。黄金の、一本にまとめた髪が、冷たい風の中を流れる。幹を蹴り、大きく跳ね上がると、その高い位置から、少女に向かってためらいもなく剣を振り下ろした。
「やめ——」
——無意識のうちに叫んだコウタの声は、絶叫によってかき消されてしまった。
剣を振り下ろしたティクシ。その背中に、いつの間にか少女が乗っていた。無数の刃が、青年の両手両足を貫く。必要以上にいたぶり、その苦しむ姿を見て、少女の口元は大きく上がった。
親友の危機を見て、コウタはやっと我に帰る。額の血を拭い、蒼い髪の少女へと刀を向け雪上を駆けた。頬の血は、流れたそのまま。血の涙は、まだ流れていた。
少女は、ティクシの背中から離れ、その蒼い髪を、走ってくるコウタへと向けた。無数の刃が、青年へと向かってくる。
それでも、彼はひるまずに突き進む。そして、ギリギリまで刃を引きつけたところで、コウタは急に体制を低くした。そして、その体制から、鋭い突きを少女に繰り出す。これは、天宮家の剣術。分家とはいえ、ドレイル家も代々伝えてきていたのだ。
少女の歯ぎしりが聞こえた。蒼い刃も、蒼い短髪の青年へと向かう。
「ただの人間、え……」
「あ……」
それは、ほぼ同時だった。
コウタの刀が少女の腹を狙い、また、少女の髪が彼ののど元へと進んだとき。
二人は、同時に見た。その刀に、そのつけているペンダントに、全く同じ紋がついているのを。
それは、天宮家を示す証。細輪に桜であった。
「何よ、今更……今さら、いまさら!」
少女は叫んだ。口の端が裂けて血が出る程、その整った顔立ちを崩した。眉の間には憎悪が溜まったように、深く濃くしわが寄る。その一本一本が、コウタに致命傷を与えていく。体ではない。心がどんどん崩れていく。名前すら呼べなかった。
生物兵器ツユの、足蹴りがコウタの腹に入る。抵抗もせず、もろに受けた青年は、そのまま雪の上を何度かはねて、木の幹にぶつかる。うめき声が聞こえ、その体の上に木の葉が数枚落ちた。
それっきり。青年が起き上がることはなかった。
「知ったこっちゃないわ、あっはははははは……」
高い木が生い茂る、暗い昼の戦場。それは、甲高い中に、どこか、暗さを感じさせる笑い声だった。
少女は、笑い声を上げながら、二人の存在など、もはや目に入っていないかのように、その場を去っていく。ティクシも、コウタも動けない。ただ、歩いていく少女の背中を見つめるだけである。
「ツユ……」
力を振り絞って、そうつぶやいた兄の言葉が、生物兵器である妹に届くことはなかった。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.83 )
- 日時: 2013/02/25 23:36
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: YSxnKZLO)
暗い森が開けた。
どれくらい生物兵器を斬ってきたところだろうか。エリスは、己の右手にある、光でできた刀を見つめた。そして、隣にいるアレスの刃と化した腕へも、ちらりと目を向ける。
深い森が開けた。
まだ気を抜くわけにはいかない。だが、それでも、目の前の光景は、戦場を忘れさせるには十分だった。
「きれいな、湖ね」
エリスは、アレスの真っ赤な刃を撫でた。森の先に広がっているのは、一面凍った湖。わずかな太陽の日差しにも輝き、その上をウサギが走っていく。幻想的で、またのどかな、光景であった。
刃は、いつの間にか逞しい腕に戻っていた。血まみれの手を握る。だが、アレスは一言も口を開かない。遠くを見据え、ただ、黙っていた。
そんな時、一陣の風が、二人の横を通り過ぎた。つややかな黒髪が湖のほうへと流れる。
「エリス!」
風を感じるや否や、アレスは少女を庇うように突き飛ばし、そのまま腕を振るった。既に刃へと姿を変えている。
黒髪を乱し、宙を舞うエリスは何とか雪に手をついて、体勢を立て直そうとした。腕が、積もった雪の中へと入っていく。雪に埋もれる形で衝撃を吸収すると、ちょうどアレスの横顔が見えた。風の中で黄緑色の前髪が舞い上がり、額のノーテンスの印が、はっきりとその存在を示している。
それと共に、見えた。青い髪。はらりと落ちていく。白い地面へと降り立つその時。
「やっぱり、殺さないんだ、私を」
声が聞こえた。少女の声。何かをこらえるように、震えていた。
エリスは見る。白い雪の上。氣だろうか。足は雪に少しも埋もれることなく、その上に平然と立っていた。
「露……」
「殺そうと思えば、殺せたでしょ? それとも、殺せない、かな、ねえ? アレス君!」
青いロングヘアを凍える風の中でなびかせて、少女は言った。歪んだその表情。くすんだ碧眼は、まっすぐ最強の生物兵器を射抜き、胸のペンダントは静かにその様子を見ていた。
「俺は、露、俺、は……」
切れ長の碧眼が揺らぐ。アレスは、下げかかっていた腕を、わずかに、上げた。光る刃の鉄色。しかし、雲がかかった太陽では、それも大したことはない。
笑った。甲高い声を上げる。露は、肩をふるわせ、そして片手で顔を覆い、天を仰いだ。
「あっはははははははは、傑作、本当に、本当に壊れちゃったんだ」
雲の合間から、かろうじて見える太陽。それに向かって、少女は笑い続ける。露は、生物兵器の中では数少ない己を失っていない兵器であった。だが、今はどうか。
アレスは気付いた。はっきりと、それが見えたのだ。その白い手の間から滲み出る涙が。
「何でかな、どうしてだろ、私の大切な人、みんな私を置いていく。どうしてだろうね」
顔を覆ったままの悲痛なつぶやき。露から見たアレスは、完璧な存在であった。生物兵器として、完全体であった元兵器隊長。遠すぎて届かない。だけれど、そんな彼を目指して、露は生きてきた。
胸のペンダントが揺れる。天宮家の紋、細輪に桜。すべてを見てきたそれは、雲に隠れた日差しのせいか、いつもの美しい輝きがなかった。
「やっぱり、あんたのせい?」
露は、ふいに顔から手を離し、立ち上がったエリスに目を向けた。彼女が現れてから、目に見えて生物兵器アレスの仕事は変わった。二人の少女の、一方は影のある、一方は充血した碧眼が交差する。
青い髪が、風もないのに天高く舞い上がった。見る見るうちに、無数の鋭い刃へと変わっていく。そして、そのすべてがエリスのほうを向き、牙を剥いた。
「やめろ! エリスに手を出すな!」
「ほら、その言葉。私の憧れた貴様なら! 私を殺すためならそんな子一人、目も向けなかったはず。やっぱり堕落させたのよ、貴様を、こいつが!」
露は地面を蹴った。雪の上を、舗装された道のように、疾走していく。速い。ノーテンスではない。生物兵器。だが、先ほどまで相手をしてきたのとは格が違う。
アレスは、エリスを庇うようにその前に立って、刃を向ける。
しかし、その瞬間、少年の目の前に黒髪が舞った。いつかの光景と重なる。エリスだ。光で盾を作って露の刃をすべて防いでいた。
「エリス、下がってろ」
「アレスは、分かるでしょ? 生物兵器がたくさんこっちに来てる。全部倒してきて。この人とは、私が戦う。一対多数はアレスのほうが効率良いから」
理にかなった言葉。それでも、なおアレスは躊躇する。腹に大きな傷を作って、どんどん血の気が失われていく少女の姿。重なった光景が、視界を占めた。誰よりも、何よりも大切な少女である。最悪の事態が、杞憂と知りながらも、何度も頭をよぎった。
そんな最中にも、露の刃が別方向から襲いくる。エリスは刀を振って、その全てを一瞬にして切り刻んだ。しかし、髪は次から次へと生えてくる。切っただけでは、簡単に終わらないようだ。それでも、エリスの澄んだ碧眼に、諦めの色はなかった。
「私を信用して、これでも、ずっとずっと、戦場を生きてきたのよ」
一度だけ、エリスは振り返った。静かに微笑む。
雲が流れ、太陽がはっきりと顔を出した。凍った湖は輝き、その間にも、露の攻撃が止まることはない。その全てを、エリスは何事もなかったかのようにいなしていた。
アレスは、一度その美しい湖から目を背ける。ほんのわずかな沈黙。その後に、少年は顔を上げた。強い色の碧眼を、少女の澄んだ碧眼と重ねる。
そして、黄緑色の前髪の間から、黒くはっきりと浮き出ているノーテンスの印を太陽で照らしながら、少年は再び森の中へと走っていった。
アレスが背を向けて走り去っていくと、露は何事か金切り声を上げた。戦場から、逃げたように映ったのだろうか。髪の毛を振り乱し、エリスの隣をすり抜けて後を追おうとする。
だが、ちょうど隣。エリスの肩に触れるか触れないか、そのくらいの距離。そこで、露はぴたりと止まり、大きく飛び退いて距離をとった。
白い首からは少量の血が流れる。大した傷ではない。露は、生物兵器最高レベルのスピードですり抜けようとした。だが、エリスはそれに負けない目にも留まらぬ速さで刀を露の首筋に当て、もっと言えば、その頭を一振りで切り落とすつもりだったのだ。
「アレスは追わせない。あなたはこの私と戦うの」
氣で作った光る刀を構え、エリスは冷静な口調で言った。所々に返り血のついた、水色の軍服。それは、紛れもなく、露の部下である生物兵器たちのもの。
生物兵器長は、距離があってもそうと分かるほど、悔しそうに顔を歪め、そして苦々しく歯ぎしりをした。
「……あんたさえ。アレス君は!」
露が、一気に距離をつめてきた。紫色のペンダントは揺れ、雪が舞い上がり、煙のように立ちこめる。
エリスは動かない。その場で刀を構え、静かに前を見据える。
青い髪が、一斉に長く伸び、あらゆる方向から殺到した。途端に、間欠泉のごとく雪が乱れ飛ぶ。串刺し。その図を想像するのは容易かった。
露も、当然仕留めたと思っただろう。突き刺す寸前まで、確かにそこにいたのだから。
だが、気づく。髪からは何の感触も伝わってこなかった。
それと同時だった。
「どうしよう、生かしたほうが良いかしら、それとも、殺したほうが良いかしら」
ちょうど、背後から聞こえた。どこまでも透明で、また、どこまでも氷のように冷えきった声色。背筋に、戦慄が走る。
振り返った。ペンダントを握りしめる。時間が恐ろしいまでにゆっくりと感じられた。
背後。そこには、美しい黒髪を風の中を流し、人形のように整った微笑を湛えている少女がいた。
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.84 )
- 日時: 2013/04/06 00:11
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: bIwZIXjR)
「殺すと、アレスが悲しみそうね、でも——」
「調子に乗るな!」
静かにつぶやく少女に、露はもう一度髪を振り上げた。プライドはズタズタだった。エリスの目にはもはや生物兵器露などない。あるのはただ、誰よりも大切な、かつての生物兵器長の姿だけ。
だが、露自身は気づいていまい。沸き上がり、乱れ狂うその感情は、ただの怒りでなく、どす黒い嫉妬であった。
一瞬にして、エリスは露の懐に入り込んだ。無数の刃と化した蒼い長髪が、行くべき場所を失って方々に広がる。
耳元で、静かにささやいた。
「やっぱり、殺そうか。いつまでも、あなた、アレスを狙うでしょ?」
ふと、香の香りが露の鼻孔へと入ってくる。戦いのために生きてきた露には、全くない女らしさ。それなのに、今現在この美しい少女に圧倒されている。戦士としても、女としても、全てにおいて彼女のほうが上。その事実が、心を占めて、真っ黒に染まった。
「私だって! 私だって……」
震えて霞んだ、涙声。エリスの肩に、生物兵器の流した涙が何粒も落ちる。
それと同時。露は身体の至る所から、長い針を出して、一斉にエリスを襲った。天宮家のペンダントは雪の上へと落ちていく。
長さや太さまで、露は髪を刃に変えられた。つまり、少しでも、うぶ毛程度でも、それさえあれば、全て武器と化すのであった。
エリスは、事前に察知して何歩か飛び退き、光の剣で襲い来る刃を薙ぎ払った。その時、露の顔を見た。顔をくしゃくしゃにしている。そして、顔を含めて体中から針が飛び出ていて、元の美しい姿とは似ても似つかなかった。
「私だって幸せになりたいわよ! お兄ちゃんと笑って、恋もして、好きな人と一緒に暮らして、赤ちゃん産んで育てて」
誰に向けられた言葉だったのだろうか。針山のような姿の少女が叫んだ言葉。エリスの表情に、はじめて揺らぎが生まれる。
だが、迷っている余裕はなかった。露が再び走ってくる。エリスは刀を構えた。
すれ違う。雪が舞った。血が宙を飛ぶ。それは、エリスの右手からだった。
対する露、足は地面から離れ、冷たい風の中を飛んでいく。エリスの拳が腹に入ったのだ。
殺そうと思えば、確実に殺せた。寸前のところまで、エリスは刀を腹に滑り込ませようとしていた。
しかし、できなかった。あまりに露が、自分と似過ぎていたのだ。
エリスは静かに、雪の上を倒れる露の横に立った。碧眼には暗い影がある。刀を構える手にも力が入っていない。針山。強引に殴ったその手からは、血が流れ、白い雪を染めていく。
「何で、あんたは幸せになれるのよ、どうして、何で」
針山となった露は倒れたまま、涙声で言葉を並べる。一つ一つが、エリスの決心を鈍らせ、心に突き刺さる。
何でと、つぶやき続ける生物兵器長。わずかな太陽に光る、身体中から出る無数の針。碧眼は虚ろで、エリスを捕らえてはいなかった。様々な思いが、交差してはぶつかって、めちゃくちゃになっていく。
急に碧眼が、はっきりとエリスを向いた。にらみつけるという言葉ではとても足りない。その感情、どす黒い思い全てが、エリスに向かっているようだった。
「化け物! あんたのほうが、よっぽど私より化け物じゃない!」
ほかの、どんな言葉より、エリスの表情は変わった。雲の中に太陽が隠れていく。刀が、少女の手から離れて消え、傷ついた白い右手は、徐々に変色し始めていた。
素早く露は起き上がり、エリスに再度襲いかかる。
だが、エリスは刀を拾おうとしなければ、その場から動こうともしない。いや、できなかった。
まっすぐに、針が伸びて少女の身体を串刺しにしようとする。
太陽が隠れても、独特の光を放つ針。近づく程に、太くなっていく。
エリスの身体に達するか否かといったところ。ちょうどそのとき。露の動きが止まった。針のむしろと化した彼女の腹から、今度は大きな刃が突き出てきた。だが、今までと違うのは、腹からは血が止めどなく流れ出ていたこと。
「アレス……」
「エリスは、露、いくらお前でも、傷つけることは許さない」
露の背後には、持てる力全てをかけて走ってきたのだろう、息を乱したアレスがいた。
露の身体が、急激に力を失っていくのが分かる。自分の腹から、真っ赤に染まって突き出ている巨大な刃。露は一心にそれを見つめていた。
森の木が風でざわめく。それとともに、木の近くで何かが動く音がした。だが、誰も気づかない。
咳き込む口からは鮮血が飛び出す。呆然としているエリスにそのままかかり、元から返り血の着いていた水色の軍服が、さらに赤く染まっていった。
アレスは、一度顔を歪めた。しかし、その目から涙が流れることはない。
静かに、腕を引き抜いた。さらに溢れ出す、戦友の血。親しいという程、親しかったわけではない。だが、長く生物兵器として命を共にしてきたのだ。戦いだけの生物兵器生活ではあった。しかし、友情は、確かに存在していた。
静寂が辺りを包んだ。支えを失った露が、その中で、ただ地面へと向かって落ちていく。冷たい雪。そこにつくかどうかというところで、血まみれの腕が彼女を支えた。
「露……」
「本当に、堕落したのね、以前の君なら、絶対に、こんなことしなかった」
アレスの腕の中で、そんなことをつぶやく少女。かすれた声の、刺々しい言葉。だが、その顔を見ると、意外な程に晴れ晴れとしている。もう、力は残っていないのだろう。身体中の針はなくなり、服は穴だらけで、厳しいシアラフの風が絶え間なく突き刺さる。
「でも、これでよかったのかも。幸せって言える。大好きな人の顔を見ながら、死ねるんだもん」
露なりの、最初で最後の告白であった。答えは求めていない。分かりきったことを聞く気はないのだ。
木々のざわめき。ふと、露はそちらに目を向けた。碧眼が、一瞬大きく開き、輝きを取り戻す。だが、それもつかの間。すぐに、生気を失った碧眼に戻ってしまった。
「この先に、リューシエがいる。早く、行ってあげて。約束したの、最高の死に場をあげるって」
「分かった、分かったから、露」
アレスは、すっかり体温もなくなった露を、胸に抱き寄せた。最後の力を振り絞って、少女は初恋の人の背中に片腕をまわす。一瞬だけ、二人は抱き合えた。時間にして、掌の粉雪が消える間もない。
背中にまわされた腕が、不意に離れて白い雪へと落ちる。享年十五歳と幾月か。それが、生物兵器露、またの名を、ツユ=ドレイルの最期であった。
隠れていた太陽が、再び顔を出す。
少女の亡がらを抱きしめ、アレスはその光を仰いだ。光の中。その下で、雪は輝きながら風の中を去っていった。