複雑・ファジー小説
- Re: ノーテンス〜神に愛でられし者〜 ( No.87 )
- 日時: 2013/12/05 22:54
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
——死んだ男の残したものは。
目を固く閉ざした男は、戦場を木の上から見下ろしながら、澄んだ声で謳った。目下に広がる光景は赤く染まり、かつて生物兵器と恐れられた若者たちは、降り続く雪の下へと埋もれていく。
「生体兵器ではなく、生物兵器とは、よく言ったものだ」
男は、固く閉ざされたまぶたを上げた。
一本に束ねた黒髪が、激流のごとく、白い景色を切り裂く。強い風に乗って、雪が横殴りに襲いかかり、盲目の青年は再び目を閉ざした。
男は謳う。
——一人の妻と一人の子供。
悲しみを湛え、だが、どこかすべてを知っているかのような雄大さを持って。
透き通った声は、戦場のさらに奥、凍った湖を越えて、哀愁を運んでいった。
吹雪を抜け、少年は姿を現した。
頬を伝った涙は凍り付き、その白い肌に薄く紅をひく。
表情は、ただひたすらに前のみを見据えて、悲しみの色はどこにもなかった。
「先輩」
シアラフの、雄大なる大地を見下ろすその崖。
危なげに細く突き出た端に、彼は立っていた。
美しい銀髪か、わずかな太陽の下でも、それと分かるほどに輝く。その表情は、柔らかな微笑みを湛えていた。
「リューシエ」
迷いはなかった。
最強の生物兵器は、そうつぶやくと、刃と化した右腕を突き出した。そこには、かの生物兵器の血が、あの儚くも、幸せだと言って死んだ少女の命が、冷たく凍って共にあった。
一部始終を、エリスは遠くから見守っていた。
二人の刃が合わさっては弾かれ、頬をかすめ、軍服を切り裂き、アレスは親友への誠意を持って、リューシエは生物兵器の誇りを持って。
雪が舞い、風を切り、シアラフを見渡す崖の戦い。
息が詰まりそうなほどの緊迫感。
言葉もなく、声もなく、静かに流れる生命の赤い証。
銀髪の美しい生物兵器は、震える手をわずかに見える太陽に向かって伸ばした。何事か、鮮血と共につぶやく。
エリスは、エリスだけが、その全てを見ていた。
——死んだかれらの残したものは。
冷たい風が、容赦なく吹き付ける。
親友の遺体の横で膝をつき、うなだれる生物兵器の隣で、エリスは歌った。太古の昔、日本で反戦歌として歌われたものだ。
アレスは、顔を上げた。涙はない。壊れてしまいそうな表情で、少女をすがるような目で見た。
——生きてるわたし生きてるあなた。
そこまで歌うと、エリスは自分を見つめる少年に、優しい瞳を向けた。
リューシエが最後に手を伸ばした太陽は、徐々に雲の中へと入っていく。そして、完全に雲が太陽を覆ってしまうと、鉛色の空から静かに雪が降ってきた。だんだんと冷たくなっていくリューシエの体に、追い討ちを掛けるかのごとく積もっていく。
その時、ゴーフル伯爵の城で煙が上がった。
色は水色。
それは反乱軍の勝利を告げる狼煙。生物兵器はアレスとエリスだけで三百体近く倒した。そうなれば、後は簡単なものだろう。こちらにはノーテンスがアレスとエリスを抜いても三人いる。城に侵入されてはどうしようもない。
アレスとエリスはリューシエの遺体を抱えて、黙って歩き出した。
リューシエ最期の地である崖近く。その辺りで、一番大きな木の下。そこに、アレスは大きく深い穴を掘った。
エリスは、どこからかちょうど良い大きさの石を持ってきて、そこにシアラフ語で名前を刻んでいた。“戦士リューシエ”と書かれた墓石は丸みを帯びていて、少し“戦士の墓”らしくはなかったが、あるいはこれでよかったのかもしれない。生物兵器らしくなかったリューシエにはぴったりだろう。
「何なんだろうな、俺って……生物兵器なのに人の中にいて、生物兵器なのに人と生きたいから生物兵器を壊して。自分で、自分がわからない」
しゃがんでリューシエの墓石に触れながら、アレスは辛そうな声でつぶやいた。ツユの返り血が、リューシエの血と共に赤々とこびりついては剥がれない。
雪は、先程より強くなっている。今晩辺りには少々季節はずれだが、ひどい吹雪になるだろう。
リューシエの墓石もアレスの手がない場所はどんどん白くなっていく。
「ねぇ、アレス。アレスには誇りってある?」
座って墓に両手を合わせる異国風の祈りを捧げながら、エリスは訊いた。返り血で染まった水色の特別攻撃隊の制服。アレスとしては、これでも彼女を血から守ってきたつもりだった。自分の血まみれの人生を変えた少女が血まみれになっている。複雑な心境だ。
しかし、血を大量に浴びていても、彼にとってエリスはこの上なく愛おしかった。そしていくら血に塗れようとも碧眼はいつまでも澄んでいて、尚且つ沈む彼をまた立ち上がらせようとしている。
「俺の誇り……なぁ、エリス。お前は今を後悔していないか?」
「してるわけないよ。アレスが今、隣にいてくれるから。アレスの隣ならどこでも私は後悔しない」
逆に問い返したアレスに、エリスは彼の目を見て即答する。
よくもこんな恥ずかしいことを口に出せるものだ、この少女は。
アレスはそれを聞いて顔を赤くする。
そして、そんな顔のまま後ろからエリスを抱きしめた。表情は柔らかい。互いの心臓の音まで聞こえる距離で、アレスは少女の耳元で静かに口を開いた。
「なら、俺の誇りはお前の傍にいることだ。お前がもういいって思うまで、その時まで……」
「ツユにも、リューシエも誇りがあった。アレスも誇りがあれば、それだけで証明になるよ。自分はここにいるって。……でも、覚悟してね。私がもういいってまでなら、黄泉の国でもだよ」
「ハッ、それがどうした。お前がそれを望むなら、俺はどこまででもついていくさ」
アレスは微笑を浮かべてそう言うと、一度名残惜しげにエリスを強く抱きしめ、そしてそっと離れた。
少し前から見ると彼も成長したものである。反乱に参加した当初は、ちょっとのことでひどく自分を責めていた。所詮生物兵器なのだからと。人のぬくもりを求めることに対して。
今でも、彼は自分を人間と捉えていないのだろうか。それはいまいちよく分からない。しかし、一歩ずつ何かが前進しているのは事実である。その歩みが、きっと彼を変える糧となる。
そして行く行くは世界を変える剣と……
——死んだ兵士の残したものは。
エリスの歌は響く。
死んだ兵士は、実は平和一つ残せなかった。
だが、死んだ男は妻と子を残した。希望を残したのだ。
この歌のつづきは、また別の話である。
あとがき、のような何か
お久しぶりです、いろいろと、本当にいろいろとあってワタワタしていて、小説に手を出せない日々が続いていました。
でも短期留学から帰ってきて、引っ越して、ちょっと日々の時間にゆとりが生まれました。
まあ、バイトと部活に追われていることに変わりはありませんが。
果たしてこれにしろゆめたがいにしろ、呼んでくださる方がいるかは分かりませんが、細々と続けていきたいと思っております。
今回の箇所については、リューシエの扱いがあっさり過ぎるなという反省も。でも、くどくど書いても逆にしつこいような気もするし。
まあ、外伝でリューシエ関係は完成するので、そこでどう持ってこられるかですね。
ちなみに今回引用した歌は谷川俊太郎の死んだ男の残したものはです。社会学の講義で知って以来、定期的に聴いています。
この次は、遠いかつて登場したような気がする、リーフ=フィギアスと美菜のお話です、三章と外伝に出てきたくらいかしら、お懐かしや
そんなこんなで、今後ともよろしくお願いいたします