複雑・ファジー小説
- Re: キーセンテンス ( No.19 )
- 日時: 2011/07/27 18:55
- 名前: 遮犬 ◆ZdfFLHq5Yk (ID: hF19FRKd)
勿論、俺はそのまま家に帰ることは無く、今日の朝に行けなかった桜の木の丘へと向かった。
多少膨らんだカバンを手に、俺は丘の上を目指して一気に駆け上った。
既に夕暮れ時になっており、春の匂いが振りまく桜の木の下に座り込んだ。いつみても大きく、壮大な桜の木は、俺の存在をそのまま包み込むようにそこへ鎮座していた。
「……何してんだろ。俺は」
そのまま草の生えた平原の上に寝転がり、大きくため息を吐いた。
それから数秒と経たない内に突然起き上がり、カバンを開けてとある物を取り出した。
それは、本であった。五十嵐の読んでいた、あの本だ。
五十嵐が去った後、どうしてもその本が気になった俺は、持ち帰ることにした。そして夕暮れ時となって文字の読みにくい時間にこうして桜の木の下で本を広げる、という行動を起こしていた。
「何で持ってきちまったんだろうなぁ……」
その分厚い本を優しくなぞりながら呟き、俺は早速本の1ページ目をめくることにした。
その本の最初には、記憶通りの意味不明なことが書かれていた。
『——貴方にとって、大切な言葉は何ですか?』
それだけ、書かれていたのである。
「……はぁ? そんなもの知らねぇよ」
と、普段ならば言うだろう。
でも、俺はそんな下衆な言葉を言うよりも、その文章自体に魅入ってしまっていた。
何故だろう。心に深く突き刺さるような、変な感じが俺の全身を漂ってくる。
題名は不詳。何がどんな話なのか全く分からないこの演劇に使われるらしい分厚い本は、俺の記憶では確かに意味不明だ。
もう1ページ、更にめくってみることにする。
するとそこには、普通の演劇のようなセリフの羅列が続いていた。
少女『ここは、どこ? 私は、誰? どうして? 私はここにいるのでしょう?』
(冷たい風が靡く音。寒い、凍える雪が覆う大地)
こんな風に、少女と場面の状況を記したものが書かれてあった。
冷たい、凍えるような大地に少女は一人。その後、此処はどこなのかと、大地に問いながら一人、冷たい大地を裸足で歩いていく。
それが、最初の場面を要約した感じだった。
「……やっぱり、意味わかんねぇな、これ」
五十嵐の言っていた哀しい恋物語とやらが始まりそうな予感はまるでしない。それどころか、少女の行く末はこのままだと死ぬことがほとんど決まっているかのように思えた。
五十嵐が説明した言葉がふと思い出される。
「あぁ、そうだ。そしてその少女は気付くんだ。この世界は、自分の生まれた世界ではない、とな」
自分の生まれた世界ではない世界に存在する少女。それは凍える大地の上で、何の生物も何もいない、物哀しい世界。
そんな中に、たった一人少女は生き物として歩いている。その足跡が、誰に知らされるわけもなく——
「まぁ、確かに哀しいのかもしれないけど……」
そこでパタン、と俺は本を閉じた。
何だかこの先はまだ読んではならない気がした。読んでしまったら、何かがダメになるような気がして。
その時、優しい春風がふわっと俺の周りを撫でて、桜の木を少々震わせた。
その様子が綺麗で、つい、見惚れてしまっていた。
「俺の願いは——いつになったら叶えてくれるんだ?」
そう呟いて、俺はその場を後にした。
部屋に着いて、ひと段落した俺は、晩飯用と部屋に持ち込んでいたおにぎりやパンを取り出して食べながら夜を過ごしていた。
今日は親父は帰ってこない日だったと思う。あれでもまだ仕事に行くだけはマシだろう。しかし、俺は一切親父の金などには手をつけてはいなかった。
母さんが残してくれた貯金も、ありがたく取っておいてある。俺と、"妹"のために溜めていてくれたお金だ。そのお金は俺にではなく、妹のために使いたい。
妹は、今現在ここにはいない。遠い、おばさんの家で過ごしている。俺の存在は知っているが、父親の存在はあやふやなままで別れたことを記憶している。
いつか必ず、俺は妹に会う日が来るのだろうか。来たとして、俺は妹のために何ができるだろうか。
俺を不良扱いして、俺の機嫌ばかり伺うクラスメイトの奴等を毎日適当に相手をして、わけの分からない部活に入ってて。
どこにも褒める場所なんてない。汚点だらけな兄だった。
「……どうしようも、ねぇよな」
ボソリと呟いてみるが、状況が変わるはずもなく、俺はただ、天井で光っている電灯に目掛けて手を伸ばすことしか出来なかった。
「バイト、またやらねぇと……」
そろそろ金も尽きてきた頃で、去年バイトばかりして溜めたお金も底を付きそうだった。せっかく、昼飯抜きにして頑張っていたというのに、こうしてみれば尽きることだけは早いものだった。
そうしてボーッとベットの上で天井を見つめていると、突然電話が一階から聞こえてきた。
今日は親父はいない。電話を取りに、俺は一階まで駆け下りていった。
受話器を取り、「もしもし」とかけてきた相手に話しかけると、同様に「もしもし?」と、少し疑問系で女子の声がした。
「涙か?」
『そうだけど、明日! あんた空いてるよね?』
「何で決め付けんだ……。何だ? 日雇いのバイトでも紹介してくれんのか?」
『んなこと誰も言ってないわよっ! ……明日、とりあえず私ん家来なさい。それじゃあっ』
「はぁ? いや、待て——!」
ガチャンッ! と乱暴に受話器を置く音が聞こえたかと思うと、それと同時に俺の耳をキーンと、耳鳴りが聞こえてきた。
「……あのドアホ。明日覚えてろよ……」
俺は今はもうかかっていない受話器に目掛けて言い放った後、ゆっくりと受話器を電話へと戻した。
それに、何時かも言われていない。そんな無責任な約束をする方が——
二階へ上がりかけたその時、再び電話が鳴り始めた。また受話器を取って「もしもし」と言うと、
『時間言うの忘れてたわ! 明日の朝10:00ね! それじゃ!』
「はぁっ!? 早すぎねぇ——!」
ガチャンッ! と、乱暴に受話器を置く音とほぼ同時に「早すぎないか?」の「か?」部分が見事に合致する。
「あの乱暴女をどうにかしてくれ……」
そう俺は祈りながら自分の部屋と戻った。