複雑・ファジー小説
- Re: キーセンテンス ( No.29 )
- 日時: 2011/08/08 15:33
- 名前: 遮犬 ◆ZdfFLHq5Yk (ID: hF19FRKd)
涙が、涙を流しているのを見たのは初めてだった。
いや、もしかしたら汗かもしれないなんて冗談が沸いてきたが、涙は咄嗟に目元らへんに手をやって拭った。
そして、ゆっくりと涙を流しながら——
「目に、ゴミが……」
「……地獄に落ちろ」
声のトーンとか的に泣いているような感じではなかった。本当に目にゴミか……。俺はもの凄く涙に感情移入しそうになったことを落胆した。
「じゃぁ、俺はもう——」
「あのさ」
俺はその場を立ち去ろうとした時、涙が突然俺に話しかけてきた。涙にしては珍しい、少し深刻な顔だった。
「あの子——渚はね。小学校の頃から入退院繰り返してるから、友達なんかも全然いないのよ。中学校も、初めの頃は病状が安定したから行ってたけど、突然倒れて、また入院。せっかく部活に入るって意気込んでたのに、憧れてた先輩とかの顔も見ずままに病院に戻されたの。だから、あの子の学校生活は、全然ない。ああして元気そうに笑ってるけど、心の中はきっと不安とかでいっぱいだと思う。いつまた病状が悪化するんだろうって。そんな不安を抱えながらの毎日。一応ね、あの子私たちの学校を受験して、合格してるのよ。勉強は病院でも出来るって、頑張って勉強して、合格して。でも、まだ一回も見てないし、行ってもない。校舎を見たことなんてないんだから」
突然、渚ちゃんの状態を話されて俺は少々戸惑った。
小学校の時から入退院を繰り返して、と渚ちゃんから聞いた時はもしかして、と思ったが……そのもしかしてが思い切り当たってしまった。
でも、それを話している渚ちゃんは——ずっと笑顔だった。
「私が帰った後とか、誰もいないとことか、個室だからといって渚は毎日泣いてる。忘れ物を取りに帰った時があって、その時に泣いてるのを目撃しちゃってさ。私、無力だなぁってね」
「無力ってことはないだろ」
自動販売機に小銭を入れて、コーヒーを選びながら俺は言った。
「少なくとも、お前がいるから強いんじゃねぇか? 病室の外から覗いたから分かるけど、涙と渚ちゃんが話してる時、渚ちゃん、凄く嬉しそうだった。その気持ちは、決して無力なんかじゃないし、無駄でもねぇよ」
「司……」
呆然と、涙らしくないシケた面をしながら俺を見ていた。
「……はぁ。お前にそんなシケた面は似合わねぇよ。もっと笑ってればいいんだ。涙の笑顔が、何より渚ちゃんにとっても嬉しいことだろ。姉がそんなんでどうするんだよ」
そんなことを言いつつ、俺はコーヒーを取り出して開ける。そしてそのコーヒーを飲もうとした時——バシッ! と、後頭部に痛みが走った。飲んでいる最中にだったので、俺はコーヒーの缶が歯と激突して、後頭部より歯の方が痛い状態になった。
「いってぇなっ! この野郎!」
「静かにしなさいよっ。此処は病院です〜」
「お前な……」
俺が振り返ると、そこには涙のいつもの笑顔があった。それと同時に、いつもの減らず口も復活しやがったけどな。
「あんたに言われなくても、そんなこと分かってるっつーの。あの子が頑張ってんだから、私も頑張るっきゃないでしょ」
そっぽ向きながら涙は呟いていた。言う割には声が小さいけどな。きっと、俺には分からない苦労とか、色々なことがあったんだろうな。見守っている方も辛いとは思う。
そう考えたら、涙はどれだけ強いんだと思う。俺が母さんを亡くした時なんて——親父に対する憎しみしかなかったから。辛いとか、そういう感情は湧かずに、ただ親父を憎むことでその苦しみから逃げようとしていたのかもしれない。
まだ、その苦しみを背負っている涙はかなり良い。俺なんか、臆病者に過ぎない。
「頑張れ」
「……はぁ?」
「何でもねぇよ。さっさとジュースでも買って、渚ちゃんのとこに帰ろうぜ」
俺が言うと「分かってるわよ、ったく……」と、ぶつぶつ文句を言いながらジュースを購入している涙は、何だか可愛く思えた。
俺と涙が入ると、渚ちゃんは「どこまで行ってたの? 随分遅かったから心配したよ〜」と言って笑顔を浮かべていた。
「いやー迷っちゃってさ」
「こいつが迷ってるところを俺が見つけて、連れて行ってやったんだ」
「迷ってなんかないわよっ!」
俺と涙のやり合いに渚ちゃんは嬉しそうに笑ってくれている。
どれだけ渚ちゃんの病状が進行していようが、そんなのは関係ない。ただ、こうやって笑顔で過ごせれば一番いいんだ。
少し、涙と渚ちゃんの関係が苦肉も羨ましいと思った。
「後もうすぐで退院だよね? お姉ちゃん」
「ん? あぁ、そういえばそうだね。学校、また行けるね?」
「うんっ。中学校じゃなくて、高校だからもっと楽しみだよ〜」
涙と渚ちゃんの会話で、もうすぐ退院と言っているが、これまでのことを考えると、また入院せざるを得なくなる可能性が高い。
束の間の学校生活というわけだった。それも、俺と涙のいる高校で。
「渚っ、入学したらいっぱい遊ぼうね」
「うん。楽しみだなー」
遊ぶ? そんなワードを聞いて、俺は何か分かった気がした。
もしかして、涙が遊びの音色という遊ぶことが目的のサークルを作った理由は——渚ちゃんのためにあるんじゃないだろうか?
「どうしたんですか? 暮凪先輩」
不意に渚ちゃんから考えている様子がおかしかったのか、顔を覗きこむようにして聞かれた。
「え? あぁ、いや、少し考え事だ。気にしなくていい」
「あんたも考え事とかすんのねぇ……」
「黙れ、この単純細胞人間」
「たんじゅ——ッ!?」
あまりに腹が立ったのか、ツッコミとか以前に言葉が詰まっていた。
その様子を見て、渚ちゃんは笑いながら「お姉ちゃんっ。落ち着いて」という風に宥めてくれた。
それから涙と渚ちゃんと、暫く話していたという感じもなく、時間はあっという間に過ぎてしまった。
「それじゃあね、渚」
「うん。またね、お姉ちゃん」
そのやりとりを聞いて、俺と涙は病院を出た。渚ちゃんは終始、出口前から俺たちへと手を振り続けていた。笑顔で。
「なぁ、涙。お前、いつから学校来るんだよ」
「いつからって、明日からに決まってるじゃない」
帰り道に聞いてみたが、涙はどうやら校長などを通して事情を話し、病院に行っていたんだそうだ。
渚ちゃんの容態が、という少しの嘘を兼ねて了解してもらった。
「俺がこの間お前の家に行った時、留守だったのは病院に行ってたからか?」
「この間って、私の家に10:00に来いって奴? あれ、あんた10:00に来なかった……あっ! そうそう! あんた来なかったよねぇっ!?」
ぐ……。いらないことを言ってしまった。
「あれは色々事情があったからな。まあ、それはおいといてだ。何で俺を呼び出したんだよ」
「え? あぁー……いや、別に? 何でも」
「何でもないのに呼び出したのか?」
「まあね」
こいつは、俺をお手伝いさんか何かと勘違いしてるんじゃないのか……? そんなことを考えながら、俺は涙より先に早歩きで行く。
「此処でお別れだ。お前向こうだろ? 俺はこっちだから」
俺は適当にそんなことを言って涙と別れた。後ろの方からは涙が「あ、ちょっと! 送って行くぐらいしなさいよっ!!」なんて言葉が聞こえてきたが、俺は気にせずに帰った。お手伝いか何かと間違えているあいつが悪い。
「……このバーカ」
小さく、涙は俺が去った後に呟いた。