複雑・ファジー小説
- Re: Love Call ( No.30 )
- 日時: 2011/08/24 17:20
- 名前: 葬儀屋 (ID: 2cEGTv00)
恐怖が身体と心を凍らせた。
「蛍って可愛い名前してるのに……何その言葉?」
「僕の……願望? かな」
冷たい声。冷たい手。熱くなってくる身体の中。
「僕はずっと朝霧君を見てきたよ。あの子はずっとずっと笑顔だった。純粋な笑顔だった。それなのにさ」
「さっき、あの子泣いたんだよ?」
「寂しいって。怖いって。一旦、落ち着いたと思ってたのに、また掻き毟られたんだろうなって僕の推測。君のせいだよね? 分かってるよ。君のこと」
痛い。肩が痛い。青ざめる。怖い。死ぬ? 嫌だ、死にたくない。光る。ハサミ。蛍が、ハサミを握った。
刃が光って、よく見えない。よけられる? いや、肩を抑えつけられてる。後ろは壁。声が出ない。喉を抑えつけられる。
「んぐっ……?」
「大丈夫だよ……君はたぶん良心であそこに行ったんだから……地獄に落ちやしないよ。大丈夫。これは正義の裁きなんだから」
腕が振り上げられる。眼を閉じた。
死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないい。
まだ嫌だ。話すまで。みんなと話すまで、死にたくない。
ならばいっそ、この人に死んでもらおうか?
夢中で剃刀をつかんだ。それをこの人の首にあて、横にひけばこの人は死ぬ。自分は、助かる。
いつの間にか晴れた空が、翡翠を明るく照らし出していた。
——嗚呼、あの時と同じだね……——
腕を、振り下ろした。
「馬鹿翡翠」
後ろにひかれる勢いで、翡翠の手は真上に上がる。手の甲を叩かれ、剃刀は落ちた。
「大丈夫か? 蛍」
姉原がいつの間にか翡翠の身体を抑えつけていた。
「姉原ぁ……」
「すまない……こいつが色々と聞いたんだろ?」
蛍は呆けたように姉原を見つめていたが、翡翠に眼がとまると小さく舌打ちし、
「人殺しが」
呟いた。
家に着くと、姉原は翡翠を寝室に連れて行き、座らせた。
「ペドフィリア……知ってるか?」
「……知らない」
「小児愛……特殊な愛情の一つだ。蛍の場合、十三歳未満の少年だけに限られている」
「……それとこれとどういう関係が?」
「逆に、少女を毛嫌いする時があるんだ。それも稀に……すまん。俺の不注意だった」
頭を下げられ、翡翠は軽く困惑するが。
「違うと思うよ……?」
「何が、だ」
「……あの人、私のこと、知ってたもん」
「人殺し」。蛍はそう言った。
「私は……人殺しなんだもん……」
「違うだろう? あれはただの空想で……」
「私は人を殺したんだもん!」
気が狂ったように叫ぶ翡翠を、姉原は押し付ける。
「落ち着け……大丈夫だ、お前は誰も殺してなんかないだろう?」
「私は殺したんだもん! お父さんも、弟も、妹も……みんなみんな殺したんだもん! 私のせいなんだもん!」
蹲り、動かなくなる。
「私が……殺した……べとべとして……気持ち悪くて……」
晴れ渡った夏の空に映し出される真っ赤な血。強い日差しが照りつけて、ひりひりして、痛くて。入道雲が真っ白で。空が真っ青で。
自分の身体が真っ赤で。
「やだ……もうやだ……怖かった……怖かったか……らぁ」
抱きしめられ、涙がさらに溢れた。
「忘れていいって……言ってくれたんだ……今は良いから……これからもっと大きくなって……何年も何年もたって……
ちょっとだけ思い出したら良いって……」
苦しくて仕方がないのに。何も思い出せなかった。それが悔しかったから、翡翠は意思を受け入れるようになった。いつか。いつか自分が殺めた人物が現れて、思い出せると、そう思って。
「分かった……」
温かい身体に顔をうずめ、翡翠は叫んだ。頭の中は空っぽで、何も考えられなかった。
ただ。ただ……思い出せたのが、嬉しくて、苦しくて、悲しくて仕方なかった。胸に開いた空間が、もう埋まることのないことを知って、現実を見て、嫌だった、逃げたかった。
逃げたかった。
翡翠の瞳が閉じたことを確認し、その身体をベッドに移動させる。
「ったく……なんでこう……此処には犯罪者が集うのかな?」
先ほどまでの雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
——人殺し……——
確かに。翡翠に引き寄せられた理由が分かる。
花狩も、幼い日に、両親を殺していた。