複雑・ファジー小説

Re: Love Call ( No.39 )
日時: 2011/09/02 22:23
名前: 葬儀屋 (ID: 2cEGTv00)

 生きていて、ごめんなさい。

 先生の口癖だった。

 先生は、優しくて、僕をいつもかばってくれて。悪いことは悪いと教えてくれた。すごい人で、いつも笑ってくれた。

 でも、先生はいつも泣いてしまう。

 冬が来ると、先生はずっと泣いていて、僕を抱きしめて、謝る。

 生きていて、ごめんなさい。

 先生は病気で、ずっと死にたいと言っていた。でも、僕がいるから、僕が一人で生きていくまで死ねないねって笑っていた。でもそれもちょっとの間で。

 あの日も、先生は泣いていて。だから、僕は先生と一緒に外に出て、楽しくなって、笑ってほしかった。先生は笑ってくれなくなっていて、ずっと、寝てもくれなかった。

 先生の眼が見えなくなった時。僕はトラックに気づかなかった。それがいけなかった。僕が悪かった。


 僕のせいで、先生は死んだ。


「朝霧が行きそうなところ探して! あっちの公園とか!」

「翡翠ちゃんも一緒に来てよ! 僕にはわからないんだから!」

 一種の断末魔にも似た叫び声をあげながら、翡翠と海人は街中を走り回っていた。

 海人によると、朝霧をさらった人間は、黒づくめの青年であり、海人を、

「姉原君……?」

 そう、言ったらしい。

——絶対に蛍だ。くそ……捕まっていたと思ったのに!——

 あれほどのペドフィリアは朝霧を殺しかねない。

「……許せない。蛍、許せない。アイツ」

 恐らく、精神科行きだろう、アイツは。早く病院に送り返さなければ。

「雨音喫茶は!? 蛍ってやつは其処にいるんでしょ!?」

「そんな分かりやすいところにいるか!」

 しかし、蛍の思考など考えたこともない。何処にいるかもわからない。

 こうなってしまえば。

「警察呼ぶ」

 海人の表情が固まった。

「駄目だよ! 君のことが分かってしまうじゃないか!」

「だって……朝霧が死んじゃったらどうにもなんないよ……」

 確かに危険だが、朝霧の身を考えると一刻を争う。自分を考えているひまはない。

 警察に電話するために公衆電話に駆け込もうとする翡翠を海人は必死で止めた。

「分かったから! 僕から電話するよ……翡翠ちゃんは先に探して」

「……任せた」

 走り出す翡翠は、迷いながらも雨音喫茶に向かっていた。


 暗いところだ。朝霧は眼を開いた。

「……」

 ガムテープが口に張られていた。身体はロープで縛られ、身動きが出来ない。

——拉致——

 その言葉が脳裏に浮かんだ。そして、朝霧をさらうようなことをするのは顔見知りとしては一人。

——蛍さん——

 駄目だ。早く出ないと、殺されるかもしれない。ペドフィリアである蛍に捕まれば、もう、外になど出れなくなる。

 姉原が、そうだったように。

「……」

 入れられている部屋はせまかった。足の裏には壁の感触があり、それを思いっきり蹴ってみる。

 音はよく響いた。少し揺れた気もする。もう一度蹴ろうともがいた時に、

「はーい、おりこうさんにしようねー」

 蛍の腕が、身体の動きを制御する。

「朝霧君、大丈夫だよ。君をすぐには殺したりしないからね」

 笑う蛍に、朝霧は抵抗しなかった。

 殺される。直観的なものだが、間違ってはいないだろう。

「良く分かってるね。僕に逆らったら、殺される。死んじゃうもんねぇ」

 すっと、蛍の指が朝霧の胸をなぞった。

「じっとしててね。僕は君が大好きなんだ。殺しちゃいたい程、大好きなんだ。だからねぇ、

 僕のお人形さんになってよ。

 もう、姉原君も翡翠ちゃんもいらないもんね」

 気持ち悪い。吐き気がこみ上げた。意識が失せるのを感じるが、なんとか瞬きで堪えてみる。

 とにかく、今は抵抗しないことだった。蛍に手をひかれた時、そばには海人がいた。そのうち翡翠たちに知らせて、探しに来るだろう。

 海人。恐らく、姉原の双子の弟だろう。前に話は聞いていた。初めて見たときには気づかなかったが、やはり、なりきりには限度がある。

——気遣いなんか、しなくてもいいのに——

 翡翠の依頼なのか、海人の願望なのか。どちらにしろ、朝霧にとっては、迷惑だった。

——忘れたいのに……——

 ずっと、一緒にいてくれた存在だった。だから、いなくなったと気付いたとき、悲しくて仕方なかった。

 花狩は、戻ってきてくれると、言ってくれた。勿論、今では、信じていない。信じられない。

 だけど、心の奥底の扉の先では、きっと信じているのだと思った。

「いらないよね……みんな嘘ばかり吐くもんね」

 そうだ。みんな、嘘を吐く。

 朝霧が頷くと、蛍は嬉しそうに笑った。笑って、力強く、朝霧を抱きしめる。

「僕も……もううんざりだよ……」

 甘い嘘は、重くのしかかってくる。真実と混ざり合って、雑音を立てる。きっと、翡翠が聞いている音は、それなのだと思う。

 自分の正義と嘘が、戦っているのだと思う。

 蛍の手が、静かに朝霧の身体をなぞっていく。肌に直接触れる指は、震えていて、寒気が襲う。

 髪をつかまれ、顎が強制的に上げられた。

 蛍の息が、頬にかかるほど近くなっていた。

——怖いな。もう死ぬのかな——

 瞼を閉じて見る。意外と、冷静なのだと、そう思った。

——先生、やはり僕は成長しませんでした。打撲とか、そう言うのは関係なくて。

 やっぱり、僕は、あの時のままでした……——


「おっとー、犯人ハッケーン☆」


 朝霧の決心を粉々に打ち砕いたのは、間の抜けた、そんな男の声だった。

「……誰かな」

「おっとー、そんなめで睨むこたぁねぇだろー? 結構可愛い顔してんじゃねぇか?

 河口 蛍さーん?」

 名前を呼ばれた途端、蛍の顔は豹変した。

「おー、ビンゴ! さっすがは俺ん家に居候しているだけ、勘が強くなったなーアイツ」

 まだ遊んでいるように笑う男は、朝霧と眼を合わせると、ウィンクを投げてきた。

「……死んでよ、汚いおっさん」

 蛍の一言に、男は小さく首を振った。

 刹那、蛍は男に飛び込んだのだが、それを交わされ、前のめりに倒れこむ。それを男が押さえ込み、手錠を出した。

「はい逮捕ー☆ 外にパトカー来てるから逃げられないにょ」


「あ、ありがとうございます」

「いってことよー礼なら嬢ちゃんと海人に言えよなー」

 男……薫は照れ臭そうに笑い、朝霧を支え、密室から出してくれた。

 店の外に出て見ると、其処にはパトカーらしき車も、警察官の姿もなかった。

「一人、知り合いだけを連れて来たんだよー。どうやら、嬢ちゃんの方がやばいって話だったからね」

 ただ二つの人影が、立ちすくんでいた。力が入らず、歩けないのかも知れない。

 怒られる。そう思って、落ち込んだ。

 海人は姉原よりも弱い。恐らく、泣いてしまってい朝霧に叱ることは出来ないだろう。翡翠も、泣きそうに眼をうるませて……。

「馬鹿」

 頭の真上に衝撃、火花が散った。

 痛みに頭をさするが、その手も掴まれ、ずり落とされる。

「馬鹿。この死にたがりが」

 見上げると、海人が泣いていた。

「そんなに殺されたかったか。なんで抵抗もしなかった。僕が君の手をつかんだ時、振り払ったでしょ」

「あ……」

「兄さんや、翡翠ちゃんが君をどれだけ心配していたと思う!? それを君は自覚していながら裏切っているんだよ! どうも思わないの?」

 心配。

「ちょ……海人!」

 翡翠が割り込み、一旦勢いは止まったのだが。

「……あ。翡翠ちゃん! 僕の名前出しちゃいけないでしょ! ばれちゃうよ?」

「馬鹿。お前の喋り方でもうばれたんだよ」

 翡翠が鋭く言い放つ。そして、朝霧の手を強く握りしめた。

「帰るぞ。大事な話があるから」

 黙って、頷く。

「と、言うことで薫さん。お世話になりました」

「おうー依頼料は朝霧君の可愛さに半分まけるけどー後は海人に払ってもらうからなー覚悟しとけ☆」

「……気が重い」


 帰り道は、無言で歩いた。翡翠が朝霧の手を握りしめて、そのたび、骨が軋む音だけが、響いていた。




 嗚呼、もう、終わる。