複雑・ファジー小説
- Re: *鏡花水月に蝶は舞う* ( No.22 )
- 日時: 2011/08/03 15:50
- 名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)
「ん……」
まどろみから覚めた暁は、すっと障子を開いた。
涼しい風が部屋を吹き抜け、大きく息を吸う。
外は、霧で真っ白に染まっていた。
おそらく、まだ早朝なのだろう。
視線を枕元に落とすと、小ぶりの握り飯が三つ。
そういえば、もう何日も食べていない気がする……
遠慮がちに、握り飯へと手を伸ばす。
それはとても甘くて、美味しくて、優しい味がした。
あっという間に平らげてしまうと、部屋を見渡し、襖を開く。
そこには。
「志岐……」
襖に寄りかかってうたた寝をしている、志岐が居た。
私の部屋の前で。
いつからここに居たのだろうか。
もしかしたら、ずっとここで……
「ちょっと……起きなさいよ」
軽く肩を揺すると、志岐の瞼がのろのろと開く。
その焦点が暁に定まると、彼は目を見開いた。
「なんだ。もう起きてたのか……随分と早いな」
「別に……あんたこそ、なんでこんな所で何してんのよ」
表情を変えずに淡々と喋る暁は、一瞬眉を寄せる。
「いや、とくに大した理由はないんだ。それより……」
彼は外の方へと視線を向ける。
「俺はこれから出かけるんだが、お前も来るか?……いや、来て欲しいんだ」
「は?」
顔を外へ背けたままで、志岐がどんな表情をしているのか、分からない。
しかし、声がいささか固い。
「それが、あんたがここにきた私情ってやつ?」
「あぁ。お前も、散歩だと思ってついてきてくれないか?」
一緒に行ってやる道理など、毛頭ない。
正直、これが内心だ。
しかし、彼には随分世話になった。
借りを作ったまま去るということは、寝ざめが悪い。
「少しくらいなら……」
小さく、呟く。
すると志岐の顔を見て、暁はハッとした。
「ありがとう」
今まで見たことのない、悲しく、弱々しい笑顔だ。
嫌そうではないのに、どこか自分を拒否しているような。
「そんじゃ、涼しいうちに行くか」
「どこに行くのよ」
その問いに、志岐は後ろを向いたまま、わざと明るく言った。
「大切な人の所だ」
* * *
宿を出てから歩き初めておよそ判刻。
特に会話もなく、たくさん木の生い茂った森のような所だ。ただただ無言で歩く。
「ちょっと、こんな所に民家なんて……」
「着いた。ここだよ」
そう言って、志岐が前方を指さす。
そこに、屋敷はない。
あるのは。
「……!」
大きな大木と、土饅頭。
————墓だ。
「長いこと、待たせたな」
志岐は、その墓の前に方膝を折って、来る途中摘んだ白い花をそっと添える。
緑の木の間から日の光が漏れて美しい。
この木々はおそらく桜だろう。
春になれば、さぞかし綺麗な景色になるに違いない。
この場所で眠る志岐の大切な人。
彼の大切な人は、もうこの世にいない————
それに気づいた暁は、目を伏せながら志岐の隣にしゃがんだ。
「この墓は———…………」
「随分世話になってな。二人は夫婦だったんだ。二人には、娘がいたんだが……」
一度そこで言葉を区切る。
そして、溜め息混じりに瞼を閉じる。
「その娘は、行方不明になっててな。その娘を探してたんだ。…………生きてれば、ちょうどお前くらいの歳になってるな……」
「……」
二人はもう何も言わない。
志岐が帰ろう、と立ち上がり、手を差し伸べる。
暁は、その手を取らずに自力で立ち上がった。
そして一人で来た道を戻るべく、墓に背を向け、歩きだす。
すると、何歩か歩き、立ち止まってうつむいたまま、呟いた。
「その娘は幸せね。こんなにも愛されて」
その声は、確かに志岐の耳にも届いた。
暁は、再び静かに歩き出す。
まるで自分と比較し、自分自身を突き放すような声色に、彼は大きく目を見開いたまま立ちすくんだ。
自分が死んでも、涙を流す人はいない。
誰も嘆かない。気づいてくれさえしない。
生きるのも、死ぬのも……独りだ。
それがどんなに悲しいことか。
「なぁ、俺は約束を守れるかな」
暁の背を見つめたまま、ゆっくり口を開く。
すると優しい、懐かしい風が自分の頬を撫でた。
「あぁ……分かってるよ。独りになんか、させない。俺が、させない」
フッと微笑む。
その決意を込めた顔で、墓を振り返る。
大丈夫。もう、絶対に…………
離さない————…………