複雑・ファジー小説
- Re: *鏡花水月に蝶は舞う* ( No.3 )
- 日時: 2011/08/03 15:41
- 名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)
「また人斬りですって……」
「これで何人目かしら……」
「怖いわぁ……」
日の光ですっかり明るくなった朝、事切れていた男の亡骸が、民衆の前に晒されていた。
この江戸の町では、最近人斬りが多発して随分日がたった。役人も捜査を続けている。
しかし、人斬りの数は一向に減らない。
民衆は、顔を蒼白にして自らの屋敷へと足を運ぶ。
そんな町の路を一人でゆっくりと歩く娘が一人。無表情で前だけを向いて足を進める。
すると、近くでこそこそと話声が聞こえた。
「なんでも、斬った人間は自分を「紅蝶々」と名乗っているそうよ」
「べにちょうちょう……紅い蝶ってこと?」
「はぁ……蝶、ねえ……鬼女って感じだけど」
紅蝶々———人斬りの犯人は自らをそう名乗る、「紅い着物を身に纏う鬼女」と、そう噂されている。
鬼女、か……
娘は、こっそり呟く。
今朝方の事件について、私は全てを知っている。
何故なら、その鬼女というのは———————
「その鬼女ってのが、まさかこんな小娘だとは思わない……か」
そう。その紅蝶々こそが、私。
私に名はない。
幼い頃の記憶は全て残ってはいない……否、捨てた。
この「仕事」こそが私の生きる術。この「仕事」のために私は全てを捨てた。
しばらく長い路を歩いていくと、一つの大きな屋敷が厳かに建っていた。
躊躇もなく足を踏み入れると、抑揚に欠けた声で主を呼ぶ。
「親方、いますか」
すると、程なくして入れ、と返事が返ってきた。
さらに奥へと進むと、薄暗い部屋にたどり着く。
上座には紺色の羽織を纏った年老いた老人。その下座には三人の男が沈黙している。
「給料はこんなもんでいいじゃろ」
「……少ない」
老人から白い包みを奪うようにすると、娘はわずかに眉を寄せる。
しかし、もう彼は何も言わない。
ふいっと顔を背けた私は仕方なしに屋敷を出ることにした。
さて、これからどうするか……
その辺で金を使い歩くのも退屈だ。かといって使わないのもどうかと思われる。
そんなことをつらつら考えていると、後方から何の前触れもなく手が伸びてきた。
「おい、姉ちゃん。ちょいと一緒に茶でもどうだぃ?俺ら退屈してんだよ」
下卑た笑いを浮かべる複数の男を、私は殺意を込めた目で睨んだ。
目に見えて殺気だっている娘に、一瞬怯んだ男等だったが、再び微笑を浮かべて強引に腕を掴む。
————下郎が……!
空いた右手で懐へと手を伸ばす。
汚らわしい。こんな奴等なら殺してもいいだろう。
そう思考が巡り、実行に移ろうとしたそのとき。
「いい歳したおっさんがなにやってんだよ」
男等の後ろから呆れたような声が発せられる。
歳は二十くらいだろうか。まだ随分と若いような気がする。
背は高く、よく見ると端整な顔立ちをしていて、紺色の着物を纏っている。
「ぁん?なんだ兄ちゃん、格好つけやがって」
「とりあえず、腕、離せ。嫌がってんだろうが。ったく、これだから偉い武士ってのは……」
「んだと……!?」
飄々とした顔でさらっと言ってのける青年の視線の先には、男等の腰に挿してある刀が。
なるほど、こいつら武士か……
今更ながらそう気づいたとき、私ははっと顔を上げる。
凄まじいほどの殺気が、青年から発せられる。
男等は、その殺気に飲まれて動けない。
「さっさと去ね」
その一言で、男等は引きつった表情でばたばたと逃げていく。
はぁ、とため息をついた青年は、ふいに私へと視線を移した。
すると、警戒を緩めずに睨み続ける私に、彼はとても優しく微笑んだ。
「大丈夫か?」
「……っ!」
先ほどの殺気が全く感じられない。
傍から見れば、ただの温情な青年にしか見えないだろう。
ともあれ、汚らしい奴等は消えたわけだし、さっさと去るに限る。
私はふいっと顔を背け、再び歩き始める。
と、
「おいおい、助けてやったのに礼もなしか?」
「…………」
後ろから前方へ、立ちはだかるようにして行く手を拒む青年。
うるさい奴だ……
「別に、頼んだわけじゃない」
「何だ、冷たいやつだな……っ!?」
「……?」
ひょいっと顔をのぞき込む青年の顔が、驚きに変わる。
胡乱に首をかしげる私に、彼は言った。
「俺は志岐だ。お前、名前は?」
「……無い」
「はぁ?んなわけあるか。名前ってのはだれでも……」
「無い」
今度は、はっきりとした声でまた彼の————志岐も顔を睨む。
すると、彼はを考え込むようにして眉を寄せた。
なんなんだ一体……
いい加減にうんざりしながらも決して目線はそらさない。
と、志岐はぽんっと相槌をうってにやりと笑う。
「そんじゃ、お前の名前は今日から暁だ」
「あか、つき?……なんで貴様が名など……」
「呼ぶとき困るだろ」
「初対面でいきなり呼ぶな!」
予想外の展開にうろたえる年端もいかぬ娘をただ彼は、どこまでも優しい目で見る。
「どうせ、これっきりで……」
「これっきりじゃないさ」
「っ……もういい!」
「お?」
ばっと志岐を突き飛ばした私————否、暁は必死に逃げるようにして走り去るった。
そんな暁の背を、志岐はじっと見つめる。
二人の縁は刻まれた。きっと再び出会うことになるだろう。
彼女は知らない。この名の意味を…………
暁————暗い闇を打ち払う輝き。それは、光を意味する。
先ほど彼女の顔をのぞいたとき、その目はただ、悲しい未来を直視するような暗い目だった。
それに、あの娘は————
名もなき悲しい娘のために
どうか……————————