複雑・ファジー小説
- Re: *鏡花水月に蝶は舞う* ( No.36 )
- 日時: 2011/08/05 23:02
- 名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)
「あか、つき……」
よろける体を必死に支えながら志岐は、その屋敷へと足を踏み入れた。
声は掠れ、腕や足は痺れて言うことを聞かない。
それでも。
どこに、どこにいる。
あの娘は何処に。
いつ、どこから敵が現れるか分からない。
それに、気を張っていなければ意識が闇の中へと沈んでいく。
ゆっくり廊下を歩く。
すると、背後に人の気配がした。
はっと振り返ると、一人の老人。
「待っていたぞ。小僧」
「お前は……!」
忘れるはずもない。
この男こそ、二人の命を奪い、暁を篭絡し利用した仇。
あのとき、少ししか見(まみ)えられなかったものの、その面差しは脳裏にしっかり焼きついている。
志岐の考えんとすることを理解したのか、老人はにやりと口端を吊り上げた。
「いかにも。我が名は楢葉。そして……」
無意識に息を呑む志岐。
それを嘲笑うかのように、言葉をつむぐ老人。
「小僧。お前と同じ化け物だ」
「!?」
化け物。
自分はその意味を知っている。
まさかこの男。
「そなたは善狐である白狐。そしてわしは————野狐(やこ)だ」
「野狐……!!」
志岐は善狐の一種である白狐。
その一族は、昔から人間と心を通わせ生きてきた神に近い存在。
一方野狐は、善狐とは正反対の立場上のため、これらの種族は決して相容れないものであった。
ぎりりと歯を食いしばる志岐は、凄まじい眼光で老人————楢葉を睨む。
「暁は、どこにいる」
「あの娘ならば、あの部屋にいる」
彼が指差すのは、長い廊下の先にある大部屋。
「暁っ!」
楢葉を押しのけ、転びそうになりながらもその部屋を目指す。
乱暴に襖をあけると、そこにはぐったりと暁が横たわっていた。
————生きていた。彼女が。
それだけで、体の力が抜け、ひどいめまいに襲われる。
ゆっくりと近ずくと、膝を折って顔を覗きこんだ。
安堵のため息をつき、険しい表情で目を閉じる。
そして。
「ごめんな」
そう呟いて己の手を暁の額にかざした。
すると、暁の表情がわずかに和らぎ、やがて寝息を立て始める。
この術は、昔教わったまじないのようなものだ。
それは術を用いた者の意思でなければ解けない。
あるいは、
その者がこの世から消えさるまで。
暁が目を覚ましたとき、楢葉のことは忘れている。
それと同時に。
————暁の中に、志岐という青年は存在しない————
それでいいのだ。
もし、楢葉と戦って自分が勝っても、この体は化け物の餌食となってしまうから。
もう、誰にも縛られずに自由に。
幸せに生きてほしい。
それが、この娘の両親の願いで。
自分の願いでもあるから。
「じゃあな。————暁」
———会いたい……母様……父様……
———話す。私も……
ふっと笑みをこぼす。
これから自分は死ぬかもしれないのに。
それなのに、心は先程と比べて不思議なくらい落ち着いている。
そっと襖を閉めた。
————志岐が去った直後、閉じた暁の目尻から一粒の雫が滑り落ちた————