複雑・ファジー小説
- Re: *鏡花水月に蝶は舞う* ( No.4 )
- 日時: 2011/08/03 15:44
- 名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)
第二話 天理人道
「—————上洛?」
あの志岐という男に出会ってから数日後、娘—————暁は、主とも言える者に上洛の話を持ちかけられていたのだった。
上洛……すなわち、今いる江戸から京へと入る、ということだ。
何の前触れもなく出てきたこの話に、暁はその真意を探るべく、相変わらずの無表情で相手の目を睨んでいた。
「京……このご時世に上洛、というのは……」
「お前の噂は、この江戸で随分知れ渡った」
「だから京へ行け、と?治安が悪いからこの仕事をしても、気に留める人間はいない。つまりはそういうこと?」
「そうではない。お前には、しばらくあちらで生活してもらう。仕事は……一時休止だ。ただ、面白いことを耳にしたからな」
「……?」
この後に及んで仕事の休止、とは何を言い出すのか。
暁は不信に眉を寄せる。
すると彼は一度言葉に区切りをつけ、瞼を閉じた。
「それで、噂というのは……?」
「あぁ。何でも、京にあの「楢葉」がいるとのこと」
「……っ!?」
「楢葉」という言葉に、一瞬大きく瞳を揺らした暁は頭を振る。
楢葉、それは暁がこの仕事をするきっかけとなった人物。
目の前に座っている主に子供の頃から何度も諭された。
幼い頃、私に母や父は傍にいなかった。
ただ、この老人だけが私の手を引いてこの屋敷へと来た、という事実だけは本人から聞かされている。
—————私の両親は何故いないのですか?
私の記憶で一番鮮明に残っているこの問い。いつも、如何なるときも、この疑問と共に生きてきた。
そんな問いに、老人は決まってこう答えた。
—————それはな。それは…………
彼の唇が、妖しげに歪む。
—————楢葉、という男に殺されたのじゃよ……
その言葉を聞くたびに、背筋が凍るような恐怖を感じていた。
お前も殺されそうになったのだ、と。
それをこのわしが救ったのじゃ、と。
幾度なく繰り返して、そうして————
「仇を打ちたくはないか……?」
その言葉を聞いたとき、
私は心の中で、何かが音を立てて爆ぜ割れたのを確かに実感した。
この仕事をするたびに、そう耳の奥でこだまするようにもなり。
———気づいたら、自分はもう人では無くなっていた———
血潮にまみれ、優雅に闇の中をさ迷う蝶。
鬼女の如く、狂ったように血飛沫を浴びる。
「仇を打ちたいのなら、言う通りにしなさい。きっと、答えが見つかる」
答えというのが、当時も、そして今も解せないまま。
しかし、この身の上だと彼が一つ合図をするだけで私は……
暁—————…………
「おい、聞いておるか?」
暁ははっと顔を上げる。
聞こえた気がした。あの、青年が———志岐が私にくれた名を呼ぶ声が。
「……大丈夫。それで、いつ京へ?」
「今からじゃ」
「…………」
思いもしない返答に、沈黙が流れる。
この江戸から京となると、それなりの距離があるはずだが……。
「んで?仕事を休止、というのは……」
「それは……これ以上お前の噂がこれ以上広がると、いつ正体がばれるか分からんしの」
嘘だ。
暁はそう直感した。今さらそんなことをこの男が気にする訳がない。
しかし、この男の事情など、私には関係の無い事だ。
「……分かった。それじゃ、仕度するからこれでお暇します。あ、お金貸して」
「うむ……」
皺だらけの手から、黒い巾着を渡される。
ずっしりと重いその中の金はどうやって集めたかさえ知らない。
「それじゃね。帰らせる気になったら文(ふみ)、よこしなさいよ」
暁は、それだけを言い残して屋敷から立ち去った。