複雑・ファジー小説

Re: *鏡花水月に蝶は舞う* ( No.40 )
日時: 2011/08/07 15:04
名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)

「ぐっ……げほっ……」


志岐の体は限界だった。

少しずつ目の前が霞んで見えなくなってくる。
何度も血を吐いて、ずたずたになって。それでも彼は立ち続けた。
ただ一つの目的のために。

一方楢葉も、少々息が上がっているようだった。
手に握られた数珠も、ひびが入っている。
しかし、先程負った体の痛みもあるせいか、圧倒的に楢葉のほうが勝(まさ)っていた。


「もう終いか?随分辛そうだが」
「黙れ…………!」


必死に刀を振るう。
しかし、楢葉はそれを余裕の表情で簡単に交わしていた。

志岐は血で染められ、真っ赤になっていながらも、引き続き気力で体を支える。
長い時間血を流したせいか、攻撃しながらもふらつき、集中できない。
そして隙ができた所を楢葉は次々と狙ってくる。

それの繰り返しだった。

その気になれば、一発で殺せた所もあったのだ。
しかし彼はそれをしないで、わざと見過ごす。

じっくりと、痛めつけてとどめを刺すつもりなのだろう。



「何故貴様は、あんな娘(むすめ)のためにそこまでする?」


ふと、構えていた刀を下ろして楢葉が尋ねる。
何故そこまであの女の娘が大切なのか、自分には一つも解せなかった。
すると、志岐は当たり前だと言うようにふっと笑みをこぼす。


「誓ったんだ。絶対に幸せにするって。だから、こんな所で死ねないんだよっ!!」


もう、二度とあんなつらい思いはさせないと。
ずっと怖がっていたはずだった。
それに気づかないふりをしながら、彼女は生きてきたのだ。
人の優しさなんて知らずに。
だから。

渾身の力を込めて楢葉に一太刀浴びせる。
手ごたえがあった。
苦痛の声が楢葉から漏れて、後ずさる。
彼の表情がじわじわと怒りのそれに変わり、見れば楢葉の左腕から血が滴っていた。


「小僧ごときが、戯けたことを……!!」


思わず目を瞠(みは)る。
彼から殺気が先程と比べ物にならないほど発せられた。

手にぐっと力を込めて、構え直す。
冷や汗が伝った。

刹那————



「志岐!!」



絶対に、もう聞くことの無いと思っていた声が、名を呼んだ。


「暁!?…………っ!」


嘘だ。
あのとき自分は確かに術を掛けた。
あれは、己の意思では解けないものだったのに。

まさか、それを自力で解いてくるなんて。

驚愕して意識を暁に向けた矢先、楢葉からの攻撃が飛んでくる。

交わしきれずに、その刃は肩を掠めた。


「これで終わりだ」


はっと息をのんだときはもう遅かった。

楢葉の刀が志岐の胸を貫く————


「ぁ……がはっ」


肉を絶った音が鮮明に聞こえて残る。
次の瞬間、強烈な痛みが全身を駆け抜けた。

暁の瞳が凍りつく。

どさりと崩れ落ちた志岐は、刀を持ったままの手を放り出されて、瞼も力なく閉じられていた。


「志岐!?」


暁は、もつれる足で志岐のもとまで走った。
触れると、手はすっかり冷たくなっている。
顔色もまるで死人のようだった。

まだ息はあるものの、このまま逝ってしまうのは時間の問題だ。
信じられない、という表情で志岐の手をとる。


「親方……、なんで!?」


ばっと楢葉を見上げると、彼はニヤリと嗤った。


「さあなぁ。わしには、こ奴の考えることが理解できぬ」


暁の顔が、次第に険を帯びる。
殺気が芽生えて、彼女の鋭い眼光が増した。

————人殺しなんてしてほしくない。

志岐の声が、頭の中で木霊する。
怒りが止められない。

すばやく懐刀を取り出すと、楢葉めがけて横薙ぎに払う。
しかし彼は、それをいとも簡単に受け止めると、刀を暁の手から弾いてしまった。


「っ!」
「お前も、小僧のもとに送ってやる」


楢葉の刀が暁めがけて振り下ろされた————



* * *


「!?」

グサッと耳ざわりな音が響く。

暁は目をこれ以上ないほど大きく開き、震わせた。


「ぐ……!?」


楢葉の刀が、手から滑り落ちる。

そして。

彼の左胸に深く刺さる、一振りの刀。
何が起こったのか分からないまま、楢葉は己の胸元を見た。


「志……岐……」


暁の無意識に呟いた声が、金色の風にかき消される。

楢葉が、前のめりに倒れた。



暁を守るようにして立つ青年は、彼女を闇から救ってくれた人。


「大、丈夫か、暁……」


金色の風を纏った、志岐。

致命傷を負って、立つくとさえできないはずだ。

なのに彼は。

いつもの微笑みを返して、暁の胸に倒れこんだ。