複雑・ファジー小説

Re: *鏡花水月に蝶は舞う* 新章スタート! ( No.51 )
日時: 2011/09/03 16:01
名前: 琴月 ◆DUxnh/hEOw (ID: 6ux8t0L6)


————ああ、唄だ。

なんて暖かい唄なのだろう。

まるで子守唄のように。泣く赤子を宥めるかのように。

大切に紡ぐ美しい旋律。


私は知っている。
この唄を————この声を。
ゆっくりと頭を撫でてくれるこの手。
「あのとき」はあんなに小さいものだったのに。

でも。

変わらない、この音色。

私はあなたに————……!



* * *



「ん…………」


視界が少しずつ明るくなる。
何だろう、これは。

顔、手、足、体……?


「っ!?」


嘘だ。

私は一体どうしてしまったのだろう。

『人間』

頭を過(よ)ぎるその存在は、決して自分とは縁のないものだと思っていた。


混乱しながらも自分の顔をぺたぺたと触る。
肩につくくらいのふわりとした髪。
華奢な体格に白い肌。
そして。


「あ……声が……」


声が出る。



すると、さらなる混乱に陥っていた娘の耳に、ゆっくりとした足音が響いた。


「お……!目が覚めたのか。今、お粥を……」


青年の姿にこれ以上ないほど目を見開く。
そして、思うより早く体が動いていた。


「……っ!!」
「え?」


ぎゅっと青年に抱きつく。
間違いない。彼だ。

叶うはずのない願いだと知りながら。
ずっと、ずっと。


「な、なになに!?えっ?」


いきなりの事でうろたえる青年……玲(れい)。
娘は鈴のように綺麗な声で、声を振り絞った。




「会いたかった……!!」



* * *


分からない。

玲は頭を抱えた。

この娘(こ)と自分はどこかで会ったことがあっただろうか。
まったく記憶にない。
それなのに彼女はどうだ。
いきなり抱きついてきて、ずっと自分を見つめてニコニコしているではないか。


「えと……どこかで会ったことあったっけ?」


恐る恐るといった程でたずねる。


「はい!」


ぱあっと目を輝かせる娘。
覚えていてくれたのかと言わんばかりの表情。
ごめん。全っ然思い出せない。


「……どこで?」
「池です」
「い、け?」
「はい。池です」


池……とはあの池だろうか。
ほかに池と言われても思い当たる節はない。
いつ、どこで、どのように出会ったのか。
まったく思い出せない。
人違いではないのだろうか。


「あのさ、君。名前は?」


名前、そう名前さえ聞き出せば思い出せるはず。
期待を込めて問うた質問だったが、返ってきたのはそれと全く別の方向に行くものだった。


「分かりません」


間があった。

分からない?自分の名が?

それがどうかしたのか、という表情で玲を見つめる娘。
いや、おかしいだろう。
人にはそれぞれ名があって……


「あなたは?」
「俺……?玲、だけど」
「れ、い?」
「うん」


普通の会話だ。
しかし、相手が普通ではない。
ここはどこだとか、何故ここにいるのだとかとか聞かずに、ただ微笑む。花のように。

花……のように。


「私のこと、覚えてませんか?」
「んー……記憶にない、かも。ごめん」


傷ついただろうか。
そっと顔を覗くと、彼女は笑っていた。


「やっぱり、この姿では分かりませんよね。私もびっくりしました。こうして会話ができるのも、どうしてなんだろうって」


でも、と娘は続ける。


「あなたに会えて。それだけで私は……!」


染め上げたような、透き通る瞳から涙が溢れる。

この姿……会話……?

まさか。


「もしかして……あのときの————!!」



* * *


八年前、玲の母親がこの世を去った。
父親はもっと前から亡くなっていて、その日彼は一人ぼっちになった。
まだ十歳のときで。
簡素な葬儀の後、玲は涙を堪えて屋敷を飛び出した。
大好きだった母親と、もう二度と会えなくなってしまうのが怖くて怖くて逃げ出したのだ。

どこか遠くへ。
それだけを思い、必死に走った。


「はあ……はあ……どこだ、ここ?」


いつしか辺りは暗い闇と木に覆われ、そこはとても寒い所だった。

怖い。

自分にはもう誰もいないのだと思うと悲しくて。

走ることもできずに、その場にうずくまる玲。
そのとき彼の頬に一匹の蛍が止まった。

驚いて触れようとすると、その蛍は優雅に前へと飛んでいったのだった。

この先に、母はいるのだろうか。
この森を抜けた場所に、母は。


茂みを掻き分けて森の外へ出ると、そこは幻想的な景色が広がっていた。
大きな池に映る丸い月。
たくさんの蛍が舞い、やさしく吹き抜ける風。

思わずため息が漏れた。

足を踏み出そうとしたとき、ふと屈む。
小さな桃色の花が、力なくのびている。
周りに大きな木があるせいで日の光が当たらないのだろう。


「んしょっ……これで大丈夫」


土を掘って、池の辺(ほとり)に植え替える。

ゆっくりと花びらが揺れた。
隣に腰を掛けると、玲は胸に溜まったものを晴らすかのように歌いだした。

大好きな母の唄を歌えば、そこに母がいるような気がしたのだ。
玲の唄に合わせて花も揺れる。
花と共に、玲はずっと歌い続けた。

そのときだけ、刻(とき)が止まった————


* * *


やっと思い出した。

花が人間になるなど信じがたい。
しかし、彼女は確かにそんな雰囲気を持っていた。


「あのときあなたが助けてくれなかったら、私はきっと枯れてしまっていたと思います。どうしてもお礼が言いたくて、話してみたくて……ずっと願っていました」


なるほど、それで。

確かにこの世は魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこっている。
これもそれの類だろうか。


「あー……とりあえず、名前決めねえと……何がいいんだろう。花だからそれに関係するやつかな〜?」


腕組までして唸る玲。
娘はそれを楽しそうに見つめる。


「じゃあ……彩芽(あやめ)!うん。今日から彩芽、な?」


あやめ、と口を動かす。
そして彩芽は、満面の笑みを浮かべた。