複雑・ファジー小説

Re: 忘却少女と言無竜 ( No.3 )
日時: 2011/06/07 22:51
名前: うnDne+ (ID: 0bK5qw/.)

◇◆第一章《忘却》◆◇


「青の森に、眠り竜あり。その竜、無からうまれたり。生と死を司らん。人々、それを現世神の化身と敬わん。再び、甦らんとき、世界は終わろう」

何気なく呟いたその余韻は、日が暮れた住宅地の物悲しさを感じさせるものであった。どこかで虫が鳴いている。秋の何処と無く漂う寂しさが助長され、やけに感傷的な気持ちになった。哀愁。これより相応しい言葉は存在しないだろう。
ざっくざくと地面を踏む音だけが響き、寂しさに堪えきれずに、虫に語り掛けたい衝動に駆られた。ふと道端に咲く真紅の花に目をやった。雌しべを抱え込むような雄しべに、強く逞しく広がる赫い花弁が凛々しく舞う紅の竜に見えることから、この地域では《竜花》と呼ばれている。何故“竜”なのかと言えば、この地域周辺に古くから伝わる言い伝えには、“竜”に纏わるものが多いことが由来するだろう。《夜になると四翼の人喰い黒竜が現れる》とか、《民の祖先は竜と言葉を交わすことが出来た》とか、中でも特に有名なのが《世界創造の担い手の白い竜が、北西の森で今も昏々と眠り続けている》というものだ。なんでも、実際に世界創造の瞬間を目にし、竜の爪を受け取った者が、遠い遠い昔に居たとか居なかったとか……。世界創造なんだから、生きてる筈がないと思う。しかし、実際に見たわけではないため、どうこう言える立場ではないが。
ともかく、そのせいか北西に広がる森は、今もなお神聖なるものとされている。だが、近頃は地域の近代化が進み、言い伝えも伝説上のものとなりつつある。


──でも、竜はいる。


確信にも似た思い。そんなことを考えながら、ブロック塀のそびえる曲がり角を曲がった。

「亜鶴?」

不意に声を掛けられ、亜鶴は軽く前につんのめる。子供のあどけなさが残る透き通った声は、亜鶴の鼓膜を震わせた。振り返ると、そこには癖のある燃えるような緋色の髪をした少女がいた。健康的な小麦色の肌、通った鼻筋、翡翠色の切れ長の瞳、笑みを浮かべた厚めの唇。はっきり言って大人っぽい。異国めいた容姿が神秘的な雰囲気を醸し出していた。細身でいながらにして筋肉質な肢体は、猫を思わせる。更に、黒のブレザーに黒のプリーツスカートの近付き難いオーラを放つそれは、紛れもなく亜鶴の通う中学校のものである。

「──揚羽か」

亜鶴は安堵したように微笑んだ。

「久しぶり」

揚羽もローファーの爪先をトントンと鳴らしながら、はにかんだ微笑みを返す。揚羽の癖だ。嬉しいとき、気が付くと爪先を打ち鳴らしている。
どうしてだろう、二人を隔てる十メートルの距離がもどかしかった。

「最近、頭痛が酷くて早退が多いんだ。一緒に帰れなくてごめん」

他に沢山に言うことがあった筈なのに、出てきたのは謝罪だった。久しぶりならば、もっとましな話題もあっただろうに。少々後悔し、亜鶴は苦笑いした。

「いいよ」

それでも、揚羽は笑って赦してくれた。そんな暖かな包容力が好きで、かつて何度も救われた。良いところ、醜いところ引っくるめて包んでくれる優しさを持つ人はなかなかいないだろう。
突然揚羽は、あ、と何かを思い出したように声を上げた。僅かに左右に視線をさ迷わせる。分かり易い奴だ。どうせ揚羽のことだから、ここで何も言わなければ、自分の用事など二の次で、亜鶴の他愛ない話に付き合ってくれるだろう。だが、そうする度に揚羽は、母親のお小言に付き合わなくてはいけなくなることを知っていた。

「習い事……あるんじゃないの?」

すかさず、揚羽が帰りを切り出しやすい話題に変えた。揚羽は申し訳なさそうに眉を下げると、小さく首を縦に振る。

「ごめんね……。今度電話するからっ」

大きく左手を振るとせかせかと去っていった。
速歩きの揚羽の背中は次第に小さくなってゆき、終いには見えなくなった。


──明日は土曜日だから、揚羽も誘って白夜に会いに行こう。


日常が永遠に続くことを微塵も疑わず、亜鶴は一人決意した。