複雑・ファジー小説

Re: よろずあそび。 ( No.2 )
日時: 2011/09/22 20:23
名前: カケガミ ◆KgP8oz7Dk2 (ID: WTkEzMis)
参照: ロンリー・ジャッジーロなんてなかった。

 僕は残念そうに目を伏せる。だが、それは杞憂だった。

「君が移らないなら、私がそっちに座りますよ?」

 何がどうしてそうなったのか、彼女はそう言って僕の右隣に座った。
 至近距離になって、暗がりで見えなかった彼女の風貌が眼に映る。それを見た僕には驚愕の二文字しかなかった。
 かつて、こんな綺麗な顔立ちの女の子——否、女性を見たことがあるのだろうか。街中ではおろか、雑誌やテレビでだって見たことがない。少なくとも、僕にとっては。
 顔立ちは全体的に柔和な雰囲気、されどきりりと凛としていて、目や鼻や口のパーツは顔全体にバランスよく配られている。彼女の持つ髪の毛は栗色で、長く腰元まで伸びていた。
 スタイルに至っても凄い。モデルばりの長躯とは行かないまでも、先ほど立ったときに見たら百七十はあるかないかというくらい、女性としては高く見えた。更には出るところは出ていて締まるところは締まっているという、申し分のないスタイルをも持っていた。
 不自然なほど完璧すぎる。

「……どうしました?」

 見蕩れていた僕を訝しげに見て、困ったように彼女は答えた。駄目だ。何か彼女の顔が見れない。反射的に顔を逸らしてしまう。僕にとって彼女は眩しすぎる。暗い場所にいた人間が、いきなりライトを当てられると目が眩んで見れないのと同じように、僕の人生の中で類を見ない美しい女性をいきなり直視などできない。
 お気になさらずに。そう言いたいが、口がうまく回らず言えない。僕ってこんなに緊張するタイプだったっけ……。
 そんな葛藤が僕の脳内を駆け巡るが、自分以外の人間にはそれを察することは普通不可能であり、今この場の雰囲気は沈黙が支配している。痛い。とても空気が痛い。

「あ」

 そう彼女が僕の顔を見たまま、唐突に声を上げた。

「ふぇっ?」

 そう僕は素っ頓狂な声を上げた。

「どこかで会ったと思ったら貴方……、」

 彼女は不思議そうに首を傾げる。

「朝と夜にうちで野菜ジュースを買ってくれている人ですか? ……間違ってたらごめんなさい」

 ……今、彼女は何ていった?
 朝と、夜に、うちで、野菜ジュースを、買ってくれている人。
 ……うちで?
 いや待て。ストップ、一旦停止。確かに僕は毎朝毎晩野菜ジュースを買っているよ。何処でって言われると一つしかない。ほかでは絶対買うようなことはしていないからだ。何せ家の隣という最も近い位置に設置しているという、なかなかどうして良い条件であるため。
 唯一の野菜ジュース購入場所、それは——

「隣の、八百屋……?」

 ほぼ無意識にこぼれた一言である。

「はい! いつもお世話になっています」

 彼女は嬉しそうに満面の笑みをこちらに向けた。
 僕が毎日立ち寄り、野菜ジュースを購入しているのは『八百万』という店名の八百屋だ。もっとも店の前の自動販売機から買っているから、八百屋——八百万で買っているというという表現は少し正しくないかもしれない。
 正しくない、つまり野菜ジュースを八百万で買っていないというのを前提にすると、僕は八百万の店内に入って何かを買ったことがない、ということになる。
 一度も、ネバーである。大抵は大学からの帰路にあるスーパーマーケットで食品を購入していているし、それで十分事足りているのだ。
 会話の内容から察するに、彼女は八百万の店員らしい。
 しかし、おかしい。
 一度も利用したことのない——つまり、一度も店内に入ったことのない僕は彼女を一切と知り合うことがなかった。加えて、僕が利用するのは大学へ行く前——開店前の午前八時ごろと、大学が終わった後のバイト帰り——閉店後の午後九時ごろだ。見かけの若さからして、従業員というよりアルバイターといった彼女が僕を見かけることなど、あまり考えられない。もしもの話で彼女が従業員でもほぼ会うことがないと思われるのだから、尚更だ。
 え? 何で? こっちが知らないのに、あっちが知っているってどういうことですか? 買っているところを何度も見られたとか。……いや、それはないと思う。あそこはあの時間帯に人を見かけることなどないし、何より彼女みたいな女性を見かけたなら必ず記憶に留めているはずだ。むしろ、覚えてなかったら何なの? ついに頭の螺子が取れたの? みたいな。
 釈然とせず、頭を抱えている僕に配慮してなのか否か、彼女は優しそうな微笑を浮かべながら肩を叩いてくれた。

「私のことを知らないのも当然ですよ。では、改めて自己紹介しますね」

 こほん、と、彼女は咳払いをした。

「私は、八百万八百子っていいます。はっぴゃくまん、で八百万。八百に子供と書いて八百子と書くんですよ」

 八百万、八百子。
 やおよろず、やおこ。
 八と百がゲシュタルト崩壊しそうな名前ですね。
 彼女こと、八百万八百子さんが僕の様子を見て「ふふ」と含み笑いをして言った。

「おかしな名前ですよね。……でも、割と気に入ってるんですよ?」

 そして、彼女は片方の手の甲を下に向け、下から押し上げるようにこちらへやった。これは何かを促す動作だ。
 ええと、何。今度は僕の自己紹介をする番ってことなのかな。それにしては少し言葉が足りないような気がするけど。

「……僕は、二ノ内彰です。えと、漢数字の二にカタカナのノ、内側の内で二ノ内、それと表彰の彰をアキラと読んで書きます」

 ぶっきら棒な言い方だったのに一抹の不安が残るが、仕方がないじゃないか。これでも精一杯なんだ。そう勝手に自分に言い聞かせ、無理やり自分を納得させた。

「……なら、彰くん、ですね。よろしく!」

 少しは僕の気持ちも汲んでほしいな。
 いきなり下の名前で呼ばれるなんて。駄目だ。顔に、頬に、耳に。血液が上ってくる。
 僕はそれを隠すように現在来ているフードパーカを頭に被った。見れるか。見れてたまるか。こんな——顔で、状態で。相手の顔など、見れるはずがない……!

「やっ……およろ……」

 誤魔化すように相手の名前を呼んだが、誤魔化せなかった。うまく呂律が回らない。うわ、重症だこれ。落ち着け、落ち着くんだ。
 深呼吸。そして、再び。

「や、八百万さん……」

 何とか発音できた。あくまで及第点だが、はっきりと。——だが、

「八百子、です」

なんて、この人は僕を意図的にからかっているのだろうか。ていうか、からかってるでしょ。もう確定的だ。うん。やっとのことでやり遂げたことをノータイムで切り返してくるなんて酷すぎる。
 しょうがない。
 こうなったら——自棄だ。

「や、」

 言え。言うんだ。もうこんな、性質の悪いからかいに抗ってやろうじゃないか。これ以上彼女の思い通りにたじろぐのはこれっきりだ。
 大体僕は昔からこういう時にいつも恐縮して何も言えなくなる。だからいつも女の人と向き合えない、立ち向かって接することができない。僕自身もいい加減、自分のこの性格が嫌で嫌でしょうがないと思ってる。
 ならば尚更ここで終止符を打つときだ。というか、これほどに適当なタイミングってほかにあるの? いや、ないでしょ? これ反語な。
 ほら、早く、すぐに。ハリー、ハリー、ハリー、ハリー、ハリー、ハリー……!

「八百子、さん……!」
「はいっ」

 …………え?
 言えた?
 言えちゃった?
 え、なんなの? 割とあっさりしてるけれど、本当に言えちゃったわけ? 確かに変わりたいとは思ったけども、こんなにも簡単にだなんて聞いてない。初耳だ。……や、誰かに聞くとか普通ないから。やばいなぁ、そろそろ本格的に頭の螺子が外れかかったかも。
 でも、目の前の女性——八百万八百子という人間と向き合って、彼女に対しての緊張するようなことは、不思議となくなった。
 自然と、唇を開き。
 彼女の目を見て、笑いながら。
 僕は、話しかける。

「驚いたな。八百子さんは僕のこと知ってたんですか?」

 建前や嘘ではなく、本当の言葉を投げかける。もう、何も怖くない——。

「ええ、実は結構前から。理由は少し推理してみます? ヒントは私の苗字とウチの店名です」
「もしかして八百子さんって自宅営業なんですか? 親と一緒に、とか……?」
「半分当たりで半分外れです。私一人で個人経営しているんですよ」
「へえ。……え、一人でですか?」
「あははは。やっぱり不自然ですよねぇ。確かに、一人で営業するのは大変ですけど、それでも、やってみると楽しいですよ? 例えば————————」



   プロローグ 了